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ざん壕掘り


 それからの三日間、カリウスに眠る時間はなかった。


 イヤーロップの非戦闘員たちが、迷路のような地下通路へ一人、また一人と吸い込まれていく。


 その背中を見送るたびに、カリウスは胸の奥の罪悪感を「計算」という名の冷徹な思考で塗りつぶす必要があった。


 避難が完了するまでの時間を稼ぐには、地上の陣地が帝国の猛攻に耐え抜かねばならない。


 カリウスはティーゲル号を走らせて森の防衛線へと戻った。そこに待っていたのは、泥にまみれ、疲弊しながらも上官の帰還を待つファフニール隊の面々だった。


 彼は運転席から地面に掘られた穴という穴――塹壕(ざんごう)を見た。


(……まだだ。これでは足りない)


 カリウスがいない間に掘り進められた塹壕は、まだ彼の理想にはほど遠かった。


 これは、ステラの能力が不足していたわけではない。

 能力ではなく、教える人手が足りていなかった。


 カリウスが考えていた以上に、塹壕の掘り方を知らないものが多かった。


 いや、塹壕の掘り方自体は知っている。

 そうではなく「演習場の外でどうやるか」を知らなかったのだ。


 演習場の平らな砂地で、決まった深さの穴を掘る訓練なら誰でもこなせる。


 だが、根が張り、石が混じり、掘るそばから地下水が染み出す「生きた森の土」の扱いを知る者は、驚くほど少なかった。


 戦車から飛び降りたカリウスのブーツが、深く湿った土に沈む。


「――待て、手を止めろ。これでは帝国軍を迎え撃つ前に、自重で崩れるぞ」


「は、はい!!」


 声を張り上げた瞬間、カリウスは自分の指先を見た。数日前までペンを握り、黒板の内容をノートに書き記していた手は、いつの間にか土の匂いに染まっていた。


「ここを掘れ。深さは胸の高さまで――」


 そう言いながら、彼は足元の草を無意識に払いのけた。


 その瞬間、指先に走った鋭い痛みが、彼を「机上の理論」から、逃れようのない「戦場の現実」へと引きずり戻した。


「――ッ!」


 指先にざらりとした感触が走る。

 細い茎に小さな棘があり、皮膚をかすめて軽く痛んだ。


 ――イラクサだ。


 触れたところがじんわり熱を帯び、弱い痺れが広がる。

 その痛みが、閉ざされていた彼の感覚を開いた。


 鼻に湿った土の匂いが入り込む。


 掘り返されたばかりの黒い土は、冷たく、重く、青草の匂いを放っている。

 針葉樹の落ち葉が積もった地面は柔らかく、踏みしめるたびに湿った音がした。


 足元には、シダの葉が折り重なるように広がっている。

 深い緑のレースのような葉が、風に揺れて静かに寄り添い合う。


 その隙間から、紫のスミレがひっそりと顔を出し、さらにその奥には、苔に覆われた倒木が横たわっていた。


 色、匂い、湿度、痛み――


 すべてが一気に押し寄せ、世界が急に「立体的」になった。


 ティーゲル号の中にいては、感じられなかったものだ。金属の匂いと油の匂いに覆われた密閉空間では、外の世界はただの背景にすぎなかった。


 だが今は違う。


 森の匂いが、土の冷たさが、草の痛みが――

 自分は〝ここにいる〟という事実を容赦なく突きつけてきた。


 カリウスは思わず息を吸い込んだ。

 湿った空気が肺に落ちていく。

 その重さが、妙に心地よかった。


「……あの、中隊長?」


 兵士の声で我に返る。

 カリウスは軽く咳払いし、指示を続けた。


「……あぁ、すまない。続けてくれ。ここに塹壕を掘る。深さは――さっき言った通り、胸の高さまでだ」


「はい」


「待て、やっぱりそこは駄目だ。根が浅い」


「え?」


 カリウスは、スコップを手に取ろうとした若い兵士を制した。


「さっき触れたイラクサの群生、それとあそこのシダの茂り方を見てみろ。あの草は湿った場所を好む。たぶんこの一帯は地下水脈が近いんだ。胸まで掘れば、一晩で足元が水でいっぱいになる。……足がふやければ、戦うどころじゃなくなる」


 カリウスは数歩歩き、倒木のそばを指した。


「あそこの倒木の近くに切り株があるだろう。あそこは根が地面を固めている。あそこに掘るんだ。それと、ここではシダを前に出すようにジグザグにつないだほうがいいな。緑の後ろにいれば、偵察の目をごまかせる」


 兵士たちが顔を見合わせた。

 ただ命令に従っていただけの虚ろな瞳に、微かな光が宿る。


「中隊長……銀魔女の弟子って聞きましたけど、そんなことも軍学書に?」


「いや、いま気付いた。これは軍学書には載ってなかったな」


 カリウスは、イラクサに触れた指先の熱を噛みしめるように告げた。


「良いか、血を流したくなければ、代わりに汗を流せ。自分の分が掘り終わっても終わりじゃないぞ。予備の穴はいくつあっても良い」


「はい!」


 兵士たちが再びスコップを動かし始める。


 その音を聞きながら、カリウスはもう一度足元を見た。

 草の緑が鮮やかすぎて、

 土の匂いが濃すぎて、

 痛みが生々しすぎて――

 まるで、世界が急に「本物」になったようだった。





「よーし、お前らに二人一組の『バディ壕』の掘り方を教えてやる。

これは前線で2番目に使う形だから、よく覚えとけよ」


 灰色の尻尾を揺らし、狼獣人ライカンのガルムは地面に線を引きながら説明する。


 彼は前の大戦――ヨーロッパ大戦に参加していた古参兵だけあって、説明も具体的かつ、実戦に役立つ「小技」が豊富だった。


「一人用の縦穴を二つ、肩幅より少し広いくらいでV字の角度をつけて並べて掘る。深さは胸の高さ。しゃがめば完全に隠れ、立てば射撃姿勢に入れる高さにする」


 若い兵士たちが頷く。


「二人一組になるメリットは、片方が撃ってる間に、もう片方が装填できるってことだ。撃ち続けていれば、それだけ生き残る確率が上がる」


 ガルムが説明する間にも、スコップが土を掘り返す音が響く。


「掘った土は前だけじゃなく。後ろにも盛るんだ。敵が穴を再利用しづらくなるし、仲間の支援射撃で後頭部を吹き飛ばされるのも防げる。※サンプも忘れるな」


※サンプ:水溜めのこと。投げ入れられた手榴弾を安全に爆発させるためにも使う。


 そこまでいって、彼は息を吸った。目の前の新兵たちは、前大戦でこういった穴の中で何が起きたのかを知る必要があった。


「二つの穴をつなぐのは、単に援護のためだけじゃねえ。……相棒が死んだとき、お前がそいつの弾薬や食料をその場で回収するためだ。」


 ガルムは事も無げに言い放ち、若い兵士の強ばった肩を叩いた。


「仲間から弾や薬を取るのをためらうな。死んだやつには必要ない。忘れるな」


 次に彼は軽機関銃班に手を振った。


 彼らはカリウスに指示された場所に配置されたものの、実際に穴を掘るにはどうしたらいいのか、よくわからないようだった。


「お前らは……3人か? よし、3人用の〝機銃用掩体壕〟の掘り方を教えてやる」


 ガルムは地面に指を突っ込むと、そこに四角を描いた。


「まずは機銃を置く場所を決めて、浅い穴を掘る。これがそのまま機銃を置く台になる。射角を広く取るために、機銃座の後ろはUの字、馬蹄(ばてい)みたいな形にするといい。後ろが広ければ、機銃を左右に振りやすくなるからな」


「ガルム兵長、人員の配置はどうすれば?」


「銃手は中央。装填手はその右。弾薬手は左右どちらか、銃手の死角に入る位置について側面を警戒する」


 兵士たちが配置を確認する。


「三人が同時に動けるように、穴は幅広くしろ。底は奥に向かって傾斜するようにすると水がたまらなくて楽だ。ベテランはなるだけ広い壕を好む。理由は簡単だ。――機銃手を引き継ぐ時、死体を跨がずに済むからだ」


 何気なく放られた「死」という言葉に、兵士たちの表情が引き締まる。


「掘った土は、機銃の左右に盛れ。これで横からの銃撃や跳弾を防げる。正面は低く広く、左右は高く。これが機銃壕の基本だ」


「はいっ!」


「いいか、お前らが持ってるライフルや軽機(LMG)じゃ戦車は止まらん。ジャッカスの連中が持ってる骨董品(対戦車銃)も同じだ。ありゃ戦車を止めるもんじゃない。『中の人間』をビビらせて、進軍を躊躇させるための道具だ。だからこそ、お前らの壕が『見えない』ことが、奴らにとって一番の恐怖になる」


 ガルムはさらに口酸っぱく続ける。


「いいか。塹壕はただの穴じゃない。命を延ばすための時間稼ぎのための装置だ。深さ一つ、土の盛り方一つで、生き死にが決まると思え」


 すると彼は膝を折り、足元の湿った土を掴み、指先で砕いた。


「この森の土は柔らかい。掘りやすいが、崩れやすくもある。壁は斜めに切れ。垂直に掘ると、雨で全部崩れるぞ。始め!!」


 檄を飛ばすと、兵士たちが一斉に作業に取りかかった。

 スコップの先が土に押し入り、サクサクという音が森の静寂を刻み始める。


 すると、相棒のスカー(傷あり)が彼のところに寄ってきた。


「ガルム、あそこまで言わなくても良かったんじゃないかねぇ? 兵が怯えてるよ」


「老い先短い年寄りは、言葉を選んでるヒマもないのさ」


「そりゃ失礼したね」


 兵たちが黙々と土を掘る。

 その光景は、端から見れば一種の宗教儀式のようにも見えた。


 塹壕を蹂躙し、やかましく鉄火を撒き散らす戦車。

 大地を()き返し、征服する大砲。

 近代戦の華やかさは、常にこれら重量級の機械たちが担ってきた。


 しかし、軍隊という組織の本質を突き詰めれば、最後に行き着くのは常に一振りのスコップと、それを握る歩兵の泥まみれの手だ。


 人間がその土地を「わが領土」と定め、守り抜こうと望むなら、彼らそのものが土に抱かれるより他はない。


 戦場をのし歩く鉄獣も、地平の彼方から火を噴く鉄筒も、土地そのものを抱きしめることはかなわないのだから。


 土地を守るとは、その土を血で固めることに他ならない。

 兵士の命を、泥の中に埋める。

 あらゆる時代の軍隊が、かつてそうしたように。


 いつ止むとも知れぬ、土を刻む音。

 それは、もっとも原始的で、もっとも崇高な、足掻きの音であった。




本当は小隊長以外が機関銃用の掩体壕の配置を決めたら駄目です。

機関銃は敵に狙われやすいので、火点として使うか、完全に隠蔽するか、

それらは時と場合によるので、小隊長の判断が必要なのです。

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