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兵営

 手を取り合った兄妹は、その足で将校用の建物を出た。


 扉をくぐると陽光が埃っぽい空気を黄金に染め、遠くの訓練場から行進を命じる号令の声がカリウスの素まで風に乗って届いてくる。


 彼らは自分たちと同じように昨日か今日、ここにきたばかりだろうに。


 兵士たちの上官は、兵隊というものは何時いかなる時でも何かさせておかないといかん、とでも思っているらしい。


 兵営の道に沿って伸びる兵舎の列は壁のように連なり、その合間を縫う小道には、疲れて手近なものに腰を降ろしている兵士たちの影が伸びていた。


 ――兵営。それは戦争という巨大なメカニズムに組み込まれた歯車たちに、わずかな休息を許す場所だった。


 食堂のテントの四角く切りとった窓からはスープの蒸気が立ち上り、焼き立てのパンと香ばしいコーヒーの香りが、束の間の慰めを約束する。


「もし月が鏡だったならと~♪ 恋しい故郷にある君の横顔を想う~♪」

「いいぞー!」


 食堂の前でアコーディオンを弾き語りしている兵士の横を通り過ぎて少し進むと、次は理髪店があった。中をちらっと除くと、椅子に寝かされた男たちが顔を石けんの泡に包み、目を閉じて剃刀(かみそり)の音に身を委ねている。


 更に進むと、ひときわ人だかりのできているテントがあった。売店だ。兵営の中心近くにある売店は、兵士たちの集まる賑やかなオアシスとして広がっていた。


 売店の棚には、明らかに倉庫の残り物だろうと思われる、包み紙のくすんだチョコレート、埃を被ったビスケットの缶、キャンディーが並ぶ。


 だが、売店を訪れる客にとっては、そんなものでもささやかな宝物のように見えているようだった。


 若い兵士たちが手当の軍票を握りしめて棚に群がり、会計のいるカウンターに流れる。店の外には、買い物が終わったのだろう女性たち――無線補助員や看護士らしき者たちが団子になって入り混じり、買ったばかりの甘味を互いに分け合っていた。


「お、これガキの頃好きだったんだ。甘いぞ~これ食ったままキスしてやろうか?」

「やだーもう!」


 上着を着崩してシャツを見せた男が笑い、彼と腕を組んだ看護服を着た若い女性が頬を染め、店内を練り歩いている。


 兵営から※20リーグも東に進めば砲弾が落ちてくるのに、店内はそんなことを忘れたかのような、どこか作りもののような明るさに満ちていた。


※1リーグはおよそ5Km。魔王軍は歩兵が1時間に歩ける距離を1リーグとした。


 アデーレにはこの明るさが、兵士たちのささやかな抵抗に見えた。

 忍び寄る死の影を享楽で塗りつぶそうとする、儚い試みだ。


 喜びに満ちた喧騒の底には、常に死の予感が潜んでいる。これは戦場と日常を行き来をした者にしか、到底理解できない。


 簡単に命が失われてしまう世界を一度でも往来すると、その者の目は日常の営みをする人の姿を、人間のような生活をしている影に変えてしまう。


 彼らの楽しげな笑い声すら、彼女の耳にはどこか遠い世界で起きた出来事のように空しく響いていた。


 カリウスとアデーレの二人は、売店の賑わう売店の入口に立った。


 だが、何かを手に取るわけでもない。まるで目には見えない透明な膜に隔てられたかのように、中を淡々と眺めるだけだった。


 言葉は交わされず、互いの足音だけが、静かなリズムを刻む。


 カリウスは妹の横顔をちらりと見やり、アデーレの瞳に、焼け焦げたエマールの記憶がまだ宿っているのを感じ取っていた。


 二人はただ、兵営のレイアウトを確認するように歩を進める。売店の喧騒を横目に、食堂の熱気を避け、人々の気配を振り切る。


 自然と、人のいる場所を避けるように彼らの足は進んだ。


 いつしか、二人は車両整備場に辿り着いていた。

 油と鉄の臭いが濃く立ち込めるそこは、表の兵営とは別世界だった。


 トラックがずらりと並び、エンジンの残響が低く唸る中、ベリエの標準型戦車が、地面に深く掘られた整備用の溝、メンテナンスピットの上をまたがるように据え置かれていた。


 しかし「標準型」とは言うが、それは名ばかりだ。


 装甲は薄く、装甲前面は最大でも30mm。帝国の37mm対戦車砲はおろか、榴弾でも75mmクラスの砲弾が直撃すれば容易に破壊される。


 主砲は40mm口径。設計された当時なら「標準」だが、今では軽戦車並み――貧弱と言わざるを得ない。帝国歩兵に随伴するベグライターにも歯が立たない。


 泥と油にまみれた履帯を動かすエンジンは10年以上前のエーテル機関で、経験の蓄積で信頼性はあれど、力強さに欠ける。


 整備士たちがインパクトドライバーを手に取り、ダカダカと増加装甲のボルトを締め直す音が響く。


 継ぎ当てされた鋼板で不格好になった戦車の影は、ベリエ軍の現実を象徴する。

 ――大戦の遺産を継ぎ接ぎした、脆い鋼鉄の棺桶。


 戦車の傍らに立った兄の横で、アデーレはそっと手を伸ばした。


 冷たい装甲に触れる、小さな白い手。


 カリウスの胸に、参謀本部から与えられた『特例』が重くのしかかった。


 ――好きに編制を組め。必要な装備も人員も選んでいい。


 与えられた特権の意味は重い。

 それは自由ではなく、死地へ向かう者にだけ与えられる権利だ。

 彼はその意味を噛みしめながら、黙って戦車の影を見つめた。


 そんな時だった。底抜けに明るい声が二人の背中に投げかけられた。


「あ、やっぱり来てた! やっほー!」


「本当だ。メリナの言ったとおりだったな」


 樽の上にハンドルがついたような乗り物にメリナとガルムが乗っていた。


 これはターレットトラック、略してターレと呼ばれる、荷物を牽引するための低速かつ大馬力の小型車両だ。


 ターレの後ろには荷物なのだろう。金属製の小さな樽(ケグ)がケースに保持されて大量に積まれていた。


「メリナさん! それに、ガルムさんも!」


 振り返ったアデーレが、カリウスよりも先に二人に駆け寄った。


「よう。思った通り浮かない顔だな。」


「……そうですね。ガルムさんも予備兵団(バスチオン)に?」


「まぁな。今はこうして倉庫番だ」


「倉庫番? じゃあ後ろのそれは……」


「おう。ここで整備やら何やらに使う液体エーテルを運んでたところだ」


 二人が乗っているターレが牽引していたものは、液体化したエーテルの入った缶だったらしい。エーテルスタンドなら一週間はもちそうな量だったが、ガルムが言うにはこれでも1日分に足らないのだという。


「兵営のどこでもエーテルを必要としてるからな。燃料に砲弾、治療薬にスープの隠し味。何でもござれときたもんだ」


「確かに。エーテルは身の回りの色んな物に使われていますからね」


「それだけに、戦争の火種にもなるわけだが……よっと」


 ガルムはターレが牽引していたドリーを切り離し、液体エーテルが詰まった缶を集積場所に送り届ける。


 カリウスだったら2つか3つのところを、ガルムは6つ、それらを軽々と持ち上げて運んでいく。さすがは獣人。すさまじい馬力だ。


「よし、今日のノルマはこれで終わりだな」


 エーテルの入った樽を置き終わると、倉庫の奥から若い整備兵がやってくる。ぱたぱたと歩いてきた彼は、カリウスの姿を見ると、はたと足が止まった。


「ありがとうござ……もしかして、フランツ兄ちゃん?」


「――あ、フリンじゃないか!」


 幼い頃の雪の日。

 白い戦場で共に戦った戦友が、見た目は違えど、そのままの姿でそこに居た。

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