委ねられた言葉
ヴィクトールが退出し、小隊長たちだけが残された執務室は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
エーリッヒ大佐は、机の上に辞令書を置くと、カリウスへ向き直った。
「さて、フランツ・カリウス少尉。君は本日付で、我が連隊の特務戦術中隊、ファフニール隊、通称F中隊の中隊長に任官する」
大佐の言葉に、再び小隊長たちがざわめいた。
「本当に中隊長に……?」「学生が……?」
大佐は一瞥もくれず、淡々と続けた。
「必要なものは何でも兵営から持っていけ。この〝編制命令書〟は手形だ。
物資や燃料、車両も、兵器も、君が必要と判断したものは全て持ち出して構わん」
机に置かれた封筒には、参謀本部の紋章が刻まれていた。
カリウスはそれを受け取り、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、大佐」
エーリッヒ大佐は、腰を曲げかけたカリウスを白手袋に包まれた手で制した。
「礼はいい。それより――君は理解しているか?」
「何をでしょうか」
「今、何が起きているのか。そして、これから君が何をすべきかだ」
カリウスは息を吸う。
そして、前世の知識と、この世界の状況を重ね合わせながら口を開いた。
「ベリエは、連盟の要塞線を突破するための〝道路〟として使われています。
帝国はベリエを占領することが目的ではない。
その先にある〝連盟本土〟へ抜けるための通路が欲しいだけです」
小隊長たちが息を呑む。カリウスはさらに続けた。
「北方軍集団と中央軍集団の動きは陽動です。本命は別にある」
エーリッヒ大佐の眉がわずかに動いた。
「まて、首都を目指す攻撃が陽動だと? では……」
大佐は部屋の中央を横切り、執務机の上に大判の地図を広げた。
その指先が、ある一点を示す。
「ここだ。アルデナの森――」
カリウスの胸が、どくりと脈打った。
それは前世で〝アルデンヌの森〟と呼ばれた場所。
大戦の歴史を変えた突破口。
「まさか……帝国は、ここを抜くつもりなのか?」
「銀魔女に教えられました。戦争とは、躊躇いなく理の外側を突けるものほど強いと」
「むぅ……」
「森は険しく、道も悪い。
だからこそ、誰もここからは来ないと思っている。
そこを突くのが帝国の狙いです」
彼の背後にいた小隊長たちの顔色が変わった。
言わんとすることを理解したのだ。
「じゃあ……北方軍も中央軍も……」
「囮です。帝国は、ベリエ全土を使って〝陽動〟を仕掛けている。
本命はアルデナ突破――連盟の要塞線を背後から叩くことです」
エーリッヒは、地図を見下ろしたまま、静かに息を吐いた。
「……参謀本部は、そこまで読めていない。
いや、読めていても認めたくないのだろうな」
そして、カリウスへ向き直る。
「だからこそ――君が必要だ。
ファフニール隊は、アルデナ方面の〝先遣任務〟に就く」
アデーレが身を守るように手を胸の前にやって、息を呑んだ。
「先遣……って……」
「そうだ。帝国の突破を探知し、可能なら遅滞し、不可能なら生きて戻って報告する。君たちの任務は時間を稼ぐことだ」
「その指示は、連盟の派兵を前提とした指示ですか?」
「そうだ。」
「……了解しました、大佐」
エーリッヒは、その瞳にわずかな光を宿した。
「フランツ・カリウス。
やはり君は――戦場を読む目を持っている。
そして、アデーレ・スタインドルフ。
君は兄と並んだとき、指揮官の顔になる」
大佐は二人を見据え、はっきりと言った。
「ファフニール隊は、君たち兄妹を中心に動く。これは命令だ」
アデーレは震える手を握りしめ、カリウスは静かに頷いた。
大佐は、机の上に辞令書を置くと、兄妹を見据えた。
「君たち二人の階級は少尉のままだが、権限は〝少佐待遇〟とする。
面倒が起きたら、私の名前を出して押し切れ」
「ありがとうございます、大佐」
「礼は不要だ。君はエマールで結果を出した。
それに見合う権限を与えるだけのことだ」
大佐は視線をカリウスたちの横へ向けた。
そこには彼らのやり取りに呆気にとられた3人の小隊長が並んでいた。
「レオン・ブラント少尉、ガストン・デュボワ少尉、マルク・グリンストン少尉。
君たち三名は、そのままF中隊に編入されるが、異論は?」
三人は一瞬顔を見合わせ、それぞれ頷いた。
「……了解だ」「従うよ」「よ、よろしく頼むだす……!」
その瞬間、アデーレの胸に、重く冷たいものが沈んだ。
兄が――もう後戻りできない領域に踏み込んだ。
カリウスは、もう自分の兄ではない。
国家の命運を背負う指揮官になってしまった。
(……逃げたい。
どこか、戦争なんてない場所へ。
兄さんと二人で、遠くへ……)
だが、カリウスはそれを許さないだろう。
そして、自分も――きっと許せない。
16歳の少女には、あまりにも重すぎる現実だった。
気づけば、アデーレの口が勝手に動いていた。
「……どうして……」
大佐が眉をひそめる。
「どうした、スタインドルフ少尉」
「どうして……エマールを見捨てたんですか」
部屋の空気が凍りついた。
レオンが息を呑み、ガストンが煙草を落としそうになる。
アデーレの声は震えていたが、その瞳は真っ直ぐ大佐を射抜いていた。
「エマールには、私たちの家がありました。
家族も、友達も、思い出も……全部……
どうして、あんなふうに……!」
エーリッヒは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……あれは、参謀本部の判断だ」
「判断……?
誰かの大事な人が死ぬことも判断したんですか!?
あの街で死んだ人たちは……誰にも看取られずに……!」
アデーレの声が震え、拳が白くなるほど握りしめられる。
「どうして……どうしてあんな……!」
彼は、アデーレの叫びを遮らなかった。
ただ静かに、彼女の痛みを受け止めるように立っていた。
そして――低く、重い声で答えた。
「エマールに正規軍が残っていても全滅していた。
最悪の選択肢が並ぶ中で、少しでもマシなものを選び取った。
おそらく――いや、確実に君たちも、同じことを迫られる」
エーリッヒは、アデーレの涙を見ても表情を変えなかった。
だが、その声にはわずかな痛みが滲んでいた。
「――ッ!」
妹の心に大佐の言葉が白刃となって沈む。
少女の唇からこぼれる吐息が震え、涙がこぼれそうになる。
カリウスがそっと妹の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ。俺はどんなことがあっても、君を守る」
その声は優しく、昔から変わらない兄の声だった。
――だからこそ、アデーレの胸が締めつけられた。
(やめて……そんなふうに言わないで……
兄さんが私を守ろうとするほど……兄さんが――)
兄の優しさは、今のアデーレにとって救いではなくなっていた。
いやむしろ――
兄が守ろうとする限り、兄は前に出る。兄は危険に身を晒す。
兄は――死ぬかもしれない。
(兄さんが……死ぬかもしれない……
そんなの……絶対に駄目だ……!)
頭の片隅に追いやっていたはずのそれがどんどん大きくなる。
彼女の胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
アデーレは震える手で、カリウスの手を振り払った。
「やめて……!」
カリウスが驚いたように目を見開く。
「アデーレ……?」
「守らなくていいって言ってるの……!
兄さんが私を守ろうとするから……
兄さんが死んじゃうかもしれないから……!」
「私は……兄さんの死ぬ理由になりたくない……!」
妹の言葉にカリウスは後ずさった。
シャルロッテの警句を忘れていたわけではない。
――むしろ、胸の奥に深く刻まれていた。
(〝お前の覚悟は、守られる側を傷つける〟……
〝妹は、お前の死ぬ理由になりたいと望むだろうか〟……)
彼女の月明かりのような声が、まるで耳元で囁かれたかのように蘇る。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
自分が「守る」と言えば、
アデーレは怯える。
自分が「死ねる理由」を持てば、アデーレは壊れる。
それでも――カリウスは、言ってしまった。
大佐は少女を見据え、静かに言葉を落とした。
「軍人は命を育てる仕事ではない。今日この時から幾年の間、君たちのする仕事は人を殺すことなのだ。人を殺し、殺させることが君らの生活における職務になるのだ。私はそれに弁明も釈明もしない。事実だからだ。」
アデーレは涙を拭いもせず、大佐を睨んだ。
「じゃあ……どうすればいいんですか……! どうすれば……!」
大佐は、その叫びを遮らず、ただ静かに聞いていた。
そして――
アデーレの心が限界に達した瞬間、彼女は踵を返した。
「……ごめんなさい……少し……外に出ます……!」
涙をこらえた声でそう言うと、アデーレは部屋を飛び出した。
扉が閉まる音が、執務室に重く響いた。
カリウスは追いかけようと一歩踏み出した。
だが、エーリッヒが彼の肩を掴み、静かに制した。
「行くな。今の彼女には、君の優しさは毒になる」
「…………。」
「大丈夫だ。彼女は立ち直る。彼女の言い分は、私にも心当たりがあるからな」
カリウスは立ち尽くし、握りしめた拳を震わせた。
アデーレは廊下の影に消え、兄妹の心は一度、完全に離れた。
この時になるまで、カリウスは、狩生は気づいてなかった。
人生の可能性に。
自分はまだ、何も始めていなかったことに。




