星の加護クズおじさん前書き&後書きに溢れ出る
一ヶ月前のことである。
天地神明、キリスト、仏陀、それに加えその他諸々それっぽいもの軒並み全てに誓って必ず守ると、この命をかけて必ず守ると、そう心に固く固く決めていた、その対象たる冬美と二人の娘(姉の夏緒と妹の春子)が出て行った。そして、タノスケは一人ぼっちになった。
タノスケは生粋のアル中で暴言とグズりの常習犯。おまけにマッチングアプリを駆使した重度の浮気性でもあり、では浮気するからには金はあるのかといえば慢性不治の金欠病で、そのくせ労働意欲も就職意欲も、家事意欲までも完全に皆無。さらには日頃から上から目線でアレコレ言う醜癖をもっているのにも関わらず極めての低脳(高校生時代、唯一受けた模試の結果は群馬で下から二位)にできているのである。だから言ってみれば、その薄汚れた心身を酒と凶暴性と面倒臭さと性欲と堕落とアホでもって佃煮みたく煮つめて出来上がった男、それがタノスケという男なのである。
なので畢竟、これからこの手記を書き進めるわけだが、そんなものはどう取り繕いながら書いたって所詮、佃煮野郎によるザレ言タワ言の羅列にすぎないものになる。そういう下賤ものにならざるを得ないのである。だからこんなの書く方も読む方も紛れもなく人生の貴重な時間をムダにするだけの、つまりそれは最も反生産性的な、最も反コスパ的な、最も反SDGs的な、まさに命の無駄遣いそのものとなること必定の沙汰なのである。
と、十分に警告した上で話を始めるが、妻子に捨てられたタノスケは、家で一人ぼっちの生活をおくっていた。そして、起きている間中ずっと酒を呑んでいた。体重も増え、肌も荒れ、外見ばかりでない、内面までもがますます醜くボロボロになっていた。
不安とさみしさに身悶えながら、タノスケはつくづく、自分は失敗した、と思う。冬美に見捨てられるようなことはせず、大人しく生活していればよかったと思う。逃した魚は大きなシロナガスクジラだった、というやつだ(そんな諺はないが)。
そも、タノスケは〝愛の星〟の下に生を受けている。ゆえに、本来自分は実に愛情深く、宝玉のごとき輝きと艶を持つ男であると自分分析&自分認定でそう思っている。ただ、その深すぎる愛情が自分へと向かってしまい、自己愛にまみれたウザ過ぎる承認求めムーブとなったり、また時には、その深すぎる愛情が博愛へと転じ、マッチングアプリを駆使した色妖怪ムーブとなって現れたりしてしまうことが、タノスケ自身、実に玉に傷心地だというのである。
反省のため振り返ってみると、妻冬美が自分の元を去ったのは、それは本人から確と聞いたわけではないが、おそらくは先に述べたそれら、タノスケの愛情の、その発露のさせ方を誤った二つの醜悪ムーブ(承認欲の暴走と性欲の暴走)が因となったのだと思う。そして、長きにわたり生活を共にしていた中で感じた様々な感触から推察するに、おそらくは、ほとんど九割以上、捨てられたその主要な因は、性欲が暴走した果ての色妖怪ムーブの方であると思う。
━━恐るべし! 恐るべし! 性欲、恐るべし!━━
性欲とは本当に恐ろしい、脳を狂わせる、人生を狂わせる恐ろしいものだ。震えながらタノスケは巨大台風か地震にでも遭ったかの表情でそう思う。
今、冷静になって考えると、冬美ほど素晴らしい女性はいないし、マチアプで出会った女性たちほどくだらない女性たちはいなかった。もちろんマチアプの中にもまともな女性というのは大量にいるだろうが、このふざけた、舐めきった態度と不誠実な心根が隠しきれずに終始表情から滲み出てしまっているタノスケみたいな男を相手にするようなマチアプ内女性なぞ、揃いも揃ってロクなものではなかったのである。
例えば、自称二十才だがどうみても六十才くらいのカップ焼きそばとメロンソーダだけで生きているという超偏食の超不健康な肌質信玄餅なババアとか、自称ブラジル人で常にカーニバル疲れしてると何故かアピってくる太りすぎ踊りすぎ汗かきすぎのあまりにリオディジャネイロな女とか、または、びっくり人間コンテスト級のビッゲストな乳輪をもち、その周りにびっしり生えた剛毛がロン毛に伸び過ぎて、しかもまさかにそれらが絡まり合い、まるでいくつもダンゴムシが丸まって黒光っているように見える、天然ダンゴムシ黒数珠女とか、挙げればキリがない、ほんとに、マジでほんとに、唯の一人としてロクな女性はいなかった。
それなのに、とタノスケは考える。なんであんな奴らのために大事な大事な妻冬美との時間を犠牲にして、散々ぱら今となっては無駄打ちとしか思えぬ汚液連射の激醜な恥愚行を繰り返ししでかしてしまったのだろう。そして何故それらの証拠を隠しきれず、軒並み全部冬美にバレてしまったのだろう。これはほんとに決して取り返せぬ痛恨の大失態である。
タノスケの目は涙に滲む。交際期間の一年と、同居してからの十年。冬美との思い出は合計十一年分もあるのだった。
思い返すと、出会って程なく冬美は自分はシングルマザーで小さい娘を二人育てていることを告げてきた。それに対し、責任感も常識も見通しも全て皆無なタノスケは
「何も問題ない」
と即答で応じ、冬美を花のような満面の笑顔にさせたのだった。そして、この冬美の好反応に男としての自信を深めたタノスケは、珍しく交際に際し好スタートを切ることができた。また、その影響もあろう、当時生まれたてに等しいくらいの赤子だった春子はただキョトンとしているだけだったが、三才の夏緒はすぐに懐いてくれて本当にうれしかった。
そして、その幸福な面会を境に、タノスケはちょくちょく冬美のアパートへと遊びに行くようになったのだった。
その当時、冬美はワンルームに住んでいた。そこで幼い夏緒と春子を一人で育てていた。ベッドはなかったと思う。就寝時は布団を二枚敷いて、そこで三人は寝ていたと思う。十年以上前の話だ。記憶は曖昧な部分が多いのだが、八畳か、六畳くらいしかない部屋だったと思うが、しかし、どう思い返しても不思議とその部屋が狭かったという感じはしない。ベッドだけでなく、ソファやタンスなどもなく、収納はクローゼットのみだった。それに、テレビもなかった。色々無かったから、広く感じたのかもしれない。
前夫と別れ、また、実家にも帰りにくい事情があったようで、その部屋は母子が急場を凌ぐための仮住まいのような感じだった。
前夫との間に何があったのか、タノスケは今日に至るまでその詳細を知らない。
というのも実はタノスケは〝アロマティックウォリアーの星〟の下にも生を受けており、その星の加護の影響ですっかりスカンクムーブが板についているのだ。つまり簡単に言うと、ただの根性無しの屁タレ野郎なのだ。だから興味本位で前夫のことを根掘り葉掘り聞くのが恐いのだった。
そも、自分よりも社会的に無価値な人間というものはそうそういるものではないとの自覚を持つタノスケは、もしも前夫の話を聞けば、それをキッカケとしてあらゆる比較が自分だけでなく冬美の内心においても目まぐるしく展開されるような気がして、いや、きっとそうなると確信して、となればその前夫とタノスケに関する数々の比較において連戦連敗の憂き目にあうと、そう予想しているのだった。
〝生粋無頼アーティストの星〟の下にも生を受けているタノスケは、自分は浮世を対岸にして冷めた目でそれを眺めるのが常であり、だから世間的価値基準などとはまったく違う物差しでもって自分を測り、そして自分を肯定することができるぜと、そんな感じのことをバカ面のまま、言わなくてもいいのに、時には無理矢理に機会をつくってしきりに外部に向け吹聴している浅ましさであるのだが、しかし実際、現実の彼は、世間が差し出す物差しを生粋無頼アーティストのごとく唾棄してたたき落とす度量も叡智も才覚もなく、引きつり笑いに口元を歪ませ、かつ、両の手を震わせながら拝するようにして受け取ったその、収入とか地位とか学歴とかいった〝世間の物差しコンプリートバージョン〟を客観的に見れば異常なほど狂騒的に、しかし自身としては受け取った時の困惑もすっかり忘れて嬉々としヨダレ垂らしながら、誰かや自分に当てがい、もってミリ単位正確に計測することをやめられないのだった。測ればもれなく自尊心が傷つき、そのために温かな笑いからは遠ざかり、それによりどんどん余計に性格だけでなく頭までも悪くなっていくとの実感があるのにも関わらず、どうやら大元の因らしきその物差しをどうしても手放せない、命綱のように手放せない、タノスケはそういう哀れでバカで無能な、アートの対極にいる男なのだった。
そういう男だから、タノスケは冬美の前夫のことが盛大に気になりながらも、情けないがそののことを冬美に聞くことできないのだった。これから比較されるぞと、そしてその比較の後、劣等の判定を受けるぞと予期したときの、あの真空宇宙の中に放り込まれて息ができないような完全停止の地獄心地が、この愛しき冬美との間に現出すること、それはどうしても避けたいし、想像した絶対に逃げたいとの脱兎心地なのだった。いや、脱臭鼬心地なのだった。ちなみに臭鼬とはスカンク(アロマティックウォリアー)のことである。
んな話はいい。
話しを続けるが、そういえば、冬美たち親子三人が暮らすその部屋にテレビがないことに気づいたタノスケは、昔自身が使っていたポータブルDVDプレイヤーという、スマホ全盛の今から思うと随分と懐かしいものを夏緒と春子にあげたことがあった。それはタノスケの使い方も悪かったが、たしかに経年劣化もあり、画面の角度を固定することが不自由になっているものだったが、背後を壁とかペットボトルとか何かで固定すればまだ十分に使えるから、差し入れれば、特に四才の夏緒が喜ぶと思ったのだった。
冬美に連れられて来て、初めて会った時から夏緒はタノスケにアレコレたくさんお話をしてくれた。そしてその話の中にはアンパンマンが頻繁に登場するのだが、話をよく聞いてみると、どうやら夏緒はアンパンマンをアニメで見たことがないような感じだった。保育園のお友達から聞かされる断片的情報が無秩序に蓄積するも、正式なアニメを視聴することによる補正が効いておらず、夏緒が語るアンパンマンの世界観や設定にはどこか微妙に違和感を感じるものがあった。これにどういうわけかタノスケは妙な哀れみのようなものを感じると同時、夏緒のその状況を補正したいという欲求をも持ったのだった。この時感じた哀れは〝同病相憐れむ〟の、あの時に生じるあの感情だと、後年になってそうタノスケは思い出すのだが、同時にその時はそれに加え、人徳の塊のような冬美のもとですくすくと健全に育ち、あっという間にタノスケの精神年齢を超えていた夏緒に対し、あの時自分はなんて不遜な感情を抱いたものかと、そんな嬉しいような温かい羞恥も同時に感じることになるのだった。
ポータブルDVDプレイヤーをあげる前に、タノスケは家電や本やおもちゃなどの中古品ばかりを扱う、いわゆるリサイクルショップに行った。その店の子ども用品コーナーに行くと、子ども向けDVDが大量にあり、もちろんアンパンマンのものもたくさんあり、どれも安かったが、その中でもとりわけ安いものを、質よりも量だ作戦で十枚ほど買い、タノスケはそれを夏緒にプレゼントしたのだった。この時、春子はまだハイハイだったためか、受け取り、眩しいほどに輝いた表情は、夏緒のそれしかタノスケの記憶にはない。
タノスケはその夏緒の顔を見て、そして、食い入るように画面に向かう夏緒と春子の二人の小さな背中を見ているうちに、急激に、この薄情冷血な自分のどこに蔵されていたのかと戸惑うほど膨大な量の愛情が心奥より噴き出し、それがそのまま凄い勢いでもって二人へと流れ込んでいくのが感じられた。そして、その愛情は大人の女性に対して抱く愛情とは根本的に異なる感じのもので、それはどこまでも朗らかで温かで、それ自体愛しかった。また、今までの人生、相手から自分へと流れ込んでくるものを求めていたところのあるタノスケであるのだが、そういうものではなく、自分の中に埋蔵されていたものが発掘され、噴き出し、そのまま相手へと流れ出て行くというこの現象、これそのものが、タノスケには人間が体験できる最上の幸福の一つではないかと思われ、そう思うと次第にタノスケの鼻は赤く染まって目は潤み、身体は最も中心に近い部分から温まり始め、小さく震え出しもし、それはいつまでも止まらないのだった。
これだけ聞くと、美談というか、ちょっとタノスケという男は、意外にもまともな男だという評価も生じ得ようが、それは早とちりの大誤解というものである。なぜといえば、実はこの最上の幸福期間中にも、ゲスクズタノスケは、お得意醜悪の色妖怪ムーブを停止することなく繰り返しており、実際、もうあと一押しでピストン関係にまで持ち込めそうな女性に対する小当たり活動を冬美に隠れて毎日繰り返していたのである。
そうだ、マチアプ女性に起因したあの醜悪な出来事も、たしか、その頃のことだった。
あれも冬美のワンルームアパートでのことだった。夏緒と春子は部屋にいなかったから保育園に行っていたのだろう。
それは突然だった。愛しき冬美の目を盗み、色妖怪よろしく穴があれば誰でも式アプローチを繰り返した結果、一人の女性とピストン関係になれそうな雰囲気をタノスケは敏に確に感じていたのだが、それが突然、なんの前触れもなくフラれてしまったのだった。
そして、今後は一切連絡も取るつもりもない、という非情なメッセージをタノスケはこともあろうに冬美のアパートで受け取ったのだった。
このメッセージを見た瞬間、タノスケは足元が崩落するほどのショックを受けた。おそらく、もしもその女に対し既にして十分しつこくピストン済みであったならば、そこまでのショックは受けなかったと思うのだが、その時点でまだ一度もタノスケ必殺の〝タノスケ式がむしゃらキツツキ風一つ覚えピストン〟を炸裂させられておらず、その段階でフラれてしまったからタノスケにとってそれはあまりに大き過ぎるショックで、到底受容不可能だったというのである。
全身から暗黒漆黒のドス黒い悲壮感を全開に出しながら力なくタノスケはうずくまった。そして十二ラウンド戦い切ったボクサーのごとく力なくがっくりとうなだれた。この突然の光景に事情を知らぬ冬美は驚愕の顔で駆けつけ
「どうしたの? 何があったの?」
と繰り返し、優しく気づかってくれたのだが、何があったかなぞ間違っても言えるはずがないので黙っていると、突如冬美はうなだれるタノスケの頭を自分に胸に抱き寄せたのだった。どうやら冬美は、タノスケの沈黙を、そんなはずないのに、あえて苦しみを口にしないで堪える昭和の男ムーブと取ったらしく、左手でタノスケの頭を抱きながら、右手でしきりにタノスケの背を撫でてくれたのだった。この優しさに対しメンタルボロボロの、というか単に甘ったれのタノスケは呆気なく嗚咽号泣の方向へと舵を切ったのだった。
その時の、頬にあたる柔らかいセーターの感触と、そのセーターが白だったから、ふと、涙や鼻水で汚れないかなと心配になったという自身の紳士的配慮(マチアプ浮気をしておいて紳士的配慮も何もないものだが)をしたことをタノスケは今でもやけにはっきりと覚えている。
で、それでタノスケの苦悩がすっかり癒やされたのかといえば、冬美には大変申し訳ないが、少しも癒やされなかった。後に〝グズり王〟の二つ名すら拝するタノスケである。そのタノスケが発しているところの色妖怪執着に起因する苦悩の表明なのである。グズった果ての彼の泣きじゃくりはその程度で癒やされ収まるような、そんな生半なものではないのだった。
で、この時、後から思えばタイミング悪く、タノスケの携帯が鳴った。携帯に電話をかけてくるのはそも親くらいしかいないし、先日親にある頼み事をしていたので、瞬間タノスケは、
━━この電話は親に違えねえな━━
と思った。
実はこの時、タノスケの二つ上の兄がちょっと精神を病んでいて、両親はそれを大層心配していた。で、それを、だいぶ以前のことだが知った当時のタノスケは、
━━これは使える!━━
と直観し、以来、金に窮すると各種熟練の匂わし技巧を駆使し〝ちょっとお金に困っていて、このままだとそのストレスのせいで僕、兄と同じ病気になっちゃうよ感〟を出しながらお金を無心するという親のスネカジカジムーブ繰り返していたのだった。
で、この、相手の心の脆弱部分を巧みについた駄々っ子無心攻撃の効果は覿面で、タノスケは親から、なるべく早くお金を用意して口座に入金するね、との言質を簡単に引き出すことができるのが毎度であったのであるが、その直近のカジカジムーブ発動が昨日のことだったのである。だから、今かかってきた電話は親からであるとタノスケはそう予想したのである。
出てみると予想通り、母であった。そしてその内容も予想通り、入金が完了したことを知らせるものだった。だが、このとき唯一予想から外れていたのは、冬美に抱き締められながら電話越しに聞いた母の声に、どういうメカニズムか知らぬが、心のダムが更に完全に決壊した形になり電話口でもって、先ほどまでの泣きじゃくりを大きく上回る号泣嗟嘆の声を上げてしまったのだった。
母も「どうしたの?」としきりに心配したが、母にも言える話ではないので適当に誤魔化し
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、またね」
と言って急いでタノスケは電話を切った。しかし、一度決壊したものはもう止めどなく、涙と嗚咽は濁流のように止まらないのだった。
このタノスケ様子に冬美は、しんみりした調子で、
「やっぱ、お母さんには勝てないな」
なぞ、タノスケにしてみれば意味の分からないことを言った。タノスケの心には、自分を散々バカにしながら育てた母親への恨みがいい年してもなお熾火のように消えておらず、そのような者の言葉で心が掻き乱されるなぞ、あり得ないことだったからだ。
━━この嗚咽は母の影響ではない━━
タノスケは自分ではそう念じながら泣いていたのだった。だからタノスケには冬美の「やっぱ、お母さんには勝てないな」という独り合点の呟きはひどくトンチンカンなものに感じられ、思わずプッと吹き出しそうにすらなったのである。しかし、この状況で笑い始めようものなら冬美もさぞ困惑するであろうし、だから、その笑いにより生じた小刻みな震えを嗚咽の震えであると偽装しながら無理にも抑え、人知れず呼吸を整えると、タノスケは再び、今度はいっそ意図的に、号泣モードへと突入していったのだった。
すると、すぐにまた折り返しみたいなタイミングで再び電話がかかってきた。今度は父からであった。
「がんばれ! がんばれ!」
出るなり、父はそれだけを繰り返し力を込めて言ってくる。そのあまりのバカバカしさに(そも、隠れて浮気しようとしたが既遂に至らずフラれて泣いているタノスケが圧倒的に一番バカだが)タノスケは、
「うん」
とだけ冷たくいい、今度こそ絶対に電話に出ない決意を固めながら電話を切った。
この、あまりに興醒めの展開により、怪我の功名的効果としてとりあえず嗚咽は収まったタノスケだが、しかし、一度大きくバランスを崩した心の不安定はまだ収まっていなかった。
だから、と言っては短絡的だが、しかし、現実として、次にタノスケの口をついて出てきた言葉は唐突で冷血で自暴自棄な言葉で、それは
「冬美ごめん。もう僕たち、別れよう」
というもの。驚愕に目を見開く冬美の隙をつくかたちでタノスケは冬美の手を振りほどき、次の瞬間、玄関を飛び出した。だが、これはもちろん、冬美に止められることを見越しての、絶妙にスピードを調整した大層爆発力に欠ける飛び出しである。
んで、果たしてこの激ウザムーブに、冬美はまんまと引っかかった。タノスケの背を追い、履き物も履かずに玄関を飛び出し、アパートの共用階段付近でタノスケの左腕を彼女にしてみればギリギリのタイミングでなんとか取ると、思いっきり引っ張り、胸に抱き込むようにして抱えたのだった。そして腰は低く低く、重心を落とし、決して行かせないとの決意を満々に漲らせたのだった。
そして、冬美は頬全体を桃色に染め涙目キラキラ、可愛らしい涙声でもって
「帰ろ。ね。帰ろ」
と、懇願してきたのだった。
この苦しそうな表情に、タノスケは急激に気分が晴れ心地。人を苦しみの谷へと突き落とし、その者の苦しみをまじまじ観察することで自身の苦しみを癒やすという、こんなのは異常者レベルのゲスカスムーブに違いないが、その内心の内幕が冬美にバレていないのだから、タノスケの心は一向に痛まないのだった。何故といえば実はタノスケ、〝ポジティブシンキングの星〟の下に生を受けており〝バレなきゃなんでもいいでしょ主義〟を不動の信念として生きているところがある男なのである。
ともかく、んなわで、すっかり機嫌を直したタノスケであったが、先ほどまで醜態が繰り広げられた、その陰鬱な空気が残る部屋に戻るのも何だか気ぶっせい心地。だから、
「そうだ、冬ちん。よく行くドラッグストアの近くに最近オープンしたラーメン屋あるじゃん? あそこ行ってみようよ!」
と提案した。その提案に冬美は即座に同意し、一旦部屋に戻り、履き物と上着と財布だけ持つとすぐにタノスケの元に戻ってきた。
道中、見上げると雲はデコボコで、その歪な形と、あと夕日の差し込む角度のためだろう、やけに明るい部分と、やけに黒い部分が一つの雲の中に混在していた。感受性とアート的素質がゼロなタノスケはそれを指差し、
「見て。何だか気持ち悪いね」
なぞ言い、チラと横を見て冬美に同意を求めたが、冬美は夕日をいっぱい浴びた顔でタノスケを見上げ、ニッと、向日葵のような笑顔になった。そして次の瞬間、冬美は空へと向けているタノスケの指を摑もうと、両の手を伸ばし、えいっとジャンプをしたのだった。タノスケはそんな冬美の行動に虚を突かれた形となり、指を掴まれながら、
「おいおい、何だよ」
と言ったのだが、何故かタノスケはその時、気持ち悪いと評した、先ほどの自身の言葉を、悲しい、後悔の気持ちが纏わり付いた取り消したい言葉として、心の片隅にくくりつけたのだった。
店に着くと、タノスケはラーメン二杯とチャーハン一つ注文した。もちろん支払いは全額冬美持ちであり、チャーハンは自分で全部食べるつもりである。
ほどなくして目の前にラーメンとチャーハンが置かれた。変にテンションが上がっているタノスケはおどけて食べ始め、ふざけた感じで勢いよく啜ったから麺の一本が鼻の穴から出て、二人は一瞬息をのんで見つめ合い、大笑い。店内のテレビではニュースが流れていて、今外国で起こっている戦争の映像が流れている。泣きながら逃げ惑う人々や殺された人々の映像が映った。だが、そんなの二人には無関係。タノスケはこの鼻から麺が飛び出たおもしろ状態からさらに冬美を笑わせるボケが何かないかと、涙目に大笑いしながら必死に考え続けたのだった。
それがタノスケにとっては冬美との、幸せな外食の記憶である。あの日、実はタノスケはフラれて取り乱しただけだと、その隠された事実を知ったならきっと冬美は怒るだろう。後ろめたい記憶ではあるのだが、ラーメン屋でおもいっきり笑い合えた、タノスケにとっては、それはやはり幸せな記憶である。
外食ばかりではない。食でいえば、冬美の手料理にも色々と思い出があるが、もっともよく覚えているあれはいつのことだったか。記憶を探ると、あれも冬美のアパートでのことだったようである。
あの頃、夏緒と春子は近所の保育園に通っていた。よくは知らぬが、保育園は、幼稚園とはその担う社会的役割が若干異なるようで、基本的に保育園は保護者が働いている間こどもを預かるシステムになっているらしい。そのため、勤務が終わったらスーパーで買い物なぞもせず、直接お迎えに来るのが基本とのことだった。もっとも、実際の運用においてはある程度、保護者の労働環境、育児環境の実態に即したものになっているのだが、原則としては買い物もせぬ内に職場から直行でもってお迎えに行かねばならぬという決まりだし、また、とすれば当然に、もしも保護者の仕事がその日急に休みになったならば、その子どももその日は保育園をお休みさせて保護者がその面倒をみるというのが、保育園とのお約束になっているのであった。
だから冬美から、子どもを保育園に預けている間アパートに遊びに来なよ、との誘いを受けたとき、万が一にもバレてはならぬと、保育園のお散歩コースを避けるかたちでアパートへと辿り着く道順を姑息な顔しながらあれこれ検討したのだった。もしもお散歩途中に夏緒や春子に会ってしまったら、きっと二人は興奮して予想もつかないような色々なことをたどたどしい口調のフル回転でもって口走り、そしてそれはきっと保育士さんに言ってはならぬことのオンパレードであると、無邪気で可愛い、そして母に似ておっちょこちょいの夏緒と春子ならばきっとそんなオンパレードになるだろうとの、そんな不穏な予想が立ち、そしてそれは必然、保育士さん達の中に強固な疑義を生じさせることになるのであるから、そうなれば、今度冬美が登園やお迎えで二人を保育園へと送っていった際、一応お伺いしますが、的な前口上の後、探りの質問を二三受けかねないが、そんなのは、損の可能性はあっても益の可能性は少しもないことである。ならば完全にそんな事態が出来するようなことは避けるのが定石なのである。こう見えても実はタノスケ、〝プロ棋士の星〟の下に生を受けており、そのキレッキレの頭には万を優に超える棋譜がコンプリート記憶されていて、だから、定石は決して外さず毎度バチンと自信満々に打つのがタノスケスタイルなのである。
んで、んなわけで、その日もタノスケは定石の〝コソコソキョロキョロムーブ〟をバチン! 怪しい雰囲気すら醸しだしながら冬美のアパートを尋ねたのだった。
んで、着くなり尋ねられた。
「お腹減ってる? 何かたべる?」
女性の家に遊びに行き、そこで女性にごはんを作ってもらうなぞいうイベントは、何の取り柄もなくモテないタノスケにとっては四年に一度のビッグイベントを超えるほどにビッグイベントであった。だからタノスケは、さほど腹は減っていなかったが、これからたとえどんな山盛りの定食が供されようとも、そしてそれが胃の限界を超え、内圧で腹が割れて内容物が飛び散ることになったとしても必ず完食する! そう覚悟を固めたのだった。
「ありがとう! 食べる! ちょうど腹ペコだよ!」
ワクワクしながらタノスケは待った。ワンルームなので、タノスケが腰掛けている場所から、冬美が立つキッチンは目鼻の距離である。料理をする冬美の姿を、後ろ斜め四十五度からじっくりとタノスケはなめ回すような視姦ムーブでとくと観察した。腰から尻にかけて、冬美は実に美しい曲線を持っていた。この曲線を持つからには、日頃の食事はきっとヘルシーベジタリアンチックなものを基本としていることであろう。と言っても、もちろん成長期にある夏緒と春子の食事も作っているわけだからしっかりと肉や魚も入れ、タンパク質も豊富に含まれた完璧な食事であることは間違いのないことだ。だから、冬美の作る料理は、各種食材の本来の味を際立たせた目にも鮮やかで楽しい、のみならずタンパク質、ビタミンミネラル、そして食物繊維までもが十二分に含まれ腸内フローラも大喜びな、そんな善玉菌善玉菌した、極めての健康パーフェクト定食であり、それが今から自分に供されることは絶対確実なのであった。
んなわけで、よし! と、タノスケは一つ気合いをかまし、二時間でも三時間でも決して催促なぞせず、その冬美お手製のミラクル健康パーフェクト定食とやらが出てくるまでここで大人しく座って待っていようと、そう決意したのだった。
むろん、実際は二時間も三時間もかかることはないだろう。何故なら、今日タノスケがこのアパートに来ることは冬美にしてみれば三日も前より承知済みのことだったからである。つまり、前日、ものによっては二三日前より冬美は丹精込めた十分な仕込みを行っているのである。だから今冷蔵庫の中には、最後の仕上げを待つばかりの完成一歩手前の仕込みが、その料理ごとに分けられ、密封容器の中に入れられ出番を待っているに違いないのだ。そして、それはおそらく七から八品にも及ぶだろう。それが今冷蔵庫の中でいわゆる〝寝かされている〟状態なのだ。だから、冬美お手製のミラクル健康パーフェクトスーパー超美味定食が完成するまで二時間も三時間もかかることはない、というのである。
んで、では具体的に完成し供されるまでの時間はどのくらいかというと、それを最先端タノスケAIで計算すると、三十分ジャストである。たったこれだけの時間で、世界最高峰の美食が完成すると世界最高速度のタノスケAIははじき出したというのである。そんな、たった三十ミニッツで美味いものを出すのは無理だろうと、凡人はそう思うだろう。いや、凡人でなくても、かなり才ある者達でも、きっとそう思うに違いない。バカである。タノスケにしてみれば、そんなこと言う奴はハッキリ言ってバカである。小一から小二にあがるときに留年してほしいくらいのバカである。
というのは、先ほどタノスケは完成一歩手前のものが冷蔵庫の中で〝寝かされている〟状態だ、と言った。これは、この状態が良い理由は、何も時短だけではないのである。つまり、言ってしまえば〝味が染みる〟のである。それが冷蔵庫で寝かせておくことの、時短と並ぶ二大理由なのである。そして、この味染み加減こそが食の美醜における分水嶺なのである。実はタノスケ、人気漫画である〝美味しんぼの星〟の下にも生を受けており、もうそのへんの専門知識は、まさにドンと来い! レベルなのである。そしてタノスケは、ああ、自分は、この、自分というもはや一生の運を使い果たしたも同然の究極の幸せ者は、これから美味しんぼに登場する究極の美食家である海原雄山ですら瞠目沈黙させ、もしかしたらショックで気絶させるほどの威力をもった究極定食を口にするのかと思うと、もう本当に天にも昇る心地だったのである。
その時である。三十分どころか、まだ三分も経っていないのに、
「はい、どうぞ」
冬美はタノスケの目の前に、いっそ乱雑とでも言いたくなるほどの手つきでもって皿一つと、ラップに包まれたままのご飯を置いた。
皿の上には、冷め切ったコロッケが一つ乗っている。しかも、それはすっかり油がまわってしまい、揚げ物にとってもっとも大切なサクサク感とはもはやエターナルグッバイを果たしていることが一目で分かる。しかも、そのコロッケはすでにだいぶ前にソースをかけられたようで、衣を横断するそのソースはすっかり艶を失い、コロッケの酸化し劣化した油とどんより混ざり、更に、まさかだが、端が小さな歯形に削られている。これは明らかに、夏緒か春子の食べ残しである。そして、ラップに包まれたご飯の方であるが、こっちは今冷凍状態から電子レンジで温めたものらしいが、ラップで包む時、雑に包んだために一部が露出したままになっており、その状態のままチンされたことで、当該部分が水分を失い、ゴッソゴソのボッソボソ状態になっており、これは、もはや人の食い物ではない。
「……ふ、ふ、ふ、冬美? ふゆみん? 冬美ちん? ふゆふゆ? 冬様? ふーちゃん? あ、あ、あ、あの……」
タノスケのオドオドに冬美はハッとして
「あ、ごめん!」
と言ってすぐにキッチンへ戻り、そこでスプーンを取って来ると、タノスケに、はい、と言って渡した。
━━す、す、す、スプーン? コロッケに、す、す、す、す、スプーン? し、し、し、しかも、ティ、ティ、ティースプーン?━━
「ふぅー」
冬美は、真摯な一仕事を終えた人だけが吐く権利を有するような満悦の吐息を一つ吐くとタノスケの横に腰を降ろし、ぐぅーっと背伸びをした。そしてそこから、一気にぐうたらモードへと突入していった。その様子をタノスケは能面でもって、呼吸も忘れ、鼓動さえ忘れ、唖然、ただ、見つめたのだった。
思い起こすと、おっちょこちょいだとは思っていたが、冬美の場合、なんというか、かなり高レベルなおっちょこちょいであると、そういう可愛い人であると、これはそのことを知り始めた嚆矢的エピソードであったと思う。ともかく、生活習慣というか、常識というか、何と言えばいいか分からないが、そういう感じのものの違いに驚きはしたが、今となってはそれもいい思い出だとタノスケは思っている。
そういえば、生活習慣といえば、トイレでの思い出もある。
あれは出会って約一年後くらいのことだったか。その頃、タノスケ、冬美、夏緒、春子は、生活を一つにすべく、戸建ての、二階木造賃貸アパートに引っ越したばかりだった。
一緒に暮らし始めると、生活習慣の些細な違いに驚くものであるが、あれは引っ越し作業もあらかた片付いた頃のことだったと思う。その頃、冬美がタノスケのトイレスタイルに驚いたという、そんな事件があった。
「きゃあ! 何やってんのよ!」
冬美は驚愕の顔でタノスケを見た。タノスケは特に意味はないが、トイレの際、無施錠に十センチほど扉を開けて用をたすのが癖なのが、この時もそうだった。冬美はその隙間からタノスケの姿を見、その姿の異常さに冒頭のような驚きの声を上げ、そして扉を全開に開けたのだった。タノスケは小便中だった。
無施錠に開けたままにしていた自分も悪いが、十センチほどしか開けていなかったものを、チラ見して違和感を感じるやいなやグイと大きく、今や互いの全身が見えるほどに開けた冬美の無神経にタノスケはちょいとプンスカ心地。
「何って、小便だよ。僕は子どもの頃から、小便はいつもこういう体勢でするんだよ」
タノスケは大便か小便かに関わらず、用便の際は便座に腰をおろす主義であるのだが、しかし、それはよくある、その辺の凡百のお利口さんがやりそうな、お行儀のよい、普通に椅子に腰をかけるようなスタイルではないのだ。上半身を床に水平近くにまで折り曲げた、それはまるでスキーのハイジャンプ選手が急斜面を下っている時のような体勢なのである。現に今もタノスケはその体勢をとっており、しかし、その体勢と唯一違うのは、冬美と見つめ合うかたちになったが故に、頭部が上方へとグイと持ち上げられている点、それだけある。
「え? 男性って、みんなそんなスキーのハイジャンプの選手みたいな体勢でするの?」
「みんなってことはないだろうよ。もしかしたら僕だけかもしれないよ。オリジナルで編み出した体勢だからね、これは。そういえば、この前僕、保育園のパパ友に消防団に入らないかって勧誘受けて、見学に行っただろ? パパ友と言っても、僕はお前とまだ正式に籍が入ってねえから、パパ同士の呼称である〝パパ友〟と呼ぶのはちと語弊があるかもしれねえが、そこんところはいいや。ともかくそのパパ友に僕が暇にしてるの見抜かれたんだろうね、勧誘され、消防団に入れば先輩団員が好きなだけ酒飲ませてくれるっていう口車にまんまと乗せられ、んでこの前、あのザリガニがいる用水路の近くの、あの古い自販機の横にある消防団の詰め所に見学行っただろ? んでさ、その時、もよおしたもんだから見学の合間だけどトイレ借りて、この体勢で小便してたんだけどよお、そん時もこの体勢でしててさ、んで、偶然それを見られてさ、もの凄く笑われたよ。だから、この体勢で小便するのは一般的ではないと思うけどね」
「……なんで、そんな体勢でするの?」
「なんでって。そりゃあ、何を隠そう僕は〝冬期オリンピックの星〟の下に生を受けているからね、日頃からフィギュアスケートよろしく三回転とか四回転とか平気でしてるけど、それ以外にも、こういうスキーのハイジャンプみたいな体勢にもね、なるんだよ。それが日常茶飯なんだよ。分かった? 分かったらもういい加減そこ閉めてくれよ、踏み切り、いや、踏ん張りに集中できないから」
「日常で、三回転とか四回転してるの? どういう時?」
この問いに瞬間、タノスケは「しまった!」と思った。実はタノスケ、〝打数重視の星〟の下に生を受けており、成功を摑むためには打率よりも打数を高めること、すなわち、何事もとにかくもの数をこなしていくことが成功するためには最も大事であるとの強固な信念を持っている男前なのである。そのため、マチアプを駆使した浮気の常習者でもあるタノスケは、もの数をこなす為、一日に複数人との約を入れることがあり、それが三人ならば三回転、四人ならば四回転と、そう自分ルールで呼び慣わしているのである。つまり、その、自分創作の不徳の単語が、冬美との会話の中でふいに口をついて出てきてしまったかたちであり、それが内容が内容であるだけにバレたらまずく、だからタノスケは「しまった!」と思ったというのである。
だが、考えてみれば、それはどこまでも自分ルールにおいて自分だけに通用する言葉であるからして、たとえふいに口をついて出て冬美に聞かれたところで、そんなの素っ恍けるだけで永遠に真相が明るみになることなぞない、だからこれはかなり防御力が高く、さして心配の必要のない類の失言であろう。タノスケはそれに思い至ると急激に胸なで下ろし心地。だが、しかし、そうして安堵すると同時、今度は違う方角から疑念が湧き上がってくる。
それは、三回転、四回転という語をあえて用いて尋ねてきた冬美は、もしや、タノスケの風俗通いを疑い、鎌かけの意味でそう問うてきたのではないか、ということである。
だが、冬美にしてみても、タノスケの寒すぎる懐事情は百も承知のはずである。ここのところ、定職ももたず、ぐうたらしているだけのタノスケ財布の中は、もうすっかり絶対零度なのである。だから比喩や誇張でなく、風邪ひいた時などは額に乗せて氷嚢代わりにするほどである。とすれば、金のかかる風俗通いを冬美が疑ったという線はなかなかに考えにくく、いや、それよりも何よりも、そも、そんな風俗の隠語めいたものを冬美が知っているはずがないし、とすえば、変なことを口走ってしまった、しまった、という思いは霧消していったのだが、しかし、スネに無数の傷持つあまりにも後ろ暗すぎる身の悲しさで、今冬美の中で渦巻いている疑惑が、その渦巻く思考の先端が、今にもドリルのごとく先鋭が尖り、そのまま〝タノスケ疑惑の大地〟を縦横無尽に掘り進み、たとえそれがどんなに素人冬美の、四方八方無鉄砲無手勝流のヤケっぱちな掘削であったとしても、タノスケが自身の悪事を隠蔽するため悪事の全方位に設置した〝隠蔽の岩盤〟に到達することは絶対にないとは言えないというか、まあまあ高確率確率で到達するとの妄想に取り憑かれ、そして、それでそこに到達したならば、たとえ〝隠蔽の岩盤〟なぞ豪語してみても所詮はタノスケの浅すぎる知恵と多すぎる手落ちによって作られ設置された岩盤であり、現に今までもひょんなことからいとも簡単に浮気のほぼ全ての証拠を掴まれ、こっぴどく締め上げられた挙げ句、毎回辛酸の涙を流しながら土下座をしてきたことを思い起こせば、自分の設置した隠蔽の岩盤なぞ冬美の疑惑ドリルの前には豆腐にも等しい気がしてきて、そうなるとタノスケの心奥からは、まるで猛り狂う間欠泉のごとく不安が噴出するというのである。実はタノスケ、〝源泉かけ流しの星〟の下に生を受けており、温泉が噴出したならば百度だろうが二百度だろうがそのまま全裸になって源泉かけ流しに浴びて浴びて浴び尽くしてしまうくらい男気に溢れた男前なのであるが、しかし、不安が噴出することに関してはノーサンキューな質なのである!
んな嘘話はいい。
冬美に、日常で三回転とか四回転してるの? どういう時? と問われて焦ったという話であった。
話を続けると、焦ったタノスケはつとめて表情を変えないよう澄ました顔の取り繕いムーブに専心しながら、しかしこれでは逆に能面じみて怪しくないかと思えば更に焦りは増幅モードとなったのだが、しかしこの状況、ナチュラルベストタイミングに返答せねば怪しまれること必定、だからともかく何か言わねばと、たとえそれにより口から出任せ風味が強くなったとしても早く、とにかくタイミング重視で早く、何か言わねばと、
「ん? え、鉛筆だよ。三回か四回、回転させて削るのが僕のスタイルなんだよ。子ども時分、削り過ぎて鋭利になった先端で皮膚を傷つけたことがあるからね。ホラ、この手首の下のところを見てよ。その時折れて皮膚の下に埋まってそのままになった芯が今でも残っているよ」
そう言ってタノスケは手首を差し出したが、それは成人した後、シャープペンシルの芯が刺さってそのままとなったものだった。タノスケは〝リサイクルの星〟の下にも生を受けており、使えるものは他のことにも躊躇なく使う質で、それはもちろんエピソードでも例外ではなく、旧エピソードを新エピソードへと果敢にリサイクルする男前なのである。
んで、そのタノスケはスラスラと出た完璧な我が嘘に、これは我ながらけっこう追っ払い成功確率が高いことを言えたのではないかなと、実に満足心地。すると、
「ほんとだあ」
と、まこと素直な冬美は見事に騙され、すぐにタノスケの予想通りトイレのドアを閉めて去って行ったのだった。これにタノスケは本当に安堵の胸なで下ろし心地となったのだが、ふぅーっと一息つくと今度はタノスケの胸は何やら新鮮心地でいっぱい。何故といえば、自分としてはもうこれで約三十年、このスキーのハイジャンプみたいな体勢で小便をしているので、あまりにも当たり前になっていたのだが、指摘されてみればなるほど、消防団見学の際、偶然見られて笑われたときにも気がつかなかったが、確かにこの体勢は人を驚かすほどに変な体勢なのかもしれないとハタと気づいたからだった。
タノスケは、小学校の低学年時にはすでにこの体勢にて小を済ますようになっていた。その開眼のキッカケはどういうわけか今でもしかと覚えている。
ある日のことだった。小学校低学年の少年タノスケが普通に座った体勢で小便をすると、ピチョピチョと跳ね返りがあった。これに不快を覚えた少年タノスケは、何とかできないかと考えたのだった。そして、試しにと竿を袋ごとグイッと、竿の付け根の上方がストレッチ刺激でヒリつくくらい、竿を袋ごと下方へと強引に押し込み、その押し込んだものが元の位置へと帰ってこないよう素早く手を引き抜くと同時に両方の太ももをガッチリと閉じたのだった。果たして思惑通り竿と袋は太ももに挟まれるかたちで、すなわち、裏側にチン先と袋を出すような格好で固定されたのだった。そして、視点を少年タノスケ視点へと変え、上から見下ろすと、いつもそこにある筈のドリチン小倅竿が裏へと出張中な塩梅で、これには何やら女児になったようなお股心地。んで、その、いわば尿道を肛門と同方向に向けた二穴体勢でもって小便をしてみたのだが、この時は満足な結果とはならなかった。幾分マシになったとはいえ、相変わらず当たってくる跳ね返りのピチョピチョ粒もあったし、増した小便衝突の衝撃により湧き立った小便ミストがモワッと立ちのぼって気分悪いという予想外の新たな不快も加わり、問題の解決はかえって遠のいたようにすら思われた。
しかし、〝ソクラテスの星〟の下に生を受けているタノスケは、不屈の思索者魂を発揮し、絶対になんとかしようとすぐに思案を開始した。そうして〝今にも毒杯飲んじゃいますよ感〟をその表情いっぱいに醸し出しながらしばし沈思黙考していると、前日テレビ放送で見た、スキーのハイジャンプの映像を忽然と思い出したのだった。そして、そのハイジャンプの選手がスタートし、急斜面をなるべく空気抵抗を受けないように前屈みに構えるあの雄志あふれる姿に、この苦境を脱するヒントがあるような気がふとしたのだ。そして、おもむろに少年タノスケは便所に駆け込み、例の太もものの裏で竿と袋を挟んだ姿勢になると、その姿勢のまま、上半身を床に水平の位置まで折り曲げたのだ。それはズボンとパンツを降ろしてはいるが、体勢としてはどこからどう見てもスキーハイジャンプ選手のような体勢であり、タノスケはその雄志あふれる我が体勢に青き勇猛を掻き立てられつつ、勢いよく小便を噴射したのだった。
果たして、太ももに挟まれその尿道の方向を後方に向けて固定されていた竿は、上半身が折りたたまれたことで後方へと押し出されて安定性を失いそうに思われるが、しかし、その太ももによる固定力が十分だったことに加え、短小であることも幸いし、まったく暴れることなく安定して一直線に後方へと小便を放ったのだった。ただ、ドリチンであることも影響してか、竿皮は上半身を倒したことにより生じた圧によりいつもよりもに後方へと押し出されるかたちになり、それは先端においていつもよりも捻れ、その影響により些少の水流の乱れが生じたのだが、そしてそれは確かに想定外ではあったのだが、しかし比較的素直なドリチンであったものか、幸いにもその乱れは大問題に発展するほどの乱れではないと鋭敏なチン先の感覚で感得され、だからそれに関しては少年タノスケは打っ遣っておいてもよいとの断を下したのだった。んなわけで、その勢いよく放たれた小であるが、その黄金の噴射は、十分に合格点の軌道でもって、そのままスマートに便器の斜面にソフトランディングしながら常時張られている水面の端へと見事に衝突し、そのまままるで吸い込まれるように、そこには微塵の跳ね返りも、不快なミストさえ生じさせぬまま、張られた水の深部へとドボドボ流入していったのである。厳密には水面と勢いよく放たれた小の衝突によりミストは発生していただろうが、それはどこまでも水の成分が圧倒的に多いミストであるとそう信ぜられる鮮やかさで、タノスケの中に不快は生じなかったのだ。そもタノスケごときが感じる不快なぞ、どこまでも御都合主義に堕した想像上の汚穢感にしか過ぎないのだったが。
んで、その時の小便の音がドボドボドボドボとあまりにパワフルなものであったから、タノスケはそこからすぐに宇宙ロケットが打ち上げ時に噴射するあの凄まじく勢いのある、あのジェットな炎を想像した。んで、
━━なんだか、おまた後方にロケットエンジンが付いたみたいだな!━━
と、棚ぼた式僥倖を喜ぶ式に喝采したのだが、実際、ふんばるほどに勢いを増すその小便はなかなかの推進力を生み出しており、それにより数ミリだが、確かに、ほんとにタノスケの身体は宙に浮いたのだった。
━━これだ!━━
これがタノスケがこのスキーハイジャンプ選手のような小便スタイルに開眼した瞬間である。
んな話はいい。ほんとどうでもいい。
筆が滑って思わず書いてしまったが、書きたいのはそんなことではなかった。
書きたいのはそんなことではなく、そう、志の話だった。二人の子どもを育てているシングルマザー冬美と出会い、そのあまりの心根の美しさにタノスケは心底本格的に惚れ、そして、自分の命など、その辺に転がっている小石のカケラほどの価値もないけれど、しかし、もしもこの命を使ってこの三人を今よりか少しでも幸せにできるならば、それならばもう死んだっていいくらいに本気で思い詰めたという、その至誠極まる志の話だった。それをこそタノスケは書きたいのだった。
んで、書くわけだが、そんな至誠極まる思いをベースに、必ず幸せにするとの志を立て、そこから始まった冬美との交際、そして、程なく始まった二人の子ども(夏緒四才、春子一才)も当然に含めての四人暮らしだったのだが、悲しいかなタノスケは〝百均で売ってるシャーペン芯の星〟の下に生を受けている男である。だからタノスケの志なぞ、実に脆く折れやすいのである。あっという間に当初の志は折れ、堕落と醜悪と不様を混ぜて煮詰めたような小者ムーブを連発し冬美をしばしば困らせ、泣かせるようにすらなった。そして、そんな傍目にはいつ崩壊してもおかしくない爛れた生活は、冬美と二人の娘の踏ん張りのお陰で何度も危機を脱したのだが、しかし、結局はどうにもならず、十年で破綻したのだった。
これは紛れもなく大悲劇だが、実をいうとタノスケはホッとしている面もある。
というのは、タノスケというコバンザメ目寄生虫科の金食い野郎と離れたからには随分と生活にも余裕が出たことだろうと思うからだ。以前は子ども用の数百円のTシャツを必要に迫られた状況で購入するにもそこに逡巡が伴うような、夏緒と春子には随分と気を使わせる生活だったから、そのことを思えば、これでよかったのだとも思うのだ。
一緒に暮らしていた時、タノスケが自身の財布をあけ、夏緒と春子にお小遣い(この金の出所はもちろん冬美である)をあげようとしても二人は決して受け取ろうとしなかった。いつしかそういう子に育ったのだった。
これに対し自分はどうだっただろうとタノスケは自分が子どもだった時のことを考えるが、自分は親からお小遣いが貰えるとあらば嬉々と卑しい笑顔で引ったくるようにして受け取り、その勢いと言ったらなんだが、そのまま親の隙を見計らい、親の財布に手をつっこんでさらに銭を抜き取るというのが毎度お決まりオーソドックスの定石ムーブだったのだ。更に言うと、そのようにして盗んだ銭で豪快にお菓子を大量買いし、隠れてそれを独り占めに腹パンになるまで貪るのだが、その影響で晩ご飯が食べられなくて親に、「何か食べたのか」と聞かれても、「食べてない」の一点張りでもって騙し切り、んで、親にバレず怒られないものだからその泥棒&豪遊ムーブを改める気なぞもちろん微塵も湧かず、結句、虫歯になり、後悔しながら泣く泣く歯医者に行くのだが、治療台に寝ながら頭に若い歯科衛生士さんのオッパイが当たるのを感じると、少年タノスケは先ほどまで完全に打ちひしがれていた後悔の念なぞ完全に忘却し「ああ、これで良かったのだ」と、深く自分の人生を肯定するのだった。
んな話はいい。
そんな話はどうでもいい。この流れで書くべきは、夏緒と春子が、タノスケが原因となって引き起こされた貧困の中でどれほど良い子に育ったかという話だった。
とにかく金銭的には不自由な生活で、大変なことも多かったが、タノスケはお金を使わずにお友達と工夫して楽しく遊ぶ二人の姿に、いつもホッコリ安堵心地になっていた。そして、その二人はそのメンタルというか心の構えのまま成長し、小学校の高学年になる頃にはたとえお友達と喧嘩しても、ものの数分で
「許した」
なぞ声に出して言い、すぐまたその相手に優しくするし、不登校気味の友達などがいれば、たまに学校に来たそのタイミングをよいチャンスとして、強引に放課後の遊びに誘い、その子の話を、決して暗くならず、明るい顔のままじっくり聞いたりするのだった。そんな姿を見るにつけ、タノスケは思わず、
「さすが、僕の遺伝子を受け継いでいないだけのことはあるな!」
と、独り言ちるのが常だったが、そこに卑屈な響きは本当にまったくないのであった。
━━良かった。夏緒と春子は自分で自分を幸せにできる人間に育っている━━
と、そう思うとじんわり胸が温かくなり、そしてこんなかたちで、二人としては無意識だろうが、こんなかたちで親孝行を連発してくれている(親孝行されるようなことはタノスケは一つもしていないのだが)夏緒と春子をタノスケは本当に心から愛しく思うのであった。そして、タノスケという超ド級の重りを背負いながら、二人をこのように輝かしい人間に育てた冬美という、いわば現代の聖母にも等しい存在に対しても、タノスケは深い深い敬意を感じるのであった。
そういえば、ということもないものだが、お金の他にも夏緒と春子には色々迷惑をかけた。
タノスケと冬美がモメるたび、二人はその小さな体で必死に仲裁に入ってくれた。幼い子どもにそんな役割を担わせるなんてことは、それは決してやってはならない、それはあまりにも残酷なことだ、と今では思う。だが、当時のタノスケは幸せの上に鼻クソほじくりながら胡座をかいて堕落を貪り、そんなことには一向に気が回らなかった。本当に申し訳なかったと思う。
そういえば、起きてる間だけでなく、二人は寝てる時も、突然泣き出すというかたちでタノスケと冬美のモメ事の仲裁に入ることもあった。寝ている時にまで子どもに役割を担わせてしまっていたわけだ。まったくもう実に最低な所業で本当に申し訳ないが、それにしてもあの日の仲裁は、タイミングがピッタリちょうど良かった。だからか、いまだによく覚えている。
あれは、夏緒が六才、春子が三才くらいの時のことだった。
あの日、なぜかタノスケは疲れていた。
繰り返し言う通り、タノスケは五体満足のくせして無職である。そのため、勤労による疲労なぞ溜めようにも溜まりようがないのだが、しかし、実はタノスケは〝クールダウンの星〟と〝リフレッシュの星〟と〝デトックスの星〟と〝リチャージの星〟という四つの星が奏でる星光四重奏の下にミラクル同時に生を受けており、そのため、仕事をしていないのにも関わらず、完全休日の毒抜き休息心地でもってダラしない姿勢でフニャらけ、完全に呆けることができるのである。
そんな、呆けたバカ面のままリビングで横になっていたタノスケではあるが、しかしその日はいつもとはちと違っていた。珍しく向学心を発揮していたのだ。最近、巷でもてはやされている筋トレというものを学ぼうしていたのだ。
何やら筋トレというものは筋肉を大きくしたり、筋力を強くしたり、見た目をよくしたりする効果以外にも、様々な健康効果があることが最新の研究により分かってきたらしく、そのことを最近どこかでタノスケは聞きかじったのだった。
そんなにも健康効果があるのであればやってみようかなとタノスケは考えた。そもタノスケは〝省エネの星〟の下に生を受けており
〝これからもずっと無職で楽に生きていきたい。仕事だけじゃなく、家事も子育ても、あとノリで入った消防団活動も全力でサボりたい〟と強く願望しており、だからもちろん本来は筋トレなどの体作りも〝省エネ〟の御旗の下にサボるのがスジではあるが、しかし、実はタノスケ、〝省エネの星〟の他にも、〝健康第一の星〟の下にも生を受けており、人一倍、いや人十倍、健康というものを大切にする見上げた男でもあるのだ。だからタノスケは筋トレにも興味津々心地というわけなのである(もっとも、実はタノスケ、〝健康のために男性ホルモンを高レベルに維持せねばならず、その維持のため多くの女性との接触が必要なのだ〟という極秘自分理論のもとマチアプを使い、色妖怪ムーブに日々勤しんでおり、しかし、結局はそこで変な病気をもらっては不健康になって近所の内科へ駆け込むということも繰り返しており、この前はそこの先生に「またか。もう変な遊びはよせ」と本気で怒られたほどであるから、まったく〝健康第一〟ってどの口が言ってんだ、という話ではあるのだが……。また更に言えば、まったく誰の口から病気をもらったのだ? という話でもあるし、それは上の口か? 下の口か? という話でもあるのだが……)。
んな話はいい。
ともかく、そんな深淵な事情があり、今タノスケは筋肉系かつエロ系動画配信者のきわどいトレーニングウエアを凝視しているのだが、タノスケにとって、この完全に男性支持を当て込んだあざとさ全開の女配信者が今自分に語っている筋トレ知識が、それが科学的に正しい知識かどうかとか、本人がやり込んだ経験による、いわば敬意を表すべき個人的知見に基づく知識なのかどうかとか、それとも単なる妄想的知識なのかどうかとか、そういうことはどうでもよかった。ただ、画面の先の、エロで簡単に視聴数を稼ごうとしている短絡な女性の、その、しかし見方によってはある意味どこまでも真摯一徹なその姿勢にシンプルに胸を打ち抜かれた感銘心地なのであった。タノスケはそういう真っ直ぐ愚直に進む人間を見るといつも必ずその人物に対し尊崇の念を抱き、食い入るようにその人に注目してしまう、応援してしまう、そういう至誠心地になりやすい男気溢れる男前なのである。だがしかし、もちろんそれはほぼ嘘で、正直有り体に言えば、単にタノスケはきわどい服を着た女性を見ると、至って容易にチンピン心地になりやすく男汁溢れる、汚すぎる中年男であると、それが真実である。
んな話はいい。
そんな話はどうでもよくて、真に話たいのは、そんな感じで横になっていたタノスケが、幼い二人の娘も寝たし、そろそろ今夜の晩酌を始めようかと氷入りグラスの焼酎をホッピーの白(いつもは黒なのだが、たまたまいつものスーパーで黒が欠品していたため本日に限り白となった)で割り、ツマミとして缶詰メンマの蓋を開けた時の話である。
「うぎゃあああ!」
タノスケは突然、叫び声をあげた。
「どうしたの?」
冬美が心配そうにこちらを見た。
冬美は先ほどまで動かしていた手をピタリと止めていた。手元には保育園のお着替えを入れるために数日前より製作を始め、今やほとんど完成している布製のバッグがある。冬美はそこに仕上げとして〝なつお〟と大きく書かれた名札を縫い付けているところだった。
「しー、起きちゃうよ」
冬美は顔の前に人差し指を立て、慌てたように言う。
六才の夏緒は一度眠り始めればそうそう起きないし、仮に起きてしまってもすぐに寝かしつけることができる。しかし、問題は二才の春子の方だった。春子の睡眠はまだ安定していないのか、体質なのか分からぬが、寝かすのも一苦労。また、やっと寝かしたと思っても何かの原因で一度起きてしまうと、再び寝かしつけにはまた同じだけの労力を要するのだった。冬美は先ほど自分一人で費やしたばかりのその寝かしつけの労力とその時の疲労感を思い出し、それらが今放たれたタノスケの突然の奇声を因として再び費やさねばならぬ、そんな状況に追い込まれるのではないかという危惧をありありとその顔に湛えていた。
「コレ見てよ! メンマがお陀仏ポンしてるよ!」
「だから、しー! 声を小さくして!」
この二度目の注意でようやくに声をひそめる重要性をタノスケは理解したのであるが、しかしそれでもたったの三割減程度の声で続ける。
「見てよこのメンマ! ヤバいよ! 白いカビが生えて、長い毛の、毛虫みたいになってるよ!」
タノスケが押しつけるようにしてきた瓶の中を覗き込むと、冬美も大仰に顔を歪め、
「キモ!」
と、先ほど自分でタノスケの大声を制しておきながら、メンマのあまりの変容にそのことをすっかり忘れ、タノスケの大声を凌ぐほどの大声を出してしまった。
そのリアクションに満足したタノスケは幾分落ち着きを取り戻すと、それで次には胞子が室内に広がってしまうことに気が回り、恐怖の顔でもって素早く蓋を閉めた。そして
「あああああ! なんてことだ!」
頭を抱え、タノスケは崩折れた。
「ああああ! 三日くらい前にこの瓶詰めメンマを開けて、んで、一度で食べられそうだったけど、予想以上に美味しかったから、二回に分けて食べようと思ったんだ。それであえて半分残しておいたんだ。ああ、なんてことだ。半分残してやるなんて、そんな仏心を起こしたことが僕の不明だったんだ! どうして僕は常時、仏心を発動してしまうんだろう! 優しすぎる男! ああ、完全に僕の落ち度だ!」
冬美は呆れ顔になった。
「美味しかったから自分のために半分残しておいただけでしょ。それのどこが仏心なのよ。まるで仏なんて関係ないじゃない」
「……」
「開封後、冷蔵庫に入れなかったんだね。入れておけばカビなんて生えなかったよ」
「なんだい、開封後って?」
「瓶をよく見てみなよ」
促されて見ると、そこにはデカデカと、しかも赤地に白抜き文字の大層目立つ式でもって〝開封後要冷蔵〟と書かれている。
これを見るなりタノスケは忽ちいつものプンスカ心地となった。自分の落ち度を仏心発動のゆえということで誤魔化しながらマイルドに受容しようとしていた矢先、本格的な落ち度を痛罵的に突きつけられたゆえである。
「ふん。そんなのはどうでもいいや! なんだい、今日はいやにどうでもいいことで突っかかってくるね。何か僕に含むところでもあるのかい? そっちがやるってんなら徹底的やるよ僕は」
「常に仏心発動中なんじゃないの? なによ、やるなら徹底的にやるって」
バカバカしいといった感じで冬美は立ち上がり、キッチンの方へと向かった。これにムカッとしたタノスケは
「ちょっと待て! 話はまだ終わってねえぞ!」
と言ったが、冬美は
「アイス」
とだけ言って、そのたった一言に語調だけでもって、また戻るからちょっと待ってて、の意を含ませる。その器の大きい響きをもつ言を受け、アイスいつでもウエルカム主義なタノスケは俄にウキウキ心地となる。出会って数年、既に冬美はタノスケの操縦がまったくもって上手なのである。
「はい。好きな方どうぞ」
チョコと抹茶のアイスを目の前に置かれ、先に選ぶ権利まで与えられたタノスケはその精神年齢八才の本領を発揮し、すっかり機嫌は治り、満面笑顔でチョコアイスを手にする。しかし、抹茶アイスにも未練があるタノスケは、
「さっきのメンマ事件のこともあるし、毒味したいから、冬美の抹茶味も三口頂戴」
なぞ言い、完爾と笑ってから自身のチョコアイスにかぶりつく。
口に広がるチョコの味。精神年齢も味覚年齢も小二くらいのタノスケは安っぽいチョコの味が大好きでなのである。あっという間に平らげた。
「まあ、そものそも、瓶詰めメンマごときで騒ぐ必要もなかったね。大いに反省するよ。でも、騒いじゃったのは、その根底に〝お金を無駄にした〟という思いがあるからだと僕は思うね。お金さえたくさんあれば、こんなつまらないことで絶叫する必要もなくなるんだろうね。でも、まあ、そんなことを言えば、ならば僕が仕事して稼げばいいじゃんってだけの話なんだけどね。たしかにそうなんだけどね。でもねえ、何と言うか」
抹茶アイスを幸福そうな顔で頬張り、冬美はすっかりタノスケの言を右から左に受け流しスタイルになっていたが、その変化にまるで気づかないタノスケは続けた。
「何と言うか、残念なことに僕は、僕という男は、世間に飼い慣らされて容易く労働意欲が湧くような男じゃないんだからなあ。僕はそういうライオンみたいな、徒党を組んで威張る、というか、徒党を組んで自分は立派だみたいな、自分は一人前ですみたいな、群れてるだけのくせにそんな顔で胸張り生きてるやつらを心底嫌悪する男だからなあ。うーむ、違えねえ。僕はそういうことを嫌悪する、孤高にして可憐潔白な、白虎、そう! 白虎なんだよ、この僕は! 月明かりの下、毛並みを幽玄な美しさで煌めかせながら、澄みきった透徹の眼で全てを見通す、白虎なんだよ僕は!」
再びのうるさいタノスケの大声に冬美は心底呆れ顔。で、
「そんなすべてを見通すご立派な透徹の眼を持っているんなら、開封後の瓶詰めメンマをテーブルの上に置きっぱなしにしたらカビが生えるっていうことぐらい予め見通しておいてよ」
プイとした表情で言い放った冬美に
「なにを!」
タノスケは再びのプンスカ心地。しかし、冬美にしても今回は矛を収める気はないようで
「何が白虎よ! 白毛虫にビビってたくせに!」
「バカヤロウ! 同じ白だからって白虎が白毛虫にビビらないなんて理屈はあるか! ビビるもんはビビるんだ! 今の僕を見てみろい! 白ホッピーに大いにビビり散らかしながら呑んでらい!」
意味不明なことを口から出任せに大声で冬美へと叩きつけ、威迫でもって黙らせにかかり、それに成功したと思ったその瞬間をタノスケは、これチャンスとばかりに
「摂理だ!」
と、再び誰にも意味分からん、さすが群馬で下から二位の知性お似合いの特大なる大声を出し、その後、部屋の中は宇宙一無益な静寂に包まれる。
すると、あまりのバカバカしさに冬美は〝もう我関せずオーラ〟を出しながら再び抹茶アイスを頬張ったがその様子にタノスケは、
「分けてくれよ! 三口分けてくれるって言っただろ!」
「言ってないし! やだよ! 何よ三口って! 普通は一口頂戴って言うよ! それに、たのくんは孤高の白虎なんでしょ? 孤高なのに何で分け合うのよ!」
「なにを!」
「なにをって何よ! こっちのセリフだよ! 何よ、そのアイス欲しげな毛虫視眈々な目つきは!」
「あ! てめえ、虎視眈々の虎を毛虫に変えやがったな!」
「うっさいわね! だったら何だっていうのよ!」
そのくだらない言い合いが更に激しさを増してきた時、二階の子ども部屋から泣き声が聞こえた。夏緒と春子が同時に泣いたようだった。睡眠中にも関わらずモメ事の仲裁に入るという健気さが一瞬胸に痛かったが、急いで二階に向かう冬美の背を見ながら、もはや完全に投げやり心地になっていたタノスケの脳裏にはふいに、このまま別れてやろうか、との自棄っぱちな衝動も過った。しかし、自分のモテなさと生活力のなさを考えれば、冬美レベルの、十人並み以上の容姿を持ち、平生は誰よりも優しい心を持ち、しかも障害児施設で働いているので多くはないが定期収入もある、そんな、いわば天女のごとき高嶺の花レベルの女性と結ばれることはもはや自分には絶対にないだろうとの確信が胸に湧き、すると、このタイミングで泣いた夏緒と春子のベストタイミングぷりもタノスケには妙に愛しく切なく思われてきて、俄に出るのは怒声ではなく溜息。
すると、その溜息により、自嘲が多分に混入した果てのやわらかな幸福心地のようなものが急速に胸に広がったのだが、それはどこか限界まで希釈された幸福のようで、しかし、さらりと輝き、タノスケの心には落ち着く静かな幸福のようにも思われ、タノスケはその薄まりきった心の静けさというか、諦めの一種のようなものがもたらす不思議な安堵にちょいと小首を捻ると、白ホッピーを一気に飲み干したのだった。そして白虎の眼でもって瓶中の白毛虫と、いつまでも親しく見つめ合うのであった。
んで、とまあ、こんな感じの、毛虫フレンドリーな、タノスケというほんと糞な父親のもとで育った夏緒と春子だったがすくすく育ち、あれはようやく春子が小学校に入った頃だっただろうか、その頃、二人はせっせと絵を描いたり、工作を作ったりしていて、完成する度に誇らしげな顔で見せてくれていた。その内のある一回の光景だろう、タノスケの記憶にあるそれは、誇らしげに工作を手に持つ夏緒と春子の笑顔、そしてその時窓から差して来ていた日の光、それがタノスケには涙が出るほど懐かしい。
たしかあの諍いも、二人が工作で、何か作っている時の事だった思う。あの時、タノスケはキッチンにいた。
シンクとちょっとした調理スペースの上には収納棚がある。四つあるその収納棚の一番左に、冬美はサランラップとかアルミホイルとか箱からティッシュのようにして取り出す式の小さいビニール袋とかを収納していた。
料理をするわけではないが、ここにそれらのものを収納することはタノスケにとっても便利である。ラップくらいなら使うことがあるからだ。
小学生になった春子は背がクラスで真ん中あたりだと不満げだった。夏緒はいつもクラスの女子の中で一番背が高かったからだ。
そういえば、体育でバスケットボールが始まる時は夏緒は楽しみだとしきりに言っていた。高い身長が活きるよ、と担任から予告的に告げられていたのかもしれない。
その日、キッチンにはバナナが三本置いてあった。冬美も夏緒も春子もバナナが大好きであるが、そのすべてをタノスケは独り占めの、独禁法違反方式でもって食べならが、同時にレンジにて超大盛り幕の内弁当を温めていた。その時だった。夏緒がタノスケの背後をすり抜け、頭上に手を伸ばして収納棚を開けた。まだ背伸びは必要であるようだが、ごく普通の調子で開け、そこから工作で必要だとかでアルミホイルと一番幅の短いサランラップを取り出した。数年前までは必要とあらば椅子を持ち出し、その上に乗って開けていたのに、いつの間にか大きくなったなあとタノスケは驚き、そして、自分はただ一緒に生活しているだけであり、あらゆる面で夏緒の成長に貢献していないくせに、しみじみとした温かな心持ちになったのだった。
夏緒は取り出したアルミホイルと、幅十センチくらいのやたら横に短い、おそらくはコップくらいにしか使えぬそのラップを二階の子ども部屋に持っていくと、そこで必要分切り取ったのだろう、すぐにまた台所へと降りてきて、今自分が使ったそれらのものを棚の中へと収納したのだった。これにタノスケは瞠目する思いだった。〝ポリコレの星〟の下に生を受けているタノスケは、その星の加護の影響で、幼少時よりなんでも出したら出しっぱなしでよく親に叱られていたのだが、その自身の出しっぱなしスタイルを多様性の一つとして尊重していたのだ。とはいえ、そんな多様性尊重主義のタノスケとはいえ、物はいつも決まったところにあった方が生活しやすいことこの上なく、ゆえに生活を共にする者が行う整理整頓は大歓迎だし、夏緒と春子にしても長じてそのようにしっかりと片づけのできる人間になった方が生活の中で無駄な消耗がなく生きやすいだろうとも思っているので、子ども達が片づけができる子へと成長していくことはタノスケにとって実にウエルカム心地なのである。
んなわけで、いつの間にか好ましい成長をとげている夏緒を見て、思わず目を見開いてしまったというのである。
━━冬美は本当にいい子育てをしているなあ。こりゃあ、僕という存在が、ただ存在しているだけでもって、冬美の精神をいつも幸福に満たしている証拠だなあ。冬美はその幸福があるから子育てを頑張れているに違えねえ。つまり、遡れば幸福の源泉はいつも僕なわけで、まったく、まったく僕って男は、ほんと、できる男だよ!━━
金を稼がず、家事も手伝わず、アル中で、貧乏なのに自分の快楽のためだけに散財し、そればかりか度々マチアプ女遊びがバレて冬美を不幸のどん底に突き落としているくせに、この時のタノスケは自分が子育てに貢献していることを、そのような欺瞞思考を全開に捏造して全身全霊で感じ、もって爆発的な喜びに打ち震えたのだった。
収納棚を閉じると、夏緒は工作の続きをやるのだろう、また自室に戻っていったのだが、この時、タノスケはちと気になることがあった。夏緒は、やたら短いラップを、他のよくある中程度の長さのラップや、それよりも長い大皿用のラップなどとの兼ね合いをまったく考えず、適当に棚に入れたのである。アルミホイルはよくある長さであり、それは棚内在庫の大部分を占める中程度の長さのラップと同じ長さだから、適当に放り込んでも特段の問題ないかもしれない。しかし、短いラップを周りとの兼ね合いを考えず、よく見もせず適当に入れたら、それの上にだんだんと各種ラップやアルミホイルがアンバランスに積み上がり、いずれは雪崩の因になるじゃねえかと懸念したのである。実際、夏緒が閉める瞬間チラと見えた棚内の光景はタノスケの目には終盤のジェンガのように、えらく不安定に見えた。
ふと、タノスケは夏緒に事情を説明しようかと思った。聡明で素直な夏緒だ、タノスケの指摘がもっともだと思ったら直ぐにでも改善策をひねり出し、行動を改めることだろう。そしてそうなれば、それは夏緒だけでなく、家族全体の利益になることだろうし、そういうことの積み重ねが、家族全体の動きを軽やかストレスフリーにし、すなわちその状況がきっと家族の幸せをそっと下支えに支え、強固な一体的家族の確かな基盤が形作られる際の一エレメントとして機能することになるだろう、タノスケはそう思ったのである。
だから、一階から二階に行った夏緒に声をかけ、ちょっと台所まで降りてきてもらい、そのことを伝えようかと、ふと、ほとんど初めてくらいに、そんな子育てムーブめいたことを気まぐれに思ったのだが、その時、電子レンジがチンとなり、超大盛り幕の内弁当の温まりが完了した。すると即座に気が変わり、タノスケはその声かけをやめたのだった。食欲を満たす方向に気持ちが向くなり、急激にそんな子育てムーブを面倒臭く感じたのである。そして、そも、子育ては冬美に任せておけばいいのだという摂理を思い出したのである。その上で、自分も冬美の子どもであるような顔で、しかも、末っ子のような顔でもってこの家でのうのうと暮らせばよいとの我が心の定款も思い出し、今までずっとその流儀で生きてきたのだったと、そのことも思い出したのである。〝信仰とは思い出すことだ〟と昔の超えらい誰かが言った気がする。その金言に、タノスケは今こそ完全同意を示したいひれ伏し心地。正しいとか、正しくないとか、認識できるとか、認識できないとか、そういう細々したせせこましいことはどうでもいい。そういうせせこましい日常の領域と大いなる信仰の領域はまったく別の領域なのである。日常と信仰、その二つの領域は底なし絶句の谷によって完全に分かたれているのである。この谷を人が渡るには、跳ぶしかないのだ。思考や認識や価値評価なぞいう人間的なものをすべて打ち棄て、全身全霊、過去未来も含めすべて、完全に自己存在すべてを賭して跳ぶしかないのだ。チンの瞬間、大盛り幕の内弁当が温まったことを告げる電子レンジのチンの瞬間、タノスケは、華麗に、その跳躍を果たしたのだった。
━━冬ちん、僕はすっかり全部思い出したよ。子育ては、全部冬ちんにお任せするべきなんだよ。それは論理じゃない、常識じゃない、真理なんだよ━━
んで、その数日後のことだ。大量に買いすぎた特盛りプリンが食べきれず、ラップをして冷蔵庫の奥の奥に隠してあとで自分だけで食べようと思ったタノスケがラップを取るため頭上の例の棚を開けた瞬間だった。長いラップやらアルミホイルやらの雪崩が起きて、それらがいくつか下に落ちてきた。そして、運悪く、というか案の定式に、そこにはタノスケの大事な大事なプリンがあったのである。そして、落ちてきたそれらはプリンに直撃し、プリンを見るも無惨な姿にしたのだった。その変わり果てたプリンの姿を前にタノスケは怒りに震えた。
「だから言わんこっちゃねえ!」
何も言っていないのに、言わんこっちゃねえと確かにタノスケはそう叫び、怒りに震えた。で、リビングにいる冬美のもとへとドシドシ足を踏みならしながら行くと、どうしてくれるんだ、プリンが台無しになっちまったじゃねえかと責め。周りに飛び散ったプリンも綺麗に掃除しろよと顔を真っ赤にしたまま言うと、そのまま自分の部屋というかカーテンで区切られたスペースへと入っていったのだった。
自分のスペースでごろりと横になり、今怒られた時の、冬美のビックリしたような、悲しんでいるような顔がタノスケの心に浮かんだ。悔いと、嫌われたらどうしようとの煩悶もすでに心に生じはじめていたが、しかし自分棚上げ式の横暴他責思考の奔流は止まらず、タノスケはその奔流に飲み込まれたまま、顔からは怒りに怒張した醜い赤色が取れる気配はまったくないのだった。
んで、こういう、他責に怒っている時、タノスケは決まってマッチングアプリをいじくりだしてしまう。愚かな凶暴性と愚かな性欲はタノスケの中でいつも親しいのだった。
そうしてひっきりなしにマチアプをいじっているうち、タノスケはある女性とデートの約を取り付けることに成功した。そして、
「ちょっと気分転換に散歩してくる」
と嘘を言い、家を飛び出した。
行き先は上野だった。
小一時間でタノスケは上野の駅前に降り立った。上野だと行きつけのラブホ街がある鶯谷までは目鼻の距離であり、即時対応が可能となる。そのため待ち合わせ場所は上野が多かったのだ。
実はタノスケ〝即時対応の星〟の下に生を受け、その星の加護に守られながら生きている男なのである。だから、今述べたように待ち合わ場所にもこだわりがあるし、また、そのためもあろう、上野駅前に立ち、突如トントンと背中を叩かれたとき、タノスケのイチモツも即時対応し、たちまちに勃起を開始したのだった。
しかし、勃起しながらタノスケが振り向くと、そこにいたのは六十をゆうに超えていそうな婆だった。
━━大ハズレを引いたか!━━
一瞬でタノスケの顔は青ざめ、すでに七十パーセントに達していたイツモツ硬度は即ゼロパーへと、これまた即時対応的に低下したのだった。しかし婆は意外なことを言った。
「あなた、探偵のバイトに興味ない?」
━━なんだバイトの勧誘か━━
と思い、タノスケは安堵した。この婆は待ち合わせていた女性ではないのだ。
「探偵のバイトは儲かるのよ! 学生も主婦も、やっている人たくさんいるのよ」
タノスケはムッとした。この婆はタノスケの佇まいと放たれているオーラを見て、こいつは暇な生活をしている人に間違いないと踏み、それで声をかけてきたのだと知れたからである。
━━なんだこの糞婆。この僕を暇人扱いしやがって。四十に近い男をつらまえて暇人認定するなんて、そんなの、落伍者クズヤロウ認定するのと全くかわりがねえや。なんて失敬な奴だ。お前なんかどこかで躓いて転がってそのままドブ川にでも落ちて死んでズブズブに腐った腐乱死体にでもなっちまえ!━━
と心中で毒づいたが、しかし実際は自分が暇人であることはタノスケ自身、誰よりも承知済みの情けなさであり、胸がギュッと痛む。そうなのだ。紛れもなく暇だからこそ、こうやってマッチングアプリなぞいじくりまわして女性との約を取り付け、今こうしてここに立っているのだった。何かに打ち込み、懸命に前に進んでいる者であれば、こんな、興奮し気持ちいいのは最初だけで、後では必ず虚しさがしつこく襲ってきて何も残らないような、そして何より不潔極まるこんなことには決して時間は使わないであろう。超絶暇だから、タノスケはこんなことをやっているのだ。
しかもである。その暇というのは冬美の収入に完全に依存し切るという寄生虫ムーブを繰り出した果てに獲得したものなのだ。そんな濃縮クズ風味生活から生みだされた暇なのだ。
だが、これは言い訳に聞こえるかもしれないが、実はこのタノスケという男、かの〝リンカーンの星〟の下に生を受けており、そのため自由という価値を、意識的にも無意識的にも最重要視せざるを得ず、ゆえに働くことで自由を失うなんてことは真っ平御免を宿命づけられた、そういう純粋至極フリーダムの身の上であり、彼の座右の銘は〝たのすけの、たのすけによる、たのすけのための怠惰〟なのであった。
「どうなのよ!」
タノスケが一言も発せずにいたせいか、糞婆はイラついたのだろう、ふいにそう叩きつけてきた。短気なタノスケはこれに瞬時にムカっ腹心地になり、こいつにパイルドライバーを喰らわしてやりたいという狂衝動を覚える。パイルドライバーとは、小学五年生の時、因縁ある同級女子との一騎打ちで渾身の不意打ちグーパンをその女児の顔面に打ち込むもノーダメージ、そして反撃としてその女子に一方的に打擲されている時、これは勝てないと早々に覚り、タノスケは逃げようとしたのだが、その時タノスケはその女子の豪腕に腰のあたりをがっしり掴まれ、それから逃れようと体を捻り、向きを変え、タノスケが低くタックルのようなものをかまそうとしたのだが結果的にそれが仇となり、その女子の両足太ももによりタノスケは頭を万力の力でもってホールド固定され、そのまま腰を引き寄せられると、タノスケの体は頭を支点にして回転、足先を天に向け、頭を地の方向に向けた上下逆の体勢となり、宙に固定されたのだ。そして、そこからその女子は無慈悲にも垂直落下式パイルドライバーを放ち、タノスケは強かに脳天を床に打ち付け、一発で完全に敗北決定、ふらふらと這々の体にて、尻尾巻き式敗走を余儀なくされたのである。だからタノスケにとり、パイルドライバーという技は、因縁の技であり、そして、そのあまりの破壊力に畏怖し、自ら封印したという、フィニッシュムーブなのである。
━━その封印を、今、ここで、解いてあげようか?━━
自分では一度もやったことのない技なのに、タノスケは猛りながらそう思った。だが、その時、糞婆の表情は怪しく一転した。
「あんたの正体知ってるわよ! 探偵でしょ! それで正体隠せてると思ってるの! あんた今GPS使ってるでしょ! それで不倫してる男女の横とかに行って発信してるんでしょ!」
タノスケは目をパチクリさせた。バイト募集をしているのかと思ったら、今度はまったく支離滅裂なことを言うと思ったからである。だがこれにより完全にただの頭のおかしいだけの糞婆であることが知れた。
糞婆はタノスケを見上げながらにじり寄ってきた。その時タノスケは糞婆の手が背後に隠されているのに気づき、ギョッとなる。
━━や、や、やべえ! 本格的にやべえ! こいつ、刃物持ってんのか? 刺すのか? この無垢なる僕を刺そおってのか?━━
背後に飛び退き距離を取ると、一目散にタノスケは駆け出した。駆けながら一瞬振り向くと糞婆もタノスケを追って駆けていた!
タノスケは死に物狂いでダッシュした。決死の表情で人をかき分け、いくつも角をまがり、大きな通りに出てそこを信号無視で横断し、さらに駆け、見通しのよい公園に入り、そこでやっと、ここまで来ればもう大丈夫だろうと立ち止まり十分に周囲を見回した。周囲に異常ないことを確認すると、ようやくタノスケは膝に手を付き、しばし犬のように喘いだ。
次第に呼吸が整ってきて、自分の安全が確保されたことはもう確実だと覚ると、俄に湧き上がってきた余裕心地の中、先ほどの一連の出来事が思い出された。そして、意外にもタノスケは不思議な感覚になる。「あなた、探偵のバイトに興味ない?」と聞かれた瞬間、確かにタノスケの心の一部が晴れやかに踊り出した感覚があったのだった。その感覚に、遅ればせながら今自覚的になったのだが、自分がそんな感覚になったことがタノスケには不思議だった。
〝労働なんて真っ平御免だがお金だけはちょうだい主義〟なタノスケである。そんな自分なのに、なぜ心が躍ったのだろう。少し考えると、タノスケは閃いた。
━━ああ、そうか。僕という男は、きっと、真実に生きる男なんだろうな。だから、探偵が真実を明らかにする姿を想像し、それで嬉しくなっちゃったんだろうな━━
実際は、働いていないために激しい劣等感を抱えており、しかしそれを強引に抑圧し、そこから目を背けて生きているから、ふいに訪れた労働チャンスに刺激されるかたちで一瞬心が華やいでしまっただけのことだったのだが、そのような、真実がどうとか、そういう自分を心地よくする捏造的分析をタノスケはバカ面で閃いたのだった。
「探偵かあ。探偵もいいかもしれねえなあ」
タノスケという奴は、労働しようかと考えてみても、想像しているうちに結局は面倒臭くなって思考を打っ遣り絶対にやらない、そんな抛擲ムーブが毎度お決まり百%のくせに、妙にしみじみとそう呟いたのだった。そして一呼吸つくと、みるみる誠意の塊のような顔に変化し、タノスケは
━━真実に近づきたい! この嘘まみれの世界の中で、僕だけは真実に忠実でありたい━━
と、切に切に願った。
実際は、自分が嘘まみれだから連動式に世界までも嘘まみれであるように見えている、その可能性だってあるのに、タノスケはこの世界は嘘まみれだと、無知でバカなくせにそう決めつけ、その上で、この世界の中で自分だけは真実に忠実でありたいと、そうでなくちゃならぬと、そんな至誠にして信仰者的なことを、切に切に願ったのだった。
んで、そのくだらない一幕に区切りがついたタノスケは、気を取り直し、再び意気揚々マッチングアプリをいじくりはじめた。糞婆のせいで待ち合わせ場所からは移動してしまったが、幸いにも、待ち合わせをしていた女性と連絡が取れた。それで、なかなかに嘘っぽいが、今とんでもない糞婆に会ったことを説明し、ダメ元で待ち合わせ場所を鶯谷に変更してくれるよう懇願した。ラブホテル街として有名な鶯谷に呼ぶなど、これほどこちらの魂胆が見透かされることないと自分でも思ったのだが、この時は糞婆に殺されかけた興奮からヤケにハイになっていて、思い切りよくそう懇願したのだった。
すると、意外にもあっさりと了解され、鶯谷でその、二十点くらいの熟女と落ち合ったのだが、なんと、その後の下心展開もあっさりと了承され、タノスケはまた罪を一つ重ねたのであった。
ところで、どうして二十点の熟女にもイケルのか? との疑問も生じるだろう。企業秘密だが、その秘訣を今回特別に公開することにしよう。その秘訣とは、日々のたゆまぬ鍛錬、すなわち、エロ動画を見る際は、あえてストライクゾーンの動画は選ばず、大きく外れたボール球や、時には顔面直撃のデッドボール級のものをあえて視聴するというものである。この苦行は、たしかに滝行にも勝る痛苦に苛まれる壮絶な苦行ではあるのだが、その効果は覿面で、その苦行を重ねることにより、ストライクゾーンが少しずつ少しずつ確実に広がっていくのだ!
━━極大化されたストライクゾーンを持つ男、タノスケ。熟でも太でも、どちらの豆もイケル、二豆流。このドリチン短小バットが届くなら、すべての球(豆)を場外へと飛ばしてみせる、伝説のホームラン王━━
んな話はいい。
思わず調子こいた話をしてしまったが、もちろん、浮気なぞいう調子こいたことをすれば、調子こいたままでは終われないのが、このタノスケという男である。というのは、〝フック船長の星〟の下に生を受けているタノスケは何事にも片手落ちで、隠蔽したつもりの浮気の証拠を、結局最後はいつも必ず冬美に見つけられてしまうのが常だからである。
見つけられ、どうにか言い抜けようとするが、じりじりと土俵際にまで追い詰められ、必ず寄り切られる。そして、そこでようやくタノスケは遅ればせながら式の観念をし、毎回土下座で謝るのであった。
冬美には何十回も土下座して許しをこうた。今思い出されるあの光景は、一体何度目の土下座であったろう。
━━ダメだ! バレてる! もう言い抜けできない!━━
目の前の冬美は目にいっぱい涙を溜めて真っ直ぐにタノスケを見ていた。顔を真っ赤にしながら先ほど一つ一つ証拠を指し示した自身の右人差し指を左手でギュッと包んでいる。しかし、こんな非情かつ他罰に徹してもよさそうな時でも、冬美の表情が毎度のごとく今回も攻撃的にならないことを確認すると、タノスケの心の中では冬美に対する尊敬と愛しさが爆発。んで、何故にどうして自分はまたもやくだらないマチアプ女遊びなぞしてしまったのだろうと超絶激しい後悔心地。そのいたたまれない心地のまま、逃れようのない、いくつもの完全証拠を突きつけられ、もうダメだと、もう言い抜けできないと、タノスケは悟ったのだった。
そして、完全なる諦念から愁眉を開くと、刹那、タノスケは土下座をかました!
普通の土下座ではない。超高速スーパー土下座である。
そも、タノスケは〝プロ土下ザーの星〟の下に生を受けているのだが、冬美と暮らしている間にかまし続けた数十回の土下座により、すっかりその天賦の才は満開に開花し、タノスケは悠々とプロ化に成功していたのだった。
もうだめだ! 土下座して許しを請うしかない! と悟ったその百分の一秒後にはタノスケは全身からの〝濃厚メタモルフォーゼ感漂わし〟を完了し、そこから十分の一秒後には地上から約一メートル地点の空中にて土下座の姿勢が完成、更にそこから十分の二秒かけて床へと落下するのだ。そして落下の際、両手の平、両肘、両膝、両足の甲を同時に着地させることが極めての重要事である。各所の着地がバラバラになると、それは着地時に出る音が分散することで分かるのだが、そうなると衝撃が分散されず、怪我をする可能性が跳ね上がるのだ。そも、怪我をしたらもうそんなのは何をどう糞理屈をこねくり回して取り繕って言い抜けを謀ろうとしても、もはやプロ失格なのである。超高速スーパー土下座におけるプロとは、怪我をしない技術を身につけた者の異名でもある。
んで、怪我のリスクを極力下げ、決まれば誰の目にも美しさすら感じせしめる、それがプロ土下ザーの着地であるのだが、その原理は、柔道やプロレスの受け身の原理と基本全く同じである。地に着する全身の各箇所、その着地瞬間の音が、ドシ! と一つの音にしか聞こえぬくらいに全く同時に着地することで最も着地の衝撃を分散させることができるのである! これは基本中の基本である! プロ土下ザーならば全員できなければならぬ、出来なければすぐにプロ看板を降ろさねばならぬくらいの基本中の基本なのである! この基本中の基本たる着地をまったくの無意識でもって毎回オートマチック完全に成功できるようにならなければ、プロ土下ザーとは到底呼べないのである! 立派なプロ土下ザーになるには、そういう基本を大事に大事に繰り返し、ゆめゆめ疎かにしないことが、何よりも大事なことだと、タノスケは声を張り上げ、目を見開き、今ここでそう断言するのだ!
んな話はいい。
ともかく、んなわけで、タノスケはマチアプを駆使した色妖怪ムーブの証拠を掴まれ、一瞬で観念、んで、今回で都合三十五回目となる超絶高速スーパー土下座をかまし、着地も〝ドシ!〟と完全なる一音で決めてみせたのである。
んで、そのまま床に額を擦りつけて、タノスケは謝り続けたのだった。そのタノスケの情けない姿を冬美は涙をポロポロ流しならがら見下ろしている。
「もう、決していたしません! 今度こそ心を入れ替えます!」
ほとんど叫ぶほど、怒声と言ってもいいくらいの涙声で、タノスケは何回も何回も謝り続けた。こうやって謝れば、恐らくはあと数分で、冬美は関係修復の気配を漂わせ始めてくれるだろうと、過去の経験から、そう予想しながら、また、夫婦の絆というものは毀損されても何度でも回復するような、そんなどこまでも強固なものだと独り決めに盲信し、その絆の上で呑気に胡座をかきながらの、極めて誠実性に欠ける、極めて姑息な土下座謝罪である。
ところで、夫婦の絆といえば、これは実に今更な話なのだが、書いておかねばならないことがあった。
それはタノスケはこれまでこの手記中、当然のように、そして散々に、冬美のことを〝妻〟と呼称していたし、また、夏緒と春子のことも〝娘〟と呼んでいたが実はタノスケと冬美、正式な夫婦ではない。そして、夏緒と春子もタノスケの正式な娘ではない。何故といえば、出会ってから別れるまでの十年という長き年月の間、一度として、冬美とタノスケは婚姻届を役所に提出するあの正式な、法律上の〝結婚〟をしていなかったからである。
もちろん、籍を入れようとしたことはあった。優しく寛容な、しかも余裕に十人並みを超える可愛らしい容姿の冬美に心底惹かれていたのは事実だし、これは我ながらツッコミどころの多い話だが、終生三人を養っていく不動の決意がタノスケの心に固く芽生えたのも事実だったからだ。
しかし、入籍しようとしたその時、障壁として立ちはだかったのが冬美の両親だったのだ。
冬美の両親は、父親が社長で、社員数十人のプレス加工工場を経営していた。この規模の企業を何十年にも渡り維持発展させていくことは並大抵のことではないとの話をどこかでタノスケは聞いたことがあるが、どうやらその話はその通りの面があるようで、その並大抵でない長の経験の中で冬美の父は、そしてついでにその父を近くで支えていた冬美の母親も共に、人間と向き合うと、その人間の人としての本質を見抜く眼力を備えたようだったのだ。
そしてその父母は、獲得した自分たちの眼力の正当を自分たちでもって心底の心底から信じ切っており、そしてその信はその眼力による見極めの成果が会社をここまで維持発展させたという事実によって、それを成し遂げてきたという自負によって、堅固強靱に補強されているようだった。
当時、タノスケはその眼差しに大いに反発をおぼえたものだが、しかし、十年経ち、このような一家離散の事態を引き起こした自分の人間としての本質を鑑みるに、今では冬美の両親の心眼はタノスケのような男には一家をなす度量も資格もないという真実を見事に見抜いた実に慧眼であったと、そう平伏し認めざるを得ないと思う。だが、当時は、
「……入籍に反対されたよ」
と、いつもは向日葵のような明るい顔の冬美が一転、暗い顔でそう告げてきた時は、実はタノスケとしてはそも入籍などしてもしなくてもそんなのはどちらでもいいくらいに思っていたくせに
━━にゃろう。よくもこのポテンシャル傑物の僕を見くびりやがったな。社長だかなんだか知らねえがたかだか社員数十人の小汚ねえプレス工場じゃねえか。そんなのその辺で賞味期限切れの芋けんぴ売ってる屋台のオヤジと一つもかわるところがねえや。だいたいよお、プレスと言えばこの僕なんだわ。なんと言ってもよお、僕は小学生の頃兄ちゃんにプロレス技の、あの、コーナーポストに登ってダウンしている相手目がけてダイブするボディプレスって技の手ほどきを受けたほどの漢なんだからなあ。何なら今度よお、ご自慢のプレス工場の中でよお、二人まとめて僕のボディプレスでペシャンコにプレスしてよお、二人仲良くお陀仏ポンて具合にさせてやってもいいんだぜえ?━━
なぞ、心中で毒づいてやったものだ。
ちなみにボディプレスを教えてくれた兄ちゃんというのは次兄のことで、これまた言っていなかったがタノスケは群馬のギリ関東平野に含まれない町で男ばかり三人兄弟の末っ子として生を受けた。長兄は今や他県で立派に社会に適合して生活しているのだが、この次兄というのは現在に至るまで約二十年、実家で引き籠もっている。引き籠もる前の次兄は読書家で思想系の本を読むことが多かったが、それだけにとどまらず基本的にはジャンルにとらわれずとにかく沢山の本を読み、面白いものはほとんど文盲状態の悲しき弟タノスケにもすすめてくれたりした。そして、そのオススメ本の中にプロレスの技を解説した本があり、数々の技の中でボディプレスだけが何故かカラー写真で載っていて迫力抜群であったことからタノスケはその技に強いに憧れを抱いたのだった。
「ヒデ兄、僕この技やりたい!」
ヒデ兄こと次兄は運動が苦手だったのだが弟の要望を聞くと一つ息を大きく吸い込み、すぐに家中の座布団を集め始めた。そして、重ねた座布団の横に椅子を持ってくるとその上に立ち、ボディプレスの練習を始めたのだった。見様見真似で何度かやったが次兄は全くもって上手くできなかった。
「タノスケ。俺がコツ摑んで、それをお前に教えてやるからな。ちょっと待っててな」
その言葉は少年タノスケの胸に温かった。本来はこういう時、自分もやる自分もやると言い出し、うるさいほど出しゃばる質のタノスケなのだが、この時ばかりは重ねられた座布団から一メートルほどのところにちょこんと体育座りに座り、ドシン! ドシン! と何度も繰り返される次兄の奮闘を鼻を赤くしながら嬉しげに見つめ続けたのだった。
思い返してみると、タノスケには似たような温かな記憶が次兄との間にいくつもある。そのためか、社会に適合できた長兄よりも、適合できなかった次兄の方が、タノスケは好きなのである。
実はその次兄だが、タノスケの一家が崩壊した影響では断じてないのだが、タノスケの元を冬美と夏緒と春子が去ったあの日からほんの数週間後、自室で亡くなっているのが発見された。発見したのはタノスケの母であった。
何十年もゴミで埋め尽くされた部屋で生活とも言えぬ生活をたてていた次兄に対しタノスケは亡くなるまで何一つ手を差し伸べていなかった。むしろ、次兄に父母の注意が向いている状況を奇貨として利用し、遊興費に不足したときなぞは暗躍して実家の金に手を付けるなぞいう窃盗まがい(というか窃盗そのものだが)のコソ泥ムーブまで繰り返し、間違いなくこの次兄が引き籠もっているという状況を幸いにすら感じていたフシが確かにあるのだ。タノスケはそんな実に冷酷薄情な冷血動物なのである。
冷血なるタノスケにとって次兄の苦しみはどこまでも次兄の苦しみだった。だから当然に自分の胸と次兄の胸は全くの別物と思っているし、あの日、少年タノスケの胸が温かくなったとき次兄の胸はどうだったのか、その辺のことについては、人としての素朴な想像力すらタノスケには働かないのであった。これは紛れもないタノスケの性根の一つであるし、また、そういう経緯、本人にとっては胸が熱くなり、大事な思い出ともなった経緯で次兄より授けられ習得したその大切な技を、入籍に反対した、どこまでも娘を庇護したいだけの冬美の父母に対して強かにくらわせることを想像し今にもヨダレを垂らしそうな、そんな歪んだ醜い笑顔になったというのも、これもまた紛れもなくタノスケの性根の一つなのであろう。タノスケは、ほんとうにどうしようもない冷酷非道な性根を持つ男なのである。
タノスケも自身の冷酷非道っぷりは自覚しているのだが、それを初めて自覚したのは、はな中学生の時だった。 その、中学生の時のエピソードを語るには、そこから更に遡り、小学生の時のこともまずは記さねばならない。
小学生の時のタノスケは、友達と池に釣りに行って、友達が釣り上げた小魚がたくさん入っているバケツにコーラをぶち込み、苦しみ飛び跳ねる小魚を見て笑い、友達からは「ひどいことはやめろ!」とよく本気で怒られ、呆れてもいたのだが、それでもバカなタノスケは自分のことを冷酷非道な人間だとは思ったことがなかった。というより、自分という人間はどういう人間か? という問いを、そも考えたことがなかった。自分は一体どういう人間なのだろうか、少しはそのことについて考えるようになったのは、そのキッカケとなったのは、タノスケの初恋だった。相手はクラスの女子だった。
その女生徒は小学三年の時「タノ菌がうつる」なぞ寄ってたかって方式でもってクラス中から強かに言われ、明らかに虐められていたタノスケを守るべく、クラス全員を敵に回す覚悟で「そんな菌ないよ!」と言い放ち、タノスケに寄り添ってくれた女生徒である。名をユオと言う。
ユオには、障害を持ったお姉さんがいた。同じ小学校の特別教室に通うそのお姉さんを、ユオはいつも守るようにして歩き、一緒に下校していた。
あれは「そんな菌ないよ!」と言い放ちタノスケを守ってくれた日より、少し前のことだった。ある日の帰り道、高学年の女児達五六人に、ユオのお姉さんが罵詈雑言を浴びせられている場面にタノスケは遭遇した。ユオのお姉さんは日頃大人しい、いつも柔和な顔をしている人だが、その時の表情は怒っているように見えた。お姉さんの横にはいつものようにユオがいた。ユオは横から、自分よりもずいぶん大きなお姉さんの体を抱き絞め、しきりに
「お姉ちゃん行こう。行こう」
と言っていた。
ユオとお姉さんは、ぎゅっと一つになりながら、そのいじめっ子たちが両脇に立つ道を歩いて行った。その一部始終を少し後ろからタノスケは見ていたのだ。冷酷なタノスケは、二人を助けようとすら思わなかった。その哀れな二人の後ろ姿を、ただ、
━━ああ、いじめられているな━━
とだけ思い、ぼんやり見ていただけだった。タノスケは自分を情けないとも思わなかった。それよりもコレを渡さなきゃ、とタノスケは思うだけだった。その日はたまたま担任の先生よりユオに渡してくれと託されたものがあったのだ。
ユオは絵の才に恵まれている子だった。だから、あっちこっちでいくつも賞をもらい、頻繁に学校に賞状や盾が届いていた。それらのうち特に大きな賞などは、学校の入り口の目立つところに飾られているのだったが、後から後から届くので、定期的に入れ替える必要が生じ、入れ替え作業が終わると担任は今まで飾ってあった賞状や盾を袋に入れてまとめて家に持ち帰るようユオに渡すのだった。だが今回はそれを担任がユオに渡し忘れ、自分のデスクの上に置いておくのも邪魔だと思ったのだろう、ユオと通学路を同じくするタノスケを見かけると呼び止め、追いかけてこれを渡すようにと依頼したのだった。
だから、その賞状やら盾やらが入った紙袋が今タノスケの手にはあり、これを、お姉さんと寄り添い歩いているユオを呼び止め、渡そうと思ったのである。
いじめっ子の目が届かなくなったところで、タノスケはユオに声をかけた。
「おーい。ユオー。これー」
振り向いたユオの顔を見て、タノスケは息を飲んだ。目に涙がいっぱいだった。
「だ、だいじょうぶ?」
思わずタノスケは尋ねた。お姉さんも心配そうにユオの顔を見ている。その視線に気づいてユオは慌てて涙を拭いた。そして
「うん。だいじょうぶ」
と言うと、タノスケから紙袋を受け取ったのだが、受け取る瞬間、スッとタノスケに顔を寄せると、お姉さんには聞こえないがタノスケにはギリ聞こえる小声で
「恐くて何もできなかったよ。情けないね」
と悔しそうに言った。言った瞬間、ユオの涙が一粒、ポロリと落ちた。
タノスケは、その涙が日の光を受けてあまりに輝いて綺麗だったので思わずドキッとしたのだが、その〝ドキッ〟にはそれだけではなく、自分が何もせずにただ傍観していたことが実はユオにバレていたのだと、それをその瞬間初めて知ったという驚きも入っており、更にそれに加えて、彼の中に瞬間生じた重い悔恨の情も、その〝ドキッ〟には確かに雑じり入っているようだった。
荷物を受け取り、ありがとうと言うと、ユオはまたお姉さんの腰に手を回し、もうタノスケを振り返ることなく帰っていった。
それから暫く経った頃である。いつの間にかタノスケがクラスでイジメの標的になっていた。「タノ菌がうつる」なぞバイ菌扱いされて皆に避けられ、すると不思議なもので、次第にタノスケの方でも自分は本当にひどく汚いような存在であるような気がしてきて、ふいに誰かにちょっとでも接触してしまうと、相手の子に本当に悪いことをしてしまったような贖罪の気持ちが自然に身の内より湧き上がってくるようにすらなっていた。
そんな日々がどれだけ続いたのか、あれは休み時間だった。場所は教室で、先生はいなかった。短い休み時間だったから誰も校庭に遊びに行っておらず、その持て余し気味の時間に、暇つぶしのようにタノスケは周囲からバイ菌扱いする言辞を投げかけられていた。タノスケは自分の椅子に座り、教室で一人孤立していた。
その時、スッとタノスケの横に立った生徒がいた。ユオだった。ユオは皆の向かって言った。
「バイ菌なんかじゃないよ!」
そして、ユオは堂々とタノスケの肩を抱いた。かつて自分を見捨てるも同然、全く助けようとすらしなかったタノスケの肩を抱いたのだ。タノスケは震えた。
その光景を、ちょうど教室に入ろうとしていた担任が見ていた。目を見開き、固まっていた。この担任は日頃からタノスケを面白く思っておらず、タノスケが虐められているのを知ってもあえて対応していなかった。しかし、このユオの行動を見て、後々マズい展開になることを予期したものか、次の授業の冒頭、皆に向けて
「タノ菌なんて二度と言ってはいけません」
と指導した。
指導の効果は、ユオの毅然としたあの態度が皆の脳裏に鮮明であったためか、抜群だった。それからぱったりとタノスケは虐められなくなった。タノスケは嬉しかった。イジメがなくなったことも嬉しかったが、あの時、ユオに肩を抱かれたときに経験した震えの感触が、いつまでも消えないのが嬉しかった。ユオはきっと、お姉さんを守れなかったあの日から、忸怩たる思いを噛みしめながら自分を叱咤鼓舞して育て、いつしかクラス全員に一人で立ち向かうほどの勇気を獲得したのに違いなかった。お姉さんがいなければ、毎日お姉さんと歩まなければ きっと得られなかったであろう強さをユオはその身に宿したことになる。タノスケの身体に残る震えの感触は、おそらく、人間が一人で獲得できるレベルを遙かに超えた強さ、それに触れた感動の震えなのだろう。
以来、タノスケはユオを憧れの目で見るようになった。そして次第にその目は、初恋の色にも染まっていったのだった。
しかしタノスケは想いを告げられぬまま、ユオと一緒に、ユオと同じ中学へと進学した。
中学に入ると、ユオは世間から本格的に評価されはじめた。学校には雑誌やテレビの取材も来るようになった。
中学三年。高校は別々になるだろうと思ったタノスケは、卒業までにはユオに思いを告げようと誓っていた。
卒業が近づいたある日、意を決して告白するため、タノスケは美術室に向かった。
美術室のドアは少し開いていて、そこから中が見えた。夕日のオレンジ色でいっぱいの美術室。ユオと、ユオのお姉さんがいた。お姉さんはこの中学を二年ほど前に卒業していた。今日はユオに呼ばれて来たのだろう。ユオはお姉さんの顔と大きなキャンバスを交互に見ながら筆を軽やかに動かしていた。お姉さんのを描いているのだった。
真剣に筆を動かし続けるユオを、その傍らに置かれた椅子にちょこんと座り、お姉さんは上気した顔でニコニコ見つめていた。多動で、いつも動き回って制御が難しいイメージがあるお姉さんが、こうも大人しく座っていることは非常に意外なことに思われたが、次兄からボディプレスを教えてもらうとき、同じく傍らで大人しく座っていた経験のあるタノスケは、お姉さんの気持ちがぜんぶ分かった。その日、結局想いは告げられなかったが、タノスケはユオとユオのお姉さんと一緒に夕日のオレンジで塗りつぶされ、心から幸せだった。
それから数日後、突然ユオは倒れた。不治の、どうしようもない病だった。緊急に入院し、面会も出来ないまま、ユオは亡くなった。亡くなったのは卒業式、当日だった。
春まで、気を失ったようにタノスケは過ごした。
そして、ある晴れた日、タノスケはユオの家を尋ねた。せめて仏壇に手を合わせたいと思ったのだ。
ユオの家に着くと、玄関は開いていた。田舎では珍しいことではないが、
「すみませーん」
声をかけても、何の応答もなかった。中からはテレビニュースの音が聞こえていて、誰がいるのは確実なのに、何の応答もなかった。
もう一度、今度はさっきよりもずっと大きな声で、
「すみませーん!」
と言った。
突如、声をかき消すためか、ニュースの音量が何倍にも急激に大きくなり、その音に晒されながらタノスケは立ち尽くし、してるうち、涙が、滝のように流れはじめた。ニュースは、戦争の一場面を流しているのか、乾いた銃声が何発も何発も聞こえたが、それはすべて画面から飛び出し、タノスケに命中した。
体中から血を噴き出しながら、タノスケは恐ろしいことに気づいた。それは、自分の心の中に、もしかしたら、仏壇に手を合わせて泣き、それによって気持ちよくなりたいとの、感動ポルノ的欲求が絶対にないとは言えない、という気づきだった。
先ほどテレビの音量を急激に上げた、ユオの家族の誰かは、タノスケの来訪を告げる声から敏にそのことを感じとったのではないか。だから防御として音量を上げ、世界のどこかで行われている戦争も、その銃口をすべてタノスケに向け引き金を引いたのではないか。
大音量の中、タノスケはユオの笑顔を思い出しながら、自身から噴き出しできた血だまりの中心に棒立ち。そして、自分ほど冷酷なクズはいない、そう確信したのだった。
そして、その時に固まったその確信は、この年齢になるまで一度も揺らぐことはないのだった。
……だから、冬美の両親に自分の本質を見抜かれ、入籍を反対された時も、当初は反発もしたが、しばらくして深く納得もしたのだった。
そういえば、冬美に出会ったその日に、彼女が障害児施設で働いているということをタノスケは聞いた。ユオのお姉さんのこともあるので、興味津々に聞いた。冬美が働いている施設でも、ユオのお姉さんと同じダウン症の子が何人もいるとのことだった。
冬美は、子供たちから力をもらっていると語っていた。タノスケはその話を、ユオに肩を抱かれた時のあの震えがいまだに自分の身に蘇るのを感じながら、真剣に聞いた。
タノスケには、それが冬美との付き合いが好スタートを切れた要因であったような気がするのだった。
しかし、タノスケという男は愚か過ぎた。そんな好スタートを切りながら、程なくして冬美に対し、酷いことを言うようになった。漠とした表現ではあったが、障害児は生産性の観点から価値がないようなことを言うようになったのだ。誰よりも自分が一番生産性が低いくせに、よくそんなことを言えたものだが、確かに言ったのだった。
これは、もしかしたら自分の劣等感の歪んだ発露であったのかもしれないし、もっと露骨に言えば、冬美の仕事を価値のないものだと見做し、もって自分が優位に立ちたいというクズすぎる欲求によって変容させられたあの日の感性のなれの果てかもしれなかった。真相は分からないが、いずれにしろ、取り返しのつかないことをタノスケは繰り返し言ったのだった。
だから、このような言動からタノスケの人間としての真実が評価されたのならば、それはタノスケとしては何も言えないことなのだ。
冬美の両親もこのようなタノスケの人間としての真実を早々に見抜き、一貫して入籍に大反対していたのだと思う。そしてまた冬美も、当初こそその底抜けの人の良さにより見抜けなかったものの、十年もの間、一つ屋根の下で暮らすうちに、次第に前記のものに限らぬ、幾つものタノスケの醜悪極まる性根に気づき始め、同時にそれらが軒並み全て矯正不可能だという確信にも至り、二人の娘を連れて家を出るという決意を固めたのだろう。
そんなことを考えていたら、誰もいない部屋に一人でいるのが辛く、思わずタノスケは家を飛び出した。
足は自然と公園に向かっていた。思い出の公園だ
公園に着き、ベンチに座っていると、ふいにキンモクセイが香った。
もうそんな季節かと思った。自販機で買ったMコーヒーを飲みながらタバコに火をつけた。
世間では健康志向が高まっているのか、甘い缶コーヒーには糖質が大量に入っていて、それは急激に血糖値を上げるので身体に悪い、避けるべきとの言説がある。そういう説をタノスケはたまに目にする。その説からすると、タノスケがいつも好んで飲んでいるこのMコーヒーはもっとも甘いから、ゆえに身体に悪いとされる缶コーヒーの中でも一等身体に悪いだろうと思う。だがタノスケは、このMコーヒーが缶コーヒーの中で〝もっとも甘い〟から好きなのだ。
━━身体に悪かろうがなんだろうが、そんなの関係ねえや。冬美と夏緒と春子が出て行ってしまったこんな現状ではよお、健康になんか気をつけても仕方ねえや……。もっとも、三人と一緒に暮らしていた頃から健康になんか気をつけてねえけどもよお━━
ため息とともに煙を吐き出した。
━━それによお、〝天才数学者の星〟の下に生を受けている僕に言わせればよお、缶コーヒーというマイナスにタバコというマイナスをかけ合わせたらよお、つまりは結句、プラスなんだわ━━
虚しさを紛らわすように一気にMコーヒーを飲み干した。左前歯に虫歯があり、そこに甘いものが触れると痛むので、口内の右側だけを通す器用な、というか変な飲み方である。
またキンモクセイが香った。タノスケの胸がチクリと痛む。
━━夏緒と春子、元気かなあ? バレーボール上手くなったかなあ?━━
冬美が二人を連れて家を出る、その約一年前、夏緒と春子はバレーボールを始めた。地域のママさん達がコーチを務める少女バレーボールクラブに入ったのである。月に十回以上活動するのに、親が月謝として払うのは必要経費分だけ、たったの二千円ということだった。コーチは完全にボランティアなのである。これにタノスケは感服すると同時に深く感謝し、さらに大いに恥じ入りもした。というのは、十年前、冬美夏緒春子と四人、この地で暮らし始めたとき、タノスケは誘われてこの地区の消防団に入ったのだが、しかし、それはボランティア精神からではなく、入団したら酒をたくさん飲ませてくれるという話に容易く説得されたからである。実際、入団後は消防団の先輩達は好きなだけタノスケに酒を飲ませてくれた。おそらくそこには(がんばれよ!)という鼓舞の意味も大きかったのだと思うが、そんなのはタノスケに効くはずもなく、タノスケは訓練をサボれるだけサボり、たまに訓練に出ても手を抜き放題のいい加減さで、火事で出動した時も、ちょっとガスの臭いがしただけであっという間に現場を放棄、仲間達を置き去りにして逃げ出す始末。まったく、完全に自分責任だが、地域に貢献しているという実感も、ボランティアをやっているという実感も皆無であった。
それに引き比べてこの少女バレーのコーチ達はどうだろう。これこそが真の地域貢献、真のボランティアだと、タノスケは深く恐れ入った。そして、〝お殿様の星〟の下に生を受けているタノスケ心中でコーチ達に向け
━━これからも励め!━━
と、景気よく檄を放ったのだった。
キンモクセイが香った。再びタノスケは陶然としたバカ面になった。キンモクセイの香りには思い出があるのだった。
春子と夏緒がバレーボールを習い始めたばかりの頃だった。
「よし! パパがバレーボールというものを教えてやる!」
タノスケの言葉に訝しい顔になることもなく、子どもらしく素直に二人は顔を輝かせた。
タノスケは二人を連れ、スポーツ用品店に行くと、
「チームで使っているのはこのボールだよ」
と夏緒が指し示したボールが箱入りでしっかりしていて、予想よりもだいぶ高かったので、その下のカゴに裸のまま乱雑に積まれていた五分の一くらいの価格のボールを手に取ると
「夏緒、外で使うにはこのメーカーのボールが一番いいんだよ! このメーカーはアウトドア系インドアボールメーカーなんだよ」
と、わけの分からぬ嘘を言った。そして、そんな嘘に対し、そうなんだ! と知識が増えた喜びを表情に表す素直な夏緒を得意気な気分で横目に見ながら、金額の多寡なぞまるで分からぬ幼い春子にボールを持たせ、三人でレジへと向かったのだった。
そして、その買いたてのバレーボールを持って、意気揚々来たのが今いるこの公園だったのだ。
三人で夢中でパス交換をして遊んだ。俺が教えてやるよとイキがりながら、どうやら一番下手らしいタノスケに夏緒と春子は自身も習い始めたばかりでほとんど知識もないのだが、コーチ達に教えてもらった基本中の基本を一生懸命あれこれとアドバイスしてくれたのだった。娘二人の指導を受け、無心にボールを追っているうち、タノスケはバレーボールというものが好きになった。今までタノスケにとってバレーボールといえば、テレビで女子日本代表の試合を卑猥な目付きでもって眺めるだけのものだったが、これからはそれだけでなく、プレーの内容にも少しは目が行くような気がした。
その時、またふいにキンモクセイが香った。それに対し
「キンモクセイの香りだ!」
と、まず夏緒が言い、
「ほんとだ!」
と春子が続いたのだった。
こういう時、凡百の父親ならば「いい香りだね」とか、「ほんとだー」とか、そういうつまらない返しをするだけだろうが、ここはやはりと言うべきか、タノスケはちと格が違う。
「ほほう、夏ぽんと春ポンは不意打ちをくらったわけだね」
夏緒と春子はキョトンとした顔になった。タノスケは子ども相手に勝ち誇った、実に大人げない顔になり、
「パパはねえ、そろそろ来るぞ! そろそろ来るぞ! 今年初のキンモクセイの香り、そろそろ来るぞ! 来るぞ! 三、二、一って感じで心で待ち構えてたよ。で、実際、一の次の瞬間に来たよ! だから不意打ちは喰らわなかったよ! 今キンモクセイの香りが来た瞬間、ああ、今年も予想通りだな。完全に予想通りのタイミングだな。想定内も想定内のド想定内だなって感じだったよ。夏緒と春子もパパを見習って常に気構え心構えが完璧な人間を目指しなさい。そうすれば、不意打ちなんかとは完全無縁な、悠々とした人生を手にすることができるから!」
その時、
「あ! ごめん!」
夏緒が打ったスパイクが、手元が狂ったのか、タノスケに一直線。油断し、まったく気構え心構えができていなかったタノスケの顔面に直撃した。春子が笑った。
「痛! ふ、ふ、不意打ちやめろよ!」
情けない顔でそう抗議するタノスケに夏緒も笑った。子ども二人の笑い声が重なって、こんなに耳に心地よいものはないとタノスケは思った。
Mコーヒーの缶を強く握った。根元までタバコを吸うと、タノスケはそれをMコーヒーの缶の縁で消し、飲み口より缶内に投入した。そしてまた一つ重い息を吐くと、顔を上げ、目は虚ろ。そして、
━━また不意打ちを受けたい━━
と思った。
顔を上げると、コンビニの看板が目に入った。夏緒や春子とよく行った思い出のコンビニである。そのコンビニを方をタノスケは呆然と見つめた。
あれはいつのことだったか。あれは夏緒が六才くらいの頃だったと思う。
あの日タノスケは夏緒と二人、この公園で遊んでいた。柔らかな陽射しの中、遊んでいるうちに二人は腹が減ってきた。んで、小腹満たしに何か買おうかということになった。
コンビニに入るとタノスケがカゴを持ち、軽食だけでなくちょっとしたお菓子や飲料なども買うことにしたので、夏緒は好みのものを次々とカゴに入れていったのだが、その時タノスケは自分が食べるものはどれにしようかとサンドウィッチの棚を熱心に見ていて、夏緒がカゴに何を入れたのかはよくチェックしなかった。
んで、会計時。タノスケは驚愕した。店員が次々商品のバーコードを読み取る段になって初めて気がついたのだが、カゴにはなんと〝贅沢イクラおにぎり〟なるものが入っていたのだ。
贅沢イクラおにぎりのバーコードが読み込まれ、ピッと音がした瞬間、モニターには〝二百八十円〟という金額が表示され、タノスケにはそれはおにぎり一個に使う金額としては天文学的数字に思われ、ピッというその人工的な電子音があまりにも脳深く突き刺さってきて、クラクラした。
店を出るとタノスケはすぐに屈み込み、夏緒と目の高さを合わせて向かい合うと、動揺を抑えながら
「な、な、な、な、なっちゃん! イ、イ、イ、イ、イクラおにぎり、す、す、す、好きだっけ?」
と問うた。
「ううん。食べたことない」
「な、な、な、なら、ど、ど、どうして買ったの?」
「(友達の)◯◯ちゃんがね、いつもイクラおにぎり三個食べてるんだって!」
夏緒は柔らかな春の陽射しの中で、その陽射しよりも柔らかく暖かく笑った。無邪気が輝きとなって周囲に放たれるような笑顔だった。
「パパにも一口あげようか?」
夏緒の笑顔が眩しい。あまりに眩しくて、小言を言おうとしていたタノスケだが、言うのは後にしようと思った。もう買ってしまったのだからどの道食べるしかないのだ。ならば美味しく食べた方がいい。今小言を言ったら、それはこの無邪気な笑顔に徒に影を差し込み、もってこれから食べる飯をただマズくするだけの愚行だと思った。
━━後で言うべきことは後で言うべきだ!━━
実はこのタノスケ、〝ダンディの星〟の下にも生を受けた大人で、そのためこのように分別のあるダンディな判断ができるのだった。しかもその持ち前のダンディズムゆえ、一度決断したら何があってももう決してブレないという、つまり端的に言えば、タノスケという男は常時シックに黒光りする男前なのである。
「ありがとう。でもパパはあまりイクラは好きじゃないから……」
ダンディにキラリと歯を輝かせながらタノスケは言ったのだが、その時だった。280円という予想外の出費がボディーブローのように時間差で衝撃をもたらし、その衝撃に誘発されるかたちでタノスケの脳裏に巨大な焦燥が過った。
━━今月のエロ貯金、足りなくなるかも!━━
〝エロ貯金〟とは、タノスケのライフワークであるマチアプ穴漁り活動において、その努力が実った暁には最低限どうしても必要となるお銭を貯めておいたもののことである。
実はこのタノスケという男、けっこう計画性のある男で、何を隠そう〝NISA(ナイスなインコウ、サオとアナ)の星〟の下にも生を受けているのである! だから、テレビやネットなどでNISAのコマーシャルを目にするたび、タノスケは半ば呆れた余裕たっぷりのハニカミ笑顔でもって幾度か悠然と首肯するのである、短小ドリチン愚息と一緒に!
んな話はいい。
ともかく、今月は〝エロ貯金〟が不足しているのであった。タノスケに収入はない。だから、エロ貯金の出所はすべて内縁の妻冬美ということになるのだが、冬美とて障害児施設で働く一職員に過ぎず、その給金はたかが知れている。毎月給料日までの十日間くらいは、タノスケが冬美の財布へコソ泥ムーブを繰り出してみても、そこはすっかり枯れ果てた水源のような案配で、手に握れるのは雀の涙ほどの額なのである。そして、今日はまさにその枯れ果てた十日間にあたるのだった。
タノスケは狼狽えた。すると、先ほどダンディゆえ決して言わぬと、そう決断したはずの夏緒への小言が呆気なくダダ漏れに漏れてくるのであった。
「あのね、なっちゃん。贅沢イクラおにぎりはね、絶対に買ってはダメだよ。どうしてかと言うとね、値段が高すぎるんだよ。◯◯ちゃんの家はお金があるからいいけど、うちはお金が無いんだよ。どうしてお金がないのかというとね、実はパパ、〝清貧の星〟の下に生を受けているんだよ」
タノスケの表情がいつになく険しいのを認めると、夏緒はハッとし、今にも泣き出しそうな顔になる。そして、
「ごめんなさい」
しょぼんとうなだれた。
これにタノスケは胸が潰れる思いだった。貧乏である理由は清貧を宿命づけられているからなどではもちろんなく、単にタノスケが五体満足なのにも関わらず一向に働かずに怠惰をむさぼり、いつまでも冬美に対し執拗な寄生虫ムーブを繰り返しているからなのである。しかも、タノスケはタバコもたくさん吸うし、酒も大量に飲む。ゆえに、おつまみも大量に要る。さらには、例のマッチングアプリの決して安くない料金も就職のためどうしても必要な英語学習アプリだと嘘を言って冬美の口座から引き落としにしてもらっているのである。
━━何から何までこの貧乏は僕という存在に起因している!━━
ここに至りタノスケは明確痛切に自覚した。
━━夏緒はなんでイクラおにぎりを一個買ったくらいで怒られなきゃならないんだ! 夏緒の苦しみの、その責任はすべてこの僕にある!━━
で、このように自覚したのであれば、そうであるならば目の前のか弱き者をケアしなければならない。今それが出来るのは自分だけなのだから必ず自分がやらなければならない。そのくらいの判断はタノスケレベルの痴能指数でも確とできる。本当に、確とそう判断できるのだが、しかし、実はこのタノスケという男、〝ブーブークッションの星〟の下にも生を受けており、とにかく重さに耐えられない体質なのである。ゆえにこの時もその痛切な自覚によってもたらされた罪責の重さに耐えられず、弱者をケアすべきとの判断はあっさりとペシャンコになり、ふいにブゥーと出たオナラと一緒に脆くも崩れ去ったのだった。そして、あろうことか目の前のか弱き夏緒をさらに責めるような口調で、とにかく口から出任せに、子育てしてるっぽい訓示風言辞を弄しはじめたのだ。
「なっちゃん、あのね。パパの目を見て真剣に聞いて。あのね、なっちゃん、誠実さこそ最大の価値なんだよ」
どの口が言ってんだというセリフだが、確かにタノスケはそのセリフを口にした。相手が幼児なのをいいことに、確かにそのセリフを口にして詰めた。そして続けて
「見えないものをこそ恐れよ!」
ビシッと言い、夏緒はもはや何を言われているのか分からないという顔をしていたが、タノスケも実は自分が何を言っているのかよくわからなかった。ただ聞きかじりでも何でもいいからとにかく真理の芯を喰っていそう感のある、〝それっぽいこと〟を、言葉に余白を持たせぬまま断定口調でもってピシャリと言い、眼前の相手を叩き潰し、絶句させ、それを見て自分は完爾と笑う。これにより脳内でブシャっと快楽物質が噴出して、とにかく気持ちよく、その気持ちよさにより自己の罪責の重さから目を逸らすことができるのだ。
「なっちゃん! 本当に大事なものは目に見えないんだよ! でもね、その〝見えないもの〟はいつも僕たちを見ている。その、いつも僕たちを見ている〝見えないもの〟を満足させるような生き方こそが善い生き方なんだよ!」
そう言った。隠れて妻の財布から金を抜いて、それを資金にコソコソ浮気しているような男が、別に隠れてイクラおにぎりを買ったわけでもない娘に対し、そう言った。そして更に、
「イクラおにぎりには栄養が無いんだよ。それに比べて鮭おにぎりには栄養がいっぱい入っているんだよ。イクラおにぎりの百倍も入っているんだよ。なっちゃんはこれから大きくならなきゃいけないでしょ? だからパパはイクラおにぎりじゃなくて、安い鮭おにぎりを食べさせたいんだ!」
という嘘まで言った。
素直な夏緒はタノスケの嘘を申し訳なさそうな顔で、自分を思うがゆえの親の教導として受けた。その姿にタノスケは、親は正しいという前提でしか生きられぬ子どもの哀れを見、自分を棚に上げ、可哀想すぎて悶絶心地。
とあれ、なんとか気を取り直して公園のベンチに座り、おにぎりを食べはじめた二人だが、それはちょうど食べ終わった頃だった。公園の向こう側から夏緒を呼ぶ声がした。保育園のお友達だった。
「あ! ◯ちゃんだあ!」
「行っておいで」
「うん!」
夏緒を見送ると徐にタノスケはコーヒーが飲みたくなった。依存症コンプリート体質であるタノスケはカフェイン依存症でもあるのだ。
んで、再びコンビニに向かったのだが、その時大事件が起こった。
コンビニに入ろうとした時、タノスケ目は入り口の横に落ちていたものにピタと止まった。
━━小銭入れ?━━
拾い上げて触った感じ、中にはけっこう沢山、数十枚の硬貨が入っている感じだった。合計金額は千円程度だろうと見積もったが、千円といえど貧乏なタノスケにとっては魅力的な金額である。もちろんネコババする気なぞ毛頭ない。日頃から子供たちに誠実さこそ最大の価値だと説き、見えないものをこそ恐れ、見えないものから祝福されるように生きるべきだと説いているタノスケである。ネコババなぞもっての他である。
コンビニの入り口付近に落ちていたのだから、これはこのコンビニ客のものだろう。ならば、これは店員に預けるのが最良の手かもしれない。客が自身の小銭入れの紛失に気がつけば、記憶を遡り、このコンビニに問い合わせを入れる可能性が高いからだ。
だからタノスケはコンビニに入るとすぐに店員を探した。しかし、百分の一秒くらい懸命に探したものの、どうしても見つからないため仕方なく諦め、何故かそそくさトイレに入っていった。そして、個室に収まると、店員に渡すものに万が一、爆発物とかが入っていては大変だという思いから、小銭入れを開け、中をあらためた。
入っていたのは、意外にもほとんどが百円玉と五百円玉だった。これは優に三千円は超えていると思った。タノスケは小銭入れがズシリと重くなったのを感じた。そしてその小銭入れを胸に抱き、天を仰ぐと、独り言ちた。
「店員も信用できねえしなあ」
そして次に、これだけの金額であるならば、交番に届けるべきだと思い、そうしようと決意したのだが、しかし何故かタノスケは再度小銭入れの中を見た。すると大発見があった。この小銭入れには内ポケットがあり、そこには折りたたまれた何枚かの札が入っていたのだ。タノスケはゴクリと唾を飲み込んだ。
そして内ポケットを探り、取り出してみると、そこにはなんと千円札が二枚と、五千円札が三枚も入っていた。何故かタノスケはガッツポーズをした。もちろんネコババなぞする気は毛頭ない。そんな浅ましいことをしたら妻子を傷つけることになるのだから、そんな気は毛頭ないのだが、何故かタノスケはガッツポーズを繰り返した。そして、再び天を仰ぎ、独り言ちた。
「警官も信用できねえしなあ」
タノスケはトイレを出た。そして、コーヒーを買っのだが、支払いの時、タノスケには何故かいつもよりもコーヒーが安く感じられ、それが不思議だった。
んで、公園に戻り、友達と遊んでいる夏緒の姿を見守りながら何故かソワソワ、コーヒーを一気に飲み干すと、ふいにあることに気がつき、俄にムカっ腹がたってきた。
あることというのは、千円札を二枚入れていたことは理解できるが何で他は五千円なんだ、ということである。千円札は、ほぼどの自動精算機でも使えるが、五千円や一万円が使えないことは結構あるのだ。だから、精算機利用時に小銭だけでは金が不足する可能性があり、だからそれに備える必要があるとの理論により、千円札を入れるのはわかるが、しかし、ならば五千円札を入れた理由がわからない。五千円札が使える自動精算機ならば、必ず一万円も使えるのだから、つまり、金が足らなくなる非常時に備えるというのであれば、五千円三枚ではなく、一万円を三枚入れるべきなのだ。その方が小銭入れ内の合計金額が一万五千円も増え、より非常時に備えられるではないか!
「どこのどいつだか知らねえが、まったく間尺の合わねえ、ラブ足りねえ野郎だぜ!」
そう吐き出すと、何故か損した気分に苦しみながらタノスケは再びこの小銭入れをどこに届けるべきか思案し始めたのだが、その思案は終始極めて誠実な、至誠極まる思案であった。
そして思案の末、タノスケは叫んだ。
「自分で持ち主に必ず届けるぞ!」
タノスケは駆けだした。
本当に一刻も早く持ち主を探し出したかったから本当に何時間も休み無く走り続け、本当に町中を汗だくになって走り続け、んで本当にその結果、本当に持ち主が見つかった。んで本当にタノスケは、本当にその小銭入れを本当に持ち主に、返した。
そんなことを、ベンチに腰かけながらタノスケは思いだしたのだった。Mコーヒーをきつくきつく握った。指が痛くなるほど握った。
いたたまれなくなって、タノスケはベンチをたった。そして足は自然、行きつけの安居酒屋へと向かったのだった。
店に入ると、タノスケはダメ元で「濃くしてね!」なぞ付け加えながらホッピーセットの黒を注文し、届いたジョッキ入りの焼酎(通称〝ホッピーの中〟)に黒ポッピーを投入、んで、割り箸でもって何やらせわしい手つきで掻き回す。それを空きっ腹のまま一気に飲み干すと、すぐ店員に〝ホッピーの中〟を、再びのダメ元「濃くしてね!」オーダーで注文し、それが届くと、ちょうど半分ほど残っている黒ホッピーをそこに投入し、またせわしく混ぜ、一気に飲み干す。このようにして一気に血中アルコール濃度を上げるのがタノスケズスタイルなのであるが、このスタイルをタノスケが確立するに到ったのにはタノスケらしい理由があり、それは、このようにして酩酊の階段を勢いよく駆け上がっている時にこそ、その疾走感の中でこそ、自分という人間がどういう人間か、どういう存在か、それを正確に把握することができる、という信念を、タノスケは持っているからなのである!
タノスケのこの信念は強固なものだ。なぜなら、人間というものは弱いから、ひとたび邪念が入り込めば、容易くその思考は曇り、価値観は変容させられてしまう。一度そうなったならばもはや自分というものを、自分という存在の本質を、正確に把握することなぞ不可能、断じて不可能だと、自身の濃厚泥水啜りまくりの果ての連続辛酸ナメナメ経験から、タノスケはそう確信しているのだった。
そも、〝自分〟というものは、しっかりと考えれば案外掴み所のないものである。これを誤解ノーフィアー式ハキッリ直言で言うなら、〝自分〟とは、一般凡百ピープル達がその足りない脳味噌で考えるよりももっとずっとずっと深遠で茫漠とした実に捉えどころのないものなのである、なぞ、さすが群馬で下から二位の知性らしく
汚らしく低レベルに考えながら、続けてタノスケはこの店でいつも頼んでいる日本酒を今日もまた一合とった。そして、
━━一合で百五十円って安すぎねえか? どんだけ低コストで合成した合成酒なんだ? なんか恐えなあ━━
なぞ、いつものごとく怯えながら、しかしそれをあっという間に飲み干し、続いて口中をサッパリさせるべくレモンサワーを注文する。
そして届いたレモンサワーの上に乗っている、タノスケの知る限り世界一薄い薄切りレモンをまずパクりと口の放り込むと、それを同じく薄切りにされている種ごとモグモグ、んで、それをレモンサワーでもって流し込むのだが、飲みながら、こんな店で使うレモンだ、おそらくこの皮には農薬や防腐剤などの毒が残留しているに違えねえ、なぞ思うのだが、するとたちまち、何やら全身に毒が広がっていくイメージが脳裏に浮かび、レモンサワー飲んで口中をサッパリさせるつもりが、逆に全身がみるみる汚濁していくような不快心地。んで、俄にムカムカむかっ腹も立ってくるのだが、これは我ながらなんと猜疑と吝嗇まみれたケチな一人呑みだろうと、そんなこともふと思い、すると怒りから一転、今度は気持ちが暗く沈んでくる。
だが、もはやこれだけ呑めば準備は万端。血中アルコール濃度も十分な値に達し、それを受けて脳を漬け浸している頭蓋内体液のアルコール度数も急激に跳ね上がっている模様。
つまり、これにて〝脳味噌の酒漬け〟が堂々完成の運びと相成るのだが、これは例の、〝酩酊の階段を勢いよく駆け上がるその疾走感の中で自分という人間を極めて正確に把握する自己洞察タイム〟とやらの更なる加速を告げ知らせる慶事でもあるのだ。
んで、てなわけで、脳味噌の酒漬け職人たるタノスケは、この慶事の、ある意味しみじみほのぼのとした雰囲気と、急激に深まっていく酩酊の中、ついにその正確無比なる自己洞察力を発動させたのである。
━━まったく、僕という男はほんとに漬物(脳味噌の酒漬け)作りが上手いわなあ。そのへんの漬物職人とはレベルが違うわなあ。もうほとんど僕のレベルは国宝級の職人のレベルに達してるわなあ。それに、漬物作るに際して電気も化石燃料も使わねえしよお、出来上がったものは保存性も高い。そんなことも考え合わせると、まったくつくづくしみじみと僕という奴は持続可能性の権化みたいな男だよ。こりゃあ、どうやら間違いなく僕は〝SDGsの星〟の下に生を受けちまってるなあ。その直下に生を受けすぎてしまってるなあ。違えねえ。まったく違えねえなあ。思い返してみれば、僕という国宝級男前は、SDGsの星に導かれるままに人生を歩んできた、そんな感じの、計り知れぬほどとってもとびきりにSDGsSDGsしてる男だなあ。
考えてみれば、そして正確に思い返してみれば、我が人生の軌跡、それは、SDGsというその高貴なる星の加護そのままに、その加護の導きのままに、どんな時も決してその高貴なる光を見失わずに歩んできた人生だったなあ。
時には、いや、ばんたび不遇に見舞われ、その光が涙に歪むなんて不覚も幾度か、幾十度か、幾百度か確かにあったが、しかしさすがは僕だ、光を決して見失わず、一心に見つめ続け、渾身愚直の一歩一歩をただひたすら決死の思いで積み重ねてきたなあ。そして、そのようにして引いた我が人生の一本道、それが僕のとってもSDGsSDGsしてる人生の軌跡だ。そう僕は胸を張って言い切れる!━━
タノスケはカッと目を見開いた。そして、右拳を天へ突き出し、大声で言った。
「我が人生に描かれたこの一本道、この一本線ほど真善美へと接近した線はなし! 天上天下唯我独尊! 我が人生、一片の悔いなし!」
突き上げた拳は、そのまま宙にかたまり、小刻みに震えはじめた。
━━もう無理だ。誤魔化しきれねえ━━
帰宅後も一人ぼっちの家の中、タノスケは呑み続けた。もう誤魔化しはきかないとどこかで気づいているのに、呑み続けた。先のことなど考えられなかった。脳を麻痺させていなければ生きていられない心地だった。現実逃避ではない、生きるための緊急手段として呑み続けた。
それから数日間、タノスケは同じようにして過ごした。
体はどんどんボロボロになっていった。金も残り少ない。それでいよいよタノスケはダメだと思った。
そして、フラフラヨボヨボ、タノスケの足は区役所へと向かっていた。区役所に行って生活保護受給の相談をしようと思ったのである。
五体満足で、酒で衰えたとはいえ、回復させればまあ最低限の体力にも問題なし。障害や重い持病も無し。働き盛りだから年齢の問題も無し。さらに、世には慢性的に人手不足に悩む業界もあるとか聞くし、とすならば、そもそも求人がないという問題も無し。つまり無いのはタノスケの労働意欲のみということになる。
こんな状況で果たして生活保護の対象になるのだろうか。純粋純朴可憐なタノスケにはその辺りの事はまったく分からなかったが、とにかく区役所へ行き、生活保護制度の詳細な説明を受け、自身の状況を照らし合わせねば何も分からぬと、率直実直な生真面目タイプのタノスケは素直にそう思い、区役所に向かっているのだった。
だが、もしかしたら、と不安がよぎる。もしかしたら担当者に
「そのへんで野垂れ死ね」
とか、そいう感じの心ないことを言われ、制度の説明すら受けさせてもらえずに追い返されるのではないか。タノスケは心中、実に心細い気持ちで区役所への道を歩いていたのだ。
その道すがらだった。一台のトラックが、歩道に車体を大きく乗り上げ、歩道の大部分を塞ぐかたちで堂々と停まっていた。歩行者が使えるのはようやく一人が通れる程度の幅である。 これにタノスケは、さすが〝ベイビー(社会の希望)の星〟の下に生を受けているだけあって即座に〝グズり〟を発動、憎々しげな、実に狭量な顔になり、禍々しい気持ちでもって心中毒づいた。
━━もしもよお、このすっかり狭くなった歩道を歩いている途中によお、向こう側からよお、自転車がよお、超猛スピードでよお、脇見運転しながら来たらどうするってんだ! そんなことになったよお、この社会にとって大事な大事な、社会の希望たる僕はよお、轢かれて挽肉になってよお、挽肉でえーす、なんてことによお、なってしまうだろうがよお!━━
実際は、狭いところを歩行者が通っていたなら、そこにあえてそんな猛スピードで、しかも脇見運転しながら突っ込んでくる自転車というのはそうそうはいるものでもないが、この時タノスケはそういうことがあるかもしれぬという僅かな可能性を自身の中で異常に膨らまして、それは十分実際にあり得ることだとして大いにグズったのだった。そも、そうだとしてもほぼ全ての場合、歩行者を確認するれば自転車は止まってくれるだろうし、止まらないにしても、徐行し、多少窮屈でも譲り合いながら進めば何も問題ないのは明らかである。だがしかしである。このタノスケという、このグズりの名手は、一旦グズりだすともはやグズること自体が目的化しているフシもどこかに確かにあり、被害妄想いっぱいに自分が轢死体になった姿を想像し、んで、それに全身全霊恐怖までし、目の前に停車するトラックに対し、おぞましいまでの怨念をドロドロ膨らましていったのである。
見ると、そのトラックの荷台は少し開かれていた。それで積載の荷物が瞥見できたのであるが、荷台には一人暮らしではあまり買わなそうな大型テレビや大型冷蔵庫が段ボールの中に収まった新品の状態で積まれていた。
ふいに横、少し離れたところから若い男女の話し声がした。そして、その会話の中から突如、二人の実に幸せそうな笑い声が花のように咲いた。
それに心和むどころか、狂的な嫉妬を覚えたタノスケは、すぐに声の方を向いたのだが、二人はタノスケの視線には気づかず、見つめ合い、笑い声をたてたままである。そのうちに男性の方の笑い声は自身の笑顔に収まるかたちで消え、女性の笑い声だけが聞こえたのだが、聞いていてそれはまさに、鈴を転がしたような、とでも表現したくなるほど軽やかで屈託のない、きっとあらゆる邪気をもすり抜け、そして全てを肯定しそうな、そんな感じの、真の華やかさを供えた笑い声であり、思わずタノスケは息をのんだ。
そして、息を飲んだまま見上げれば、そこは新築の、ちょっと高級そうなマンションだった。そのマンションのピカピカの入り口の前に、その若い男女はいたのだ。おそらくは入籍を済ませ、親や親類縁者みんなから祝福され、よしこれから共に生活を始めようという完全無欠の夫婦なのであろう。
希望が噴出していた。温泉とか原油とかが地から噴出するように、その夫婦が立つその場所から、希望が噴出していた。タノスケは先ほど自分のことを〝社会の希望〟だとか思ったことを思い出し、この夫婦と自分を引き比べ、死にたくなった。
そこに突然マンションの扉が開き、作業員姿の男が三名ほど出てきたのだが、その三名はその希望に輝く夫婦に軽く会釈し、夫婦もそれに笑顔で応えると三人とも笑顔になりトラックへと向かっていった。若夫婦も実に嬉しそうな顔で荷下ろしの作業を見守っている。
これで事情は全てわかった。このトラックはこの夫婦のためにここに停まっていたのだった。重要な用事のために区役所へご足労中であるこの尊いタノスケの通行を遮り、大いに邪魔をしてくれているこの大迷惑トラックは、この華やかな若夫婦の華やかな新生活で使われる各種家電を、二人の新築高級マンションへと運び込むために今ここにこうして停まっているのだった。
タノスケは卑屈に背を丸めると、この夫婦からも、そしてトラックからも顔を背け、この糞トラックのせいですっかり幅が狭くなった歩道を伏し目のままズンズン進んだ。猛スピードですり抜ける自転車などが実際に現れ、実際にこの糞トラックのせいで事故に遭いたいとすら、そんな自暴自棄な願望すら抱きながらズンズン進んだのだが、しかし自転車はおろか、歩行者すら対向から進んで来ず、タノスケは何不自由なくトラックの横を抜けたのだった。
━━もの足りねえ━━
タノスケはトラックの横を抜け、そこからさらに十メートルほど進んだところで立ち止まり、キッと振り返ると、トラックを睨み付け、十分に邪眼の呪いを浴びせかけた後、目を閉じ、手を組んだのだった。それはまるで信仰歴五十年を超える敬虔な信者が神に祈るときのような、至誠極まる、いっそ神聖とすら言いたくなるほど、荘厳な姿勢だった。タノスケは祈った。
━━僕が立ち去った後、そこに隕石が落ちますように━━
そう念入りに念入りに黒魔術師のような顔しながら祈ると、それでタノスケはだいぶスッキリした。そして、実は〝孫子の星〟の下に生を受けている関係で案外心憎いほどにクレーバーなところがあるタノスケはすぐと気持ちを切り替え、再び戦略的成功を摑むべく、すなわち生活保護を受けるべく、区役所に向かって歩き出したのだった。
区役所の保護課は七階にあった。エレベーターを出ると、壁に貼られた〝保護課〟と書かれたプレートが示す方向へと歩を進めた。受付カウンターが見えたところで、その三メートルほど手前のところで、案内係だろうか、待ち構えるようにして立っていた女性職員に呼び止められた。年は二十台後半くらい、髪は茶色で化粧っ気はないが、可愛らしい顔をしていた。ただ、やけに目は鋭かった。
「現在保護を受けている方ですか?」
その言葉の響きとさらに鋭くなった目つきから、こちらが歓迎されていないことがわかった。タノスケは、自分の話を全肯定だけでもって聞いてくれ、常に優しくしてくれる女性ならば、どんなに(は、言い過ぎだが)顔の作りが悪くても、その女性のことはかわいいくてエロくて優秀であると認識する。対して、自分に乱暴な言葉をぶつけてきたり、嫌悪や排他の雰囲気で威圧してくる女性は、どんな顔の作りがよくでもタノスケにとってそんなの最底辺の低脳糞どブス糞女なのである。
だから、瞬時にその女性職員のことが嫌いになったタノスケは大変不快になり、なんだがひどくグズりたい気分になった。タノスケは〝ベイビーの星〟の下に生を受けており、その影響で、不快を感ずるとどうしたって大いにグズってやりたくなるのである。
それに加え、これは相手が自分よりもパワーが劣りそうな場合限定だが、グズりの中でおもいっきり乱暴な言葉遣いでもって相手の自尊心を傷つけてやりたくもなるのである。
「ああ? 現在保護を受けている方かあ? 何でそんなこと聞かれなきゃならねえんだ? ああ? 教えねーよ。ああ? なんだその腐った汚え顔つきはよお、ああ?」
女の鋭い目に軽侮の色が混ざる。そして女は、タノスケのその言動のレベルと、タノスケが身に纏っている安物ダルダルの服と履いている安物ボロボロのサンダルを見て何らかの確信を抱いた模様。そしてきっぱりと拒絶の言。
「それだとこちらでは対応が難しいですね」
一気に大きくなったその女性職員の声に反応し、受付カウンターの向こう側にいた十人ほどの職員が一斉にタノスケの方を見る。皆四十過ぎの男性で、スーツをピシッと、まるでこちらを威迫するようにピシッと着ている。目は一様に置物の目のように固定され、お前など眼中に無いといった風情。
鋭い、女の切りつけるような目と、無機質な、男達の無関心な目、その二種類の連動。それは長年に渡りこのフロアで効果抜群ゆえに何度も何度も繰り返され、研ぎ澄まされ、いつしか伝統芸よろしく集合的無意識に支えられるかたちである種の荘厳さまで備えるほどに昇華された社会的連動の具現のように感ぜられた。
そして、その連動に圧倒されたタノスケの胸には、忽ち原始的な、たとえば群れから追い出される動物が感じるような深い深い悲しみが広がり、今にも子どもみたいにえんえん泣き出したい絶望心地。
だがしかし、寸前のところでタノスケは耐えた。何故と言えば実はタノスケ、〝昭和の頑固オヤジの星〟の下にも生を受けており、人前で泣くなんていう、そんな不様を晒すなんてことは断固絶対に拒否りたい質なのである。だからこの時タノスケは泣く代わりに、自身の内部に渦巻いているその真っ黒陰性の絶望心地を吹き飛ばすべく、ケツを突き出し、それを保護課のカウンターに向け、ぶぶぶ! 盛大に放屁した。
想定外の事態にフロアは静まりかえった。そして、その時その静寂の中で、ピチョン、タノスケの両の目より流れた大粒の涙が、サンダルの上に落ちた。安価をうりにする、よく知らない海外メーカーのものを三割引セールの時に買い求め、五年以上も毎日履いているから底の溝も一本も残ってなくてツルツル。だから雨の日に履くとたいそう危険な、だけどタノスケお気に入りのサンダルだ。そのサンダルの上に、涙が落ちたのだった。
乾いている場所に涙が落ちてもピチョンなどという音はしない。こういう音がするということは、どうやら先ほど引っ越しのトラックを見たとき我知らず涙は流れていて、それが雫となって落ち、すでにサンダルは十分濡れていたと思われる。その濡れていたところに再び涙が落ちたものだから、このような音がしたのだとタノスケは思った。
とするならば、とタノスケは愕然とする。自分は泣き顔のままこのフロアに到着していたのだ。明らかに不幸の底で喘ぐ顔で登場していたのだ。それにも関わらずこんなにも冷たい対応を受けたのだと、そう思い知った。
んで、いよいよタノスケはもう耐えられない心地になり、尻尾巻いて逃げるべく回れ右、一目散にエレベーターへと駆け出した。しかし、その時意外にも背後から
「お待ちください!」
というだいぶ年配の男性の、おそらくは職員の中でも立場がかなり上の方の人の声が聞こえた。一連のタノスケの言動を見て、そこに真の保護必要性を感じたがゆえに慌てて呼び止めたような、そんな感じだった。しかし、改めて言うが、この時タノスケはまだ〝ベイビーの星〟の加護によるお得意のグズりを発動中であったし、一連の冷遇によって負った深い心の傷があり、その痛みの現場からとにかくすぐにでも逃げたかったし、また次々と流れ落ちる涙を見られたくないという昭和頑固オヤジ的な気持ちもあり(ベイビーなのかオヤジなのか分からないが)、ともかくその職員の呼び止めの言を聞いても止まるどころか逆に足を速め、ちょうど開いていたエレベーターに飛び込むように乗り込んだのだった。そして、ゾンビの群れから逃げる人みたいに慌てふためいた態で〝閉〟ボタンを連打して扉を閉めると、行き先の階数ボタンもよく見ずに急いで押し、エレベーターが下降を始めると、情けなくその場に崩折れたのだった。
ふと見上げると、エレベーター内、レストランのメニューが貼ってあった。この区役所は最上階にレストランがあるらしい。唐揚げ丼や焼き魚定食、うどんやラーメンなどの写真が見えた。高速道路のパーキングにありそうなレストランだ。つまらないレストランだ、と思った時、その下に貼ってあったもう一枚のメニュー表が目にとまった。これは一階にある喫茶店のもののようだった。障害をもっている方達によって運営されている喫茶店で常時、種類豊富なクッキーが置いてあり、今月のオススメコーヒーは〝モカ〟とのことだった。
忽然とタノスケはあることを思い出した。逆恨み的に思い出した。冬美との入籍を許してくれなかった冬美の両親のことである。もしも入籍が許され、入籍して冬美と正式な夫婦になっていたならば、法的な拘束力に辛うじて守られるかたちで今自分はこんな孤独の底で絶望していなかったのではないかという、そんな、問題の本質を考察する際の重心が大いにズレた、大いに無体なことを考え、するとむらむらとタノスケは怒りの炎に包まれていった。
タノスケが思い出した怒りのエピソードは、タノスケが冬美の両親の信頼を失う原因となったエピソードの一つである。その種のエピソードはおそらくは百以上あるが、その中の一つを〝モカ〟というワード、あともしかしたら〝障害〟というワードに導かれ、忽然と思い出したのである。
はな、それはタノスケが冬美、夏緒、春子と一緒に暮らし始めた頃のことだったと思う。夏緒も春子もほんとに小さかった。春子など、歩くのさえおぼつかない、それくらい小さい頃だった。
その日、タノスケは春子と夏緒の三人で三十分ほどのところにある冬美の実家に向かっていた。春子はベビーカーに乗せ、夏緒はそのベビーカーの後ろに後付けで付けた子どもが立ったままのれるステップの上に立っていた。冬美は家事を片づけてから来ると言って家に残った。
「お父さんとお母さん、なんだかとっても張り切ってたよ。お肉も、いいお肉注文したみたい」
そう言って冬美は笑顔で送り出してくれた。この日、冬美の父母は庭でバーベキューをやろうと声をかけてくれていたのだった。
春子と夏緒がキャッキャと笑っている。
祖父母の家に着くと、着くなり春子と夏緒はベビーカーを飛び降り、家の中へと入っていった。すぐに家の中から祖父母が盛大に歓迎する声が聞こえた。
この頃はまだ同居を始めて数ヶ月くらいだったからタノスケの性根や能力などは先方にバレていなかった。
家からは笑顔満開の父親だけが出てきた。冬美の母は、孫達と家の中で何やら準備するとの由。
冬美の父親と会うのはこれで三度目である。父親はさらにその笑顔を盛大にバージョンアップさせながら、タノスケをバーベキュー会場であるこの家の庭へと案内してくれた。そこにはバーベキューグリルやキャンプ用のテーブルや椅子などが、倉庫から出したばかりなのだろう、まだ組み立てられていな状態で乱雑に積まれていた。
様子をみるに、なんだか父親は愛する娘である冬美の新しい彼氏となった男との時間を、何か特別な時間として噛みしめている風情を醸していた。表情だけでなく発散する雰囲気も友好的かつにこやかな全肯定のもので、それは幼い子どもを二人抱えたままでシングルになってしまった娘の、その前途を深く心配していた矢先、助け船の到来よろしく現れたタノスケに対し、品定めの必要よりもむしろまずは感謝の念を送る必要を感じているからなのかもしれなかった。
タノスケはまずはテーブルと椅子の準備に取りかかった。父親に設置場所を尋ね、指示された場所に折りたたまれているテーブルと椅子をこの父親とともに運び、父親はタノスケの背後あたりで何やらグリルの金網などをいじりだしたが、タノスケはそのままテーブルと椅子を広げていく作業に取りかかった。だが、タノスケはその構造をよく見分しないで乱雑に広げたものだから、テーブルを広げているとき指を可動式のパーツにちょっと挟んでしまい、
「あっ、痛!」
なぞ言ってしまった。しかし、それは怪我などではなく、ちょっと皮膚が赤くなる程度のダメージであったのでそのまま六脚あるキャンプ椅子を広げる作業に取りかかったのだが、ここでも構造をよく見ないで作業をするものだから動くパーツに指を挟み込み、再びの
「あっ、痛!」
なる言をはいてしまう。しかも、そのまま続けた、本日二脚目となる先ほどと全く同じ構造の椅子を広げる作業でも、また同じ失敗を繰り返し
「あっ、痛!」
と言ってしまったのだがこの時、割合大きな自分のその声を感じながら、ふと、自分は何故今背後から労りや心配の言葉をかけられていないのだろうとの疑問が湧き、その疑問にすっぽり捕らわれてしまう。んで、さらに考えてみると、少なくとも実際に流血を伴う怪我をしたか否かについて確証を持てるのは今手元を直に見ている自分だけであるのだから、ならば咄嗟に、大丈夫? などの心配の声が背後よりかけられてもよさそうなものなのにと思えて仕方がない。で、そう思うと、やおらタノスケの背中センサーはどこまでも鋭敏になっていく。
すると、タノスケのその鋭敏になったセンサーは確かに背中に冷たいものを感じるのである。タノスケは振り返るのが恐くなり、どうしたものかと思いながら、広げようと手にしていた三脚目となるキャンプ椅子をまじまじと見つめていたのだが、こうしていても仕方がない、恐る恐る、今度はわざとあえての指挟みを慣行し、再再度の
「あっ、痛!」
なる言を発してみた。そして次の瞬間、タノスケは小動物のような素早さで振り返ってみた。だが、そこにはタノスケが心配したような冷たさや堅さは微塵もなかった。そこには先ほどタノスケを迎え入れてくれた時とまったく同じ暖かさとやわらかさがあった。それは瞬時に作り出せるような質の雰囲気ではないと思った。するとタノスケは心底からの安堵をおぼえ、気を取り直して四、五、六脚目のキャンプ椅子を広げていった。そして、バカなタノスケは
「あっ、痛!」
「あっ、痛!」
「あっ、痛!」
今度はわざとではなく、同じ失敗を繰り返してしまったのだが、今度の痛みの独り言ちは安心して放つことができた。
しかし、その独り言ちの連発が終わった時、タノスケの背中には凍った暗闇が接触しているような感覚が、確かにあった。確かに、あまりにもリアルにあった。しかし、とりあえずタノスケはこれを風邪気味だとかそういう因によるものにちがいないと、バカなタノスケは脳天気にそう思った。
んで、テーブルや椅子、そして焚き火台やバーベキューグリルの準備は済んだ。大きなクーラーボックスには氷水が張られ、たくさんのビールや酎ハイが浮かんでいる。
「冬美、遅いねえ」
冬美の父親が時計を見ながらそう言った。心配して、もしくは寂しくてそう言ったというより、知的な話題には少しも着いていけず、雑談的などうでもいい感じ話題をいたずらにゲスな話題方向へと変換させて進ませ、そして卑しく笑い、そんな自分のゲス話に自分で悪ノリに乗りまくる、そんなタノスケとの時間を持て余し、感じていたその無聊を霧散させつつ話題も代えてしまいたい、そう思って言った言葉のように聞こえた。
「もうすぐ着くと思いますよ。溜まった洗濯と風呂掃除をして、それから衣替えをしたら来ると言ってました。そんなの一時間もかからないでしょうから」
タノスケの言葉を冬美の父親はピクリともせず聞いた。それだけの家事が一時間で終わるのかという疑問が父親の中に生じたようだった。そして膨らみ、どんどん内圧が高まるその疑問を、父親は自身の皮膚を固く硬化させることによって内部に押しとどめたようで、特に顔の皮膚が硬かった。
同居開始からずっとタノスケは家事の一切を冬美に押しつけていた。だから、家事にどれだけの労力と時間がかかるのをタノスケはまるで知らなかった。
冬美は朝から夕方までフルタイムで働いている。働いているのは家から車で二十分ほどの距離にある障害児施設である。肉体だけでなく色々と心労もあるようで、帰宅した冬美からそこに通う子どもや保護者の話をよく聞くが、聞いていて本当に大変そうだと思う。
で、それはいいのだが、冬美が働いているその間タノスケは何をしてるのかと言うと、酒を呑んだり、マッチングアプリをいじったり、色々と忙しくしているが、大抵は寝ていることが多い。夜中にゲームをやったりネットフリックスやユーチューブを見たりしていて眠いのである。というわけで、というのもないものだが、タノスケは家事は一切やらず、すべて冬美に一任しているのである。
言い訳に聞こえたら恐縮だが、タノスケは〝出来る上司の星〟の下に生を受けている男なので、信頼し、すべてを任せることができるのである。出来ない上司ならばこうはいかないだろうと舌なめずりに表情を歪めながらタノスケは考える。出来ない上司というのは得てして、自分がやった方が早いし間違いがない、という実に浅はか千万な理由でなかなか任せるということができないものだ。タノスケに言わせればそんなのは相手への信頼が足りないラブに欠けた愚行だし、かつ、相手を育てる気がないラブに欠けた蛮行なのである。タノスケはそんなラブ足りねえことは絶対にしない出来る上司気質の男なのである。
そうだ。タノスケは〝ラブの星〟の下にも生を受けているのである。ゆえに、絶対ラブ至上主義の男なのである。人間の行いうる言行、そのすべての根底にはラブがあるべきで、ラブ足りねえことは決してあってはならぬというのがタノスケ不動の信念なのである。命にかえても絶対に死守すべきと考えるタノスケの超硬質なパーフェクト信念なのである。
冬美の父親は依然としてちょっとうつむいている。そして、カチカチとやたらに百円ライターを鳴らしている。一瞬火がつき、すぐに消え、また一瞬火がつき、消える。
冬美の父親の視線の先にはジェル状の着火剤がある。これは透明なアルコール性のジェルで、大変によく燃え、炭に火をつけるときに大いに活躍するものである。それは歯磨き粉が入っていそうなチューブ容器の中に入っていて、横倒れに置かれている。蓋はタノスケの方を向いている。あり得ないことだが、もしも突然何か重いものが降ってきてチューブ容器の上に落ちたなら、きっと蓋は飛び、中のアルコールジェルは勢いよく飛び出してタノスケの全身にかかるだろう。そして更に不運が重なり、何かの拍子で、今冬美の父親の手元でカチカチ明滅を繰り返している小さな火がアルコールジェルまみれのタノスケに接触したならば……、もしもそんなことがあったならば……。
うつむいていた冬美の父親はふいに空を見上げた。そして熱心に、何かを願うように、空を見つめた。その光景をタノスケはただ悄然と見つめた。
何か手違いでもあったのか、午前中に配達されるはずの肉が未だ届かず、冬美も所用(というかタノスケが散らかしに散らかした部屋の掃除や、タノスケが深夜から明け方にかけ発揮しただらしない鯨飲馬食癖の後始末や、タノスケが洗濯に出せばいいのに出さずにバックの中や部屋の隅やらに溜め込んだ汚れものの洗濯や、稼ぎもなく味も分からないくせに卵は平飼いじゃなきゃダメだと言うタノスケの言に従い最寄りのスーパーよりも倍以上も遠いところにあるスーパーまで買い出しに行くなどの諸々の家事)が長引いていてまだこちらに到着できていないこの状況では炭に火を付けるのはまだ尚早な雰囲気だし、そうすると冷えたビールの栓を抜くのもまだ出来ぬのも道理で、んで、とすると、この父親の先程来より続くやけにニコニコした笑顔と数々の親切な行動に引き続き酒の気のない、いわば徒手空拳で晒され続けることになるわけだが、しかしそれはちょっとタノスケにはえらく心理的に負担なことに思われ、断然ノーサンキュー心地なのであった。
なぜといえば、先ほどからタノスケはこの終始ニコニコ笑顔の父親がその親切で思いやりのある言動の最中ふいとこちらへ振り向ける細目の、その一瞥に晒される度、心底から怖気がひょいと湧く、そんな感じがあるからなのである。確かにその細目は一見するとニコニコ笑顔に使う表情筋の動きに合わせてベリーベリーナチュラルに出来上がったもののようにも見えるが、しかし、タノスケの目にはそれは完全に人為的巧みに調整されたものにしか見えず、その細い目の瞼の隙間から放たれる視線は明らかに閃光のような、牙突の視線なのだ。
そして、その牙突の視線のその威力は、タノスケには直観的リアル実感として分かるのだが、間違いなくタノスケレベルの処世術というか、擬態というか、心根隠蔽シールドではちょっと手に負えないレベルの貫通力を有しているのだ。もしもタノスケが何かでほんのちょっとでもしくじり(すでにちょっとしくじっているが)、思わずピョンと一瞬でも尻尾を出してしまったなら、それはもう引っ込める間もなく、冬美の父親はその尻尾を一瞬のうちにグイと引っ掴み、引っ張り、タノスケがどんなに逃げを決め込もうとも圧倒的剛力でもって引っ張り上げ、いとも簡単に軽々宙に釣り上げ宙ぶらりんにされるだろうとタノスケには思われるのだが、こうなればタノスケの四肢は惨めにも宙でバタバタ空を掻き、そして掴まれた尻尾の根元にあるウンカスまみれの肛門は哀れ無残に天空に向かって盛大に露出し、神々へ、あるいは自身を守護する星々へ大々的に晒すことになるのだ。そんな妙にリアルで確信めいた予感が、冬美の父親と過ごしていると身の内よりヒリヒリせり上がってくるのを感じ、タノスケは実に落ち着かないのである。
今更ながらだが冬美を抜きに一足早く来たのは失策であった。家に残って冬美に家事をお願いされ、それを断り、仲がギクシャクするはめになるよりかは、春子と夏緒を少しでも早く祖父母に会わせたいとの至極もっともな口実のもと、一足早くバーベキュー会場に来て肉を焼き焼き酒を呑んでいる方が利口だとタノスケは考えたのだが、考えが浅かった。大いに誤算だった。一緒に連れてきた春子と夏緒が一向に庭に出てこず、どうやら嬉々として家の中で祖母と何やら準備作業をしているようだが、これも誤算だった。春子も夏緒もまだ保育園児である。準備する上で、いかなる戦力にもならないとタノスケはそう決めつけていたが、それは間違いだったようだ。今思い出したが、二人は保育園でも賢いとか、お手伝いを頑張るとか、よく保育士さんからお褒めの言葉を頂いていた。
(さすがは僕の遺伝子は受け継がず、聡慧なる冬美の遺伝子を受け継ぐ春子と夏緒だなあ)
思わず本心から感嘆の吐息を漏らしてしまったタノスケだが、その弛緩したどこか温かい思いとは裏腹にまたぞろいつもの自分棚上げ式の怨念へと続く妄想をしてしまう。
もしも、今春子と夏緒が庭に出ていて、自分たちの祖父たるこの牙突の視線の主にそれはもう鬱陶しいくらいに纏わり付いていたなら、きゃつも孫にメロメロの隙だらけの小汚いだけのジジイにきっとなり下がり、そうなればタノスケもこんな居心地の悪い思いはしなかっただろうし、それにそうなればまだ炭に火はつけられず肉を焼けないのは変わらないとしても、春子と夏緒の連携によって作られた隙をつくかたちでおもむろに柿ピーでも一袋開け、悠々と自分勝手な気まま風情に一本目のビールの栓を抜きコップにコポコポ、一足早く一人で呑み始めるというアル中冥利につきる展開も十分にあり得たのである。
だが、ここここに至ってはその展開も望めない。家の中からは絶え間なく春子と夏緒の幼い嬌声が聞こえてくる。お手伝い好きな二人のポテンシャルもさることながら、よほど冬美の母が準備作業を子どもでも楽しめるものへと上手く加工したのだろう。さすがは孫娘たちを愛する祖母プレゼンツの溺愛タイムだ。恐るべし、ということでもあるし、また、さすがは冬美の母君だ、ということでもあるだろう。
冬美、春子、夏緒がいないこの状況で、冬美の父親と二人きり、しかももはやバーベキューの準備とて何一つやることはなく、手持ち無沙汰も手持ち無沙汰。しかもこの状況、向かい合っているわけではなく、斜向かいで、体の方向も相対からは外れたかたちで座っているのだが、これまで自身の経営する工場に雇用するため数百人、いや、きっと千人を有に超える人間を面接してきた、間違いなく具眼の士であるところの冬美の父親と二人きりというこの状況。ふいに牙突の視線で切りつけてくるこの父親と二人という状況。
開放的な庭にありながら、そしてどこまでも透き通った青空の下にありながら、そしてまた、先ほどからずっと酸素濃度が高そうなそよ風も吹いてはいるが、タノスケは窒息しそうだった。
こうなってくると、〝サラブレットの星〟の星の下に生を受け、自分棚上げ野郎と逆恨み女郎、その二者の汚濁に腐りきった血を受け継ぐタノスケはだんだんと冬美に対し腹が立ってきた。
━━にゃろう、この庇護すべき僕を敵地に一人放置して、なにを家でダラダラやっていやがるんだ!━━
との完全に自分棚上げ式の逆恨みの罵声を心中で吐き出すと、ドロドロしたものがタノスケの身の内で黒く沸騰した。
たとえ春子と夏緒がここにいなくても、冬美さえここにいてくれれば、冬美の父親がいかに強力な牙突の視線を向けてこようとも都度冬美の影にサッと退避できるし、あるいは、まだ焼く肉は届かなくとも遊びで炭に火をつけてキャッキャと談笑イチャついて誤魔化すことだってできるのだ。もう、それはもう何だってできるのだ。どうにでもこの腐り切った心根を誤魔化すことができるのだ。そうなれば冬美の父親に悪感情を抱かせることなくこの会を終えることができるのだ。
もしも深刻な悪感情を抱かせてしまったなら、きっと冬美の父親は、
━━冬美はどうしてこんな男を選んだのだ? 冬美は心の病気なのか? 病院に連れていくべきか?━━
と煩悶し、当然に決して二人の仲を認めてはくれないだろう。それはマズい。実にマズいのだ。なんとしてもタノスケはこの会を無難にやり過ごしたいのだ。
この、表向きは楽しむだけの交流バーベキュー会、しかし、実のところ(ここに到着後、牙突の視線をくらって気づいたことだが)この会の主な目的はタノスケという新しき冬美の配偶者候補にして同時に春子&夏緒の父親候補でもある男の品定めにあるのだ。
この会はそんなふざけた、完全にこちらを舐めきった会なのだ。
しかし、そんな気に入らぬ会ならばとっとと帰ればいいではないか、とのタノスケらしい考えも幾度も浮かんでいた。だが、そう簡単に椅子を蹴るようにこの場を去れない真摯な事情がタノスケの側にもあるのだ。もちろん、愛する冬美を育ててくれた人だからという純粋素朴な理由も一%未満くらいはある、そんな理由も一%未満くらい確とあるのだが、実はそんなのはほとんどどうでもいい理由で、九十九%以上を占めるタノスケにとり重大な大事な大事な理由は、金である。
冬美はフルタイムで仕事をしているが、障害児施設での勤務で、給料は高くない。しかし、実に意外なことに、最近冬美、春子、夏緒、タノスケの四人で住み始めた家の初期費用の全ては冬美が出したのだった。当初タノスケは、
「僕が出すよ」
と胸を叩いて完爾と笑い、暗に感謝を要求し、さんざん感謝の言を言わせて気持ちよくなった後、指切りまでして約束していたのだが、契約支払いの段になって、酒やらタバコやらギャンブルやら女性関係やらで、すなわち自身の欲望のために散財した結果空いてしまった大穴がどうしても埋められずどうしようもなく引っ越し費用に手を付け、結句、引っ越しには一円も払わなかったのだ。しかし、冬美も預貯金はほぼないと言っていたのに、支払いの時、どこから捻出したのか全額をポンと支払ったのである。
しかもである。話はそこで終わらない。無事に契約が完了して四人で住むことになったその家というのは小さいながら横に駐車場がついていたのであるが、そこにちょうど駐められるサイズの小型ファミリーカーまでも冬美はポンと購入したのである。しかも新車でである。
これらの展開を目の当たりにしたタノスケはピカチーンときた。なぜなら、実はタノスケ〝名探偵の星〟の下に生を受けており、タノスケの前にはすべての真相が明らかにならざるをえないからなのである。
名探偵タノスケが推理するに、これは間違いなく、これらの金の出所は、冬美の両親である。
「真実はいつも一つ!」
そう絶叫すると同時、タノスケは盛大にヨダレを垂らした。〝テイスティーな星〟の下に生を受けているタノスケは、目の前に大好物を置かれるとこうして大量にヨダレを垂らしてしまうのである。この時の、その大好物というのは、冬美の両親のスネである。
そも、タノスケの大好物は何かというと、〝親のスネ〟なのである。親のスネをかじったときのその美味しさをタノスケは誰よりも知っており、また誰よりもスネかじり道というものを追求してきたとの自負を密かにふとこるほどの男なのである。
そんなタノスケをして、不動産契約と新車購入の時点ではまだ会っていなかったが、冬美の両親、ことに社長業をしているという父親の出現は、いや、正確に言うならば、この父親のスネの出現は、向後何に変えても死守すべきとの闘志を掻き立てる目くるめく蠱惑の体験であったのだ。
だから、タノスケはこのバーベキューがいかに気まずくとも、今後も存分にスネをカジカジ味合わせていただくため不機嫌に臍曲げてこの会場を去るなんてわけにはいかないというのである。まったく、なんとこのタノスケという男は、〝鉄道員の星〟の下に生を受けた、自制心と自己統御の権化のような、不屈一徹、渋すぎる、男の中の男、男前の中の男前であろうか。
「ナノスケー!」
夏緒の声がした。この時夏緒はまだ四才である。舌が十分に回らず、タノスケをナノスケと呼んでいた。
夏緒の姿を見てタノスケはギョッとした。夏緒は人差し指に絆創膏を巻いていたのだ。
「ど、ど、どうした!」
タノスケは狼狽した。
「はさんだー」
みるみるタノスケの顔は青ざめる。
「大丈夫か? 見せてみろ!」
夏緒はポカンとしている。後ろから春子の手を引いた祖母が現れた。
「タノスケ君、大丈夫ですよ。ちょっと挟んだだけですから。血も出てないし、ちょっと赤くなっただけ。指も動くしね」
そう言って祖母は夏緒に笑いかけた。夏緒もそれに自然に応える。しかし、そんな穏やかな光景を見てもタノスケの心は平静を取り戻せない。実はタノスケ、〝ミニマリストの星〟に生を受けており、その心までも極めてミニマムに出来ており、そのミニマムな小心からいかに皆が大丈夫と言っても、実際に自分の目でその怪我の加減を確認するまでは気が落ち着かない性分なのだ。んで、重ねて見せろ見せろと言うと、冬美の母親もタノスケのしつこさに折れた雰囲気を発し、夏緒もしぶしぶ巻いてもらったばかりの絆創膏を剥がしにかかった。それを覗き込むようにタノスケは顔を夏緒の手元に近づけたが、それにつられて祖母に手を引かれていた春子も顔を近づけてきて、そのまだ一才の柔らかな肌を感じると、幼児の肌の美しさとその脆弱さが胸に染み、すると、四才だが春子と同じ幼児であることに変わらぬ夏緒の怪我の加減への心配が更にマシマシ心地。
夏緒が絆創膏を引き剥がし、そこに顕わになった傷は、たしかに祖母の言う通り〝赤くなっただけ〟のようにも見えた。だが、絆創膏の内側の、傷に当たっていた白い布地の部分に、うっすらとだが血が滲んでいるのを確認したタノスケは、
━━糞ババア! 出血してるじゃねえか!━━
という憤怒が噴き上がり、その激情に押し出されるようにして心配が心の限界点を突破した。んで、思わずタノスケは絶叫した。
「腐って切断になるかもしれねえぞ!」
まだ言葉の分からぬ春子はポカンとし、父母はそんなわけないだろうと呆れ顔、しかし、一定程度言葉の分かる夏緒は恐怖に顔を強ばらせた。
タノスケは夏緒を今にも泣き出しそうな情けない顔で睨めつけたまま凝視した。この光景に父母の顔はみるみる曇っていき、顔を見合わせ、互いの表情で何やら合図を送り合っている模様。これはどうやら父母の、人が不意に暴露した人間としての器のサイズを見たことを互いに確認し合う所作にも思え、すなわち、自分一人の心の中で包んでおられずに他者を巻き込む形で負の感情を伝染させ、その伝染が完了したのを相手の表情で確認し、もって自身の心の安寧を謀るという屈折心理かつ姑息な小者ムーブ、しかもその相手はわずか四才の、庇護すべき女児であることを考え合わせれば、もはやこの一幕でタノスケという男の器のほどが知れたとの思いから父母を互いに顔を合わせたのだった。
夏緒が泣き出した。祖母は夏緒をタノスケから引き剥がすようにして抱き込むと、
「だいじょうぶ。すぐに治るよ」
と優しく告げ、祖父もかがみ込み、優しく夏緒の頭を撫でる。何を感じたのか、春子も祖母に抱かれるべく祖母に駆け寄ると、祖母も片手を広げ、春子を胸に抱く。祖母の胸に夏緒だけでなく春子もおさまったところで、更にその上から祖父が抱擁。まさに愛の肉団子状態。タノスケのつけいる隙は一ミリもない。
途端にタノスケは居心地の悪さを感じた。父親といるだけでも居心地悪かったのに、この状況ではもう無理だと思った。誰かに保護して欲しいと思った、もちろん、それは冬美がいいのだが、今すぐとはいかない。今すぐに誰かに保護して欲しい心地だった。
━━ったく。保護犬とか、保護猫とか、そういう活動してる人がこの家の前の道を通りかからねえかなあ。んで、保護タノスケ活動をしてくれねえかなあ━━
しかし、こんなのは願っても詮無い願いである。仕方ない、冬美が来るまでここを離れようと思った。そこでタノスケはここに来る途中にコンビニがあったことを思い出し、
「ちょっとアイスコーヒーでも買ってきます」
と告げた。
すると、冬美の父親が即座に財布を出し、そこからカードを抜き取るとタノスケに差し出した。
「タノスケ君、これで買っておいで」
受け取り、仔細に見分すると、このカードはタノスケが今から行こうとしているコンビニと同系列のコンビニのみで使えるカードで、前もって入金しておく式のカードであった。それはおそらく、たとえば千円入れれるごとに、使える店があらかじめ同系列のコンビニのみに限定される代わりに五十ポイントとか、そのくらいの、お金同等に使用可能なポイントが付与されるというケチ臭いもの。
〝自由の星〟の下に生を受けているフリーダムタノスケに言わせれば、ちょっとポイントがもらえるとか、その程度のことのために、金の使途を予め決められるという、いわば他者に未来を決定されるなんてことは、愚行愚挙の最たるもの、最低最悪の糞ムーブであり、こんなプリペイドカードで不自由の強制の中に自ら喜んで飛び込んでいくというのは、バカ臭ささの極みである。タノスケは冬美の父親に対し猛烈に軽侮の念を感じた。
んで、ゆえにならば、タノスケはそのカードを冬美の父親に突き返したのかと言えば、そんなことするわけはなく、内心、前述の通りに大いに蔑みながらも、しかし大袈裟に押し戴くようにしてから雀躍心地で礼を言うと自分の財布へとそのプリペイドカードを入れたのだった。
んで、春子と夏緒を祖父母に託し、一人コンビニに向かって歩き出したタノスケであるが、この時グッドアイデアが浮かんだ。他人の金なのだ。だからこの際、普通のアイスコーヒーではなく、いつもは飲まない高級なモカの方を買うことにしたのである。んで、そんな深謀を胸にふとこり、我が叡智に感服しながらいざそのコンビニに行ったのだが、狙いの商品を入れる、氷入りプラカップが置いてある冷凍コーナーを見ると、普段はレギュラーサイズとラージサイズの二つがあるのに、その日はたまたまラージサイズが品切れだったのである。当然タノスケは他人の金ゆえ、ラージサイズを買おうとしていたのでプンスカ心地。んで、見ると、いつも買っている普通のアイスコーヒーはレギュラーサイズもラージサイズもある。だが、これではいかんのである。それでは、いつもは貧乏人ゆえに注文が憚られる高級モカアイスコーヒーの、しかもラージサイズを他人の金で注文してやりプチ贅沢を断行するというラグジュアリーな計画が崩壊するのである(後から考えれば、通常サイズのモカアイスコーヒーを二杯買えばよかったのだが、タノスケにはそんな機転はなかった。機転と呼ぶほどのことではないが)。
さっきまで愉快円満な心地であったのに、こんなにして一瞬で自分を奈落の底へたたき落としてくれたところのこのコンビニのあまりの不手際に、タノスケは
━━怪しい外国企業にでも買収されちまえ!━━
と心中で吐き出したが、その怒り排出方法では十分ではなく、自身の中で怒りがたちまち内圧を高め、排出先を求めて渦巻いているのを感じると矢も楯もたまらず、
━━あの冬美んとこのクソオヤジがいけねえんだ!━━
と心中にて当て付け罵倒。
んで、続けて思い出されるのは、自分にとってモカがどれほど大事かという話。
タノスケは田舎育ちゆえ、喫茶店というものは架空ファンタジーなもので、現実世界には存在しないと思っていた。そう思っても仕方の無いような寂れた土地で十八まで育ったのだ。そんなタノスケが東京に出てきて初めてドトールに入ったのはいつだったか、ともかくその時に頼んだのがモカで、そのモカは、今から思えばココアとのブレンドだったのだろう、やけに粉っぽいというか、舌にザラザラとしたものだったのだが、その時一緒に店に来ていた、バイト先で知り合い仲良くなった東北かどこか田舎出身の同年の男に決して安く見らてはならない一心で、
「この粉っぽさがいいんだ。このザラザラ感がモカの味わいだなあ」
なぞ、じっくりモカを啜りつつ陶然とした顔つきでもってタノスケは知ったかブリをかましてやったのである。で、それを聞いたその東北の田舎者は少し訝しそうな顔をしたが、タノスケに続いてモカを啜り、たしかに舌の上に粉っぽい感触を感じると、何かを閃いたときにするような表情になったのだが、それがまたそいつの顔の田舎風味を濃厚にしたから、関東出身とはいえ端も端で東北と何も違いがないような田舎出身のくせにタノスケはそいつに対しいやらしいまでの圧倒的優越したという甘美な快楽を感じたのである。
という、優越の輝きに彩られた華やかな栄光の思い出がタノスケにはあるのである! だから、(というか、かなり道理が崩壊したような話ながら)タノスケにとってモカはとても大事なものなのである! もちろん、モカが粉っぽいなどというのはてんからの間違いで、嘘八百、流言流布もいいところだが、そういう瑣末な事情はタノスケにとってはどうでもいいのである。自分が優越の快楽を感じたという事実こそが大事なのである。ともかくモカ最高!
んで、そんなかなり強引なモカ祭り上げ思考の果て、しかし現状はモカのラージサイズが買えぬものだからタノスケはだんだんと、手に持つこのプリペイドカードにより己が純情を弄ばれているような錯覚に陥り、ついにはこの元凶カード(元凶はタノスケだが)の持ち主たる冬美の父親に
━━あの糞オヤジが悪いんだ!━━
との当て付け思考へと着地したのだった。
すると、こんな益体もない多大な苦痛(実際は普通のアイスコーヒーのラージサイズとモカアイスコーヒーのレギュラーサイズのどちらを選べばいいか迷っているだけの些細な苦痛だが)を味わわされている無垢なる自分には、この際どんな横暴な権利をも備わっているような心地になってきた。
んで結局、モカアイスコーヒーのレギュラーサイズを買い、味わうことなく一気に飲み干してやったが、しかしそれでは気が収まらず、店内に戻ると、棚に残っていた好物のハムチーズブリトーを三個カゴへと買い占め投入し、次に、いつもは絶対に買えないハーゲンダッツを、その時あった全ての味、バニラと抹茶とストロベリーをカゴへとコンプリート投入し、その勢いと言ってはなんだが、ちょっとエッチな雑誌を読み捨て覚悟であるだけすべてをカゴへとありったけ投入し、さらに、そういえば災害時とかのためにスマホの充電用の大容量モバイルバッテリーが以前から欲しかったのを思い出し、それを探すと難なく見つかったから、その棚の奥まで強引に手を差し込むと一気に乱暴に手を引き、四個、カゴへと根こそぎ投入したのである。そして、これはもちろん言わずもがなだが、その支払いはすべて冬美の父親からもらったプリペイドカードである!
んで数日後、何のことはない、当然にタノスケのその行為はバレ、冬美経由で丁寧だがずいぶんと含みのある〝確認〟の連絡があったが、その時はちょうどマチアプで知り合ったとある女性といい感じになりかけていたおりで色々と隠し事にまみれて大変気苦労を重ねていた時だったのでそんなアホみたいな〝確認〟は心底から面倒臭く、うっちゃっておいたのである。んで、その不誠実が当然必然に作用し、先方のタノスケの人間性への不信はさらに高まり固定化する方向へと導かれていったというわけなのである。
区役所の、下降するエレベーターの中で喫茶店のポスターを見、それをきっかけにそんなことをタノスケは思い出していた。そして、その思い出から機関し、こうして一人ぼっちで密室で涙を拭いていると、なんだが、もう何をどうしても冬美と夏緒と春子は自分の元に戻ってこないような、そんな痛切な予感に打ちひしがれた。
━━まったく、何から何までぜんぶ自分が悪いのだ━━
と思った。
だが、今思い出した一連のエピソードは、実は冬美が自分に愛想を尽かした理由の一%も構成していないと思う。
冬美がタノスケに愛想を尽かした、その殆どの因はマッチングアプリにあると思う。むろんこれはタノスケの自己分析によるものだし、その他にも多数の因があり、それが累積してこの度の大破局の因となったのであろうが、しかし、大らかにして天女のごとき気質をもった冬美は、表面上はマチアプ以外の不満をタノスケには言ったことがなかったのである。
タノスケは健康なのにも関わらず、稼ぎのすべてを冬美に依存し、しかも子供たちの保育園のお迎え(これも保育園児のとき限定の二三年だけの話で、しかも可愛い保育士さんに会いたいというのをその主たる動機として行っていたものだが)以外の家事、すなわち買い物や食事の支度や洗濯や掃除や登園登校の準備など、その他一切の家事を当たり前の顔をして冬美に押しつけていたにも関わらず、冬美は一言の小言も言わず、実に幸せそうな笑みをその可愛らしい顔に湛えながら、ニッと笑うと矯正もしていないのに並びの綺麗な歯を大きく見せ、周りに幸せを振りまきながら生活していたのである。
その冬美の歯の白い、美しき顔は、タノスケが「ちょっと失敬」なぞ言いながらナチュラルムーブで実に自然にチョコとコーヒーとタバコ三箱とビール二本とチューハイ六本とちょっと贅沢なおつまみなどを買うため、五千円札を毎日のように冬美の財布より抜き取る、その姿を見ている時も、少しも陰ることがなかったのである。
そんな根っからの聖女としか思えない冬美も、タノスケがマッチングアプリを利用して色妖怪ムーブを繰り返すことだけは許せないようで、その汚液放出の痕跡を見つけるたびに
「お願いだからやめて」
と目にいっぱい涙をためて言ったのであった。それに対し、プロ土下ザータノスケは毎回床に額を擦り付けながら謝罪し、心を入れ替えると冬美にも神にも誓うのだが、その誓いは一度も守られなかったのだった。
しかし、これは言い訳かもしれないが、タノスケは〝愛の星〟の下に生を受けており、愛を求める女性がいればどうしても愛さずはにはいられない男なのである。そういう愛情深き男なのである。しかし、そんな弁解を試みても仕方ないことである。
ともかく、んなわけで、言ってみれば全ては身から出たサビ方式というやつで、家族(冬美、夏緒、春子)が出ていくという大悲劇に見舞われたのだった。
一家を度重なる浮気癖のために崩壊させ、その後も酒に溺れて自分の心や行動や金に関するあらゆる問題から逃げ回っているくせに、〝大悲劇に見舞われた〟なぞ、被害者ぶった物言いもないものだが、しかしたとえそのように批判されても、その批判により心に羞恥沈痛を覚えるには、一定以上の知能が必要なのである。
これは前にもちょっと書いたことだが、タノスケの知能は群馬で下から二位なのである。痴能ならば誰よりも高いタノスケであるが、知能となると、高校生時代唯一受けた模試において群馬で下から二位と判定されているのである。群馬で下から二位というのは、神奈川で下から二位とか東京で下から二位よりも、もっとずっとずっと悪いことだとタノスケは思っている。そしておそらく、件の模試においてタノスケの下、すなわち群馬最下位をとった者は、どこの誰だか知らぬが、もう死んでいると思う。万が一、生きているとしても、人権を完全に剥奪されたうえで無人島にでも投げ捨てられていると思う。
んな話はいい。
しかし、なかなかエレベーターは止まらない。いまだ一階に到着しない。その、しばしの時間を活かすがごとくタノスケの思索は続いた。
降下するエレベーターの中、タノスケは金玉がムズムズした。そしてその金玉から連想してつくづく思うのだが、ともかく、すべての元凶はマッチングアプリにあるということである。
タノスケという男は、とにかく何かにつけて愚図るし、イキるし、嘘つきだし、一片の感謝の心もないし、何が嫌といって努力が一番嫌いだし、しかもバカ面の知ったかぶりで、しかもどケチでど水虫で、しかもまるでチンポジの定まらぬ、そんな本当にどうしようもない男のくせして自分の遺伝子を後世に残す本能に突き動かされる極めての極めての極めての多淫多情。そしてその挙げ句、必然的に重度のマッチングアプリ依存症になったという悲しすぎる男なのである。
しかし、それよりも悲しい存在は、もちろん冬美である。浮気されたということもそうだが、実はそれだけではない。実は冬美はそのマッチングアプリの決して安くない月々の使用料を知らぬ間に支払わされていたのである。
タノスケは、六才年下の冬美に対し嘘をついて、冬美の口座から毎月自動引き落としにしてもらっていたのである。で、告白するとその時ついた嘘とはだいたい次のようなものである。
「今はよお、今は申し訳ないんだけどよお、今は何も仕事をする気が今は起きねえんだわ。ほんと申し訳ねえ。障害児施設で働くお前の給料が高くないのは知ってる。春子のオムツが取れたとはいえ子育てに色々金がかかってるのも知ってる。僕の酒代タバコ代お菓子代が家計を圧迫してるのも知ってる。それはもう全部が全部承知済みのことなんだわ。だから衷心より本当に申し訳ないと思っているんだわ。でもよお、ここは一つ心を鏡のようにまっさらにして考えてみて欲しいんだわ。長い人生ではよお、働きたくない、そういう時期もあるってもんだぜえ。そういう時によお、むしろそういう時にこそよお、支え合ってこその夫婦ってもんだぜえ。もっとも、お前のご両親に反対されて籍は入れられてねえから本当の夫婦ではないんだがよお、でもよお、僕は、僕と冬美は〝本当以上の夫婦〟だと思っているんだわ。法律でどうのこうのとか、役所の手続きとか、親類の支持とか、そういうのは僕の中の〝本当以上の夫婦〟の定義にはまったく入っていないんだわ。どこまでも僕と冬美、そして、血はつながっていなが心はつながっている我が愛しの娘たる夏緒と春子が〝本当以上の夫婦〟だと、そう思うのならば、それはもう誰が何と言おうと絶対に〝本当以上の夫婦〟なんだわ。こう見えても僕は〝愛妻の星〟の下に生を受けているからそのあたりの真理は人類史の中で余裕で五指に入るくらいに知っているんだわ。んでよ、ここで相談なんだけどよお、僕よお、英語を勉強したいと思っているんだわ。そりゃあよお、確かに中学時分、この話は先にお前にも話したことがあるから知っていると思うがよお、中二の終わりくらいの頃だったか、ABCを最後まで言えなかったのはクラスで僕一人だけだったわ。Cのあと、どうやってXYZまで辿り着くものだか、ハッキリ言ってそれが僕の思春期最大の謎だったわ。頭のいい、医者とか外資系勤務とかエンジニアとかを親にもつクラスメイトはその頃はよお、宇宙の端はどうなってるのだろうかとか、地球が存在することに意味はあるのだろうかとか、そこに意味が無いのであれば人間をどう価値づけたらいいのだろうかとか、そういう、僕に言わせりゃあ下痢便以下の価値しかない最低の謎に煩悶していたなあ。んで、そういう奴らは軒並みうちの次兄になついていたなあ。僕の家に遊びに来るとよ、一旦は僕の部屋に入るんだけどよお、ものの数分で次兄は在宅してるかどうか聞いてきてよ。んで、次兄がいると分かるとすぐに次兄の部屋に遊びに行っちまうんだ。そんでいつもそのまま次兄と楽しく談笑を始めてしまうんだ。その頃の次兄はまだ引き籠もってなくて、部屋の中にはたくさんの書物があったけど、まだ数人が座るくらいの場所はあったんだな。んで、その時俺はよ、自分の部屋で一人寂しくゲームしてよ、でも気になって次兄の部屋を覗きに行ってみるんだけど、覗きながら話を聞いても、次兄を中心に皆で僕にはなんだか全然分からない事を話してやがるんだ。僕、それで余計寂しくなってよお、扉の隙間から長い風船とか飛ばし入れてやったりするんだけどよお、狙いは外れて、中では全然パニックにならないんだわ。寧ろさっきまでの話し声がやんで静まりかえってよお、んで、少ししてから扉が開くんだわ。んで、その扉からよお、優しい笑顔の次兄が登場してよお、タノスケも入れよって、こういう時の僕はいつも半泣きで走って逃げるのを知ってるくせによお、いつもそんな優しいことを言ってくれたんだわ。
……そんな話はいいんだけどよお、ともかくよお、話は戻るけどよお、その、友達たちが抱く謎なんかより、僕にとってはABCがどうやってZで終わるかの謎の方が謎だったんだわ。まあ、そんな謎は今から思えば単に勉強すれば解決できたことなんだがね。当時の僕にはそんな解決法はまるで思いつかなかったんだわ。またく若気のいたりだわ。ってなわけだからよお、そんな僕にいきなり英語を勉強したいなんて言われ、お前がそうやって眉をひそめたくなる気持ちも分かるよ。実によく分かるよ。でもよお、耳の穴をかっぽじって聞いてくれ。実は僕、〝坂本龍馬の星〟と〝渋沢栄一の星〟と〝ユリウス・カエサルの星〟の下に、トリプル同時に生を受けているところがあって、先見の明がすごいんだわ。その僕の類い希なる先見の明によると、これからの時代、英語が大事なんだわ」
「英語が大事なんて、そんなの、ずいぶん前から言われてることだよ」
眉をひそめながら、ボソッと言った冬美の言は聞こえぬフリしてタノスケは続ける。
「でよお、僕、英語を身につけて次の仕事に活かしたいんだわ。もちろん、次にいつどんな仕事をやるのか、その職種すら決まってねえし、その辺の見通しは今はまったく立たねえ。けどよお……」
「類い希なる先見の明があるなら見通し立つんじゃないの?」
「まあ、お聞きよ。んで、やっぱ英語なんだわ。ハッキリ言って英語なんだわ。アーユーの塩焼き?」
「……アーユーアンダースタンド? でしょ。訂正難易度が高すぎる言い間違いはしないでよ」
眉をひそめながら、ボソッと言った冬美の言は聞こえぬフリしてタノスケは続ける。
「でよ、ついに本題に入るんだけどよお、この英語アプリの使用料を毎月引き落とす手続きをしてください! このとおり!」
這いつくばり、小一時間ほど拝むような懇願を繰り返し、なんとか手続きしてもらったのだが、実を言うと、この時タノスケがうまうま冬美に契約させたのは英語アプリなどではなく、後に依存症となる、そして色妖怪ムーブにとって必須のツールとなる、件のマッチングアプリだったのである。
チン!
エレベーターが止まり、扉が開いた。
保護課で取り乱し、ゾンビにビビり散らかしムーブでよく確認もせずに階数ボタンを押してしまったようだ。扉が開いた先は、区役所の出入り口がある一階ではなく、地下一階だった。
目に飛び込んできたのは〝図書館〟と書かれた何やら自立式の看板みたいなもの。その横のドアは解放されていて、そこから図書館独特の静けさと本の匂いが流れ出てきた。
ほぼ文盲のような人生を歩んできたタノスケではあるが、区役所の地下に図書館があることは以前から知っていた。区役所に来ると正面メインの出入り口の横にはいつもカレンダー式の、日にちの上に◯×を書いて図書館の開館日と閉館日を知らせるポスターみたいなのが大きく掲示されているし、また、タノスケがよく通る道にある区役所地下二階駐車場に続く車専用の地上入り口にも、間違って車が入庫するのを防ぐためであろう、その日、図書館が閉館している場合には、大きく〝図書館閉館〟と書かれた看板が設置されているのをたまに目にしていたからだ。それらが目に入るたび、タノスケは図書館がここにあることを認知はしていたというわけだ。しかし、生まれてからこの方、つまり四十を過ぎた現在に至るまで実に長きにわたる年月、ほとんどというか全く本など読まずそれで少しも不自由など感じずに、むしろ本の影響を受けぬ独自路線を歩んでいるとのへんな自負とそれに伴うへんな開放感すら感じながら生きてきたのである。つまり、と言っては短絡接続の感があるが、しかし本当のことなので言うと、タノスケは〝オリジナリティの星〟と〝フリーダムの星〟という二大巨星の加護を同時複合ダブル的に受けており、そんな大器を地でいくタノスケにしてみれば、いかに大々的にそこに図書館があるなぞ知らされてみても、そんなのは馬の耳に念仏式の馬耳東風も馬耳東風なのであった。
━━僕にとって、この世界に図書館ほど用のねえところはねえわな━━
扉が開いた勢いで、すでに二三歩エレベーターから出てしまっていたタノスケであるが、踵を返して再びエレベーターに乗り込もうとした。しかし、踵を返そうとしたその瞬間、ド派手な掲示が目に飛び込んできて、タノスケはピタリとその動きを止めた。
〝モモ〟
図書館の解放されている入り口を入ってすぐ右横に児童書コーナーがあり、そこに今月のオススメ図書を知らせる、盛大にデコられた大きな掲示板があった。
その掲示板には、その中心に書名である〝モモ〟という字がカラフルに書かれ、それを取り囲むようにキャッチコピーやら簡単な説明やらが書かれていた。そしてその下には、おそらくは〝モモ〟を読んだ子ども達の感想の類いであろう、二十枚くらい、同形式の紙にそれぞれ個性的な子ども達かわいらしい文字が踊っていた。
何の気なしにそれを眺めながらタノスケは思い出す。
小説というものを一冊も読破したことのないタノスケではあるが、過去に一度だけその読破というやつを試みたことがあった。
あれはタノスケが小学生時分のことであった。二つ離れた例の次兄があの時中学生であったことは覚えているから、タノスケはおそらく小学校の五年か六年だっただろう。
何故に小説を読む気になったのか、その詳細な理由は忘れてしまったが、おおかた夏休みや年末年始の休みなどの長期の休みに出された宿題とかそういったことだろうと思う。だが、そう予想を立ててみても、どうも腑に落ちぬ思いがタノスケの内部に湧き上がる。というのは、長期休みに出される宿題なぞ、その休みが始まった初日に
━━一切やらない!━━
と決意するのが毎度お決まり恒例のタノスケ流サマームーブだったからである。であるならば、読書感想文の宿題をキッカケにして小説読破の意欲を漲らせたとの推察はまったくの的外れやも知れぬが、しかし、そこのところは今回問題の中心ではないので頓着せずにおこうと軌道修正的に賢くタノスケはそう思い直した。
これは自画自賛などではゆめゆめないのだが、このようにタノスケは思考が横に逸れそうになっても、そこから強引にでも中心に戻す意志と技術を持ち合わせている生粋の男前なのである。実はこのタノスケという男、今まで言っていなかったが〝プロボーラーの星〟の下にも生を受けており、その制球技術の高さもさることながら、それより何より、ガーターなぞ真っ平御免(ガーターベルトは大好き)の質に出来ており、もっと言えば、これは後年仇となり結局は自身を大変苦しめることになるのだが、このタノスケという男は、穴があったらどうしても指を突っ込みたいという、そういうピンクな衝動にかられる質なのである!
んな話はいい。
こんな感じで語っていると、なんだ所詮タノスケという男は軌道ブレブレの蛇足生えすぎ色乞食野郎ではないか、と思う人もいるかもしれないが、それは早とちり系の腐れ讒言というものであり、ここで言いたかったのはそういうことではなく、つまりタノスケという男の真の姿は見ていると思わずクラクラするほどに〝至誠〟である、ということなのである!
んで、その至誠の姿に打たれたのであろう、小学校高学年くらいの時、ある日突然に小説読破をこころざし、半ば強引にオススメ本を所望してくる文盲の弟に対し、それこそタノスケ本人よりも純粋至誠に悩みに悩み抜き、それだけ悩み抜いた末、これだ! との渾身の思いでもって棚より引き抜いたくせに、その手にした本を渡す段になっても逡巡が収まらず何やらモゾモゾしている、傍目にはただの不様、しかしタノスケの目には実にお有りがてえ様を晒しながら次兄が差し出してくれたのが、今タノスケが目の前にしている今月のオススメ図書、〝モモ〟だったのである。
ふいに、
━━ヒデ兄は、もういないのだ━━
との悲しみがタノスケの胸に広がる。そして、あの日、何故に自分は本を読もうとしたのだろう、何故に文字に親しまない自分のような者でも最後まで読み切れて楽しめる本はないかと相談したのだろうと、その問いをぶつけられる相手はもうこの世にいないのだとの思いが胸いっぱいに広がり、悲しみの濃度がどこまでも上がっていくのだった。
次兄は、次兄だけが見ていた次兄の世界と共にこの世を去った。ゴミの山に囲まれ、次第に衰弱していく次兄に対し、タノスケはただの一度も手を差し伸べることはなかった。なぜ自分は、大好きな次兄対しに何もしなかったのか。なんて自分は薄情冷酷なんだろうと思う。ユオの死後、ユオの家に行き、その玄関で立ち尽くしたその日から、自分は、死の香りがするもの全てから逃げ続けてきた。━━自分は、誰よりも冷酷非道な男だ━━
タノスケはそう思う。そして、あまりにも次兄が可哀想だとも思い、一瞬にしてタノスケの目は涙でいっぱいになる。
ふらふら、無意識のうちにタノスケは図書館の中へと入った。その時、スタッフの何人かはタノスケのその異様な様子に注目していたようだが、タノスケはそんなことに頓着しておられぬ心地。
図書館に入ることも何十年ぶりのことだった。最後に入ったのは、小学五年か六年の頃だ。図書館に入った理由は鮮明に覚えている。気に入らない同級生(屈強なジャイアン系女子)に喧嘩を売って、返り討ちにあったのだ。その女子は隣のクラスだった。体格のいい女子で、当時ガリガリに細かったタノスケと比べると横綱と新弟子くらいの違いがあった。しかしタノスケは、当時観ていたバトル系アニメの影響があって、体も細いし格闘技経験もないくせに、しかし自分の渾身の必殺パンチを当てれば相手は吹っ飛ぶと思っていた。そういう描写が当時のアニメで多かったのだ。んで、事の発端は、ある日その女のクラスの男子に教科書を貸したら、その女に教科書を破かれ堪忍袋の緒が切れたというものだ少年タノスケはその女を廊下に呼び出した。衆目に晒された状況の中で叩きのめしてやろうとしたのだ。だが、女の顔目がけて放ったタノスケの渾身の、そして不意打ちの一撃は、女の頬あたりでペチンと貧相な音をたてただけで、女子はノーダメージのようだった。前口上もなく、完全に虚をつく不意打ちタイミングで一撃必殺のつもりで放った攻撃だったのに、女は取り乱す様子もなく冷たいナイフのような目でタノスケを見、
「痛いなあ!」
と言っただけで、すぐさま圧倒的重量を駆使した回避不可能の攻撃をタノスケに仕掛けてきた。タノスケはこれに耐えきれずあっという間に転がされた。そしてそこから間髪入れず、女はヤクザ映画で出てきそうな念入りな足蹴をタノスケに見舞い、タノスケはその露骨に強すぎる暴力の前に為す術なく防戦一方になると、グッと腰のあたりを抱えられそのままパイルドライバーを喰らわされたのだった。タノスケの頭は床にめり込み、意識朦朧。その様子に女子はご満悦の様子だったが、その一瞬の隙をつきタノスケはなんとか遁走した。そして遁走し、身を隠しすために向かった先というのが学校の図書室だったのである。その重量糞ブス女子は追ってこなかったが、無残に返り討ちにあった同級生のその後のすべて観察しようとキラキラした目で後をつけてきたヤジ馬野郎どもが十数人いた。これに対しタノスケは、自分は敗走して図書室に逃げ込むのではなく、たまたま図書室に行きたいから行くのだと思わせたかった。だから自分の後に金魚の糞のようにくっついてくるそいつらを取りあえずは無闇に追っ払うわけにもいかず、そのまま一緒に図書室に入り、その辺の図鑑などを適当に手に取ると、四人がけの席についた。そして、追跡者たちによって目にいっぱい溜まった涙をまじまじと観察されながら、また、いつポタリと落ちるだろう、落ちないかな、との期待を感じながらタノスケはページをめくったのだった。
まったく、思い出したくもない恥辱の経験であるが、それがタノスケにとって図書館(図書室)に入った最後のことだったのだ。
苦い思い出に口元が引きつるタノスケであったが、しかし、その思い出により、連想的にタノスケは夏緒と春子のことを思い浮かべた。
━━あの、自分をボコボコにしてくれた横暴な女子と、春子はほぼ同じ年なんだなあ。かわいい春子は学校で男子をボコすなんてこと決してやっていないだろう。本当に優しい子なのだ。夏緒も同じだ。暴力性のカケラもない、いつも笑っていてお笑い芸人が大好きな、元気いっぱいの子だ。僕は、本当にあの二人の親で良かった(現在は一家解散中で親業をこなすことができない状況だが。というか、元々こなしていないが。というか法律上〝親〟ではないが)━━
我知らず歩を進め、いつの間にか図書館というものに、数十年ぶりに体を入れたタノスケは黒板横の特設棚から〝モモ〟を抜き出し手に取ると、これまた数十年ぶりにページを開いた。
思い出が蘇る。小説を読んでみたいから選んでくれというタノスケのお願いに、その時次兄が随分とアレコレ親身に悩み選んでくれたのが、この〝モモ〟だったのだ。
懐かしいが、しかし、ふいにタノスケの顔は顰め面に変じた。ふと次兄に対して申し訳ない気持ちになったのである。あの日、散々労力と時間をかけて選んでくれ、タノスケに手渡す段になっても、タノスケにとってもっと良い本はないかと迷っていた、そのためどこか自信のなさそうな逡巡の手つきでもって次兄が渡してくれた渾身の一冊がこの〝モモ〟だったのだ。タノスケにとっては次兄が語ってくれた〝あらすじ〟や〝世間の評判〟などより、次兄のその手つきによって、なんだか本にズシリと価値が注入されたような感覚になり、嬉しくて
「ヒデ兄ありがとう! 僕この本読むよ!」
と言い、次兄がにんまり温か笑顔になったことを覚えている。
で、結果はどうなったかと言うと、なんと、自分でも驚くことに、なんと、一ページも読めなかった。読んでいて退屈で退屈で死ぬかと思った。完全なるコテンパン式のパーフェクト挫折の経験だった。
その、タノスケが挫折した姿を見ても次兄は何も言わなかったが、しかしさすが冷血タノスケといえど次兄に対し申し訳なく思ったし、あんなに意気込んだくせに実にあっけなく散った自分にも我ながら情けないしで、だからそのことを今ここ、区役所の地下一階にある図書館にて思い出し、思わずタノスケは〝モモ〟を手に持って、見つめながら顰めっ面になってしまったのである。顰めっ面のまま、タノスケはページを開いた。開きながら、やはりまた次兄のことが思い出される。長兄は立派な人で、両親の自慢であり、今は一家をなし仕事をこなし立派に社会の役にたっている。しかし、次兄は二十代で部屋に引き籠もりはじめ、この前亡くなるまでの約二十年、ゴミ山の中で生活とも呼べぬ生活をたてていた。次兄は学生時代より、脳内を世俗の価値観そのままに塗り固められた両親から見れば〝無駄なことばかり考えている子〟であり、はっきり言えば軽侮の対象ですらあり、次兄は両親から常にその存在の価値を十分に認められていなかった。その状況を、次兄が大好きだったくせに卑怯極まるタノスケは利用したのだった。手練手管でもって心配の眼差しを次兄に向け、次第に憔悴していく両親に対し、こんな金のない状況だと自分も精神を病んで次兄のように引き籠もるかもしれないけど、僕に支援しないでいいんですか? 的な駆け引きを両親に持ちかけ、毎回震え上がった両親からうまうま金銭をせしめていたのである。
タノスケは、ふーっと一息ついた。そして再びモモの一ページ目に目を落としながら、あの日、あんなに懸命に次兄が選びすすめてくれた本を、自分は一ページも読まずに、いや、読めずに放り出してしまったことを思い出していた。そのことが今でも、何十年経ってもタノスケの胸にしこりとして残っている。
だから、これはしこりを取りたいという思いなのか、それとも長い研鑽の時を経てもしかしたら、いやきっともはや文盲ではなくなった自分の成長を感じたいという、そんな甘な思いなのか、自分でもよく分からないが、ともかく気合いを入れ、タノスケは〝モモ〟を読み始めたのだった。
そして、意外にも、というか、当然の結果として、今回もまたタノスケは一ページも読めず、挫折したのだった。
━━つ、つ、つ、つまらなすぎる!━━
と思った。何だか非常に次兄には申し訳ないが、つまらなすぎる、つまらなすぎて死んでしまう、と自分の一向に成長していない文盲を棚上げにしてそう思った。
タノスケはそっと本を棚に戻すと、
「……次兄と僕は全く違う人間だわな」
そう寂しく呟き、しかし、そこからそそくさと図書館をあとにすることはなく、そのまま、図書館の奥へと歩をすすめていった。それは、次兄が愛した図書館という場所をこの機会に少しは見てまわり、図書館の雰囲気を感じながら次兄に思いを馳せたい、そう考えたからだった。
それは、次兄が愛した図書館という場所をこの機会に少しは見てまわり、図書館の雰囲気を感じながら次兄に思いを馳せたい、そう考えたからだった。
児童書、健康関連の本のコーナーを抜け、心理学や自己啓発の本を左手に見ながらさらに奥へと進む。するとだんだん経済や政治に関する本が多くなり、更に進むと、照明が十分に届かないどん詰まりの奥を形成する書棚があり、そこには次兄が愛した思想関係の本が多くあった。
多くは文庫版になったものだった。茶色く変色はしていたが、良く言えば綺麗だと思えるほど、有り体に言えば閑古鳥感を漂わせながら、それらは整然と棚に収まっていた。一冊手にとってみると、それは十分古いのに、手垢も付いておらず、角も、まるで新書のようにシャープに保たれていた。
その、聞いたこともない書名の、分厚く、文庫のくせにずしりと重そうな本を見つめながら、タノスケはつぶやいた。
「こんなもの……なんで」
次兄の顔を思い浮かべていた。
次兄は無意識のうちに自分にくだらない謎を与えたとタノスケは思う。他の近しい家族はというと、父は筋金入りの物質主義を、母は嫌悪と渇望を、長兄は籠絡することの得意を、共に暮らした時間の中で、いつの間にか染み込ませるようにしてタノスケに与えた。
「こうして考えてみると、まったくロクな家族じゃあねえなあ。こりゃあ、僕の不幸も、元を辿ればすべて家族に起因するわな」
との他責の一人言を口元を歪めつつ侮蔑を込めて吐いた。
とはいえ、とタノスケは思う。とはいえ、父も母も長兄も、自室に引き籠もりゴミに埋もれて死にそうになっている次兄に、手段としてはもしかしたら間違っていたこともあるかもしれないし、また、世間体とか、自分のプライドを守るためとか、経済的損得とか、そういう感じの自己利益を求める心も確かに根底にはあっただろうが、にしても、手を差し伸べていたことは、必死に手を差し伸べていたことは事実なのだ。
それに引き比べ自分という男は、とタノスケの胸はまた忸怩たる思いに塞がる。
━━自分は、大好きな、いつも優しかった、恩ある次兄に手を差し伸べないばかりか、その苦境をむしろ奇貨として金銭的利益を得てきた。もしもあなたたち父母が自分に対し一層の金銭的扶助を行わないのであれば、もしかしたら自分も次兄のようになるかもしれませんよと、平生は何事につけ適切なさじ加減というものを知らないくせにこんな時ばかりは超絶微妙のさじ加減、匂わせ加減を見事に発揮し、もって父母を心底の恐怖の谷へと躊躇なく突き落としたのである。そして、それは同時に、父母の心身の健康を害するほどの多大なストレスを与えることでもあったに違いなく、父母がダメージを受ければ、そうなれば間接的に次兄をさらに苦しめることにもなるのに、そんなことは一向気にも留めず、僕はその恐喝まがいな手法により父母から更なる金銭的援助を引き出してきた━━
「根っからの寄生虫体質だね」
そういえばタノスケはこれまでの人生、多くの方に、そんなご指摘を数多く頂いてきた。直接的にそう言われたこともあるが、多くは発散する大呆れの雰囲気と冷えた目と片方だけ歪んだ口元でもって非言語的に指摘されてきた。そして、その度ごとに、〝愛の星〟の下に生を受けているタノスケは、そんな愛のない相手に憤慨し、そんなクズは心の中で不幸が訪れますようにと呪いをかけ、その上で絶交してきた。そうやってタノスケは気軽に絶交し、どんどん交友範囲を狭く、世間を狭くしてきたのだ。そんな感じで次々怨念の呪いを発しながらの世間削減ムーブでもって生きてきたのだ(どこが〝愛の星〟の下に生を受けているんだ、という話ではあるが)。そして、そのムーブの際は決まってこう毒づいてやったものだ。
━━ふざけんじゃねえ! この僕が寄生虫なんかであるものか! 寄生虫ってのは宿主と共生するもんだ。だが、僕は違う。僕は父母という宿主にあたるものを過剰に苦しめて死へと加速させ、それにより次兄すら殺そうとしたじゃないか! こんな寄生虫があるものか!━━
そう毒づくと、すっと肩を落とし、
━━……寄生虫よりヤベえじゃねえか……━━
とも付け加えるのであった。そして顔は醜く自嘲に歪んでいくのだが、その顔がふいにガラスか何かに映ることがあると、タノスケはまざまざとその顔を凝視し、ここに、この熱のない冷え切った顔に全てが表現されているような感を抱くのだった。その顔による表現は、まさに完璧な表現だと思った。完璧な表現は現実をも超える、それほどの力を持つというのは本当で、圧倒的な力で、真っ直ぐタノスケに迫ってくるのだった。
タノスケは図書館のどん詰まりに立ちすくんだ。ここは空気も澱んでいるのか、呼吸に困った。
目の前には本棚。次兄の愛した本が、たくさんある。タノスケはそれをバカ面のまま見つめる。図書館の静寂と、本の匂い。そして目にはいっぱいの涙。
タノスケは、本棚に整然と収まる難しい本を目の前に、少しでも次兄を理解したい気持ちがあるのに、これらの本はとても自分には読めないだろうと思った。先ほど児童文学で、子どもでも楽しく読める〝モモ〟ですら一ページも読めず、放り投げるように挫折してしまったのである。その新鮮な痛みがまだ胸にあるのだった。
実を言うと、三十年以上ぶりに〝モモ〟を開いたタノスケは、かなりワクワクしていたのだった。昔は脳の発達が未熟で一ページも読めなかったが、今なら、きっと相当成長したであろうから、今ならきっと楽しく読めるだろうと、そう思っていたのだ。そして、〝モモ〟を読み、深く味わったならば、次兄はこの本の何に感動したのかが知れ、それにより次兄のことを今よりかは少し多く理解できるようになるとタノスケは予感していたのだ。それがあの体たらくだ。相変わらずの一ページで挫折。
タノスケは拳をぎゅっと握った。理解したくても、自分の無能せいでできないというこの事実が、もしかしたらと、冬美夏緒春子のことを思い出させる。もしかしたら、自分は、十年も家族同然に暮らした、心底から愛しいと思っているあの三人を、自分のバカさが因となり全く理解できておらず、それが、一家離散という(離散というか、タノスケ一人が捨てられたのだが)大悲劇を招いたのではないか。
タノスケの頬に、涙が伝った。
━━こんな不浄な空間、もう出よう━━
タノスケは、この図書館という、タノスケにとっては不浄にすら思われる空間を後にすべく踵を返した。
自分の能力では読むこともできない本に囲まれていることほどくだらないことはないし、そんなことに劣等感を感じながら吸い込む空気ほど不浄なものはない。
まったく今日も散々な日だとタノスケは思った。冬美と夏緒と春子が出ていって心が非常につらくて仕事もできず、というか、まあ仕事をしないのはそのせいではなく、前々からの習い性というか、そんな感じの我が惰弱のよるものではあるのだが、ともかく生活していくうえでお金が足らないので、ちょっと生活保護の恩恵に授かれるかどうか伺いをたてようと、そう思い立って家を出ただけなのにもう踏んだり蹴ったりである。
来る途中で幸せそうな新婚カップルを目にして猛烈な嫉妬、区役所の保護課では散々な扱いをされ屈辱の汚泥に沈められるかたちで涙、んで、こうして今いる図書館でもうっかり児童書コーナーにあった、今思えばほとんどトラップとかわるところがない本につかまり無闇に絶望の底にたたき込まれた。嫉妬、屈辱、絶望の三連続攻撃をくらった気分だ。まったく何て日だ。
タノスケはもう尻尾巻いてここを出て、んで、ここから五分ほどのところにあるあの安居酒屋に入り、しこたま呑もうと思った。
とりあえずホッピー黒とコロッケを注文するのだ。ホッピーは注文する時、ダメ元で
「焼酎多めでお願い」
と言うのだ。この一言によりもしかしたら通常よりも少し多めの焼酎がグラスに注がれるかもしれない。それを期待して、つとめて笑顔で、全身に決して憎めないコミカルな雰囲気を漂わせながら注文するのだ。これにより店員さんをして規定量より多少多く焼酎を注ぐことは何ら悪辣なことではない、むしろそれは愉快滑稽な善なる振る舞いであり、世間的にもむしろ積極的に歓迎される事柄なのだと錯覚させるのだ。
そしてコロッケである。あの店ではコロッケが百四十円で、しかも必ず揚げたてが出てくる。揚げたてはそれだけでご馳走だ。高級スーパーで売ってる揚げてから時間が経った高級コロッケよりも、安物だとしても、揚げたてのコロッケの方がサクサクで旨いことはもはや宇宙の真理だとタノスケは思う。
そんなコロッケを割り箸で汚らしく十分割くらいにするのだ。んで、そこにソースをビチャビチャにかけてツマミとするのがタノーズスタイルなのである。ここの最寄り駅の近くにはちょっと高級志向のスーパーがあり、そこには高級食材を使った、小さいくせに一個三百円くらいする高級なコロッケが売っているのをタノスケは見たことがある。その高級コロッケを思い浮かべ味を想像しながら、ソースびちゃびちゃの安物コロッケをつまみ、ワンチャン、味が高級なものに錯覚されることを期待するのだ(もうすでに先ほど述べた宇宙の真理とやらが歪んでいる感があるが)。んで、ハイペースでホッピー黒を腹に流し込みながら、こう独り言ちてやるのである。
「あんな、値段だけは高えよお、油がまわって冷えきったどうしようもねえ残飯同様のくだらねねサクサクよりもよお、断然こっちのサクサクだわな。なにせこっちは揚げたてでよう、ソースをこんなにもかけられたってのに、そのソースの奥に〝決して失われねえサクサク〟があるんだわ。この〝決して失われねえサクサク〟こそが、凡百の高級志向に毒された、ここ神奈川の勘違い田舎者(タノスケこそど田舎出身なのだが)には分からねえ最高の贅沢、至高の旨味、真の美食なんだわ。なんと言ってもよお、この僕はよお、美食にはうるさいんだわ。そりやあ、自分が〝テイスティーの星〟の下に生を受けているということも幾分影響しているんだけどもよお、それよりもよお、実はもっともっと本質的な話なんだわ。つまりこの僕は、どうやらそも〝アフロディーテの星〟の下に生を受けているんだわ。だからよお、揃いも揃って卑屈な面つきをした世の自称美食家達がまったくもって精通していない美食の本質、すなわち〝美〟というものに、この僕は精通しているんだわ。そんな僕の埒外レベルの超越的な卓越極まる見識によればよお、美とは〝決して失われぬもの〟なんだわ。つまりよお、この両眼窩にすっぽり神眼が収まってる僕の目にはよお、あの安居酒屋でイートインで食す百四十円の大きいコロッケの方が、高級店でテイクアウトする小さい三百円のコロッケよりも美食に映るんだわ。……でもよお、それにしてもよお、〝決して失われぬもの〟と言えば、冬美の温かさだなあ。冬美とも、あの安居酒屋に何度も行ったなあ。今から思えば、どうしてもっと僕は冬美に優しくしてやらなかったのだろうなあ。冬美を失ってもいまだ自分の中に残る感触だけが、おいらにはどうしても真実に感じられる。散々隠れてマチアプやって色々な女性と関係して、ほんとよく分かった。冬美ほど素晴らしい女性はいない……。そういえば昔、冬美がサクサクとエターナルグッバイした、しかも夏緒だか春子だかの食べかけのコロッケを僕に出したことあったなあ……。今ではそんなコロッケでも食べたい心地だわ。いや、あのコロッケこそが、宇宙一のコロッケだったんだなあ……。食べたいなあ……」
図書館を出たら安居酒屋に入り、ハイペースでホッピー黒を腹に流し込みながら、こう独り言ちてやるのだとその内容を考えていたら、最後は冬美のことを思い出す結果となり、結句、意気消沈。こうなるともうほんと一ミリも残る力はなく、タノスケはまさに這々の体で図書館の出口へと向かったのだった。もう自分の人生は終わったのだという確信すら抱きながら、フラフラに、タノスケは歩いた。
その時だった。
今から思えば、奇跡としか思えない出会いがあったのだ。
タノスケの目が、ある本の背表紙に止まった。それは、出口まではあと二十メートルほどの地点だった。現代文学の本棚の前だった。
『苦役列車 西村賢太』
この時、なぜタノスケはその手を伸ばしたのか。それまでの経緯を考えると、今でも全く分からない。
タノスケはなぜかその本を手に取ると、読み始めた。
タノスケは衝撃を覚えた。次々と文字が、目ん玉に貼り付いてくるのだった。
あっという間に本の世界に入った。
そしてそれを読み終わると、ヤクが切れたジャンキーのような手つき目つきで次の、西村賢太の著作を手にとった。そしてまた貪るように、まさに貪るように、読んだ。
いつしかタノスケは床に座り込んでいた。スタッフはそれを注意しなかった。厄介な人だと思ったからではなかった。
次々とタノスケは読んでいった。
差し込む日はオレンジ色になり、閉館を告げるアナウンスが流れた。
アナウンスは聞こえなかった。タノスケは読み続けた。
「貸し出しカードを作りましょう」
見かねたスタッフが声をかけてくれた。
開館時間は終わっているのに、スタッフはカードを作ってくれ、借りられるだけ限界の冊数、本を貸してくれた。
十冊、西村賢太の本を十冊、タノスケは借りた。
スタッフが用意してくれた紙袋にそれを詰め、持ち手は使わず、胸に抱いて、タノスケは歩き始めた。
家に帰ると、タノスケは一晩中西村賢太の本を読んだ。そして一睡もせぬまま次の日、ありったけの金をかき集めて本屋を巡り、西村賢太の本を買えるだけ買った。
それから毎日、いやいつも、彼のことを考えるようになった。
とはいえ、これでタノスケの人生が好転したかといえば、そういうことは一切なかった。何一つ、好転の兆しすらなく、タノスケの性格や心構えも、一切変わっていなかった。ただ、いつも西村賢太の熱い生き方を、胸の中で飴玉のように転がし味わっている、そんな日々に変わっただけである。
というわけで、外形上は何も変わらなかったから、無視されるのが分かっていても、酒を呑んで、酔いにまかせて冬美にメッセージを送るということも、相変わらず続けていた。
実はタノスケは、〝ネバーギブアップの星〟の下に生を受けている。だから決して諦めず、というと聞こえがいいが、しかし傍目にはストーカーにしか見えないしつこさで冬美にメッセージを送っていたのだった。しかし、やはりすべては梨の礫、まったく返信が来なくて、いつも絶望していた。
冬美が夏緒と春子を連れ、出て行った場所、新たなる定住の場所は、この家より三十分たらずのところにある例の冬美の実家である。冬美の父親は何十年もの間、中規模のプレス工場を経営しており、その工場の、敷地内だが端も端に、冬美の母と二人で暮らしていた。
冬美は両親にしてみれば三人いる子女の、その長女で、下の二人はすでに独立して家を出ており、冬美が夏緒と春子を出戻りムーブでもって連れてきて一緒に暮らしはじめても、実家には十分なスペースがあるのだった。
また、引っ越し先が三十分足らずの場所であることは、夏緒と春子にとっても非常によいことだった。夏緒は進学する予定だった中学校に予定通り入学できるし、春子も、今までよりは通学時間が延びてしまい、厳密にいうと学区とやらは隣の学区になるとのことであったが、しかしそこでも十分に現在通っている小学校に通学可能圏内で、転校するしないはそれぞれの学区の校長に事情を話せばかなり融通も利くようで、つまりは転校する必要なく、今までと同じ小学校に通えるのだった。
一緒に成長してきたお友達と離れることなく、これからも共に多くの思い出を作っていけることにタノスケは安堵した。ただでさえ自分のゴミのような行動の累積によりこんなことになったのに、それに加えお友達との関係までも引き裂くことにもしもなっていたら、もうそれこそ合わせる顔を失ってしまうところだったのだ。既に、今でも十分に合わせる顔はないのだが、しかし、ほんの僅かでも以後の交流の可能性が維持されたような気配を、一方的な手前勝手推量によるものだが、タノスケは敏に感じ取っていたのだ。そして、それはまったく自分の手柄でも功績でもないのだが、それを自身の安心を支える理論の大黒柱的に据えようと無理にも心中画策もしていたのだった。
だが、それが案外それほど捏造の理論でもないことは、家に一人取り残され、冬美に送った贖罪ラインも一向に既読にならないしで寂しさが究極に高まった頃、我知らずフラッと家を出て、夏緒と春子がよく遊んでいた公園を覗きに行ったときに判明したのだった。
その公園というのは、タノスケの住む家と冬美の実家の丁度中間にある公園だった。そこは隣接するプロサッカーチームの施設の所有なのかは知らぬが、恐らくは資金潤沢なその施設が管理をしているようで、いつも綺麗で治安もよく、ボール遊びも可能となる高いフェンスまでもが四方に設置されていた。
夏緒と春子は、引っ越す前からよくこの公園で遊んでいた。だから、そこに行けばきっと二人に会えるとタノスケは思っていた。しかし、どの面下げてということもあるがそれよりも、もしも二人に会って、その瞬間に逃げられでもしたら自分はもう立ち直れない、という思いがタノスケのうちにはあり、まずは冬美とのコンタクトが必要だと、何度も連絡していたのだが、何度連絡しても言ったように梨の礫で、そうこうしているうちに時は経ち、夏緒は中学生になったのだった。
中学生になった夏緒の姿を一目見たいと思った。夏緒は小六の時、その、通う予定の地元中学校の制服のデザインは自分の好みではないようなことを言っていて、言われてみれば道行く当該中学校生徒の制服をみると、たしかに野暮ったい、というかむしろ古風とでも表現したくなるような、明らかにスタイリッシュさに欠けるデザインであると思ったのだが、しかし、そんな制服でも夏緒が着ればとびきり可愛いだろうなともタノスケは思っていたのだった。
そも、タノスケにとって夏緒は、いつまで経っても四才の頃の、すなわち初めて会った頃の夏緒で、それが初めての子育てだったタノスケにとっては実に印象深く、四才の、いつも細い手を大きく開いて抱きついてくる夏緒が可愛くて仕方なく、その頃の、今から思えば幸福の絶頂時に目に焼き付いた残像が、小六の時点ですでに身長も大人くらいにまで成長していた夏緒を見る際も常にその姿に一枚フィルターをかませるようにして挟まってきて、それにより目にはいつも幸福な像を結ぶのだった。
んで、ともかく、ほとんど思わず無意識にといった態で、ある日タノスケは家を出ると、件の公園に向かったのだった。時間は午後四時である。夏緒と春子がそれぞれのお友達と遊んでそこにいるとしたら一番可能性が高い時間である。もっとも、夏緒は中学に入ったら、小学生時に始めてすっかり魅了されたバレーボールを続けるべく必ずバレーボール部に入ると言っていたから、午後四時というこの時間ではまだ中学の体育館で部活をやっていて公園にはいないかもしれなかった。
しかし、まさか中学の体育館に突然顔を出すわけにもいかないから、とりあえずタノスケは公園へと向かうしかなく、んでそのため、手入れをまったくせず風雨に晒され続けたことですっかりチェーンが錆びた自転車に跨がったのだが、漕ぐたびにキーキーと耳障りな音が鳴ってすれ違う人の視線が集まるのが不快でならなかった。そして、その、音をきっかけに集まった視線が、次にはタノスケのすっかり窶れきった醜い風貌に固定されるというその毎度同じ視線移動を、タノスケは不快を超えて絶望心地で受け、すると、その絶望心地によってただの単調だったキーキー音は、どこまでも不吉な絶望の旋律へと変貌するのだった。
そんなこんなで何とか公園に着く。すると、その入り口付近にて、偶然にもタノスケは春子の姿を実になんなく見つけたのだった。
春子はタノスケに気づくと、少しだけ驚いた表情になったが、数ヶ月ぶりとは思えぬほどナチュラルな笑顔になり、それこそ一心不乱といった態でタノスケの元へと駆け寄ってきた。そして
「パパぁー!」
と、芯から嬉しげな声を上げながら力一杯タノスケに抱きついてきた。この一幕だけで、冬美は娘達にタノスケに対する恨み節を聞かせていないことが十分に知れた。内心それを恐れていたタノスケは、ふっと深い安堵と共に、久しぶりに春子を抱き締めることが叶った喜びと、また、冬美の深すぎる慈悲に対する感動とで心が激しく打ちのめされた。そして、その打ちのめされの振動に全身翻弄されるまま嗚咽に泣きじゃくったのだった。
暫くして落ち着き、春子を胸より離すと、春子は最近の学校での出来事や、バレーボールが上達した話や、祖父母との快適な暮らしのことなど、色々に話してくれた。その話の中で、パパもこっちに来ればいいじゃん、なぞ、無邪気なことも口走り、タノスケをさらにホッとさせたのだった。
そのうち、数十メートル先から複数人の、春子を呼ぶ声がした。遊ぶ約束をしていたお友達だろう。まだ四年生である。現金なもので、春子は、またね! と言うとお友達の方へと駆けていった。その背中を見ながらタノスケは、こんなことならもっと早くこの公園を訪れるべきだったと思った。
そして、この流れなら、もしかしたら冬美との復縁も叶うのではないかと、そんなお目出度い予想を立て、その予想に目頭を熱くしながら、そんな幸福な未来の想像に深く酔いしれるのだった。
しかし同時に、自分が今まで冬美に対してやってきたことを考えれば、その予想はほとんど夢物語に違いなく、それを思うと急激に残酷な現実に引き戻され、まるで自分は今、永久凍土の中にでも封印されているような、そんなイメージまでも浮かび、それがどんどん脳内を浸食してくると、急転、熱かった目頭から涙ではなく、氷柱でも垂れ下がってでもいるような、そんな氷結、絶対零度の絶望心地となるのであった。
そも、もはやタノスケの言葉は冬美に届かないのだ。話を聞いてもらえないとか、メールを送っても既読にならないとか、それもそうなのだが、それ以前に、もうすでに完全に、タノスケの言葉は冬美にとって軽すぎてまるで心に響かない、というか、そも当たりさえしないというか、擦りさえしない、そういうものに成り果ててしまったのだ。もはやタノスケの口から出る言葉は、それが字面だけみればどんなにご立派で至誠なものであったとしても、それは冬美の心どころか細胞一つにすら届かず、スッとすり抜けてしまうくらい軽く極小なものに成り果ててしまったのだ。
この惨憺たる現状を、実は〝宇宙物理学の星〟の下に生を受けていて、その卓越知性を隠そうとしても隠せないところがあるタノスケ博士が専門用語を使いながら説明すると、タノスケの言葉はニュートリノくらい軽く、小さなものになってしまっているということなのである。だからそれにより、冬美の細胞一つにすら、心の琴線一本にすら、まったくもって擦りもせずにスルリと虚しくすり抜けてしまうのだった。タノスケはこれを〝相対性、言葉のニュートリノ化理論〟と名づけ、学会発表はまだだが、自身そう呼び習わしているのである。
そして、ここで思い出すのは西村賢太である。西村賢太は自分の対極にある存在だとタノスケは思う。西村賢太はある作家の〝歿後弟子〟を自称していたのだが、当初はその〝歿後弟子〟という一語は誰の心に届くものでもなかった。聞き手にしてみれば極めて空疎にしか響かぬ、まるで真面目に取り合う気持ちが微塵も起こらぬ、まさに今のタノスケが冬美に向け発する愛の言葉のようなものだったのだ。
しかし、西村賢太はその〝歿後弟子〟という一語の中に、歿後弟子看板を守るという、その熱すぎる生き様によって意味と価値をパンパンに充填させた。そして結果、その一語は多くの人にとって空疎なものではなく、決して無視できぬ、心に突き刺さるものとなったのだった。
タノスケも同じことがしたくて仕方なかった。今のくだらない生き方を熱く熱しきったものに変容させ、それによりひたすら意味と価値を〝大事な言葉〟に込め続けたかった。そして、いつかその〝大事な言葉〟がパンパンに膨らんだなら、それを冬美に伝えたかった。復縁は叶わなくてもいい。ただ冬美に自分の想いを伝えたいと思った。
しかし、肝心の、その、生き方を熱いものへ変容させる具体的行動がタノスケには皆目見当もつかなかった。図書館で西村賢太の著作群に出会ったあの日から、タノスケはそのことをずっと考えていた。
━━自分に出来ることは何だろう?━━
そもタノスケは〝シェフの気まぐれサラダ星〟の下に生を受けている。だから、その星の加護の影響により、タノスケは何事につけ、同じことを坦々黙々と毎日続けるということ、すなわち〝継続〟というものが大の不得手なのである(シェフは毎日サラダを作っているのだから紛れもなく継続しているのだが)。
んで、継続ができないゆえにタノスケの中には、どこをどう探しても何の蓄積もないのだった。知識も技術も経験も、ゆうに四十を超えているくせに、タノスケの中には何も蓄積していないのだった。
だから当然に、その蓄積がもたらすであろう職能や地位やポジションや収入や栄誉や権力というものを、一つも、本当に一つもタノスケはもっていない。
逆に、その不名誉な現実の副産物として、時間と性欲だけは多分にあるという、そんな感じの、じつに醜悪惨めな現状なのだった。
そして、この爛れた現状の自覚は、ただでさえ卑しいタノスケの顔つきを更に下卑た、冷たいものにしており、ここのところタノスケは鏡を見るすら憂鬱だったのである。
その時、横から急に声をかけられた。男の子の声だ。
「あ、春子のパパじゃん」
見ると、たしか去年春子と同じクラスだった男の子がいた。活発な子で、タノスケはこの子と鬼ごっこなどして何度か遊んだことがあり、顔見知りだった。
「これ、ちょっと押してみて!」
男の子が半笑いの顔で差し出して来たのは、明らかに罠と知れるライターだった。よく、パーティーグッズなどにある安物で、火を付けようと押すも、火は着かず、代わりに手に軽い電気ショックが流れるという代物で、んで、その電気ショック驚く様子を仕掛けた者が観察して楽しむという実に下賤な罠アイテムだった。
「嫌だよ。自分で押せよ」
タノスケがそう言って断ると、男の子は、いいからいいからと、しつこく迫ってくる。それに一瞬、今自分は色々と絶望心地ではあるけれど、しかし一方では確かに春子に会えた喜びと、冬美が子供たちを怨念で洗脳していないことが判明した喜びもあるわけだし、つまり、そこだけに焦点を当てれば今までとはまるで違う、完全別世界の、いわば富豪心地でもあるわけだし、ならばこのくだらない下賤な下民の下劣遊びに付き合ってあげてもいいかな、なぞ、ふとそんな富裕層みたいな発想も浮かんだのだが、しかし、そういえばと、この男の子の底抜けのバカさが思い出された。こやつは以前タノスケ所有の子ども用カラーバットを「借りるよ」の一言の下にかっぱらっていき、数時間後にはそれを下級生に百円で売っていたという札付きのバカなのだ。それを勘案した上で最先端タノスケAIで考えてみると、もしも今タノスケがこのライターの火を着けようとスイッチを押して、そしてまんまと罠にかかったかたちになったら、このバカはバカだからそれに狂喜乱舞して喜ぶに違いなく、きっとバカ特有のバカステップを刻みながら春子たちグループの輪の中へと突進、そしてタノスケがライタートラップに引っかかった事実を針小棒大に加工したうえで呆れるほど大袈裟に吹聴してまわるに違いないのだ。そうなれば愛しき春子に少しく恥ずかしい思いをさせることになるし、せっかくに春子とタノスケ、今両者の間には温かいものしか流れていないような実に好ましい状況なのに、このバカでゲスで顔にウンコがついていそうな男子の、その一時の快楽のために、自分と春子の間を流れる温かな流れを幾分でも乱すことは、その可能性が少しでもあることは、それは随分と損なことに思われた。また、それは巡り巡ればたとえ些少だとしても一家崩壊状態を長引かせる方向にしか作用しねえんじゃねえか? との危惧も加われば、例のお得意のプンスカ心地顔になり、タノスケは、
「まずはお前が押せよ。お前が押したらオレも押すよ」
なぞ言って再びの押し問答モードに入ったのだが、その時、不意に横から手を伸ばし、ライターを手に取った者があった。そして、その手はすぐさまカチカチと何度も押し始めたのだった。
その、五回六回と無言で押し続ける手、その、押し続けるのは誰かと見ると、夏緒だった。
制服を着て、僅かに微笑しながら一心にライターを見つめ、カチカチ押し続けている。目の淵は潤み、薄らと煌めいている。その様子を、その悪戯ライターの持ち主たる男の子は、
━━そんなはずない! ノーリアクションで耐えられるはずがない! 押すたびに痛すぎる電気ショックが指に伝わっているはずだ! それなのになんで?━━
と言いたげな顔でまじまじと夏緒の顔を見つめていた。タノスケはといえば、呆気にとられてしばし呼吸すら止まる思いで夏緒を見ていたが、程なくして夏緒は、
「はい」
と言いながら、最後までノーリアクションを貫いたまま、その悪戯ライターを男の手に返却した。男の子は呆然と受け取ると、もしか故障したのかと自身でライターのスイッチを押してみた。
「痛ッ!」
指に走った鮮烈な痛みに男の子は思わずそう叫び、この痛みをもたらすスイッチを何度も何度も無言で押した夏緒を気味悪げに一瞥するとどこかへ去っていった。
夏緒は顔をあげた。深い、実に深い微笑だった。春子とはちがい、もはや夏緒は大人なのだとタノスケは思った。冬美がどの程度夏緒に事情を説明しているかは分からないが、きっと夏緒はその心の襞で両親の人生をヒリヒリと血を滲ませながらも精一杯に受け止め味わっているのだった。
思わず、ポロポロと涙が出たタノスケは、すぐに夏緒から顔を逸らし、横を向くと涙を拭い、感情の激流のその最も盛んなところが過ぎ去るのを待った。
「パパ。あたしバレー部入ったよ」
久しぶりに会った父との会話が待ちきれないような、そんな幾分急いている風情すら感じられる、タノスケとすれば天にも昇るほどに嬉しい響きで夏緒はそう言った。 タノスケは急いで涙を拭き、夏緒の方へ向き直ると、
「おお、そうか! ポジションどこなの?」
と尋ねた。
バレーボールといえば、テレビで、日本代表女子の試合をグラビアアイドルを見る眼差しと全く同じ眼差しで見ていた程度の、その程度の経験しかないタノスケは、もちろんバレーボールに関する知識なぞ皆無に等しく、ポジションを聞いてもそれが何をする役目なのか見当も付かないくせにそう尋ねた。
夏緒は、そんなタノスケの、いつもの、予備知識皆無なくせにどんどん深みに入っていこうとし、すぐに無知を露呈するだけの不様ムーブのいきなりの開始に懐かしさを覚えたものか、表情を一気に、一緒に暮らしていた頃のあの溌剌としたものに変えると、部活のことや学校のことなど、話したいことがたくさんあったのだろう、それこそ止め処ないといった調子で話し続けた。
タノスケはその夏緒の話を、いつものバカ面まま、しかし最大の集中力でもって、随所に感嘆の声を上げながら聞いた。タノスケにはあまりにも幸せな時間であった。
しかしそのうち、話は現在夏緒が抱えている悩みの方へと流れ出したのだが、その悩みというのは、部活の、その顧問の傍若無人の言動についてのことだった。
聞くと、その顧問は若い女性の先生であるようで、随分と高圧的な、あえて心を傷つけるような、もはや指導とも呼べぬ指導をする先生で、他の先生たちも唖然とするほどの専横っぷりなのだそうだ。そして、あらゆることにおいて聞く耳なぞ当然に持ち合わせておらず、間違ったことでも間違ったまま押し通し、ついにそれが因となった破綻が発生露呈してもその責を生徒に押しつける始末で、それは生徒にしてみれば体罰でしかなく、いや、虐待だとすら言いたくなるようなものなのだそうだ。そして、そのストレスでどうやら夏緒の同学年の何人かは、入部したてにも関わらず、早くも退部の方向に心を決めているとのことだった。この悲惨なる状況に、冬美も心を痛めているとのことで、他の保護者との連携を模索したようだが、他の保護者の傾向を夏緒の同級生を通じて探るに、どの子の保護者も、中学の部活は厳しい方が子どもがよく育つからむしろそうあるべき、みたいなスタンスで相談するだけ無駄だとのこと。ならば中学の校長とか教頭とか学年主任とかに相談したらどうかと言えば、それも皆揃いも揃って保護者たちと同じか、もしくはそれよりももっとスポ根方向へとアクセルを踏んでる奴ららしいのである。この、八方ふさがり四面楚歌的現状に夏緒は同じバレーボール部の、小学校時代からの友達八人とがっちりと手を握り合いながらひたすら毎日耐えているとのことだった。
話を聞きながら、まずタノスケは夏緒の成長っぷりに驚いたが、次に、地元の中学に進学できたおかげで小学校時分からのお友達と支え合えて本当によかったとの思いを噛みしめていた。だが、話を聞き終わった頃には、タノスケは、その女教師に対し、はっきりと殺意を覚えていた。少なくとも面前にまでしゃしゃり出て、夜道には気をつけろよ等々、血走った目を見開いて言ってやろうかと思った。
しかし、そんなことはちょっと考えるまでもなく実行不可能なことである。そんなことをしたらタノスケは警察に捕まり、夏緒の現状はさらなく暗黒色で塗りつぶされることだろう。
では、どうするか? 自分は何をすべきか? 夏緒は何をすべきか? 考えてみたが、タノスケには何も分からなかった。いいアイデアが一つも思い浮かばなかった。夏緒よりも何十年も多く生きているのに、ただ不様にだらけた時間を過ごしてきただけの人生なので実践的な智慧をタノスケは一つも持ち合わせていないのだった。タノスケは、愛しい娘の窮地を知っても何もできない自分が情けなく、いっそのこと自分を蹴り飛ばして地面に転がした末、唾を吐きつけ、その上で念入り存分に踏みつけてやりたいような、そんな心地だった。そして、そんな思いをギリギリと歯がみに噛みしめながら夏緒の顔を見たのだが、意外にも夏緒は随分スッキリしたような顔。で、夏緒は口を開いた。
「友達はみんな、親には相談できない、相談しても自分が怒られるだけだって言ってたんだ。でも、あたしは、ママにもパパにも相談できて、本当によかった」
タノスケは泣いた。
そして、泣きながらタノスケは、必ずや今の、この〝言葉のニュートリノ状態〟を脱し、夏緒に、春子に、冬美に、全身全霊、愛の言葉を伝えたい、心底そう思った。そのためなら、この肉体を壊してしまってかまわないくらいに、心底思ったのだった。
夜、タノスケが所属している消防団の先輩から連絡があった。プロレスのチケットが余ったから来ないかとの由。
この先輩、今まで随分とタノスケが無礼な振る舞いをしても見捨てず、時折こうして優しい提案をしてくれるのだった。チケットが余ったというのも嘘だと思った。タノスケがここのところ元気がないから元気づけてやろうとしているのだった。
昔、タノスケが家族四人で住んでいた頃、地元のプロレス団体〝灼熱プロレス〟が、お祭り会場で無料興行を開いたことがあった。その時、冬美、夏緒、春子は目を輝かせてレスラーを応援していて、それが家族の楽しい思い出の一つだと話したことがあったから、その先輩はプロレスに誘ってくれたのだった。
場所は後楽園ホールで、その日の興行は、かの〝灼熱プロレス〟だった。
どの試合も激しく面白かった。ダメージを負いながらも、なんとか選手が立ち上がるたび、タノスケは胸が熱くなった。どの試合もタノスケに元気を与えてくれたが、元気が出過ぎるほどに出た試合は、一番最後にあった。
メインイベントは、その灼熱プロレスの社長兼チャンピオンレスラーと、メジャー団体である新日本プロレスの、そのレジェンドレスラーとの一戦だった。
試合前、最低限の予備知識を仕入れるためにネットで色々読んだところ、その社長兼チャンピオンレスラーであるTGの年齢はタノスケと同じで、TGは十代の頃から新日本プロレスに憧れ続けていたそうだ。そして身体を鍛え上げ、何度も入門志願書を送るも、入門テストすら受けさせてもらえなかったのだが、それはTGの身長が足らなかったからだそうだ。
非常な現実だが、しかしTGは諦めず、他の団体でデビュー。そして三十を過ぎて自分の団体を立ち上げ、少しずつ団体を成長させ四十三になり、はじめてここ後楽園ホールで、昔から憧れて続けていた新日本プロレスの、しかもずっとファンだったレジェンドレスラーとの対戦が実現したのだった。
試合が始まった。
TGの鬼気迫る攻撃を、レジェンドは全身で受け止めていた。またレジェンドの攻撃を、TGも鬼の形相で受け止めていた。見ているうち、タノスケは身体の震えが止まらなくなった。こんなにも震えが止まらないのは、虐められていた小学生の頃、ユオに肩を抱かれた時以来だった。
試合は、互いに必殺技を打ち合い、最後はTGが空中一回転に吹っ飛ばされ、負けた。
試合終了後、何とか身体を起こし、片膝着いた体勢で、TGはマイクを持った。そして、叫んだ。
「俺たちは新日を超える!」
沸騰するほど会場が湧き立った。こんな小さなマイナーなプロレス団体が、日本最大のメジャー団体を超えるなんて、あり得ないことだった。しかし、TGの言葉は、皆の心に届いたのだった。
タノスケは、TGの言葉に、西村賢太と共通するものを感じた。
家に帰り着くと、タノスケはTGのことを調べた。そうしたら、思いもよらぬものが出てきた。それはTGが、自分の姉について語っている記事だった。お姉さんは、ダウン症だった。
TGは、お姉さんが差別される理由が分からない。一緒にいて本当に楽しい。と言っていた。それを読むと、またユオの手を感じあの日の震えが、タノスケの身体の中心に発生した。そしてその震えの中で、冬美が育ててきた沢山のダウン症を持った子供たちのことを思った。
タノスケは目を閉じた。先ほど後楽園ホールで目撃した、TGの、レジェンド選手への強烈すぎる必殺技。あの体格から発せられたとは思えなかった。到底一人の力とは思えなかった。
すると、色々なことが思い出され、それらがグルグル脳を巡った。あの日、クラス中を敵にして自分をかばったユオのこと。あの時の震え。中学の卒業前、キャンパスに向かうユオを嬉しそうに顔を膨らませて見ていたお姉さんのこと。そしてその美術室は夕日でオレンジに染まっていたこと。タノスケが図書館で泣きながら本と読んでいた時もオレンジに染まっていたこと。次兄のボディプレスの練習をユオのお姉さんと同じく顔を膨らませて見ていた自分のこと。小説モモを持つ次兄の手。次兄の死。父母と長兄の慟哭。冬美が職場で面倒見ている子どもたちの、その価値を貶め、毀損し、無くしてしまうようなことを言った自分のこと。価値と意味と無価値と無意味。いつも聞こえる戦争の音。氾濫する死。泣き叫ぶ子。自分の子。我が子! 夏緒! 春子! そして、死に物狂いで自分を愛してくれた、冬美!
次の日、タノスケはTGの道場の前に立っていた。道場のドアに手をかける、その前に一つ大きく深呼吸した。
年齢も四十三になり、格闘技経験なし、運動神経を褒められたこともなし、しかもアル中、ニコチン依存、運動不足で肩腰はいつも痛く、腹は醜く出放題、加齢臭もプンプンプンのプンプンプン。
タノスケは息を吐ききると大きく目を見開いた。そして、思いっきりドアを開けた。
指導役の、若いレスラーが言うには、正式のプロになるまでには五段階のテストがあるとのこと。
そして二ヶ月後、タノスケは第一段階のテストに挑むことになった。この試験は、基本的な動き、たとえば倒立前転やロープワークや各種基本の受け身などのテストと、あともう一つは基礎体力のテストで構成されていた。
全部一通り練習してみて、今のタノスケには全部難しかったが、一番ネックなのは、基礎体力テストの中にある〝スクワット百回〟という項目だった。
何十年かぶりにタノスケはスクワットをやった。五回で、もうダメだ、と思った。しかし、そこでは挫けず、八回やった。だが、そこで挫け、次の日、筋肉痛になった。
体力低下、運動不足もあるが、この結果はあまりにも酷いと自分でも思った。そして、鏡を見ながら、この出過ぎた腹をどうにかしないとどうしようもないと思った。
こうして、タノスケは鉄の意志に支えられたダイエットを開始した。そして毎日毎食、鉄の意志で食事を制限し始めたのだった。
しかし、数日が経った頃、まさかのことが起こるようになった。
まさかの、腰抜かすほど驚愕、まったく不可思議、理解不能、オカルト怪奇現象とでも呼びたくなることが頻発するようになったのである。
それは、タノスケにはまったく身に覚えがないのだが、気づいたらコンビニ弁当やコンビニラーメンを食べ終わっているという事件が頻発るようになったのである。
目の前に転がる、透明使い捨て容器の残骸。そして腹の中心から全身に広がる得も言われぬ満足感、それに口中に残る化学調味料と食品添加物の芳しい香り、どれもまったく身に覚えのないものだった。
身に覚えがないのだから、犯人は自分ではないと思うが、念のために体重を量ってみると、増えていた。腹も以前よりも出ていた。
これに、タノスケは腰抜かすほど驚愕したというのである。このまったく身に覚えのない、明らかに人智を超えた現象に、目ん玉飛び出るほどの表情でタノスケは驚愕したというのである。
なぜタノスケの身にこんな不思議なことが起こるようになったのか。この現象のメカニズムは何なのか? 人智に秘せられた無数の因果の結実なのか? それとも何らかシンプルに超越者の意志が働いた結果なのだろうか? 分からない。考えれば考えるほどタノスケには分からなかった。
しかし、何とかしなければならない。プロレスラーとしての第一歩を踏み出すために、絶対に何とかせねばならないと思った。
タノスケは勇敢に考え続けた。
━━ううむ。もしかしたら、これは一種の心霊現象の可能性もあるな。参考のためにゴーストバスターズシリーズでも見直そうかな……いや、まてよ。もしかしたらそういう類いの現象ではなく、人間が関与している可能性もあるぞ。知らぬ間にどこかのマッドサイエンティストの実験に巻き込まれちまったのかもしれねえ。うむ、そんな気がする。いや、でも待てよ、もしかしたらこれはワンチャン、映画〝君の名は〟方式でもって誰かの魂が僕の中に入り込み悪さをしているって可能性もあるぜ。だとしたらヤバいぜこれは。知らぬ間に僕の小倅ドリチンが興味半分に弄ばれてる可能性もあるってことだぜ……。いや、でも待てよ、その魂が可愛い女性のものだったら……うーむ、それは断然アリだな。アリ寄りのアリ寄りのアリだな━━
このようにしてタノスケは、まったく自分のあずかり知らぬ領域から突如、巨壁が目の前に出現し、我が進むべき一本道が塞がれ、立ち止まりを強制されているような理不尽極まる状況に陥った(と自分ではそう思っている)わけだが、しかしその状況にあっても顔は、以前よりも輝き、全身は、魂も含め、熱いのだった。 了