発進
ティーゲル号の巨体を前に、カリウスは思わず足を止めた。
胸の奥に、父と将軍の面影がふっと蘇る。
(父さん……将軍……どうか僕とアデーレを守ってください)
祈るように小さく息を吐き、彼は震える指を静かに落ち着かせた。
カリウスはティーゲル号の始動にかかった。
手順通り、後部のクランクを力強く回し、発電機からセルモーターへ電力を供給する。車内のアデーレがそれを直結し、エーテル機関を起動させた。
エーテル機関が低く唸りを上げて始動すると、周囲にエーテルが揮発する時特有の甘い香りがふわりと立ち込めた。
まるで蜜のような、懐かしくも芳しい香りが、納屋の埃っぽくて油臭い空気を優しく塗り替えた。
「メリナさん、手を貸してくれますか!?」
納屋の入口に立ち尽くしていたメリナが振り返ると、苦しげな表情のミアを支えるアデーレがいた。
メリナは素早くティーゲル号の横に回り、納屋の隅に立てかけてあった古びたはしごを引っ張り出して掛けた。
ティーゲル号はその巨体ゆえ、ハッチは地面からかなりの高さにある。
乗り込むのにも一苦労だった。
暖機が進み、ゆっくりとティーゲルが息を吹き返し始める。
ミアを戦車の中に運び込む頃には、発進準備がほぼ終了していた。エーテル機関の振動が微かにシートを震わせ、車内の空気も熱を帯び始めている。
「へぇ、素晴らしいお手並みね」
「ずっとウチで面倒を見てきましたからね」
「流石男の子って感じ。この戦車のこと大事にしてるんだ?」
「いえ、僕は首都の大学に行ってたので、僕じゃなくてアデーレが見てたんです」
「アデーレちゃんが? 洗ったりとか?」
「それもしていますけど……」
戦車の運転席から金髪のショートボブを軽く揺らしてアデーレが顔を出した。
彼女はメガネを押し上げて戦車の足元の二人に告げる。
その瞳には情熱――いや、一種の偏愛のようなものが輝いていた。
「兄さん、前からの変更点を伝えておきます。武装、内装品には手を加えていません。大きい変更はエンジンで、試作の軸流式エーテル圧縮機を導入しました。その結果、重量出力比を変速機に負担のかからないラインまで引き上げてます。最新の流体変速機が使えたなら、これほどの大手術をする必要はなかったんですけどね……。ティーゲルの基本設計は10年以上前のものですが、この改修でようやく満足の行く機動力が得られました。ただし整備上の注意点があって――」
「……この子、実はすごい?」
「アデーレは機工の天才ですよ。僕なんかよりもずっと。」
「兄さん、運転席を代わってください。車長は、私がやります」
「えっ」
運転席のハッチからアデーレは上体を出す。
彼女はティーゲル号の砲塔を見上げ、その装甲にそっと触れた。
まるで父の面影に触れるように。
「この子のことは、私が一番よく知ってます。エーテル機関の癖も、限界も。それに、クラッチは兄さんじゃないと踏めないじゃないですか」
「……」
(そういえばそうだ。重戦車のクラッチは男の力で思いっきり踏み込む必要がある。16歳のアデーレじゃ、とても無理だ。でも、それじゃ……)
押し黙るカリウスを振り返り、メリナが驚いたように目を丸くする。
「彼女にできるの?」
「私ならできます。予科で将校教育も受けてます。それに、兄さんだけに守らせるのは、もう嫌なんです」
その言葉は震えていたが、瞳は揺れていなかった。
カリウスは胸の奥が痛むのを感じた。
――教授の言葉が蘇る。
『お前の覚悟は、時に守られる側を傷つける』
(そうか。僕はアデーレを守るつもりで、彼女の力を〝最初からないもの〟として扱っていた……教授の言う通り、とんだ馬鹿で阿呆で大間抜けだ)
自分は傲慢だった。
守る理由を盾に、妹の意志を見ようとしていなかった。
(教授は言っていた。戦場で兵を動かすのは、命令ではなく『心』だと。
怒りも、悲しみも、悔しさも、恋しさも――その全部が人を動かす、と)
「…………」
アデーレの〝嫌なんです〟という震える声は、まさにその『心』だった。
兄はそれを、見ようともしなかった。
妹は兄の沈黙を見て、そっと微笑んだ。
「兄さん。私、逃げないよ。父さんの遺したこの子を、兄さんと一緒に動かしたい」
その声は、震えを押し殺した少女のものではなかった。
家族の遺志を継ぐ者の声だった。
「……わかった。車長はアデーレに任せる。ティーゲルは僕が操縦する」
「はい。兄さんに指示を出します」
メリナが勢いよく手を挙げる。
「じゃあ私は砲手ね!」
「えーっと、まぁ……お願いします」
はしごを使ってメリナが砲塔のハッチから中に滑り込み、次にカリウスが続いた。鋼鉄のハッチが重く軋む音を立てて開き、内部の狭い空間が彼らを迎え入れる。
車内の空気はオイルと金属の匂いが混じり、鼓動のような低音が響いていた。
アデーレは車長席に座り、ヘッドセットを耳に装着した。
彼女の指は素早く右手にあったスイッチを操作し、車内の通信系統をチェックにかかった。が、目の前にあったひとつのスイッチを押しそこねた。
指が、震えている。
(――父さん。私にできるかな?)
アデーレはヘッドセットの感触を確かめながら、深く息を吸った。
車内の振動が、早まる心臓の鼓動と重なる。
甘いエーテルの香りが、胸の奥の不安を静かに溶かしていく。
(逃げない。兄さんと一緒に、この子を守る。怖いよ――でもそれは、守りたいものから逃げていい理由にならないんだ)
指先が、再びスイッチに触れる。震えはもう、なかった。
彼女は目を閉じ、一瞬だけ過去の自分に別れを告げた。街の血の臭い、崩れ落ちた日常、すがりついた兄の袖――すべてが、胸の奥で小さく燃え尽きる。
そして目を開けたとき、そこにあったのは、怯える少女の瞳ではなかった。
「――通信系統、正常。車長、アデーレ・スタインドルフ、配置につきました」
声は静かだったが、研ぎ澄まされた鋼のように澄んでいた。
「兄さん、エンジン回転数は2800rpmを超えないように注意してください。それ以上はエンストしますから。メリナさん、主砲は任せます」
彼女は前方のペリスコープを覗き、唇に小さな、しかし確かな笑みを浮かべた。
(できるよ、父さん。私、ちゃんと守るから)
ティーゲル号の巨体が、彼女の意志に呼応するように、わずかに身震いした。
ミアは前方機銃手兼無線席に体を預け、胸の痛みを堪えながら姿勢を正す。彼女の呼吸が少し荒く、額に汗が浮かんでいた。
砲手席に座ったメリナは、鼻息荒く大砲の照準器のレンズを覗き込んだ。鋼鉄の照準器が冷たく目蓋に触れ、精緻なクロスヘアが彼女の視界に広がった。
「……すごい、なんて明るいレンズ!」
彼女はティーゲル号にいたく気に入ったようだ。まるで子供が新しいおもちゃを手にしたように目が輝いている。
「よし! こいつでこれまでの借りを返してやるんだから!」
「えっと……それは無理だと思います」
「なによ! 私にも大砲の使い方くらいわかるわよ。戦車砲っていったって、基本は歩兵砲と同じでしょ?」
「主砲は陸軍の90ミリ砲の転用なので、確かにそうなんですけど……まずい!!」
「まずいって、あ!」
二人が言い争っているうちに、隣家の略奪をしていた帝国兵が納屋の近くにまで近づいていた。納屋の扉の向こうから影が地面に伸び、銃の先が覗く。
帝国兵の一人が恐る恐る納屋を覗き込み、中にあった巨体を見て、びっくりしたように後ずさった。
顔は逆光で見えなかったが、どういう表情だったのかは大体分かる。
「おい見ろ。すげーのがあるぞ」
「なんだこれ……動くのか?」
戦車の中でアデーレが叫ぶ。
「兄さん!」
「わかってる! ――ティーゲル号、発進!」
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ここから10万字まで
「評価とブクマお願いします!」って言える雰囲気の話が
まったく続かないので
あまり余韻の邪魔にならなさそうな、ココで言わさせてください!
(ココもどうかと思うけど!!)
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