死線
ティーゲル号は鉄橋のたもとに滑り込み、急制動で巨体を揺らした。
橋の上には、避難民の列が蛇のように連なっていた。
荷車を押す老人、泣き叫ぶ子ども、肩を貸し合う負傷者。
その手前では、民警隊の残存兵が土嚢を積み上げ、必死に防衛線を築いている。
「……まだこんなに残っていたのか」
カリウスの喉がひりついた。
ティーゲル号のエンジン音が、避難民たちの怯えた視線を集める。
橋を渡れば、自分たちは助かる。
だが――
(このまま行けば、彼らは追撃されて捕まる。
僕たちだけなら逃げれる。助かる。
でも……それでいいのか?)
戦術的には正しい判断が、人間としては最悪の選択に思えた。
頭が真っ白になる。
今はただ冷たく、思考が胸に刺さるだけだった。
そのとき――
「兄さん!」
車長席からアデーレの声が落ちてきた。
亡失にあった兄を打つ、鋼のように強く、震えのない声。
「迷っている時間はありません! 兄さんが求めているのは〝正しいこと〟でしょう? でも、今必要なのは〝やりたいこと〟です!」
カリウスは息を呑んだ。
「兄さんと本を読んでる時、いつもそうでした。兄さんは、〝どうあるべきか〟を考える。でも私は、〝どうしたいか〟を選びます。だから――」
アデーレは胸を張り、兄を見下ろした。
「兄さん。助けましょう。私たちがここに居る意味は、きっとそれです!」
(そうだった。『――僕が求めるものと、必要なものは違う』。)
兄妹は、互いに欠けた部分を補い合う。
それが、二人の捻れであり、強さでもあった。
カリウスは深く息を吸い、アクセルを踏み込んだ。
「……わかった。アデーレ、ガルムたちに伝えてくれ。時間を稼ぐって!」
「了解!」
ティーゲル号のエーテル機関が再び咆哮を上げる。
避難民たちの間に、希望のざわめきが広がった。
カリウスは、戦術ではなく――人間としての選択を選んだ。
鉄橋のたもとでティーゲル号が止まると、避難民たちの視線が一斉に向けられた。
恐怖で足がすくみ、列は完全に止まっている。
(とは言ったものの、どうすれば……)
そのとき、シャルロッテの声が脳裏に蘇る。
『死を想定し、受け入れさせることだ。
死を避けようとする者は動けなくなる。
死ぬ可能性を理解し、受け入れた者だけが普段通り動ける』
(……そうだ。彼らは死を避けようとして動けなくなっている。なら――)
カリウスはハッチを開け、腹の底から声を張り上げた。
「全員、聞いてくれ!!」
彼の声に、避難民たちがびくりと肩を震わせた。
「追撃が来る! ここに留まれば全員捕まる!
でも――今なら渡れる! この先に行けば助かるんだ!」
その言葉は、彼らの恐怖を否定しない。
むしろ彼らの懸念を〝認める〟ことで、避難民の心に届いた。
「荷物を捨てるんだ! 命より重い荷物はない!
今は生き延びることだけを考えてください!」
老人が荷車を見つめ、母親が背負い袋を抱きしめる。
だが、カリウスは続けた。
「ティーゲル号がここで食い止めます! あなたたちは走るだけでいい!」
民警隊の隊長が叫んだ。
「おい、聞いたな! 列を動かせ! 馬車を押し出せ! 止まるな!」
避難民の前を塞いでいた馬車が、荷物を載せたまま橋の下に投げ出された。
とぼとぼと歩く人々の足元に、膨らんだ旅行鞄が打ち捨てられる。
そうして疎開者の列が、ゆっくりと、しかし確実に動き始めた。
カリウスは深く息を吸い、操縦席に戻った。
(教授……俺、やってみせます)
再び、ティーゲル号のエーテル機関が唸りを上げた。
「よしきた! 野郎ども、仕事だ!」
「うっす!」
ガルムたちライカンは、ティーゲル号の背から飛び降りる。
彼らはティーゲルの背中に据え付けていた水冷式機関銃を手際よく下ろし、冷却水を入れるためのブリキの箱を、民警隊の兵士たちへ放り投げた。
「ほらよ、これ使え!」
「え……水、もう空じゃないですか?」
「いいから入れろ!」
兵士たちはからっぽの箱を覗き込み、顔を見合わせた。
「……入れるって、何を?」
ガルムはニヤリと笑って牙を見せた。
「決まってんだろ。小便だよ、小便!」
「えっ?!」
「ちょ、ちょっと!」
アデーレが顔を真っ赤にして両手で顔を覆う。
「ちょ、ちょっとガルムさん!? 女の子の前でそういう……!」
「戦場じゃ関係ねぇよ嬢ちゃん! 縮こまって出せねぇやつはいねぇよなぁ!?」
ガルムの下品な檄に、民警隊の兵士たちが苦笑しながらズボンの前を開ける。
第一次大戦では、水冷式機関銃の冷却水が尽きた際、兵士たちが実際に小便を代用したという記録が残っている。おそらく、かなり臭かったことだろう。
だが、熱で蒸発しようが臭かろうが、撃ち続けなければ死ぬ。
戦い続けるためには、そうするしかなかったのだ。
緊張で固まっていた空気が、わずかにほぐれた。
カリウスはその光景を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(……ガルムはすごいな。俺にはできないやり方で、戦場を動かしてる)
尊敬に近い感情が、静かに芽生えたその瞬間――
地鳴りがした。
低く、重く、腹の底に響く振動。
ティーゲル号の装甲がわずかに震える。
「兄さん……来ます!」
アデーレの声が鋭く響いた。
鉄橋の向こう側、煙の向こうから姿を現したのは――
帝国軍の重戦車。
その後ろには、従者のように付き従う随伴歩兵。
巨大な車体。
前面に並ぶ複数の機銃砲塔。
主砲塔には短砲身の75mm砲と、同軸の37mm砲。
まさに鋼鉄の怪物。
カリウスは、識別表に乗っていたその姿と名前を思い出す。
「……マムートだ」
息を呑んだ彼は、怪物の砲塔に描かれたマークを見て、さらに目を細める。
(……Yじゃない……帝国の国章だ。
右を睨む黒鷲と、爪に掴んだ金の鍵。
そして砲塔側面に白く描かれた――死の頭、ドクロ頭。)
前世でも同じような連中がいた。
カリウスは目の前が暗くなるような感覚を覚えた。
(きっとあれは、国家親衛隊だ。皇帝への絶対忠誠と「純血」を掲げ、恐怖と粛清を専門とする精鋭部隊。冷酷なイデオロギーの怪物。)
つまり、ロンメル的指揮官とは、また別の系統の怪物が来たということだ。
アデーレが車長席から叫ぶ。
「戦車戦闘――状況開始!」
ティーゲル号のエーテル機関が咆哮を上げ、ガルムたちが雄叫びを返す。
希望をつなぐ鉄橋の上で、〝怪物〟同士の戦いが始まろうとしていた。




