二つの才
冬の朝。
スタインドルフ家の前の通りは、夜のうちに降った雪で真っ白に染まっていた。
13歳になったカリウスと、9歳のアデーレは、学校にいく前に雪だるまを作って遊んでいた。アデーレは手袋越しに雪を丸めながら、兄の横顔をちらちらと見ている。
「兄さん、きれいに丸くできました!」
「お、上手いじゃないか。アデーレは器用だなぁ」
その言葉に、アデーレは嬉しそうに頬を赤らめた。
だが、その穏やかな時間は、突然破られた。
バシュッ!
冷たい雪玉が、カリウスの頬にぶつかった。
「うわっ……!」
頬を霜焼けのように赤くしたカリウスが振り返ると、近所のガキ大将とその取り巻きが、こちらを指さして笑っていた。
「見ろよ、煤人だ! 角が生えてるぞ!」
「魔王の子孫だってよ! こえー!」
「雪でも食ってろよ、ナイトメア!」
追加の雪玉がカリウスの緋色の髪をかすめる。
アデーレがびくりと肩を震わせ、カリウスの袖をぎゅっと掴んだ。
「兄さん……!」
カリウスは深く息を吸った。
怒りよりも、冷静さが先に来る。
(……逃げても追ってくる。なら、どう動くべきか)
その時、背後から声がした。
「カリウス兄ちゃん!」
カリウスと同じナイトメアの少年、フリンが駆け寄ってきた。
緋色の髪に角、青白い肌。近所に住む彼もまた、種族差別の対象だった。
「またあいつらだよ……どうする? カリウス兄ちゃん」
「うーん……」
カリウスは雪の積もった通りを見渡した。
地形、現在位置は塀に挟まれた一本道。少し進めば十字路。
雪の量、開けた道路は少なく、路地は多い。
敵の人数は5人。
(……使える)
カリウスは小声で言った。
「フリン、アデーレ。作戦がある。まずは――偽装撤退だ」
カリウスの言葉に、フリンとアデーレの二人は目を丸くした。
「撤退って――に、逃げるの……?」
「逃げる〝ふり〟だよ」
カリウスは足元の雪をすくいながら、素早く説明した。
「いいか、あいつらは横に広がって追ってくる。人数は向こうが多いけど……横並びなら弱点がある」
「弱点……?」
アデーレが不安げに尋ねる。カリウスは雪の上に指で線を描いた。
「相手は5人だけど、横に並んでる相手の『端っこ』を狙えば、僕たち3人でひとりを攻撃できる。その瞬間だけ、こっちの数が相手より多くなるんだ」
フリンが目を見開く。
「そっか……一列で来るなら、端から崩せる!」
「そう。だから僕たちはこのまま行って角を曲がって、あいつらが横並びのまま追ってくるように誘導する」
さらにカリウスは続けた。
「角を曲がった先には、屋根に溜まった雪の庇がある。あれを横から押し出して、あいつらの頭の上に思いっきり落としてやるんだ。」
アデーレはまだ不安そうだったが、兄の説明に少しだけ安心したように頷いた。
「兄さん……すごいです……」
「よし、行くぞ……逃げろー!!!」
カリウスが叫ぶと、三人は通りの角へ向かって走り出した。
「おい! 逃げたぞ!」
「追え追えー!」
いじめっ子たちは予想通り、勢いよく追ってくる。
角を曲がった瞬間、カリウスは声を張った。
「今だ、フリン!」
二人は今にも屋根から落ちそうな巨大な雪の塊に手をかける。
そして、小さな手で力いっぱい押し出した。
――ドサァッ!
屋根から垂れ下がった雪の塊が崩れ、追ってきたガキ大将に直撃した。
「うわあああっ!」
「ち、ちべてぇぇぇ!」
「なんだこれぇぇ!」
雪に埋もれた彼らは、情けない声を上げながら転げ回る。
「よし、いまだ! 攻撃!」
「うん!」
カリウスたち3人は、足元に堕ちた柔らかい雪をすくって、ガキ大将に向かって投げつける。先頭に立っていた彼は、矢継ぎ早に雪玉を食らった。
「あいたっ!」
「よし、今度こそ逃げろ!」
「うん!」
復讐を果たした3人は、走ってスタインドルフの家に逃げ込んだ。
カリウスは息を整えながら言った。
「ここまでくれば、もう追ってこないよ」
フリンは目を輝かせた。
「兄ちゃん……すげぇ! まるで本物の軍隊の作戦みたいだったよ!」
アデーレも、震える声で言った。
「兄さん……かっこよかったです……!」
二人の瞳には、はっきりと尊敬の色が宿っていた。
カリウスは照れくさそうに笑った。
「ただの雪遊びだよ。でも……アデーレも、フリンも守れてよかった」
アデーレはそっと兄の手を握った。
「兄さん……ありがとう」
その温もりは、カリウスの胸に静かに染み込んでいった。
力で戦うのではなく、考える力で守る。
この小さな雪の戦いが、カリウスの〝軍学の才〟の最初の発露だった。
◆◆◆
スタインドルフ家で暮らし始めて7年。
カリウスは16歳になり、背も伸び、声色も男らしくなってきた。
それにここ最近は、軍学の本を抱えて書斎にこもる時間が増えた。
一方、アデーレは12歳。
相変わらず兄の前ではおどおどしている。
だが、兄の前では少しだけ表情が柔らかくなるようになった。
二人の距離は、ゆっくりと、しかし確実に縮まっていた。
その日の午後、カリウスは庭のテーブルで軍略書を読んでいた。
春の風が心地よく、ページをめくる指が自然と軽くなる。
「兄さん……また難しそうな本読んでる」
アデーレがそっと近づいてきた。
丸い眼鏡の奥の瞳が、興味と不安の間で揺れている。
「うん。でも面白いよ。戦術はただ決まった方法で戦うだけじゃなくて……。どう動くか、どう備えるかを想像するのが大事なんだ」
「……兄さんは、そういうのが好きなんですか?」
アデーレは椅子の端にちょこんと座り、兄の横顔をじっと見つめた。
「好きというか……必要だと思うんだ。これからの世界のために」
カリウスがそう言うと、アデーレは小さく頷いた。
「兄さんは……すごいです。あの――やっぱり、スタインドルフの武門は、兄さんが継ぐんでしょうか?」
「いや、僕はナイトメアだからね……。陸軍大学校にはいけないから、父さんと同じように将軍にはなれない」
「……」
アデーレは俯き、指先でスカートの裾をつまんだ。
「……わたしじゃ、無理ですよ。お父さまの跡を継ぐなんて……そんな大それたこと……」
その声は震えていた。自信がないというより、自分には資格がないと信じ込んでいるような響きだった。
カリウスは本を閉じ、アデーレの方へ向き直る。
「どうしてそう思うの?」
「だって……わたし、怖がりですし……。兄さんみたいに、難しい本も読めません。
軍のことなんて……」
「そんなことないよ」
カリウスは穏やかに言った。アデーレは驚いたように顔を上げる。
「この前だって、僕が包囲の定義を説明したら、すぐに理解してたじゃないか。普通はあんなに早く飲み込めないよ」
「え……?」
カリウスは本を閉じ、アデーレの方へ向き直った。
「この前、僕が『戦線が伸びると何が起きる?』って聞いた時……君はすぐに『補給が届きにくくなる』じゃなくて、こう言ったよね」
アデーレは首をかしげる。
「……わたし、何て言いましたっけ?」
カリウスは少し笑って答えた。
「『みんなが遠い場所に散らばると、働きづらくなりそう』って」
アデーレは目をぱちぱちとさせた。
「え……そんなの、当たり前じゃ……?」
「いや、当たり前じゃない。戦線が伸びることの本質――戦力の希釈に気づくのは、軍学を学んだ人間でも難しいんだ」
アデーレはぽかんとしたまま、兄の言葉を聞いている。
カリウスは続けた。
「そして君は、さらにこう言った。『トラックや鉄道を使って、早く動けばいいんじゃないですか?』って」
アデーレの頬が赤くなる。
「そ、それは……なんとなく……」
「なんとなくで〝機動力の重要性〟に辿り着く人間なんて、そうそういないよ」
カリウスは真剣な目で言った。
「それだけじゃない。君は『物を置く場所を増やせば、遠くても困らない』とも言った。さらに『電話を増やせば、すぐに仕事に取りかかれる』とも」
アデーレはますます混乱したように目を瞬かせる。
「え……そんなの、普通じゃ……?」
「普通じゃないよ、アデーレ」
カリウスは静かに言った。
「戦線が伸びることで起きる問題は、補給だけじゃない。
兵力が散って能力が下がること――軍の力が薄まるというのが本質だ。
そしてそれを解決するのは、
〝機動〟
〝補給ハブ〟
〝通信〟
この3つは、軍事行動の核心なんだ」
アデーレは驚きに目を見開いた。
「わ、わたし……そんなすごいこと、言ってました……?」
「言ってた。しかも、僕が説明する前に」
アデーレは視線を落とし、指先で眼鏡の縁を触りながら呟いた。
「……兄さんが、そう言うなら……わたし、少しだけ……自信が湧いてきます」
「アデーレ……君は本当に、軍略の天才かもしれない」
カリウスは微笑むと、アデーレは頬を赤らめ、視線を泳がせた。
「そ、それは……兄さんがいつも話してるから……」
「話してるだけで理解できるなら、それはもう才能だよ」
アデーレの肩がびくりと震えた。
「……わたしに、才能……?」
「あるよ。少なくとも、僕はそう思ってる」
カリウスは真剣な目で言った。
「僕はナイトメアだから、軍の中枢には入れない。スタインドルフの武門を継ぐこともできない。でも……君なら、できるかもしれない」
アデーレは息を呑んだ。
「わ、わたしが……?」
「うん。君には考える力がある。それは、軍人にとって一番大事なものだ」
アデーレはしばらく黙っていた。
春の風が二人の間を通り抜け、花壇の花を揺らす。
やがて、アデーレは小さく呟いた。
「……兄さんが、そう言うなら……少しだけ……信じてみたいです」
その言葉に、カリウスは微笑んだ。
(アデーレ、君は本当に頭がいい。僕よりずっと、柔軟で、鋭い)
彼は薄々感じていた。
アデーレには、軍略の才がある。
それも、ただの才ではなく――〝天賦の才〟というべきものが。
だが、彼女本人はまだ気づいていない。
自分が『将軍の娘』としての可能性を持っていることに。
カリウスはそっと本を開き、アデーレにページを見せた。
「じゃあ……一緒に勉強してみようか。君なら、きっとできるよ」
アデーレは驚き、そして――ゆっくりと笑った。
「……はい、兄さん」
その笑顔は、幼い頃よりもずっと大人びていて、どこか誇らしげだった。
◆◆◆
夕方、屋敷の前でエンジン音が止まった。
アルフレット将軍の自動車が帰ってきたのだ。
しかし、車は咳をするような妙な音を立てている。
「……すっかりへそを曲げおって。またエンジンの調子が悪いな」
将軍が車の前で嘆息し、腰に手を当てる。
エーテル機関のエンジン技術はまだ成熟しきっていない。
特にこの車は古い型で、よく不調を起こしていた。
「兄さん、直せそうですか?」
アデーレが心配そうに覗き込む。
「うーん……見てみるよ」
カリウスは工具箱を持ち出し、ボンネットを開けた。
青いエーテル燃料がタンクの中で脈動している。
タンクから伸びる配管を追うと、キャブレターの辺りで光が止まっていた。
(……これ、前にも見たな。燃料の噴出がうまくいってないのか?)
カリウスが手を伸ばそうとしたその時――
「兄さん、ちょっと待ってください」
アデーレが袖を引いた。
「え?」
「キャブレターもですけど、空気の取り入れ口でエーテルの流れが詰まってるみたいです。多分フィルターの目詰まりです」
アデーレは工具を手に取り、迷いなくエアフィルターを取り外した。
その手つきは、驚くほど正確だった。
「アデーレ……?」
「えっと、なんとなく分かるんです。
エーテルの流れが、こう……見えるような気がして」
アデーレは恥ずかしそうに笑いながら、フィルターをはたいて締め直す。
「わ、すごい量のチリだね」
「これで……多分、大丈夫です」
カリウスが試しにエンジンをかけると――
<キュルルル……ブォン!>
先ほどまでの不調が嘘のように、エーテル機関はパタパタと滑らかに動き出した。
余りの手際にアルフレット将軍まで目を丸くしていた。
「アデーレ……」
「す……すみません父さん。勝手に触ってしまって……」
「いや、すごいぞ。まさに〝機工〟の才だ。古の魔術師のようにエーテルの風を感じ取れる者は、そう多くない」
アデーレは驚いたように兄を見上げた。
「兄さま……わたし、何かできました……?」
カリウスは微笑んだ。
「うん。すごいよ、アデーレ。君には機工の才能もあるみたいだね」
アデーレの頬が、夕陽の色に染まった。
その日を境に、アデーレは軍学だけでなく、エーテル工学に触れる時間も増えた。
カリウスは軍学を、アデーレは機工を。
二人は違う道を歩きながら、互いの才能を尊重し、支え合っていく。
しかし、彼女の才能は、後に二人の運命を大きく揺さぶる。
この時のカリウスは、まだこの事を知らなかった。
努力で最強へ向かう兄と、機工の天才としてその才能を開花させる妹。
その未来は、温かく、そして残酷に交差していくのだった。




