遅滞戦闘
「本来なら、この情報はもっと上の階級の者に伝える話だが……状況が状況だ」
整備場に重い沈黙が降りる中、大佐は淡々と続ける。
一刻を争う今、お前たちの気持ちにまで、構っていられないということだろう。
「今一度、確認する。以上の情勢を鑑みて、帝国軍がアルデナの森を突破し、連盟国境までベリエ南部の打通を目指す可能性は、もはや必然に近くなった」
「はい。我々はそれを遅滞戦闘によって妨害します」
「うむ。帝国軍の進軍を妨害し、時間を稼ぐ。具体的には――机を借りるぞ」
エーリッヒは作業机の一つに、アルデナの周辺地図を広げた。
「遅滞戦闘とは、ただ後退しながら撃つことではない。敵に〝戦闘準備〟を何度も強制し、進軍速度を奪い続ける戦いだ――」
カリウスが大佐が言わんとする言葉を継いだ。
「軍隊の移動速度は、行軍している間は早い。ですが、戦闘に入るとなれば、話は別。まるで巨人が靴紐を結び直すように動きが止まります。戦車が前に出て、歩兵が塹壕を掘り、砲兵が展開し、補給が追いつくまで――全てが止まる」
「その通りだ。カリウス少尉」
メリナが口に指をやって、小首を傾げた。
「つまり……ちょっかいを出して、敵が銃を構えたら下がる。
また追ってきたら、別の場所でちょっかいを出す……みたいな?」
「そうだ。戦闘準備のやり直しが積み重なれば、進軍速度は劇的に落ちる」
「……前のヨーロッパ大戦で、父がやった戦法ですね」
大佐はうなずいた。
「スタインドルフ将軍の得意技だ。あれは敵の進軍を一ヶ月以上遅らせた。敵は前進するたびに、必ず戦闘準備を強いられた」
「……そういえば、父は言っていました。
『勝つ必要はない。ただ、敵に〝勝つ準備〟を何度もさせればいい』と」
「帝国軍は、将軍の敷いた防衛線に接触するたびに、半日、一日と時間を失った。
遅滞戦闘とは、敵の時間を奪う戦いだ。――話をアルデナの森に戻そう」
「はい。」
カリウスの返事に、大佐が小さく頭を振った。
「アルデナの森は、地帯戦闘に最適の地形だ。一本道に見えて、実際は複数の戦闘地帯に区切れる。敵が一つ突破するたびに、次の地帯でまた足を止められる」
エーリッヒ大佐は、机に広げたアルデナの地図を指で叩いた。
「魔女の弟子には今さら説明するまでもないが、まずは地帯の区切り方だ。谷川、尾根、湿地、切り通し……自然の地形そのものが区切りになる」
メリナが地図を覗き込む。森を横切る小川に色が塗られている。
「ここが……第一地帯?」
「そうだ。敵がここを突破したら、次はこの尾根で足を止める。さらに突破されたら、次はこの谷。地帯ごとに〝敵が必ず減速する地形〟を選んでおく」
大佐は指を滑らせ、細い線を示した。
曲がりくねった川、険しい丘陵、深い谷。
どれも足止めをするには最適の場所だ。
「次に阻止線だ。地帯ごとに敵の先頭車両を止めるためのキルゾーンを設定する。倒木、地雷、壕、狙撃位置――そうして敵が必ず速度を落とす場所を作る」
ガルムがうなずく。
「つまり、敵の足を止める『罠』を地帯ごとに仕掛けるわけですな」
「その通りだ。そして阻止線の背後には、必ず『撤退路』を確保する。遅滞戦闘で一番重要なのは、こちらの部隊が次の戦いに参加できることだ」
カリウスが地図を見つめながら言う。
「……『撤退路』がなければ、遅滞戦闘は成立しない。基本です」
「そうだ。だからその――君たちの設計している自走砲が役に立つ。後ろ向きの砲は、素早く撤退しながら撃つための構造だろう?」
大佐はアデーレの書いた青図面を指さした。
そこには砲塔を後ろに向ける、精緻な自走砲の設計図が描かれていた。
「自走砲は主力側面に配置するのがよかろう。正面に置くと真っ先に潰される。側面から敵の先頭車両を撃ち抜き、阻止線を発動させる」
うーんと唸っていたメリナの動きが、ふと止まった。
視線が地図の一点に吸い寄せられ、瞳に小さな光が灯る。
ほつれた思考が、ひとつに結びついた。
「側面……つまり、敵の進行方向に対して斜めに置くんですね。
そして攻撃の後、左右に分かれて逃げる。
正面に側面をさらすから、帝国軍は自走砲を追撃できない」
「そうだ。そして敵が止まったら、すぐに次の阻止線へ移動する。
ひたすらにこれを繰り返す」
大佐は地図の端に書かれた数字を、指先で軽く叩いた。
数字は、敵が最初に失う進軍速度であり、カリウスたちが得る猶予でもあった。
「これは敵の進軍速度の計算だ。帝国軍の装甲師団は、平地なら一日30キロ進む。だが、遅滞戦闘を仕掛ければ――5キロまで落とせる」
「……六分の一ですか」
「そうだ、中尉。敵の進軍速度を六分の一に落とせれば、連盟の判断が変わる。
援軍を〝本当に送る〟可能性が出てくる」
「あの……なぜ、時間を稼ぐと連盟は動くんです?」
メリナの質問に、エーリッヒ大佐は淡々と答えた。
「連盟は、勝てる側につく。
ベリエがすぐ総崩れになら助ける価値はないと判断する」
「下手をすれば、援軍が何もせずに包囲殲滅される恐れがあるからですね」
魔女の弟子に、我が意を得たりと大佐が頷いた。
「そうだ。しかし、ベリエが遅滞戦闘で踏ん張れるなら――」
「彼らは『援軍を送れば勝てる』と判断する」
「つまり……私たちが持ちこたえれば、連盟は戦いに乗ってくる?」
「そうだ。南部州の共同統治を条件に、な」
アデーレが痛みを抑えるような面持ちで、静かに言った。
「……そうまでしても、交渉材料として、領土が必要なんですね」
「根拠はそれだけではない」
大佐は机の地図を指で叩く。
「ベリエが崩れれば、帝国軍は連盟国境に直接接する。そうなれば、連盟は自国領土で戦うことになる。大国は、自分の土地で大量破壊兵器を使いたくはない」
整備場が静まり返った。
その沈黙の中で、カリウスの胸に、ひやりとしたものが落ちた。
――連盟はベリエを守るために動くのではない。
ただ、自分たちの都合のために、ベリエが〝まだ生きている〟必要があるだけだ。
その事実が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいった。
「だからこそ――ベリエが〝緩衝地帯〟として生き残ることが、連盟の国益になる。
そのためには、お前たちが時間を稼ぐ必要がある」
大佐の言葉が途切れると、整備場の空気がわずかに動いた。
メリナもガルムも、それぞれの胸に覚悟を宿したような顔をしている。
だが――カリウスだけは違った。
その顔には、他の誰にもない硬さがあった。
(大佐の指示は正しい。だが……あまりにも“まとも”すぎる)
理屈は整っている。
戦略も、政治判断も、どれも正しい。
だが――戦争は、こんなふうに綺麗に進んだ試しがない。
前世の記憶が、胸の奥でざわりと揺れた。
大国の指導者が、我欲と思い込みだけで世界を混乱へ押し流した時代。
合理も戦略も、たった一人の狂気の前では無力だった。
その記憶が、銀魔女シャルロッテの言葉を呼び起こす。
『――戦争とは、躊躇なく理の外側を突けるものほど強い。』
(……ならば、やるべきことは一つだ。
帝国軍を誘い込み、連盟を動かし、その狭間で帝国軍の首を刈る。
アルデナの森は、そのための舞台になる。)




