飯だぞー!
訓練が終わると、丘の上に張り詰めていた空気がゆっくりとほどけていった。
夕暮れの風に押されるように、兵士はそれぞれの持ち場で食事の準備を始める。
食器の触れ合う音の中で、狼獣人のガルムが鼻をひくつかせた。
「……お、来たぞ。兵営が近いと〝温かい飯〟が食えて助かるな」
狼獣人の彼は、いち早く食事の匂いを嗅ぎつけていた。
ガルムの隣にでフリンが笑う。
「ガルムのおっちゃん、〝温かい飯〟って言い方、なんか嬉しそうだな~」
「当たり前だろうが。軍隊の飯ってのはな、腹を満たすだけじゃねぇ。士気も、行軍の速さも、下手すりゃ戦況まで左右するんだ」
レオンが空の飯盒をぶら下げて苦笑する。
彼の小隊は準備を終え、あとは食事が配られるのを待つだけだった。
「腹が減っては戦はできぬってやつ?」
「おうよ。腹に飯が入ってないと、代わりに不幸せが入ってくるもんだ」
そのとき、丘の端で見張っていたフリンが叫んだ。
「……お、ほんとに来た!」
丘の下の道に、ゆらりと揺れる影が現れた。
配食係が金属の缶を棒を使って担ぎ、こちらへ向かって歩いてきている。
重さでしなる棒の前後には、ミルク缶に似た丸い容器がぶら下がり、歩くたびにフタと容器が触れ合って、カチャカチャと音を立てていた。
丘の上に拭き上げる風に、温かな料理の香りが混じる。
となれば、次に起きることは明白だった。
「ウヒョヒョ! 飯だぞー! かかれ!」
「よっしゃ! 隊長に続けー!!」
ガルムとライカンたちが地面の上を跳ねるように丘を下っていった。文字通り餓狼と化した彼らは、炊さん兵から食事の入った缶をひったくる。
「ぎゃー」と悲鳴が聞こえた気がしたが、カリウスはそっとしておくことにした。
えっほ、えっほとライカンたちが容器を担ぐ絵面は、完全に略奪だ。
やがて、ミルク缶型の保温容器が金属音を立てて開かれる。
――ふわり。
黒麦酒で煮込まれた牛肉の香りが、冷えた空気の中で一気に花開いた。玉ねぎの香味と、麦芽の甘い香りが混ざり合い、それだけで兵士たちの頬がゆるむ。
ガルムが冗談めかして敬礼した。
「指揮官殿!! 今日は大当たりであります!!」
「お、今日はカルボナードか。やるじゃん炊さん兵」
「配るぞ―! 野郎ども、並べ並べ!」
配食が始まり、兵士たちが列を作る。
麦芽の甘い香りが漂う主菜は、ベリエ家庭料理の定番である黒麦酒の煮込み『カルボナード・ベリエンヌ』だ。
牛肉と玉ねぎを黒麦酒でじっくり二時間煮込む。ビールが良ければ誰が作っても美味いという料理で、実に軍隊向きの料理となっている。
煮込み料理ゆえ、肉はしっとり柔らか。黒麦酒のフルーティな甘じょっぱさが香りとなって、実に抗いがたい誘惑を放っていた。
フリンは湯気の立つ皿を前に固まっていた。
「……に、兄ちゃん! これ、本当に軍の飯なのか?」
「そうらしい。見た目は……なんだか、すごく贅沢だね」
フリンがスプーンを持ったまま固まる。
ナイトメアである、フリンの家の食卓は質素だった。
じゃがいもを茹でるか、焼くか、潰すか。
味付けは塩か酢。
肉が出る日は、月に一度あれば良いほうだ。
だから、黒麦酒で煮込んだ牛肉というだけで、彼には未知の領域だった。
「いっただきまーす!」
配られた肉の切り身に、フリンはスプーンを突き立てる。
――するっ。
カルボナードの肉は、驚くほど簡単にほぐれた。
「…………んまっ!! なにこれ!!!!」
思わずフリンは大仰に声を漏らした。
メリナとアデーレもそっと肉を口に運び――
「……ツ!! 兄さん。お肉って、こんなに甘かったでしたっけ?」
「甘いっていうか……旨味が……こう……押し寄せてくる……!」
二人はしばらく言葉を失い、ただ黙々とスプーンを動かした。
――そして、叫んだ。
「「お家のと全然違う! なにこれ!!」」
「だろ? 煮込みは軍隊向きなんだ。大量に作るほど旨味が増す」
「へ~! おっちゃん詳しいな!」
「たりめぇだろ。昔はな、野戦炊事馬車を前線まで押し出して、その場でシチューを煮てた時代もあったんだぜ。戦場のど真ん中でな」
ガルムはそう言いながら、保温容器の蓋をコンッと叩いた。
ミルク缶に似た二重構造の容器から、甘くほろ苦い香りが立ち上る。
「戦場のど真ん中って、豪胆すぎるだろ、それ……」
レオンが苦笑する。
「だが、大砲が発達してからは無理になった。鍋ごと吹っ飛ばされるからな。だから今は後方で作って、輸送隊が運んでくる。――つまり、温かい飯が出る=俺たちの勢力圏ってわけだ」
「なるほどなー。……うん、うまい。やっぱ温かいってだけで全然違うよな」
レオンはパンをちぎりながら頷く。
その会話を聞きながら、カリウスは静かに思った。
(……自衛隊にいた頃も、温かい飯は生きてる実感みたいなものだった。缶メシでも、レトルトでも、湯気が立ってるだけで心が軽くなった。
――本物の戦場じゃ、なおさらだろうな)
「連盟なんかはもっと細かいぞ。守備隊レーション、行軍レーション、戦闘レーション、……ってな具合で、危険な場所ほど、飯がしょっぱくなる」
「あー、『安全な場所ほど飯がうまい』ってやつ?」
「そういうこった。ベリエ軍は保存食と調理の二方式だから、兵営近くならパンもスープも肉料理も出るが、戦場じゃビスケットと缶詰だ」
ガルムはパンをちぎり、煮込みの汁に浸す。
「文明から遠ざかるほど、飯も遠ざかる。わかりやすい話だろ?」
――つまり、明日からは乾いた保存食の毎日になる。
レオンは「はぁ」と、溜息をついて肩をすくめた。
「だから今日の飯はこんなに贅沢なわけだ。戦場に出たら、しばらくお別れかぁ」
カリウスは湯気の向こうに沈む夕陽を見つめた。
(……どの時代でも、どこの国でも、温かい飯は兵士にとっての救いなんだな)
カリウスがもそもそとスプーンを口に運んでいると、レオンが「ほら」と言いながら何かを突き出してきた。
コップに入った黒い液体。
湯気は立っていないが、麦芽の香りがふわりと鼻をくすぐる。
「最後の特別配給だってよ。黒麦酒、一杯だけ」
出撃を控えた兵士に酒を配るのは、ベリエ軍の古い伝統だ。
戦場前の景気づけという名目の、ほんのささやかな贅沢。
兵士たちはその一杯を、まるで今生最後の酒であるかのように、静かに、慎重に味わう。実際、何人かにとっては――これが本当に最後になるかもしれない。
黒麦酒のほろ苦さが喉を通り、淡い温度が胸の奥に残った。その温かさの奥には、喜びと同じくらい、明日へのかすかな不安がにじんでいた。
「……さて、と」
レオンが空になったコップを置き、カリウスの背中を軽く叩いた。
「お前、中隊長だろ。ここでのんびりしてないで、他の連中のとこも回ってこいよ。オークも、ドワーフも、シャッフェンも、みんな待ってるぞ」
「え、今から全部……?」
「当たり前だろ。隊長が顔出してくれたってだけで、飯の味が一段うまくなるんだよ」
レオンはにやりと笑い、カリウスの背中をもう一度、今度は少し強めに押した。
「ほら、行け行け。うちの隊長は忙しいんだ」
ルームメイトに急かされ、カリウスは苦笑しながら立ち上がった。
丘の向こうでは、オークたちの豪快な笑い声が響き、ドワーフたちの灯油のような火酒の匂いがただよい、シャッフェンたちの静かな会話が夜風に溶けていく。
そのすべてを見渡しながら、カリウスはゆっくりと歩き出した。
野戦の配食は、現実にはもっと厳密な動きをします。
食器のすすぎやらをしてから給水ライン、給仕ラインを通って食事場所に行きます。
とはいえ、あまりにも動きがとまり、話として面白いか微妙なところなので、今回はざっくりそこら辺の動きは割愛してインチキなものにしています。
蒸気消毒器とか、面白い使い方するものもあるんですけどね…(




