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残された巨象

 アデーレを連れたカリウスは、街の中心部を必死に駆け抜けていた。


 帝国軍の侵攻による戦火が広がる中、道端には無残な光景が広がっていた。戦いの巻き添えを食らった子供や女性たちの遺体が、粗雑に積み上げられていた。


 胸の奥が凍りつくような恐怖が彼の中に走った。

 その瞬間、ふと教授の声が脳裏に蘇る。


 ――恐怖を消すな。抱えたまま動け。


(怖い。でもこれは――僕が足を止める理由にならない)


 何かがカリウスの鼻をくすぐる。


 血の鉄錆の匂いだけでなく、なにか別の――


 髪の毛と脂の焼ける臭いだ。

 走って息を継ぐたびに、喉の奥がむっと詰まるような感覚が広がる。


 ぬるっとした脂の残り香が、舌の上でゆっくりと広がっていく。


 その正体は――

 これ以上吸うまいと、彼は無意識に息を浅くしていた。


 アデーレは顔を青ざめさせ、目を背けながらカリウスの腕にすがりついた。

 彼女の細い指が、震えながら兄の袖を握りしめる。


「各自、残弾チェック!  死体から使える武器を集めろ。埋葬は後回しだ!」


「ですが、こいつは俺の友達なんです!」


「放っておけ、どうせこの街全体が墓地になるんだからな」


 民警隊の獣人たちが、荒々しい声で叫び合う。彼らの言葉には、一種の開き直り――死を覚悟したような諦観が滲んでいた。


 鋼鉄の毛皮(アイアンペルト)を着込んだ彼らは、これから始まる帝国の攻撃に抗うために、中世の騎士が使うような剣や槍といった原始的な武器を研ぎ澄ましていた。


 カリウスはそんな不穏な声を耳にしながら、アデーレの手を強く引き、街の中心部を離れた。一刻も早く、この地獄のような場所から彼女を遠ざけたかった。


(思い出せ。僕の〝死ねる理由〟は、今こうして震えている手の中にある――)


 心の中で、彼は祈るように思った。


(アデーレを守るんだ。それだけが今の僕の使命だ)


 街の外れに出ると、中心街での戦いが嘘のように、牧歌的な風景が広がっていた。穏やかな丘陵地帯に、白い塀で囲まれた瀟洒(しょうしゃ)な邸宅が佇んでいる。母屋と納屋が並び、庭には今も花々が咲き乱れていた。


 住み慣れた実家を前に、ようやく安堵の気持ちが湧いてきた。


 だが同時に、こんな時こそ父が――スタインドルフ将軍がいてくれたなら、と胸の奥で古い痛みが蘇った。


「アデーレ、疎開の準備は進んでる? 荷造りのほうは?」


「ほとんど終わってます。あとは父さんたちの――」


「必要なものだけ取って、ここを出るよ。脱出にはティーゲル号を使おう。僕たちには――いや、ベリエには父さんたちの戦車が必要だ」


「…………はい」


 かつての栄光を思わせる石造りの門が、静かに彼らを迎え入れた。

 敷地に足を踏みいれ、門扉に手をかける。


 母屋に行くと、扉の前で使用人のミアが二人を出迎えた。


「おかえりなさいませ、カリウスお坊ちゃん。あぁ……無事で良かった。何度も街の方で爆発が聞こえて、ミアは心配で、心配で……」


「大丈夫ですよ。僕もアデーレも怪我ひとつありません。ミアさんこそ――」


 彼女は生まれつきの心臓病を抱え、顔色が悪く、息も荒い。ミアは荷運びを手伝おうとよろよろと近づいてきたが、カリウスは優しく彼女を座らせた。


「ミアさんは家の中で休んでいてください。荷物のことは僕がやりますから」


「すみません、お坊ちゃんに何かあったらと。あぁ、よかった……」


「そのお坊ちゃんっていうのはやめてください。僕はもう二十歳なんですから」


 カリウスは玄関の扉を開きっぱなしにして、急いで荷物をまとめ始めた。

 衣類、貴重品――帝国軍が迫る中、逃亡のための最小限のものを。


 しかし、台所の棚をひとつ開いたカリウスは、その中を見て唸るような声をあげた。上も、下も、右も左も開けてみるが、唸り声は途切れない。


(不味いな。イワシの缶詰が2つしか無いぞ。首都まで持つか?)


 足元の収納を開けても、中にはいっているのはいつのものとも知れぬ果実酒やジャムばかりだった。カリウスはともかく、ミアの体力が厳しいだろう。


「仕方ない。水だけでも――」そう言って振り返り、テーブルから顔を出したカリウスは見知った人物と目があった。メリナだ。


 メリナは懐に厚紙製のカートンボックスを抱えている。

 ベリエの国章が印字されたそれには「B型携帯食」と書かれていた。


「貴方は民警隊の――どうしてここに?」


「メリナさん!」


「どうせ無駄になるなら、少しでも役立てられる人に渡す方がいいと思って」


「無駄って……それ、軍の食料ですよ」


「そうですよ! 兵隊さんじゃない私たちが、もらっちゃいけないですよ!」


「いいのよ。倉庫に残しといたって、どうせ取られるだけなんだし!」


 そう言って彼女は、携帯食の入った箱を叩きつけるようにテーブルにおいた。


「それより、さっきはありがとう。貴方が指揮を取ってくれなかったら、きっと民警隊は全滅してたと思う。スパイ扱いして……ごめんなさい」


「いえ、そんな……」


 メリナは先の戦闘でカリウスをスパイ扱いした非礼を詫びるために、軍の食料を持参していたのだ。


 だが、アデーレはメリナの言葉の意味を察し、暗い表情を浮かべた。


 「倉庫に残しても取られるだけ」という彼女の言葉は、これ以上エマールは持ちこたえられない、ベリエの敗北を予感させるものだったからだ。


「あらあら、可愛いお嬢さんだこと。ミアはお嬢様方が坊っちゃんを放っておくはずはないと常々思っておりましたのよ?」


「彼女とはそういう関係じゃ……。ついさっき知り合ったばかりです」


「えぇ。私とカリウスさんとは知り合ったばかりですから。こんな時じゃなかったら、お友達になれたかも知れませんが――」


 メリナはふと、居間の壁にかけられた一枚の古い写真に目を留めた。

 そこには、旧式の戦車を背景に、二人の男性が写っていた。


 一人はアデーレの父、アルフレット・スタインドルフ将軍。第一次大戦でベリエの独立を維持した英雄だ。既に故人だが、その威厳ある姿は今も家族の誇りだった。


「……? このもう一人の方は? ナイトメアの方ですよね」


「僕の父です。ゲオルク・カリウス。父は将軍の理論を実践するための戦車を設計した技師でした。でも、僕が9歳の頃、両親は交通事故で亡くなって……将軍が養子として僕を引き取ってくれたんです」


「ご、ごめんなさい! 立ち入ったことを聞いてしまって……」


「いえ、気にしないでください。それより――」


「?」


「携帯食料が保管されていた倉庫に、陸軍の90mm野砲の弾はありますか?」


「確か備蓄があったと思うけど……貴方、やっぱりスパイなの?」


「いえ、90mm砲の弾が必要なんです。できれば徹甲弾も」


「それってどういう……」


 メリナの困惑が疑いの色に染まった瞬間、遠くからぽんぽんと可愛らしい花火のような音が響いた。空気が震え、玄関の窓ガラスが微かに振動する。


「――ッ!」


「あ、ちょっと、どこいくのよ!」


 カリウスは急いで二階に上がり、窓を開けた。街の中心に位置する、ベリエの象徴である時計塔が、爆音とともに崩れ落ちていた。


「砲撃、もう本隊が……!」


 メリナが続いて二階に駆け上がってきた。

 彼女は土煙の中に姿を消す時計塔を見て、言葉を失った。


「嘘……時計塔が!」


「メリナさん、あれを!」


 カリウスの指差す方向、遠くの丘から戦車を伴った帝国兵の群れが街を目指してなだれ込んでくる様子が見えた。戦車と歩兵が波となって街に迫っている。


「不味い。東からだけじゃなくて南からも浸透しようとしている。退路を遮断する気だ。……クソッ、あのトラック、こっちにくる!」


 舗装も満足にされていない土の道を、煙をあげてトラックが迫ってくる。

 ボンネットには帝国の印章。裏からも街の包囲にかかるつもりだろうか。


「一階へ! ミアさんとアデーレを避難させなきゃ!」


「う、うん!」


 トラックはハンドルを切ってカリウスの家の向かいの隣家に停車した。すると後部の仕切り板が降り、幌の中からぞろぞろと、胸当てとヘルメットを身につけた帝国兵たちが降り立ってきた。


 兵士たちはドアを蹴破って中に入ると、すぐに両手に家具や食料を持って出てきた。紀元前から繰り返されてきたおなじみの光景――略奪だ。


 窓にひっついてそれを見ていたミアは「もうお隣さんから卵は届きそうにありませんね」と、冗談なのか本気なのか測りかねる呑気なことを言っていた。


 だが、それも長く続かなかった。

 帝国兵たちはカリウスたちの家を指さした。

 こちらに押し入ってくるつもりだ。


「ああいけませんよ坊っちゃん! 帝国兵がこっちにきます!」


「……納屋に行こう。父さんたちが残してくれたものが、助けてくれるはずだ」


「納屋? まさか、自動車でもあるの?」


「そんな感じですね。アデーレ、ミアさんを頼む! 僕は用意をしてくる」


「ミアさん、こっちに! 薬はちゃんと持ちました?」


「はいはい、持ってますよ。今行きますからね……」


 メリナを連れて納屋の扉の前に立ったカリウスは、鎖でがんじがらめになっていたかんぬきの錠前を外すと、メリナと二人がかりで扉を引いた。


「ちょっとこれ、何よ! 重すぎない?!」


「とにかく押して、頑張ってください!」


 メリナは息を切らしながら、納屋の重厚な扉をカリウスと共に引き開けにかかった。しかし、ただの納屋の扉にしては異様なほど頑丈で、まるで中に何かを閉じ込めているかのようだった。


< ガコン……! >


 午後の陽光が一気に内部へ流れ込み、長い影が床を横切った。埃が金色の光に照らされて舞い上がり、薄闇の奥に巨大な塊の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。


「――何、これ……。」


 メリナは思わず息を呑んだ。

 最初に目に飛び込んできたのは、その質量だった。建物の一部がそのまま動き出しそうな、圧倒的な大きさ。


 戦車だと気づくまでに、数秒かかった。


 次に視線が吸い寄せられたのは、砲塔だった。


 常識的な戦車の砲身とは比べものにならない太さ。去年、ベリエ王国のパレードで見た90ミリ野砲――あれと同じ口径だ、と脳が遅れて理解する。


 そこからようやく細部が見え始める。


 厚く重ねられた装甲板。

 無骨なリベットの列。

 自分の腰ほどもある履帯。


 装甲の表面には、長い年月を物語る擦り傷が走り、鈍い光を返していた。


 メリナの背筋に、ひやりとしたものが走る。


 汗で張り付いた前髪の感触さえ忘れ、ただその巨体を見上げるしかなかった。


 ――こんなものが動くのだろうか。

 ――もし動くのなら、きっと……。


 彼女の思考が形になりかけたその時、背後からカリウスの静かな声が落ちてきた。

 誇りと決意を宿した声音だった。



「父さんたちが作った戦車。――ティーゲル号です」

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