断章 変わりゆく景色
ゲルマニア帝国軍が占領したベリエの古城は、童話に出てくるような白い丸塔が並ぶ優美な建物だった。
その外壁に、帝国軍の黒鷲の旗が重々しく翻っている。
城内の一室――本来なら貴族の宴が開かれていたであろう広間は、いまや軍地図と無線機で埋め尽くされていた。
勝利報告が並ぶはずの会議室には、しかし奇妙な沈黙が漂っていた。
ピシッと糊の効いた軍服を着た参謀が、地図の上の駒を静かに動かす。 その向かいで、鮮やかな赤い肩章をつけた将軍が腕を組んだまま低く唸った。
マクシムス将軍――北方軍集団の側面を守る、中央軍集団の総指揮官である。
「2時間前にエマールの完全制圧を完了。北方軍集団、予定より二日早く前進中」
景気の良い内容とは裏腹に、誰の顔にも笑みはない。
「皇子殿下の装甲突撃大隊、またしても単独で拠点を陥落させました」
参謀の報告に、会議室の空気がわずかに揺れた。
「……成功は結構だ。しかし、あの戦術は補給線を無視している。殿下は〝速度こそ勝利の鍵〟と仰るが、現場は悲鳴を上げているぞ」
「エーテル燃料の消費は予定の1.8倍です。間もなく備蓄を喰らい尽くします」
参謀の言葉に、司令部の空気が凍った。
「皇子殿下の突撃大隊は、補給を待たずに前進しています。このまま進めば、我々は中央軍集団に置き去りにされてしまいます」
「むぅ……再三の停止要請も、まるで意味なしか」
マクシムスの任務は、ラインハルト皇子率いる北方軍集団の側面援護だった。
皇子が切り取った領土を守り、補給線を確保する。
それが、重戦車と重砲を備えた中央軍集団の役目である。
だが――
「守るべき戦線がどんどん広がっていく。戦力が薄まりすぎだ。
ベリエ東部の抵抗は弱い。だが……」
マクシムス将軍が、戦況図を睨む。
「追い詰められたベリエの戦力は首都に集中している。ベリエの本格的な反撃が始まったら、北方軍集団の先頭が突破口になりかねんぞ」
「しかし、閣下――」
「皇子殿下は前進を続けると?」
「はい。殿下は〝敵は逃げているだけ〟と判断しておられます」
会議室に重い沈黙が落ちた。
「殿下はまた、停止要請を無視されたのか?」
「いえ……〝必要なことをする〟とだけ、申しておりました」
「それを世間では独断専行と言うのだ!」
将軍の机を叩く音が響き、会議室に重い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、別の参謀だった。
手元の報告書をめくる指が、わずかに震えている。
「……閣下。もう一つ、不可解な点がございます」
マクシムスが眉をひそめる。
「不可解とは?」
「皇子殿下の装甲突撃大隊ですが――」
参謀は喉を鳴らし、言葉を選んだ。
「補給記録上、手持ちのエーテル燃料は底をついているはずなのです」
室内の空気が一瞬止まった。
「……待て、殿下の部隊は前進を続けている。何かの間違いではないか?」
「間違いありません。ですが、部隊からの戦果報告を見る限り、火力も機動力も低下していない。むしろ――」
参謀は報告書を握りしめた。
「殿下の部隊だけ、戦闘効率が上がっているように見えます」
「馬鹿な。補給なしで戦力が維持できるはずがない」
「私もそう思います。しかし、現場からの報告はすべて一致しています。
――まるで、燃料も弾薬も必要としていないかのように」
マクシムスの背筋に、冷たいものが走った。
戦場の理が、どこかでねじ曲がっている。
そんな感覚が、言葉にならないまま胸に沈殿した。
その直後だった。
コツ、コツ、と硬い靴音が近づく。
緋色の髪が揺れ、そこから二本の黒い角が突き出していた。
白磁のような肌に、夜の海を思わせる深青の瞳。
人ならざる美しさをまとったナイトメアの女が、将軍の机へと歩み寄る。
本来、この場に彼女のような存在が立ち入れるはずがない。
ナイトメアは帝国でも最下層の差別対象であり、公職からは徹底的に排除されている。 軍服を着ることすら許されないはずだった。
だが、彼女は堂々と帝国軍の高位軍人の軍服をまとい、
その袖には、金糸で縫い上げられた部隊章が輝いていた。
――『愛国連隊』
帝国貴族の出資で運営される半官半民の実験部隊であり、ラインハルト皇子直属の『おべっか部隊』とも揶揄される機関だった。
だが、その権限は、正規軍をも超える特務機関だ。
彼女がここにいる理由はただ一つ――
愛国連隊の一員であること。それだけで十分だった。
「ミュー中尉か。何か――」
「……将軍閣下。殿下のご判断に異議を唱えるおつもりですか?」
その声は冷たく、しかし礼儀だけは完璧だった。
会議室の空気が、さらに張り詰める。
「北方集団の先頭が突破口になる? 有り得ません」
ミューは静かに言い放つ。
「我々が剣となり、殿下の道を切り開きます。
――そのために、愛国連隊は存在しているのですから」
「……」
「あなた達は、ただ自分たちに与えられた仕事をするだけで良い」
マクシムス将軍は、階級上はミューよりよりはるかに高位にある。
にもかかわらず、諭すというより、命じるような口調だった。
将軍が、喉の奥で唸る。
仕事は終わったと言わんばかりに、ミューは振り返り、作戦室の扉に手をかけた。
その瞬間だった。
床に落ちた彼女の影が、ほんの一瞬だけ別の形に歪んだ。
誰も声を上げなかった。
単なる見間違いだと、自分に言い聞かせた。
戦争が、自分たちの知る形から離れ始めた。
マクシムスはそれを確かに見た気がした。




