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小さな答え

 扉が閉まった瞬間、執務室の空気は、まるで音を失ったように沈黙した。

 アデーレの足音が遠ざかる。


 その響きが消えるまで、誰も息を殺して動けなかった。


 カリウスは、ただ立ち尽くしていた。


 妹の言葉が胸の奥で反芻される。

 ――私は……兄さんの死ぬ理由になりたくない……!


 その一言が、鋭い刃のように心臓を貫いていた。


(……アデーレは……ずっとこんな恐怖を抱えていたのか)


 守るつもりだった。

 支えるつもりだった。


 兄として、指揮官として、彼女を危険から遠ざけるつもりだった。


 だが――


(俺の優しさが……アデーレを追い詰めていた……?)


 初めて、カリウスは自分の優しさが誰かを傷つけるという現実を突きつけられた。


 胸の奥が、じわりと熱くなる。


 それは怒りでも悲しみでもない。


 もっと深い、もっと重い――

 自分という存在の輪郭が変わる瞬間の痛みだった。


 ヴァレンシュタイン大佐が、静かに口を開いた。


「……君たちは今、初めて戦うことの重さを知ったのだろう」


 カリウスは顔を上げた。


 大佐の灰色の瞳は、冷たくも、どこか哀しみを帯びていた。


「守るということは、時に相手を縛る。優しさは、時に自分も相手も殺す」


 カリウスの喉が、かすかに震えた。大佐は続ける。


「アデーレ少尉は、君の背中を見ることを恐れた。

君が彼女を守るために死ぬ未来を。

そして彼女は、自分がその理由になることを恐れた」


 カリウスは拳を握りしめた。

 大佐は、その拳を見て、静かに言葉を落とした。


「フランツ。君は――君自身を選ばせたのだ。

逃げることも、守ることも許されないこの場所(戦場)に」


 大佐の言葉は、カリウスの胸に深く沈んだ。


(……俺は……まだ何も始めていなかった)


 アデーレを守るために戦うのではない。

 アデーレと共に戦うために、自分が変わらなければならない。

 その事実が、カリウスの中で静かに形を成し始めていた。


 小隊長たちは誰も口を開かなかった。


 ただ、カリウスの変化を見守っていた。


 そして――カリウスはゆっくりと息を吸い込んだ。


(アデーレ……今度は俺が、君の隣に立つ)




◆◆◆




 廊下の隅、薄暗い影の中で、アデーレは膝を抱えていた。


 呼吸は浅く、胸の奥で細い糸が張りつめたまま震えている。

 涙は頬を伝うたび、小陰の冷えた空気に触れてすぐに温度を失った。


(兄さんを……なんであんなことを……

でも……怖かった……

兄さんが私を守ろうとして死ぬ未来が……)


 胸の奥がきゅっと縮む。

 自分の弱さが兄を傷つけたという事実。


 それが鈍い痛みとなって彼女の内側に

 じんわりと広がった。


 そのとき――足音が近づく。


 アデーレは反射的に顔を上げた。


「……アデーレ」


 カリウスだった。


 だが、追いかけてきたという気配はない。

 独り影の中に立ち尽くしている。


 アデーレは狩生に顔を背けた。


「来ないで兄さん。また……私を守ろうとするんでしょう……?」


 狩生はそれを否定しなかった。

 ただ、彼女の隣にゆっくりと腰を下ろした。


 その動きが、しゃくりあげ、乱れる呼吸をさらに揺らす。


「……アデーレ。

俺はシャルロッテ教授から、人の心を利用する方法を学んだ」


 アデーレの肩がびくんと震えた。


「利用……?」


「そうだ。兵士を動かすために、恐怖や希望をどう使うか。どう言えば人は死地に飛び込めるのか。全部、教わった」


 アデーレは息を呑んだ。


「じゃあ……私にも……?」


「違う」


 兄はそっと手を伸ばし、アデーレの背に触れた。

 その瞬間、アデーレの身体が小さく震える。


 逃げようとした足は力を失ったまま、動かない。


 兄は、そっと自分の胸を妹の背に寄せた。


 どくん、どくん――

 規則正しく、何かに急き立てられるような鼓動。


「アデーレ。俺は君がいなくなることを思うと、鼓動が速くなる。

でも、君がここにいると……落ち着いていく」


 アデーレの呼吸が、ほんのわずかに深くなる。

 胸の奥に張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ。


「これは利用じゃない。俺の本心だ。君にだけは、嘘をつきたくない」


 ぽたり、と水滴が冷たいモルタルの廊下に落ちた。

 妹は唇を噛みしめ、震える声を押し出す。


「兄さん……」


「守るために死ぬんじゃない。

君と一緒に、生きて戦うために――俺は君から離れない」


 アデーレは、そっと腕を伸ばした。

 兄の胸に触れた瞬間、熱が指先からじんわりと広がる。

 逃げようとした肩が、ゆっくりと沈んでいく。



 彼女は、兄を感じていた。

 狩生も言葉を使わず、ただ鼓動だけを伝える。


 シャルロッテの言葉が胸の奥で響く。“心を利用しろ”と。


 でも、アデーレにだけは嘘をつきたくない。つけるものか。

 師の言葉が、次第に彼から遠ざかっていく。


 彼は静かに目を閉じた。


 言葉は使わなかった。

 ただ、鼓動だけを伝えた。


 アデーレの肩が震え、やがて、その震えがゆっくりと弱まっていく。

 妹は、そっと兄の横顔に頬を寄せた。


 彼の温度が、冷え切った心の奥に静かに染み込んでいく。

 涙で濡れた頬に熱が触れる。


 その瞬間、アデーレの呼吸がふっと落ち着いた。


 沈黙が二人を包む。

 痛みでも慰めでもない、もっと深い――


 言葉はいらなかった。

 互いの存在がそこにあるという確かさだけがあればよかった。


 兄の体温と鼓動だけで、アデーレの心は静かに戻ってきた。


 狩生は、ただ彼女の背中に手を置き続けた。

 アデーレは、ただ兄の胸に頬を寄せ続けた。


 二人の間に、言葉よりも深い沈黙が流れた。


 やがて――

 アデーレはゆっくりと立ち上がり、涙をぬぐった。


 彼女は何も言わない。

 ただ、兄の手をそっと握った。


 その小さな手の温もりが

 すべての答えだった。







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