断章 敵じゃなかった
夜の兵営は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
灯火の届く範囲だけがぼんやりと明るく、その外側は闇が濃く沈んでいる。
カリウスはガルムと、ある〝打ち合わせ〟をした後、宿舎に戻っていた。
士官宿舎へ向かう石畳をとぼとぼと歩くと、今日一日の疲労が、靴底からじわりと上がってくるようだ。
その時。宿舎の前に、白い影が立っていた。
ウララだ。
月明かりに照らされた白髪は、まるで霜のように淡く光り、
陶器のような肌は夜気の中でひどく冷たげに見えた。
「……ウララ?」
思わず声が漏れた。
レオンの軽口が脳裏をよぎり、カリウスは自分でも驚くほど動揺した。
ウララは一歩進み出て、静かに頭を下げた。
「中隊長。お話があります」
その声音は、いつもの丹念に作り込まれた「人の真似」ではなかった。
もっと深く、もっと個人的な響きがあった。
「どうしたんだ。こんな時間に」
ウララは顔を上げ、まっすぐにカリウスを見つめた。
「……私たちは、たしかに〝道具〟だったのです」
その言葉に、カリウスは息を呑んだ。
「道具……?」
「はい。前の大戦――ヨーロッパ大戦でのことです」
ウララはゆっくりと近づき、カリウスの顔を覗き込んだ。
灰色の双眸が、夜の光を吸い込むように深く揺れる。
「見てください。あなたなら……きっと分かる」
その瞬間、カリウスの視界が揺らいだ。
――土の匂い。
――硝煙の味。
――耳をつんざく砲声。
気づけば、カリウスは塹壕の中にいた。
空にはペガサスとグリフォンが飛び交い、野砲の弾が黒い土を巻き上げている。
手には、古い型の狙撃銃。
スコープには泥がこびりつき、銃床には血の跡が乾いていた。
そして――
『ターゲット。クインテット。南西。馬の死骸の横、400メートル』
頭の中に、声が響いた。
男でも女でもない。冷たく、均質で、命令だけを告げる声。
カリウスは反射的に銃を構えた。
ボルトを引き、引き金に指を添える。
しかしそれは、〝自分の意思〟ではなかった。
ウララの声が重なる。
「ウララ。クインテット。微風。追い風。補正無し」
――銃声。
スコープの向こうで、水冷式機関銃に取り付いていた兵士が倒れた。
また、頭の中で声が響く。
『ターゲット。カルテット。鉄条網の間。470メートル。西風。2メートル』
「ウララ。カルテット。偏差……3……2……1」
引き金が落ちる。
スコープが揺れ、レンズの向こうで将校が黒土の上に崩れ落ちる。
一瞬見えたその顔は、少年のように幼い。
あっと口を開けたまま、その身体を横たえていた。
カリウスは息を呑んだ。
これは――ウララの記憶だ。
彼女の〝戦争〟だ。
そして、声は続く。
淡々と、冷酷に、命令だけを告げ続ける。
『ターゲット――』
「やめろ……!」
カリウスが叫んだ瞬間、視界が白く弾けた。
気づけば、彼は元の場所――夜の兵営に立っていた。
ウララは先刻と変わらず、すぐ目の前にいる。
喘鳴。
冷たい空気が何度も喉を通り過ぎ、痛みに変わる。
荒く息をつくカリウスに向かって、彼女は静かに言葉を紡いだ。
「戦争が終わったとき、声は消えました。その時感じたことは、今でも思い出せます。まるで……何年もの長い眠りから覚めたようでした」
灰色の瞳が、夜の灯火を映して揺れる。
「そして……目が覚めた私が覗くスコープの先で倒れたのは――
名前も知らない誰かでした」
「……」
「私が『敵』だと思っていたものは、ヒト。
ただ、声に指定された座標に立っていただけのヒトでした」
カリウスは息を呑んだ。
ウララの声は淡々としているのに、その静けさが逆に胸を締めつけた。
「敵じゃなかったんです。敵なんて、最初からいなかった」
言葉が、夜の空気に溶けていく。
ウララは一歩近づき、カリウスをまっすぐに見つめた。
「私たちは、命令がなければ戦えませんでした。
声が、撃つべき相手を教えてくれたから。
私たち造命種は、ただ、その声に従えばよかった」
「その……何かの声が、あなた達を導いていた……?」
「いえ。導いていたわけではありません。その『声』にも、意思はなかったんです」
「意思が……なかった?」
「はい。私たちを統制していた〝上位核〟――
言うなれば、女王蜂のような存在。
でも――あれもまた、命令を受けて動くだけの虚ろな殻だけの存在」
夜風が二人の間を通り抜ける。
「上位核は、戦争が終わった瞬間に停止しました。
戦う必要がなくなり、命令を出す必要が無くなったから。
私たちも、上位核も――」
自分の意思で戦っていたわけではなかった。
殺し、殺されて――
それに意味など、どこにもありはしなかった。
静かで、残酷な真実だった。
「殺す者、殺される者、どちらにとっても無意味な死だったんです。ただ、命令があったから撃ち、命令が途絶えたから止まっただけ。私たちの戦争はそれだった。」
カリウスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
ウララは、まるで祈るように言った。
「だから……分からないんです。
あなたたち人間は、〝声〟がないのに、どうして戦えるのか」
その問いは、責めるわけでも、嘆くわけでもなかった。
理解できないものを前にした時に出る、純粋な困惑だった。
「どうして……自分の意思で、引き金を引けるんですか?」
カリウスは答えられなかった。
前世の記憶が胸の奥でざわりと揺れ、この世界の戦争と重なり合う。
――なぜ、自分は戦えるのか。
その問いだけが、いつまでも消えずに残った。
ウララは静かに頭を下げ、闇の中へ歩き去っていった。
(……ようやく分かった。彼女たちの矛盾は、矛盾なんかじゃなかったんだ。
彼女たちは兵器としての自分と、個としての自分を、状況に応じて切り替えている。 それなら俺は――彼らにとって、上位核の代わりなのか? けど……)
理由を、答えられなかった。
胸の奥に、言葉にならない痛みが沈んだ。
夜空を見上げながら、胸の奥に沈む重さを抱えたまま立ち尽くしていた。




