きしむ心
――机上演習が終わった日の夕方。
カリウスは、研究室のシャルロッテのもとを訪れた。
彼女は灰皿を吸い殻で一杯にして、もくもくとタバコの煙を上げていた。
「教授。……ありがとうございました。今日の演習、教授の教えがなければ――」
「礼は要らん」
シャルロッテは顔も上げずに言った。
まるで、当然の結果だと言わんばかりに。
「勝てたのは、お前が私のクソ適当な講義をバカ勝手にアホ曲解したからだ。私は、私にできること以上のことはしていない」
カリウスは少し戸惑いながらも、静かに頷いた。
「……はい。でも、僕は――」
「ただし」
シャルロッテは机の書類をどかし、銀の義手で机を軽く叩いた。
「今日のは机上演習だ。実戦では、もっと厳しい判断が必要になる」
カリウスの動きが止まった。
シャルロッテは振り返り、まっすぐに彼を見た。
「例えば――」
その声は、まるで友人を遊びにでも誘うように冗談めかしていた。
「『お願い、ここに突っ込んで死んでくれる? 作戦の都合でさ』そう言って、兵士を送り出せるかどうか、だ」
唾を飲み込み、彼の喉が上下した。
生徒の性格からして、聞くまでもない。
「……できません。そんな言い方は……いえ、言い方を変えても、僕には……」
シャルロッテは微笑んだ。
優しさではなく、予想通りだという確信の笑み。
「だろうな。お前は優しい。できるはずがない」
カリウスは黙ってうつむいた。
自分の弱さを突かれたようで、胸が痛んだ。
だがシャルロッテは、続けた。
「だが――それは問題じゃないんだ。
必要なら、兵士は死ぬ。
必要なら、お前も死ぬ。
そこでお前が関与できるのは、死を先に進めるか、遅らせるか、
それだけなんだ」
カリウスは顔を上げた。
その瞳には、迷いと、理解と、恐怖が入り混じっていた。
「僕はそれでも……勝つために必要なら……判断します。
ただ――『頼む』とは言えません」
「それで良い」
シャルロッテは静かに言った。
「お前は優しいまま冷酷になれる。それが一番、兵がついてくる指揮官だ」
カリウスの拳に自然と力がこもる。
シャルロッテは、まるで未来を見通すように言った。
「お前は、兵に死を命じる時――申し訳ないと思うだろう。だが同時に、それが必要だとも理解する。その矛盾を抱えたまま戦える者だけが、本物の指揮官になる」
魔女の生徒は、静かに頷いた。
「僕は……その矛盾を抱えてでも、勝ちたい、守りたいです。」
「好きにしろ」
シャルロッテは再び彼に背を向けた。
「お前はもう、机上の軍略家ではない。――戦場に立つ資格がある」
その言葉は、祝福でもあり、呪いでもあった。
◆◆◆
夜。
寮の机に置かれた便箋の前で、カリウスはしばらく動けずにいた。
アデーレに近況を知らせるつもりで、「元気にしているか」と書き出したところで、筆が止まってしまって。
紙の上に、黒いインクの点だけがぽつりと残る。
(……何を書けばいいんだ。)
今日の机上演習のことを伝えるべきなのか。
村を焼き、敵を煙で追い出し、側面から撃ち崩したことを。
いや、そんなことを――この兄が妹に知らせたいはずがない。
アデーレは、彼にとって〝守るべきもの〟の象徴だ。
無垢で、優しくて、戦争の匂いとは無縁の存在。
(あんな戦い方をしたなんて……言えるわけがない)
便箋を前に、カリウスはゆっくりと息を吐いた。
シャルロッテの声が脳裏に蘇る。
――優しい者ほど、冷酷になれる。
(……僕は、本当にそうなっているのか?)
机上演習での自分の判断を思い返す。
迷いはなかった。
必要だと思ったから、村を燃やした。
必要だと思ったから、敵を追い詰めた。
だが――
アデーレにその話をする自分を想像すると、胸の奥が痛んだ。
(アデーレには……こんな世界を知らないままでいてほしい)
彼女の笑顔を曇らせたくない。
彼女の心に、戦争の影を落としたくない。
だから、筆は動かない。
便箋の上で、カリウスの手がわずかに震えた。
(僕は……何を書けばいいんだ)
『元気だよ』とだけ書けば嘘になる。
『軍略の授業が楽しい』と書けば、もっと嘘になる。
彼は、机上演習で人を殺す手順を学んでいるのだ。
それを〝楽しい〟などと、言えるはずがない。
しばらくして、ようやく筆が動いた。
『アデーレへ
元気にしているだろうか
こちらは、なんとかやっている
心配はいらないよ』
それだけ書いて、カリウスは筆を置いた。
これ以上書けば、嘘になる。
これ以上書けば、彼女の世界を汚してしまう。
(……守りたいんだ。アデーレの心だけは)
カリウスは便箋を折り、封をした。
その手に感じる重みは、指揮棒を執った時よりもずっと重かった。
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