バルザーク、結月の母と会う
朝の光が差し込むなか、田中晴香は寝ぼけた頭でリビングの扉を開けた。
キッチンから漂う、朝の“焼けた匂い”と湯気の奥――
信じられない光景が目に飛び込んできた。
黒の軍服に深紅のマント。その上からピンクの花柄エプロンをまとった、堂々たる男が一人、フライパンの前に立っていた。
(……夢でも見てるのかしら?)
男は真剣な顔で、フライパンと向き合いながら呟いた。
「……なるほど、この“黄身”とやら、崩すと美観を損なう。繊細な魔獣だ……」
一瞬、声をかけるのをためらったが、晴香は恐る恐る声をかけた。
「おはよう〜……」
男がこちらを振り返る。その目にはわずかな警戒が宿っていた。
「……何者だ」
いきなりの問いに、晴香は少し戸惑いながらも笑みを浮かべる。
「結月のママだけど〜。あなたは、だれ〜?」
男の表情がぴたりと止まる。そして、すっと背筋を伸ばした。
「……なるほど。母君であったか。これは失礼を」
そのまま一歩前に出ると、胸に拳を当てて堂々と名乗りを上げた。
「――我が名は、バルザーク・ヴァルト=ヘルフェン。魔王軍第四実行部隊総帥にして、魔王様の忠義の剣だ」
あまりに壮大すぎて、晴香は一瞬呆気にとられる。
「へぇ〜、なんだかすごい肩書きだけど……つまり結月の友達ってことでいいのよね?」
「友ではないな。――そなたの娘・結月は、我がこの世界で最初に出会った“導き手”だ」
その言い回しに、晴香は思わず吹き出した。
「なにそれ、かっこいい……けど、ちょっと、中二病くさいかも?」
バルザークは言葉の意味を気にする様子もなく、真顔でうなずく。
「うむ。“ちゅうにびょう”……この世界で高貴なる者に与えられる称号か。ありがたく頂戴しておこう」
その背中は、なぜか誇らしげだった。
ジュウ、とフライパンから音がして、香ばしい匂いがキッチンに広がる。
「――うむ、これでよかろう」
彼は満足げにうなずき、目玉焼きを崩さぬよう慎重に皿へ盛りつけた。
(あら、ちゃんとできてるのね……)
晴香はふっと笑みを浮かべると、キッチンの棚からカップを二つ取り出した。
「ふふっ、上手にできたわね。じゃあ、コーヒー淹れてくるわ。ちょっと待ってて」
湯気とともに香り立つコーヒーを注ぎながら、晴香は彼の様子をちらりと見る。
バルザークはすでにテーブルに皿を置き、エプロンを外して椅子に座っていた。その動作ひとつひとつに、どこか舞台俳優のような威厳が漂っている。
「……もしかして、結月のために作ったの?」
その一言で、彼の手がぴたりと止まった。
「……ふむ。これはあくまで、“食の修練”の一環。我が魂を鍛える試みであって、誰のためというわけでは――」
どこまでも真面目な口調。だが、ほんの少しだけ早口になっていた。
晴香はその様子にくすっと笑いながら、コーヒーを渡す。
「そっか。でも、結月きっと喜ぶと思うな。こういうの、分かりやすくて可愛いから」
彼はその言葉に反応せず、ただ静かにマグカップを見つめていた。
「結月ちゃんと仲良しなのね~」
そう言った瞬間、ほんの少しだけ、バルザークの肩が動いた気がした。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ママァーッ! 朝ごはんできてる!?」
息を切らせて結月がリビングに飛び込んできた。
「え? ちょっ、ちょっと!? なにバルザークと仲良く喋ってんの!?」
驚きと焦りが入り混じった顔で、晴香とバルザークを交互に見つめる。
一瞬、言葉が出てこない。口をパクパクさせたあと、ようやく絞り出すように口を開いた。
「……いや、違うの! ママが帰ってきたときに説明しようと思ってて……! こ、こいつ、じゃなくて……この人、海外から来たんだけど、めちゃくちゃ困ってたの! それで、アタシがちょっと、助けてあげたっていうか……!」
(まあ、変っていえば変な人だけど……)
目の前の男は、軍服にマントという謎の組み合わせで、どう見ても普通じゃない。
けれど、今にも泣きそうな顔で懸命に言い訳する結月の姿は、どこか楽しそうで――
(……まあ、いいか。あの子が楽しそうなら)
晴香は小さくため息をついて、ふっと笑った。
バルザークはマグカップを一口すすった。
「結月、何を焦っている。第一従者がそのようでは、主君である我の技量も疑われるのだぞ」
「黙ってて! それと従者じゃないから!」
そのやりとりに、晴香はコーヒーをすすりながら微笑んだ。
結月がトースターに食パンを入れる。
「……えっ、うそ。もうこんな時間!?」
結月が壁の時計を見て声を上げた。
「やばっ、完全に遅刻コースなんだけど!? バルザークも、なんで起こしてくれないのよ!」
「む? そなた、昨夜“うるさいから起こすな”と布団にくるまって宣言していたではないか。我がスマホで演説を見ていたときにな」
「それは真夜中だったからでしょ! あんたが動画をずーっと見てるから思わず言っただけじゃん!」
晴香は楽しげに笑う。
「あらあら、もしかして二人って――そういう関係?」
「ち、ちがうから!! ないから! 絶対に!!」
結月の叫びをよそに、晴香はふっと笑ってテーブルの皿を指さした。
「ほら、目玉焼き冷めちゃうわよ。せっかくバルザークさんが結月のために作ったんだから」
その言葉に、娘はぴたりと動きを止めた。
「……え、いや、でも……時間ないし……」
そのタイミングで、トースターから「カチャン」と音を立ててパンが飛び出す。それを皿に乗せた結月がぶつぶつ言いながらも、しぶしぶ椅子に腰を下ろし、目玉焼きにフォークを伸ばす。
一口、もぐ。もう一口、もぐ。
(あら……)
晴香はコーヒーをすすりながら、その様子を見つめる。頬をほんのり赤らめながら、娘は言った。
「……ふつうに、美味しい」
それを聞いたバルザークは、何も言わずに腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。けれどどこか、誇らしげだった。
「……ごちそうさまっ!」
結月は勢いよく立ち上がり、鞄を肩にかけて玄関に向かっていく。
「いってきます!」
「――行ってまいれ、我が従者よ」
「だから違うってば!」
ドタバタと玄関の扉が閉まる音がして、キッチンに静けさが戻った。
晴香は残った湯気の中で、微笑みを浮かべた。
(ふふ……いい朝だわ)
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