彼女の歌声
僕は、音楽に惚れた。
それは、錆びついていた心が、初めて震えた瞬間だった。
今まで異性を含めたすべてのものに対して、触れたいと思うこともなければ、涙腺が緩むほどの強い感動を覚えたこともない。
そんな僕が心を奪われたのは、1つの曲だった。
その日は、何の変哲もない1日だった。
可もなく不可もない、そんな灰色の日々の最中、僕はYoutubeのオススメに現れたその曲を無意識でタップしていた。
再生数は数千回。聞いたことのない名前のチャンネルだった。
コンマ数秒のロードの末、動画が再生される。
イヤホンからピアノの旋律が奏でられたその刹那、視界はふっと反転し、僕は雨の中で立っていた。こんなこと、今までなかったのに。
ずぶ濡れだけど、寒くない。肌を打つ雨粒が心地よい。
心が、音楽が見せているだけなのに、まるで現実のようだ。
隣に、幼い顔立ちの少年がいた。
知らないはずなのに、なぜか妙に懐かしく感じる。
透き通る女性の歌声がメロディーと重なると、少年――いや、曲が語る“親友”は僕の手をとり、走り出した。
土砂降りの街を抜け、まどろみに包まれた森を駆ける。
泥が跳ね、靴も服も汚れていた。それでも彼は走るのをやめない。
やがて木々の隙間に光が見えた。
そして、森を抜けた途端にふいに視界が広がる。
そこは、暖かな日が降り注ぐ柔らかな草原だった。
息を切らしながら立ち止まったとき、彼は微笑んだ。
その表情は設定や歌詞なんて言葉では説明できないほど、確かな温度を帯びていた。
そして彼は、まるで物語上の定めのように、静かにさよならを告げた。
次の瞬間、彼は淡い光の粒になって消えていく。
待ってくれ。まだ一緒にいさせてくれ。
そんな言葉を告げる暇はなかった。
曲はすぐにエンディングに入ると、少しずつフェードアウトしていった。
彼のいた草原は、いつまでも静かに揺れている。
そのまま少しずつ世界の輪郭がぼやけていき、気づけば現実へと帰還していた。
曲が終わって数秒の間、身体は動かなかった。
いや、それどころか呼吸をすることすらも忘れていた。
僕はこの魂震わす衝撃を、生涯忘れることはないだろう。
条件反射のように、Youtubeのシークバーを左端へと戻す。
再びイントロが流れ始めると、僕の前に景色が広がっていった。
先ほどの世界に戻ってくる。
そして先ほどと全く同じ結末を辿る。
それはあまりにも儚い。けど、それが心地よい。
それからしばらくは、貪るようにその曲だけを聴いていた。
他のことをするという選択肢はなかった。
曲を噛みしめるごとに、じんわりと脳裏に景色が焼き付いていく。その瞬間が限りの無い幸福で、心が満たされていった。
部屋の時計の秒針だけが僕を置いて、規則正しく進んでいく。
その音が、妙に遠く感じられた。
何十回もリピートした末に、僕はイヤホンを自分の耳から外す。
そこから見える世界は、イヤホンをつけた時よりずっと鮮やかだった。
今でも曲が頭に染みついて離れない。歌詞もすっかり覚えてしまった。
ああ、世界はこんなにも美しいのか。
そんな陳腐な表現が今はどこまでも愛おしかった。
曲の余韻を味わっていた僕は、はっとしたようにスマホを手に取る。
先ほどの曲。Youtubeのチャンネル名は、○○○。
彼女がどんな人物なのかを知りたい。
彼女のチャンネルには複数の動画があったが、先ほど聴いた曲が最後の投稿であり、それ以降の一年以上更新されていなかった。
彼女のチャンネルに記されていたXのリンクへと飛ぶ。
彼女は今何をしているのだろうか。
少しでも知れたら──そう思った矢先のことだった。
彼女のXを開いた瞬間、タイムラインが一瞬止まった。
固定されたポスト。
その一文で、あんなに響いていた音が世界から消えた。
【お知らせ】
○○○の母です。
12月21日、○○○は病気でこの世を去りました。
彼女は、辛い闘病生活でも「歌があるから」と言い、明るい笑顔を見せていました。彼女が希望をもって生きられたのは皆さまのおかげです。
生前は○○○の応援、本当にありがとうございました。
葬儀はすでに近親者のみでとり行われました。
そんな簡素な文が書かれていた。
それはあまりにも突然で、その事実を受け取ることは出来なかった。
色づいた世界はすぐに闇に飲まれた。
その闇は、心だけを取り残す空洞 へと姿を変えていく。
その時、僕は虚無というものの輪郭を理解した。
暗闇で、彼女を求めてゆっくりともがく。
しばらくして、ようやく呼吸の仕方だけが戻ってきた。
けれど、感情は戻ってこなかった。
気づけば日は暮れていた。
物憂げな身体のまま立ち上がると、冷蔵庫まで歩き出す。
もう料理を作る気力なんてなかった僕は、冷凍食品を取り出すと温める。
何とか皿に盛りつけたのはいいものの、箸が重く、食事が上手く喉を通らない。
結局、中途半端に食べ残して、残りはラップをかけて冷蔵庫に入れた。
無気力に乾いた体が、慈雨を求めるかのようにイヤホンを手に取る。
また、メロディーが流れだした。
けれども、それは今まで何度もこの曲を聞いてきた中で、最も短く感じた。
最後の音が鳴り終わったその瞬間に、一滴の雫が頬を伝う。
その時、否応なくすべてを理解してしまった。
ああ、もう彼女に触れることは二度とできないんだと。
胸の奥で、何か大事なものを落としたような気がした。
それが何なのか、すぐには分からなかった。
世界に、彼女の歌声はもう存在しない。
その事実だけが、胸の内側にゆっくりと沈んでいくようだった。
引き上げようとしても、指が届かない。
僕は、またあの曲を聴く。歌詞が流れ出す。
曲に登場する親友は、泡沫のように消えてしまった。
彼女も、同じだ。
もう、この世界にはいない。
彼女がいるからこそ輝いて見えた世界なのに、その瞬間にはもう彼女が存在していないとは何たる皮肉だろうか。
僕と彼女を唯一繋ぐものは、残された曲だけだった。
それからというもの、僕は彼女の曲を聴き漁っていた。
音楽という繋がりでしか彼女を知らない僕にとって、できることはそのくらいだった。
音楽と触れ合っている間は、自分が現実から切り離されたように感じられた。
ただ彼女を偲んでは、生きた記憶が風化しないようにし続ける。
人はいつか死んでしまったことすら、忘れ去られてしまう。
気が遠くなるような年月を経てしまえば、名前すら残らないんだろう。
それは、彼女も僕も例外ではない。
けれど、せめて僕が生きている間だけは、彼女は僕の中で歌い続けてほしかった。
そんな思いを抱え、気づけば季節が何度も巡っていた。
その間、彼女の曲を聴かなかった日は1日としてなかった。
そして今日、ようやく言葉にしようと思って、僕はこの文章を書くことにした。
初めてあの歌を聴いた日から時は流れ、高校生だった僕は来年の春から社会人だ。
この数年の間、色んなことがあったが、心のどこかにはいつも死があった。
命が儚くて、ある日忽然と消えてしまうことを僕は知っている。
だからこそ、家族と、友人と、後悔がないように生きてきた。
ふとカレンダーを見ると、赤丸をつけられた今日の日付が目にとまる。
今日は12月21日。彼女の命日だ。
外では、粉雪がしんしんと降り積もっている。
いつも通りイヤホンをつけると、あの曲を流す。
僕がこの文章を書くに至った理由は極めて単純だ。
僕の死後も彼女の歌が消えてほしくないから。
彼女は僕の光であり、支えだった。もはや生きる理由と言ってもいい。
今、この文章を書くのは彼女を悼む気持ちだけじゃない。
そこにはきっと僕自身のエゴも含まれている。
けれども、それでも良い。
彼女の旋律を、僕の文章に刻む。
それが僕の生きたシルシであり、彼女の生きたシルシになるから。
僕はきっと、愛とも恋とも違うこの感情を抱え、これからも歩き続けていく。
イヤホンから流れる曲は終わりを告げると、次の曲へと繋がっていった。




