断章 最後の授業
「では問う。カリウス、お前は童貞か?」
「ぶっ……! な、なぜそんなことを講義で……!」
「落ち着け。これは酒場でするような下卑た話ではない。心の構造を理解しているかどうかの確認だ」
「心の……構造……?」
「そうだ。戦場で兵を動かすのは、命令ではなく『心』だ。
怒り、悲しみ、悔しや、恋しさ――こうした感情が兵士を動かす」
そういって銀魔女は、銀の義手の指先を自分のこめかみに向けた。
「銃をこめかみに突きつけても兵士は動くが、それは本当の意味で動いたとは言えない。一人一人に突きつけて回るわけにもいかんしな」
「……それは、分かります。でも、経験の有無がそんなに?」
「ある。性の経験そのものではなく、自分と他人の距離感を理解しているかどうか。それが指揮官には重要なのだ」
「距離感……」
「人は誰かに触れたいと願い、触れられたくないと怯える。求められれば誇りを感じ、拒まれれば傷つく。その基本さえ知らぬ指揮官は、兵の行動を読み違える」
「……確かに、兵士も人間ですから……」
「そうだ。例えば――恋人への想いが、命令を上回る瞬間がある。指揮官同士の嫉妬が部隊を割ることもある。恥をかきたくないという強がりが、判断を狂わせることもある。私は何度も見てきた。」
「……」
「だから聞いた。お前は人間の心の複雑さを扱えるか、と」
「僕はまだ……分からないことばかりです」
「そうか。知らぬなら学べばいい。指揮官とは、兵の心を扱う者だ。そのために必要な知識が無いことを恥じる必要はない」
「……はい。」
「よし。ではここから発展し、次の問いだ」
「発展ですか?」
「そう。『命令よりも心を優先する』という現象を、意図的なものとする。つまり、『明らかな危険に飛び込める心』とは、どうすれば作れると思う?」
「危険に飛び込む……? それは単に無謀なだけでは?」
「無謀とは違う。恐怖は生存本能だ。それを失った者はすぐ死ぬ。私たち指揮官は、兵士が恐怖したまま死地に進んでほしいのだ」
「恐怖したまま死地に進む、ですか。恐怖は消さない?」
「そうだ。恐怖を理解し、扱い、利用する。」
「利用……?」
「管理された恐怖は判断を鋭くする。感覚を研ぎ澄まし、集中力を高める。問題は、そこで立ち止まるか、克服するかなのだ」
「解ってきました。怖いけどやらなくては、そういう心をつくる?」
「そうだ。死ぬかもしれない恐怖を〝だからこそ、今やるべきだ〟という意志に変換できる者だけが、死地に踏み込める」
「そんなこと、できるんですか?」
「できる。私がこれまでに行った方法は三つだ。」
シャルロッテは義手の指を三本立てる。
「一つ。
『自分の命より重い目的』を持つこと。守るべき者、果たすべき誓い、背負った責任。使命が恐怖を上回れば、人は動ける。」
「二つ。
『死を想定し、受け入れさせる』こと。死を避けようとするものは、それに集中して動きが止まる。死ぬ可能性を理解して、受け入れたものは、普段通り動ける。」
「三つ。
『自分が死んだ後の世界を想像できる』こと。自分がいなくなった後に何が残るかを考えられる者は、死を『選択肢』として扱える。」
そこで彼女はふっと笑った。
「昔、危険な高台に『この先、命知らず共の丘』と看板を立てたことがある。それだけで兵は競って登った。」
「……え、たかがそんなことで?」
「たかだかそんなことでだ。実に危険な知識だろう? だからこそ、これは指揮官だけが扱って良い思考だ。兵に悟られてはいけない」
「……僕は……そんな境地に立てるでしょうか。」
「立てる。お前は底抜けに優しい。優しい者は、目的を持てる。目的を持てる者は、恐怖を扱える。」
「……」
「覚えておけ。『死を理解した者』だけが死地に踏み込める。そうさせる覚悟がないなら、指揮官になるな」
「僕は、死に慣れたくなんてありません。そんなの、人間じゃなくなる……!」
シャルロッテは一瞬だけ目を細める。
怒りでも失望でもない。
むしろ、予想通りだという静かな確信。
「良い。とても良い。死に慣れた者は死を軽んじる。死を軽んじる者は兵を殺す」
「え? さっき覚悟がないなら指揮官になるなって……」
「勘違いするな。私は『死に慣れろ』と言った覚えはない。『死を理解しろ』だ」
「じゃあ、僕の弱さは……」
「弱さではない。性質だ。だから『利用しろ』。死に慣れたくないという恐怖を、判断の基準にしろ。その感情がある限り、お前は無謀にはならない。」
「……」
シャルロッテは椅子にもたれ、煙草の灰を落としながら言った。
「……少々、抽象的に過ぎたな。お前の頭では、まだ腑に落ちんだろう。」
「すみません。僕は……」
「謝るな。理解させるのが講師の仕事だ」
彼女は銀の義手で机を軽く叩き、まるで何でもないことのように言った。
「お前にはアデーレという妹がいるだろう」
「――ッ! どうして……その名前を……」
「それは問題ではない。問う。アデーレのためなら――お前は死ねるか?」
「はい。彼女を守れるなら、僕は……死ねます。」
シャルロッテは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
いうなれば、《《確認が取れた》》という表情。
「それがお前がまだ人間である理由だ。『死ねる理由』を持つ者は死に慣れない。だからこそ死地に踏み込める。」
「死ねる理由があるから、死なない……?」
「そうだ。守るべき者がいる者ほど、死に抗う。」
彼女は煙を吐き、静かに言い切った。
「繰り返しになるが、死に慣れたくないというお前の感情は、弱さではない。アデーレを守りたいという願いがある限り、お前は壊れない。その感情を――利用しろ。」
カリウスは息を呑んだ。自分の弱さだと思っていたものが、シャルロッテの言葉で彼の『芯』へと変わっていく。
「――僕は、アデーレのために、生きて戦います。」
「《《それだ》》。それを兵士たちに持たせろ。死ねる理由を持つ者は、恐怖を握りしめたまま、死地に飛び込める」
アデーレの名を出した後、シャルロッテは煙草を灰皿に押しつけ、ふっと笑った。
だがその笑みは、どこか影を帯びていた。
「――だが、気をつけろ。お前の妹を守りたいと思う気持ちと、妹がお前に求めるものは、必ずしも一致しない」
「……すみません。どういう意味かわかりません」
「お前が死ねる理由を持つのはいい。だが、アデーレは『お前の死ぬ理由』になりたいと望むだろうか。お前たちの間にある、その捻れが、彼女の心を壊す」
「……ッ!!」
カリウスは言葉を失った。シャルロッテは生徒を躾けるように淡々と続ける。
「だから、気をつけろといった。お前の覚悟は、時に守られる側を傷つけてしまう」
「僕は……そんなつもりじゃ……」
「それはアデーレも分かっている。だが、心というものは理屈では動かん。お前が死ねると言った瞬間、彼女は自分のせいで兄が死ぬかもしれないと怯える」
「アデーレを、僕が壊す……?」
「だから、できるだけ早く足抜けしろ。《《これに》》それほどの価値はない」
「できるだけ早くに、指揮官をやめろ、と?」
シャルロッテは肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「千年もやってると、こういう矛盾に慣れすぎてな。馬鹿になるぞ。守るために死ぬ者と、守られたために壊れる者――そんなものを何度も見てきた。」
「教授は……」
「私はもう手遅れだ。だが、お前はまだ間に合う。」
彼女はいつかやったように、銀の義手でカリウスの胸を軽く突いた。
「覚えておけ。死ねる理由より、生きる理由を守る方が、ずっと難しかった」
カリウスは深く息を吸い、静かに頷いた。
「数年後、大戦が起きます」
「起きるだろうな。確実に。」
「その時、教授は……ベリエで戦うんですか」
カリウスの声は震えていた。期待よりも恐怖が勝っている。
彼は知っているのだ。シャルロッテが戦場に立てば、勝利は確実だと。
だが、それと同時に、彼女が戦場に立つということは――
世界が本当に終わりかけているという証でもある。
シャルロッテは煙草をくゆらせ、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は短く、しかしどこか遠い声で言った。
「――戦わんよ。」
「どうしてですか! 教授がいれば勝てるのに……!」
シャルロッテは肩をすくめ、まるで当たり前のことを言うように答えた。
「阿呆。馬鹿。間抜け。私を終末兵器か何かだと思っているのか」
「……すみません」
彼女は銀の義手で自分の胸を軽く叩いた。生徒にやったように。
「私はもう戦えない。戦場に立つ理由がない。死ぬ理由も、生きる理由もない」
「そんな――」
シャルロッテは微笑んだ。優しさでも、悲しさでもない。
ただ、千年の疲れがにじむ笑み。
「お前は何か勘違いしている。私が戦場に立てば勝てる? 違う。私が戦場に立てば――世界は〝私の勝ち方で終る〟んだ」
「……ッ!!」
「それは誰も望まない未来だ。敵も、味方も、そして……お前も」
彼女は煙を吐き、静かに言い切った。
「だから私は姿を消す。戦場に立たぬことが、私に残された最後の仕事だ」
カリウスは震える声で問う。
「教授は……逃げるんですか。」
シャルロッテは笑った。
それは皮肉でも嘲笑でもなく、ただ独りの人間の笑いだった。
「ああ、逃げるとも。千年もやって、ようやく逃げることの価値が分かった」
魔女の生徒は言葉を失った。
恐怖と安堵と、説明できない喪失感が胸に渦巻く。
彼女は立ち上がり、カリウスの肩を軽く叩いた。
「安心しろ。私は決して戦場に出ない。だから――」
「カリウス、お前は絶対に負けない」




