魔王の末裔(3)
カリウスはカフェの窓辺に身を低くし、銃声が収まるのを待った。
街路は一瞬の静寂に包まれていた。帝国兵の先頭集団は閃光で視界を奪われ、壁に寄りかかったり、仰向けに倒れたりしている。
だが、後方から新たな足音と怒号が迫ってくる。威力偵察は本来ここまで戦う必要はないはずだが、敵はまだ戦意を失っていないようだ。
「メリナさん、ガルムさん。いまから分隊を再編成します」
街路をうかがうカリウスは振り向かず、静かに指示を続けた。
「二人一組。バディ制に切り替えます。一人がライフルマン、もう一人が擲弾兵。擲弾兵は火炎瓶を最低三本、可能なら四本持ってください。アルコールより、エーテル燃料入りのものを優先してください」
カリウスの指示にメリナが眉をひそめる。
「バディ? たった二人でどうするの?」
「この状況では、大人数は逆に足かせになります。壁一枚で隣に移動できるエマールの街並みなら、二人一組が最強です。連絡は笛の短音二回、長音一回。敵発見は三回短音。撤退は連続長音三回。覚えられますか?」
ガルムが低く唸るように頷いた。
「問題ない。俺がお前とバディを組む」
「ありがとうございます。ガルムさんは擲弾兵を。僕がライフルマンを務めます。メリナさんは残りの皆さんを二組に分けてください。右翼と左翼、それぞれ一番端のタウンハウスへ移動。一階からではなく、二階以上の窓から敵を狙ってください」
メリナは一瞬迷ったが、すぐに頷いて仲間たちに指示を飛ばした。
カフェの裏口から、武装した市民たちが素早く散開していく。子供や老人はさらに奥の蔵へ退避させ、戦える者だけが残った。
カリウスとガルムは、まず隣のタウンハウスへ壁の抜け穴をくぐって移動した。
古い石壁に開いた小さな扉――元は隣家との行き来用だったのだろう――を抜けると、埃っぽい居間に出た。
階段を駆け上がり、二階の窓際に身を寄せる。窓は半開きで、カーテンが薄く揺れている。下方を見下ろすと、帝国兵が混乱から回復しつつあった。
装甲偵察車Sd.kfz 13が一台、エンジンを唸らせながら前進を再開しようとしている。銃塔がこちら側を向きかけた。
「銃塔がオープントップで助かりましたね。ガルムさん。開口部を狙ってください。僕が周囲の歩兵を牽制します」
ガルムは肩に通したカンバスバッグからエーテル入り火炎瓶を二本取り出し、片方を窓枠に置いた。
「了解。……投げるぞ」
カリウスはM1886を構え、ボルトを引いて照準を合わせた。
旧式とはいえ、50メートル以内の標的なら十分に命中する。
ぱん、と乾いた銃声。帝国兵の一人が胸を押さえて倒れる。
続けて二発目、三発目。歩兵の注意が一瞬こちらへ引きつけられた。
その隙に、別室の窓にいたガルムが火炎瓶を大きく振りかぶった。
「――喰らえ!」
青白い軌跡を描いて瓶が落ちる。狙いはドンピシャ。炎が装甲車のエーテル燃料に引火し、爆発的に広がった。青い炎が車体を舐め、二度目の爆発を起こす。
爆炎で装甲車の右側のタイヤが吹き飛び、車体が傾いて動かなくなる。乗員が出てくる様子はない。間に合わなかったのだろう。
「一台目、撃破」
カリウスは冷静に呟き、次の標的を探した。
同時刻、右翼のタウンハウス群でも火の手が上がっていた。メリナのバディが二階窓から火炎瓶を投げ込み、通りを進もうとした帝国歩兵小隊を炎の壁で分断した。
ライフルマンがその隙に正確な射撃を浴びせていく。左翼でも同様だ。階段を駆け上がり、屋根裏の換気窓から身を乗り出して投擲。隣の家へ移動し、また投げる。
帝国兵は建物の中を移動する敵を捕捉しきれず、混乱を深めていく。二台目のSd.kfz 13が、炎上する僚車を避けようと後退を始めた。だが、カリウスとガルムのいる位置からはちょうど側面が晒されていた。
「来ました。今です!」
「よっしゃ、ここからならいけそうだ」
ガルムが二本目の火炎瓶を投げる。今回はより高く弧を描き、装甲車の上面――機関銃塔に命中した。車体の上を青い炎が瞬時に広がり、くぐもった悲鳴が響いた。
車体は制御を失い、建物の鉄柵に車体をこすりつけるように激突して停止した。残った帝国兵は、火炎と狙撃の恐怖に耐えきれず、じりじりと後退を始めた。
また笛のような迫撃砲弾の音がして、地面の上で炸裂する。
白い煙が街路に広がり、ガルムたちの視界を覆う。煙幕――撤退の合図だ。
エマールの抵抗力を測るという威力偵察の目的はすでに果たされたと判断したのだろう。
カリウスは煙の広がり方を見て、反射的に距離と敵の戦力を測っていた。戦闘が終わったと頭では理解しているのに、思考だけはまだ戦場の速度で回っていた。
(距離280。4門。2個小隊が来てたのか。……数時間後に本隊が来るな)
煙幕の向こうに残った装甲車は射撃をやめて後退を始めた。歩兵たちはお互いに掩護射撃をしながら、煙に紛れて退却していく。街路には、煙のベールが残り、血の臭いが濃く漂っていた。
倒れた人々の呻き声が断続的に響いていたが、そのうち静かになった。
戦いがようやく収束した。メリナは息を荒げ、汗で濡れた髪を払いながら、銃の構えをゆっくりと解いた。彼女の目はまだ興奮で輝いていたが、その震えは肩から手に伝わり、もっていたライフルが手から滑り落ちてしまった。
そもそも彼女は花屋であり戦士ではない。気丈に振る舞っていたが、その必要もなくなり、これまでの疲労が一気に押し寄せてきた様子だった。
戦場の音が遠ざかるにつれ、カリウスの胸の奥に別の焦りが湧き上がった。
(……そうだ、記録しなければ。これは、歴史だ)
気づけばカリウスの足はカフェに向かっていた。
穴だらけになったドアを押しのけ、這うようにして床の上を探る。
戦いの最中には忘れていた、歴史学徒としての役目。
それを思い出したのだ。
だが、見つかったのは、床に散らばった割れたガラス乾板の欠片と、ひしゃげたカメラの残骸だけだった。戦闘の余波でガラス乾板はすべて割れてしまっていた。
カリウスの緋色の髪が乱れ、青白い肌に埃が付着していた。
彼の表情はどこか寂しげだった。記録しようとした歴史は、それもろとも失れた。
誰かの足音が近づく。反射的に身構え、銃を探しかけたその瞬間――
「兄さん……」
アデーレの声が耳に届いた途端、張り詰めていた思考がぷつりと切れた。
妹は震える体で兄に駆け寄り、強く抱きついた。
メガネの奥の瞳が涙で潤み、金髪のショートボブがカリウスの肩に触れる。
「兄さん……怖かった……」
「……無事でよかった」
「うん。兄さんも」
アデーレの声は恐怖に震えていた。カリウスは優しく頭を撫でたが、彼の手もまた、震えていた。自分でも気づかぬうちに、呼吸が浅くなっている。
ガルムは周囲を警戒しながらカフェに戻ると、煙の向こうを睨みつけ、どこか決意に満ちたような重い声で兄妹に向かって言った。
「お手柄だったな」
ガルムの視線には、先ほどまでの警戒とは違う色が宿っていた。
ただの学生を見る目ではない。戦場で肩を並べる者を見る目だった。
彼はカリウスが下ろした手元をちらっと見て、目を細める。
「……手、震えてるぞ。深呼吸しろ。頭の芯がビリビリするだろ」
「あ……はい。」
カリウスは言われるままに息を吸い込む。
肺に入る空気が、わずかに震えているのが自分でも分かった。
「それにはあんまり慣れないほうがいい。恐れを忘れた兵は、すぐ死ぬからな」
「…………」
(……怖い。ちゃんと、怖い。教授の言った通りだ)
震えは止まらない。
だが、それが自分が生きている証だと理解できた。
「落ち着いたか?」
「……はい。」
息を吐いたガルムは、肺に残った空気を全て絞り出すような声で言った。
「これで終わりじゃない。本隊が来る前に逃げろ。エマールは、もう持たん」
その言葉を聞いた瞬間、カリウスは反射的にアデーレの前へ一歩出た。
自分でも気づかぬうちに、彼女を背にかばっていた。
考えるより先に身体が動いていた。
戦術でも、理屈でもない。ただ『守らなければ』という衝動だけがあった。
アデーレは驚いたように兄の背中を見上げ、すぐにその背にそっと手を添えた。
春の風が血の匂いを運んでいた。
本日の投下はここまで




