帰宅
退院の日、フランツはスタインドルフ将軍の自動車に乗り込んだ。
エーテル機関で動く車は、軽快に前世のエンジン音と似た音をさせる。
ただ、違う部分もあった。
エーテル機関の排気ガスは特有の甘い匂いをさせる。
やさしく、花のようで、どこか心に染み入るような香りだった。
窓の外を流れる街並みは、どこか懐かしく、どこか異質だった。
アルフレットは運転席で無言だったが、沈黙は不思議と重くなかった。
ただ、時折バックミラー越しにフランツを気遣うような視線を送ってくる。
やがて車は、塀に囲まれた二階建ての家の前で止まった。
白い瀟洒な壁と鮮やかなオレンジ色のタイル屋根。
庭には手入れの行き届いた花壇。
軍人の家というより、温かい家庭の匂いがした。
「着いたよ、フランツ。今日からここが君の家だ」
アルフレットがそう言うと、玄関の扉が開いた。
「まあまあ、フランツ坊ちゃん!」
すぐに中年の女性が駆け寄ってきた。
ふくよかな体つきで、エプロン姿のその女性は、まるで何年も前からフランツを知っているかのような笑顔を向けてくる。
使用人のミア。
その後ろから、そっと顔を覗かせる小さな影。
金髪のおかっぱ。おどおどした視線。
彼の義妹のアデーレ・スタインドルフだ。
フランツを見ると、彼女は一瞬だけ目を丸くし、
次の瞬間、ぎゅっと彼に抱きついた。
「兄さん……! よかった……本当によかった……!」
細い腕が震えている。
その温かさは、確かに『家族』のものだった。
だが――フランツの胸に、ふと冷たい影が差す。
(……この温かさは、本当に『僕』に向けられているのか?)
アデーレが抱きしめているのは、フランツ・カリウスという少年だ。
自衛官・狩生悠真ではない。
だが、彼はこうも思った。
(僕は……本当に狩生なのか? 本当の僕はカリウスで、事故のショックで前世のことを思い出しただけなんじゃ……)
前世の記憶は鮮明だ。
この世界でのフランツとしての記憶は、ぽっかりと抜け落ちている。
だが、心の奥で何かが「知ってるよ」と囁いてくる。
ミアが涙ぐみながら言う。
「坊ちゃん、ああ、無事で本当に良うございました……!」
背後に立ち、彼に影を作るアルフレットも静かに微笑んでいた。
「フランツ。君を待っていた者が、ここにはたくさんいる」
その言葉が、胸に刺さる。
(……僕は、この人たちのフランツじゃない。でも……今の僕は、確かにこの家に迎えられている)
アデーレはまだ離れようとしない。
その温もりは優しいのに、どこか遠く感じてしまう自分がいた。
だが、アデーレの震える声が、彼の不安を押し流した。
「兄さん……もう、どこにも行かないで……」
フランツはゆっくりと腕を上げ、ぎこちなくアデーレの背中に手を置いた。
「……うん。大丈夫だよ」
その声は、少年のものだった。
だが、どこか前世の「狩生悠真」の優しさも滲んでいた。
◆◆◆
スタインドルフ家での生活は、思っていたよりも静かで、温かかった。
退院して数日。
狩生――いや、カリウスは、ようやくこの家の空気に慣れ始めていた。
ミアは世話焼きで、食事のたびに「もっと食べなさい」と皿に料理を山盛りに盛り、アデーレは相変わらず少しおどおどしながらも、兄としてのカリウスに懐こうと必死に距離を詰めてきていた。
そんな日々の中で、カリウスは少しずつ、「自分は本当にフランツ・カリウスなのか」という問いを胸の奥に沈めていった。
前世の記憶は確かにある。
だが、今の自分を呼ぶ声は、兄さんというアデーレの声であり、カリウスと呼ぶスタインドルフ将軍の声だった。
ある日の午後、アルフレットに呼ばれ、カリウスは書斎へ足を運んだ。
重厚な扉を開けると、壁一面に並ぶ軍事書、地図、戦史の資料。
前世の自衛隊の訓練場とは違う、しかしどこか懐かしい静謐な香りが漂っていた。
アルフレットは机から顔を上げ、穏やかな声で言った。
「来たか、カリウス」
将軍の言い聞かせるような呼び方に、彼は一瞬だけ胸が温かくなる。
「……フランツ、じゃないんですね」
「君はスタインドルフ家の養子になったが、カリウスの名を捨てたわけではない。君の父ゲオルクが残した姓だ。大切にするといい」
落ち着いた言葉が、カリウスの胸に深く染みた。
(……そうか。僕は、カリウスなんだ)
前世の狩生悠真ではなく、この世界で生きる少年フランツ・カリウス。
その実感が、少しだけ強くなった気がした。
アルフレットは机の上の分厚い本を指さした。
「さて……君は記憶を失っている。だが、学ぶことはできる。君の父ゲオルクは優秀な技術士官だった。君にも、その血が流れているはずだ」
カリウスは本を手に取った。
『軍事教義概論』『兵站・物流の基礎』『大陸戦史』『基礎エーテル工学』
どれも、彼が前世で興味を持っていた分野だ。
最後のはちょっと知らないが。
(……軍事学だ)
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
アルフレットは続けた。
「カリウス、この国――ベリエ王国は国民皆兵だ。
小学校から行進や整列の基礎教練があり、中等教育では簡易な戦術を学ぶ。
高校に入れば、実際に銃器を扱う訓練も行われる」
カリウスは息を呑んだ。
前世の自衛隊教育とは、根本から違う。
「大抵の市民はそこで修了し、平時は民警隊に所属する。戦時になれば予備役として予備兵団に組み込まれる。……だが、大学に進めば話は別だ」
アルフレットは静かに言葉を区切った。
「大学では『将校教育』が行われる。陸軍大学校に入れなくとも、大学を卒業すれば少尉として任官できる。つまり――君が大学に進めば、正式な将校として軍を導く立場になれる」
前世日本の自衛隊とはまるで違う「国民皆兵」というシステム。
だが、心当たりはあった。
「ベリエ王国の制度に非常によく似た実例」が、元の世界にもある。
――台湾、イスラエル。
どちらも初等教育と大学教育を組み合わせて兵士を育てている。
そして、これらの国は同じ状況に置かれている。
周囲に敵対的な国家が存在し、独立が危ぶまれているという状況だ。
ベリエ王国の国民皆兵制度も、恐らく同じ理由で採用されている。
そうでもしないと、この国は生き残れない。
冷たい現実に触れたカリウスの背中に、冷たいものが走った。
「……僕が、将校に?」
「そうだ。君はまだ9歳だが、世界は常に動き続ける。将来、君が何をしているかはわからない。だが――飲み込んだ知識は決して君を裏切らない」
カリウスは新聞で見た勢力図を思い出す。
大西洋連盟とゲルマニア帝国。巨大勢力同士の睨み合い。
(……準備しなきゃ。生き残るために。守るために)
カリウスは本を胸に抱きしめた。
「……勉強します。僕、もっと、ちゃんと、この家の……家族の役に立てるように」
アルフレットは驚いたように目を細め、やがて静かに頷いた。
「いい目だ、カリウス。その意志があれば、きっと道は開ける」
その日から、カリウスの生活は変わった。
朝はミアの作る温かいスープを飲み、昼はアデーレと庭で読書をし、夜は書斎で軍事学の本を読みふける。
前世で見た地獄。
災害派遣での死。
戦争の予兆。
それらが、彼の背中を押していた。
(僕は……もう、何も知らないまま戦場に立ちたくない)
ページをめくるたび、カリウスの中で何かが形になっていく。
この知識は、命を救うための知識だ。
守るための力だ。
そう信じられた。
スタインドルフ家での生活は、
次第にカリウスに自信と人間らしさを取り戻させていった。
アデーレの笑顔。
ミアの優しさ。
アルフレットの静かな期待。
そのすべてが、彼をこの世界の少年へと変えていった。
そして――この軍学への興味は
やがて彼を「ベリエの魔王」へと育てる第一歩となる。
だが、この時のカリウスはまだ知らない。
努力の果てに最強となった自分が、一人の少女の心を壊してしまう未来を。




