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望外の喜び。

 凍結したメース川を超え、ファフニール隊は「アルデナの森」――

 その入口にたどり着いた。


 カリウスの目の前には、黒い緑の壁が立ち上がっている。

 ヨーロッパ低地諸国特有の暗い森だ。


 森の入口には、トウヒやモミの巨木が霞の向こうまで立ち並んでいた。

 幹はどれも人の腕では抱えきれないほど太い。


 枝葉は高い位置で絡み合い、春の陽光を拒むように厚い天蓋をつくっていた。


 その下は昼なお薄暗く、地面には苔むした倒木が横たわり、そのまわりにシダ系のが草が柔らかいシルエットの緑のレースを織りなしている。


 戦車が足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。


 湿り気を帯びた土の匂い、針葉樹特有の冷たい樹脂の香り――

 それらが重なり合い、まるで森そのものが呼吸しているようだった。


 ティーゲルの振動が梢を揺らす音は低く、遠雷のように腹の底へ響く。

 風に揺らされた針葉が擦れ合う微かな音が、絶えず森の奥で何事かを囁いていた。


 カリウスは、無意識に息を浅くする。


 今は1936年 4月。――春。


 春、そして森――


 彼の身体に刻み込まれた、危険な記憶が呼び起こされる。

 現代日本で生きてきた者なら、誰もが知っている〝あの地獄〟が脳裏に蘇る。


「……………?」


 次の瞬間、彼は違和感に気づいた。


 鼻に手をやり、そっと息を吸う。

 もう一度、深く吸い込む。


 ――痛くない。

 ――痒くない。

 ――涙腺が反応しない。


 あるべきものが、ない。


 ティーゲルの運転席、そのハッチ顔を出した彼は、息を深く、深く吸い込んだ。

 そして、吐いた。


(……なん、だと?)


 深く吸い込んだ空気は、驚くほど澄んでいた。

 鼻の粘膜を刺すはずのあの微粒子(くそったれ花粉)が、どこにもない。


 思わずもう一度、肺いっぱいに吸い込む。

 痛くない。

 痒くない。

 涙腺が、鼻の粘膜が一切反応しない。


 ただ、上品で爽やかな木の香りがするだけだ。


「……」


 その瞬間、狩生の脳裏に〝あの地獄〟が蘇った。


 30Kgの装備を背負っての、富士山中の40Km行軍。

 季節は3月。最悪のスギ花粉ピーク。


 水分補給もまともにできない過酷な訓練で、ただでさえ汗で体の水分が抜けていくというのに、涙と鼻水だけは意地でもじゅくじゅくし続ける。


 上官に「おい狩生、泣いてんのか?」と聞かれたが、泣きたかったのはこっちだ。


 あの時の身体はすでに乾燥してるのに、痒いという、地獄のような感覚。


 春が来るたびに訪れる、あの絶望的な憂鬱。


 あれを二度と味わわなくていい世界が、ここにある。

 胸の奥から、抑えきれない歓喜がこみ上げた。


「……花粉症がないって……最高!!!!」


 森に響き渡る叫びに、鳥たちが一斉に飛び立った。

 だがカリウスは気にしない。

 涙の出ない春が、こんなにも幸せだとは思わなかった。


「ねぇ……アデーレ、貴方のお兄さん大丈夫? あ、もしかして魔法の反動とか?」


「うーん、私にもちょっと分かりません」


「兄ちゃん! 森に入ると涼しくて気持ちいいな!」


「あぁフリン! 俺もずっとこうしていたいくらいだ!」


 ちなみにこの時代、花粉症の存在は全く知られていない。

 彼の悩みを知るものが現れるのは、もうちょっと後の時代だった。





 アルデナの森は、昼に近づくにつれて、かえってその暗さを増し始めていた。


 太陽が天頂に近くなると、陽光を遮る針葉樹の天蓋が、光の束を朝方よりも細い糸に変えてしまうのだ。


 その薄暗い森の中を、ファフニール隊は慎重に進み、予定していた道程の八割を消化したところでようやく大休止の号令がかかった。


 戦車のエンジンが止まると、森の静寂が一気に押し寄せる。


 隊員たちは安堵の息をつき、休憩のために装具を外し始めた。

 金属の留め具が外れる小さな音が、足元の落ち葉に吸い込まれていく。


 食事を取る準備を始めたカリウスは、周囲を見回してふと気づいた。


「あれ? シャッフェンたちは何をしているんだ」


 造命種たちの一団だけが、まるで休憩という概念が存在しないかのように動き続けていた。


 装具を外すどころか、逆に手榴弾や煙幕筒をベルトに差し込み、戦闘前のような緊張感を漂わせている。


 カリウスが様子を見守っていると、造命種(シャッフェン)のコミュニティのまとめ役であるステラがやってきた。


 アデーレより少し小柄な彼女は、カリウスを見上げるように敬礼する。


「カリウス中隊長。進言の許可を願います」


「うん。続けて」


「では。大休止の間、警戒のために8名を偵察に出したいと考えます。また、市道の看板の向きを変えるなど、遅滞のために必要と思われる行動の許可を」


「指揮官としては、休める時に休んでほしいのだけど」


「移動しながらでも補給はできます。休息についての問題は起こしません」


「君たちは……なぜそうも人間から離れようとするんだ?

訓練の後の食事のときもそうだった。僕たちのことを嫌っているのか」


「それについては明確に『否』といえます。いえ、むしろ――」


「むしろ?」


「……ファフニール隊には、前のヨーロッパ大戦の経験者が多いでしょう?

彼らのことをおもんばかっての判断ですわ」


「急に喋り方を変えないでくれ。心臓に悪い。そういえば、君たちもヨーロッパ大戦に参加していたんだったな。大体想像できるけど、何があったんだ?」


「それは私たちの視点からは言いづらいわね。ウララが貴方に――」


「あぁ。当時の君たちは、上位核に戦闘を指示されていたんだったな」


「そう。なので、記憶というよりは夢みたいな感じだったのよね」


「……正確なところを知るには、ガルムやガストンに聞くしかないのか」


「そうね。『白翼休戦』のことを聞けば、だいたい分かるでしょうね」


「白翼休戦……。あぁ。兵営で騒ぎを起こしていたあの聖職者たちも白翼教団だったな。それに何の関係が?」


 ステラは微笑んで肩をすくめ、森の冷気を含んだ息を静かに吐いた。

 これ以上は語らない、という明白な意思表示だった。


「……わかった。行って良し。ただ次回からは――」


「えぇ。中隊長の判断を優先します。」


「ありがとう」


 ステラは再び敬礼し、造命種たちの輪へと戻っていった。


 その背中は、森の静寂と同じくらい揺るぎない。

 しかしどこか、カリウスの思っているものとは少し異なる距離を感じさせた。

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