現状把握
看護婦とのリハビリ予定の話は、淡々と進んだ。
歩行訓練は明日から。
その後は筋力回復のための軽い運動。
事故の後遺症は少ないらしい。
「じゃあ、フランツ坊や。明日は午前9時に迎えに来るからね」
「……はい。ありがとうございます」
看護婦が壁のカレンダーに赤い丸をつける。
1925年。
その数字を見ると、前世の記憶が、冷たい刃のように胸を刺した。
1939年――ポーランド侵攻。
第二次世界大戦の幕開け。
(あと14年……カルテによると僕は9歳。つまり23歳――大学卒業の後、すぐに戦争が始まる)
徴兵は避けられない。いや、この世界の制度がどうであれ、戦争が始まれば、若者は必ず戦場に駆り出されるだろう。
(準備しないと……できる限りのことを)
看護婦が去ると、フランツはベッドからそっと降りた。
まだ足元はふらつくが、歩けないほどではない。
院内のロビーに行くと、箱型の新聞スタンドに今日の新聞が置かれていた。
老人が一人、ベンチに腰掛けて新聞を読んでいる。
フランツがふらふらと近づくと、老人は目を細めて笑った。
「おや、ませた子だねぇ。新聞なんて読むのかい?」
「……はい。少し、気になって」
軽く会釈し、空いている新聞を手に取る。
紙の匂い。
インクのざらつき。
懐かしい感覚だ。
一面を開いた瞬間、フランツの喉が再びひゅっと鳴った。
(……地図が……おかしい)
いや、完全に別物ではない。
大陸の形はほとんど同じだ。
だが――
勢力図が、決定的に違う。
ヨーロッパ大陸の西側は、元の世界におけるフランス、イギリス、スペイン、そして北欧諸国と北アフリカ諸国からなる「大西洋連盟」。
東側は、ゲルマニア帝国――
ドイツ、ロシア、イタリアとバルト海の諸国家を丸ごと飲み込んだ巨大国家。
二つの超大国が、ヨーロッパを真っ二つに割って睨み合っている。
(これは……不味いぞ)
前世の歴史では、ドイツ、イタリアに対し、後にロシア(ソ連)が敵となる。
東西に敵をつくったことが、ドイツの敗因となった。
だが、この世界では――巨大勢力同士が後顧の憂い無く、最初から真正面からぶつかる構図になっている。
(こんなの……戦争になったら、前の世界よりはるかに凄惨なことになる)
前の世界を凌駕する規模の総力戦。
胸の奥が冷たくなる。
(僕は……どうすればいい)
新聞の紙面が、手の中でかすかに震えた。
だが、フランツは目を逸らさなかった。
逃げるわけにはいかない。
14年後、この世界は地獄に沈む。
その時、自分は必ず戦場に立つ。
ならば――
(準備するしかない。生き残るために。守るために)
少年の瞳に静かな決意が宿った。
世界はすでに破滅に向かって動き始めている。
自分もまた、それに巻き込まれていく。
新聞の紙面から顔を上げたとき、ふわりと苦い香りが鼻をくすぐった。
休憩室の隅で、先ほどの老人がコーヒーメイカーを操作している。
黒い液体がカップに落ちていく音が、静かな病院に心地よく響いた。
(……コーヒーは、この世界にもあるんだな)
どこか懐かしくて、フランツはぼんやりとその光景を眺めていた。
だが、ふと違和感が胸をよぎる。
(……あれ?)
コーヒーメイカーの背面に、コンセントがない。その代わりに、機械の側面に青く輝く液体の入ったカートリッジが差し込まれていた。
まるで、電池のように。
(なんだ、あれ……?)
気になって、フランツは老人に声をかけた。
「あの……すみません。その青いのって、何ですか?」
老人はカップを持ったまま、怪訝そうに眉を上げた。
「青いの? ……あぁ! エーテルのことかい?」
「え、エーテル……?」
老人はさらに不思議そうにフランツを見つめる。
「坊や、まさか知らんのか?」
フランツは一瞬、言葉に詰まった。
だが、嘘をつくわけにもいかない。
「……事故で、記憶があまりなくて。すみません、変なことを聞いて」
言いながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
〝覚えていない〟と、同じ言い訳を繰り返すたびに、自分が情けなくなる。
老人はそんなフランツの様子を見て、ふっと表情を和らげた。
「そうか……なら、聞いたら何か思い出すかもしれん。よし、教えてやろう」
老人はコーヒーを一口すすり、語り始めた。
「エーテル機関ってのはな、昔は魔法使いしか扱えなかった『魔法』を、一人の天才が『技術』に落とし込んだものなんじゃ」
「魔法……? 技術……?」
「そう。最初はランプを灯すだけの粗末なもんだった。だが改良が進んでな、今じゃ蒸気機関よりも力強い。船も動くし、自動車も走る。工場だって、エーテルで回っとる」
老人はコーヒーメイカーの青いカートリッジを指差した。
「こういう小さな機械は液体のエーテルを使う。大きな機械は結晶を使い、気化させる。まあ、ガスみたいなもんじゃな」
フランツは息を呑んだ。
(……魔法を、技術に? それが、この世界の電力であり燃料なのか)
老人は新聞を畳みながら、ぽつりと続けた。
「このベリエはエーテルが豊富でな。それが原因で、前の大戦が起きたんじゃよ」
その言葉に、フランツの胸が冷たくなる。
(資源を巡る戦争……前の世界と同じだ。でも、この世界はその規模が違う)
老人は遠い目をして新聞の一面を見つめた。
「やれやれ……また税金があがるのか」
フランツは無意識に、青いカートリッジを見つめた。
魔法が技術になった世界。
エーテルが資源であり、力であり、争いの火種でもある世界。
この世界は遠からず炎に包まれる。
彼は確信した。
フランツは静かに息を吸った。
(……準備しないと)
少年の瞳に、決意の色が宿り始めていた。




