二十五
退院して、まず驚いたのはシンのお屋敷の変わりよう。
全ては終わっていないそうだけど、門から見える範囲の庭は整えられて、もう幽霊屋敷とは言われなさそうな外観に変化。
私の生活範囲には手すりが作られて、つまづかないように廊下は整えられて、居間の囲炉裏は堀り椅子になっていた。
お風呂までの距離が遠いので、竹を使って、湧いている温泉を土間の近くまで流して、そこに小さなお風呂を設置。
あと、驚いたのは神棚が出来たこと。
わざわざ壊した形跡のあるところに真新しい神棚が完成していた。
改築は私が退院するまでに少しずつ行われて、その費用は全てシン持ち。
何もしなかったら、彼の貯金はすっからかんの勢いらしく、シンは私に対する資料お礼代は一生かけて払うから、契約満了金は無しにしたいと父と話し合ったそうだ。
こういうことになったので、最初にいただいたお金以外は要らない。
代わりに娘をどうかよろしくお願いします、最初のお金も必ず返しますと、父こそシンに頭を下げた。
お屋敷の変化以外で驚いたのは、ミズキはシンに男性だと教えていないということ。
私の部屋はそのままで、わりと近くの部屋にシンが引っ越し済み。
困った時にすぐに助けられるようにと。
退院日に改めて両親と共にシンに頭を下げて、結納契約内容をどう変更するか話し合い。
夜は退院祝いだと、レイが七地蔵竹林長屋の住人達と来訪して、手巻き寿司会を開催してくれた。
手巻き寿司会だけど、レイは「はいよ!」と本物お寿司を握ってくれて楽しい。
彼女は「寿司はゆっくり修行中だからまだお粗末ですが」と言うけど、私からすると完璧なお寿司を振る舞ってくれた。
退院日の夜は宴会状態でシンとはあまり話せず。 両親に挟まれて寝て、嬉しいけどちょっとお邪魔虫だと思ってしまった。
長女姉のエリが私の新しい生活をしばらく見守ると残り、私の新しい生活はシンとエリ、住み込み使用人のアリア、居候のミズキと五人で開始。
退院する三日くらい前に仮義足が完成したので、私の足の訓練は義足あり、なしの両方を行う。
訓練内容は両親だけではなくて、アリアとミズキ、シンも教わってくれている。
ちなみに姉は、事前に何度か家守り練習にきて、私がここへ来た時のように家事を効率良く出来ず、半人前の自分は教えられませんとアリアに匙を投げられて家事禁止。
エリは私と共に寝起きして、私の足を揉んでくれたり、私が頼まれた野菜切りを一緒にしたり、足やお風呂訓練を手伝ってくれたりだ。
☆
新生活は段々このように変化した。
朝、起床した私は顔と髪だけ軽く身支度して居間の堀り椅子へ。
同じくらいに起きているアリアが炊事を始めていて、私に味噌汁作りを頼むので、囲炉裏に火を入れたり野菜を切ったり。
しばらくすると不機嫌顔のシンが起きて来て、私の顔を見て顔色を良くして微笑み、堀り椅子に腰掛けて難しい顔で執筆をする。
少しするとミズキが来て、今朝は〇〇を演奏しますと琴か三味線の練習を開始。
彼は起きてすぐに身支度をして、その後は自室で基礎練習を延々して、それから居間で曲の練習をする。
そうこうしているうちに朝食になり、アリアがシンに「今日も味噌汁以外あまり美味くない」と文句を言われて怒ったり、ミズキが「昨日の演奏の方がマシだった」と貶されて怒ったり。
シンの口の悪さは減ったし、悪口嫌味を言うだけではなくて良いことも口にするけど、まだまだ口の悪さは直っていない。
朝食後は歯磨きをして、片付けをアリアに任せて廊下で足の訓練。
この為に、動いて汗をかくから浴衣も肌着も着替えない。
役者には体力が必要で、足の不自由な者の動きを完璧に真似出来たら格上役者だと、ミズキも全く同じ動きをする。
シンはミズキに私のことを任せて仕事。
打ち合わせに行くこともあるし、これまでのように部屋に引きこもったり。
午前中の足の訓練が終わると、少し休んでアリアと共に家の中の掃除。ミズキは芸妓としての自己鍛錬を継続。
十三時の鐘が鳴ったら昼食で全員集合。
その後、私とシンは七地蔵まで散歩をして参拝する。
帰宅後はアリアと共に家守りを可能な限り、無理をしない範囲で手伝い、シンはまた仕事で、ミズキも稽古。
シンは午後、海辺街にある出版社の支社へ打ち合わせに行くこともあるし、ミズキは保護所で講師仕事や師匠ウィオラの付き人になりに行くこともある。
夜が近づくと七地蔵竹林長屋の住人達が集合して、私とアリアその他希望者はレイに炊事を習い、なるべく全員で夕食をとり、それで身支度、お風呂、就寝で一日は終わり。
アザミはシンに「戻って来るか?」と聞かれたそうだけど、初めての一人暮らしだからもう少し家守りを出来るように修行すると返答してまだ長屋の住人。
私が退院して二週間程で、シンはオケアヌス神社で謝罪祈祷しなくても良くなった。
アリアが鶴屋で奉公する日があったり、ほぼ一日ミズキがいなかったり、色々あるけど新しい生活はどうにかなっている。
☆
退院して一ヶ月が経過して、私の右足の経過と歩行訓練は順調。
義足を使って歩行が出来るか出来ないか、くらいになってきた。
死ぬよりは良かったと思うけど、時々急に悲しくなったり、右足がまだあって痛みを感じることもあったけど落ち着いた。
なので、怪我が落ち着いて気持ちの整理が出来たらお見舞いに来たいという友人達に「もう大丈夫です」という手紙を送った。
退院日に気持ちを伝え合ったけど、シンと何も起こらない。
彼は優しくなって、私には悪口や嫌味をほぼ言わなくなった。ふざけて揶揄い言葉は口にするけど実に優しい。
散歩へ行く時は、危ないからと腕組みをさせてくれる。
お金はあればあるだけ良い、とにかく稼ぐ。小説家シンイチの売り出しが始まると、彼は仕事に打ち込んでいる。
本当の婚約者になった雰囲気にならないなぁ、とたまに寂しくなる。
夏は終わり、もうすっかり秋なので、頑張って川まで行って二人で紅葉を浮かべて「永遠に一緒にいよう」と誓い合いたい。
それは、ものすごーく定番だから昔から憧れている。
夕方少し前に、アリアと縫い物をしていた時に「ため息」と顔を覗き込まれた。
「足が痛いとか何かある?」
「いえ。単にその、シンさんと少し遠出したいなぁと」
「遠出? どこに行きたいの?」
「一番近い川です。すっかり紅葉が色づいたので」
「確か……紅葉狩りって言うんだっけ?」
「ええ。婚約者同士や夫婦で川に紅葉狩りはとても定番です」
アリアが何か言いかけた時に、ガラゴロゴロン、ガラゴロゴロンと鈍い呼び鐘が鳴り響いた。
アリアが「はいはーい!」と玄関へ向かう。
シンは自室で仕事中で、応接室には編集二人とアザミがいて、ミズキはオケアヌス神社へ行っている。
長屋の住人達はまだ帰宅には早いので多分ミズキだろう。
彼が帰宅したのなら、アリアに「はいは一回ですよ」と注意しそう。
しばらくしてアリアが戻って来て、小窓からそっと覗いて、知らない人だったので声だけでやり取りをしたら、ミズキではなくてミズキを訪ねてきた男性だったと告げた。
「知らない男性だから、シンさんに対応してもらう」
「お願いします」
アリアが去って、縫い物を続けていたら彼女が戻ってきて「シンさんが応対へ向かった」と教えてくれた。
「マリさんはミズキの友人でアサヴさんって知ってる?」
「いえ、存知上ません」
アリアは一応お茶を淹れると台所へ行き、私は浴衣に裏地や半衿を縫い続けた。
しばらくしてシンが居間へ顔を出して「マリ。ミズキにお客様だ」と告げた。
後ろに背の高い、とても整った顔立ちの長髪男性が立っている。
長い髪を束ねて横流しにしていて、色白で凛々しい眉毛がとても印象的。
街中で見かけたら、私はきっと振り返るだろう。
「彼女は足が少し悪いのでこのままで失礼します」
「片付けます」
私は軽く片付けを開始。
「突然押しかけましたのでそのままで」
流し目で微笑まれてドキッとしてしまった。男性でここまで色っぽい人は初めだ。
「お伝えしたように、応接室は自分の仕事相手が打ち合わせに使っていまして」
「囲炉裏の周りが掘りになっているのを初めて見ました。奥様と離れますので座っても?」
妻ではないけど誤解されるのは当たり前。奥様って素敵な響き。
「近くで構いません」
シンはさり気なくお客様を上座へ案内。
彼は時々、このようにそれなりの家に生まれたお坊ちゃんなのだなぁ、と分かる言動をする。
お客様は着席すると、
「ミズキがお世話になっています。幼馴染のアサヴです」と私に笑いかけて五徳が魚の形だと楽しそうに観察を開始。
私はシンを手招きして、
「アリアさんがお茶を淹れに行きました」と伝えた。
「家の者がお茶を用意していますので少々お待ち下さい」
「お構いなく。ミズキに会いに来ただけなので」
囲炉裏の炉口の意匠も凝っているなと、アサヴはニコニコ笑っている。
シンに、
「彼はわざわざ東地区から来たそうだ。身分証明書を見せてくれたけど輝き屋と書いてあった。ミズキの所属陽舞妓一座だ」と耳打ちされた。
「陽舞妓一座輝き屋のアサヴ……あのアサヴ! ミズキさんって輝き屋の芸者さんだったのですか⁈」
思わず叫んだら、シンは不思議そうな顔をして、アサヴは吹き出した。
昨年の春に華国から来ていた歌姫アリアとエリカが大絶賛して、同じ舞台に立った有名陽舞妓役者が目の前に現れた! と大興奮。
新聞記事になり、その新聞に絵も載った鬼才役者アサヴ・トルディオの名前は南地区にも轟いている。
「ご存知なら光栄です。握手や記名をご希望ならしますがいかがですか?」
「き、記名をお願いしましゅ……します! しますです……」
「生まれも育ちも南地区の君が知っている程有名な役者なのか」
「シンさんは新聞を読みませんものね。この家に来てから新聞を見かけません」
「町内会に属していないから回ってこないし、自分で買うこともしていない。前はネタ探しに遊ろ……なんでもない」
「ゆう……遊楼で読んでいました?」
「……」
シンはバツが悪そうな顔で私から顔を背けた。
「まだ皇居にも招かれないひよこです。特に相棒のミズキが武者修行をすると逃げてからは霞の如し。祖父が引退して不調。脇を固めてもらっているから輝いていただけの青二才……」
失礼します、とアリアが障子を開いて立ち上がったのと同時にアサヴは目を見開いて軽くのけ反った。
「こんにちは。驚かせてしまってすみません。この見た目から分か……」
「アリア! アリアじゃないか!」
アサヴの絶叫が轟いて、彼は勢い良く立ち上がると一気にアリアに近寄って両手を少し上げて、彼女の近くで手を彷徨わせた。
「……あなた、私のことを知っているの?」
「知っているのってどういうことだ。一ヶ月も一緒に過ごしたのに忘れたのか? 君が生きていたなんて、ミズキから聞いていないぞ!」
「……ごめんなさい。私、海で溺れる前のことは子どもの頃のことぐらいしか覚えてなくて。ミズキから聞いてないって、ミズキは昔の私を知っているの?」
「君は海で溺れたのか?」
「ええ。なぜ溺れていたのかは知らないけど」
「生存の可能性があるという噂を耳にした時は希望を抱いて高揚して、それでも見つからないから暫定死亡だと絶望していたけど……記憶が……。それにこの声……。その声はどうした……」
「毒クラゲを飲みかけて喉が変になって少しマシになったところ。ねぇ、ミズキは私が誰か知っているの?」
アサヴは顔色を悪くして、
「毒クラゲなんて嘘だろう……」と脱力。
「ねぇ、ミズキは私が誰か知っているの?」
「君は……。いや、やめておこう。こうなると彼女は死んだ。君は今のまま、そのまま生きて過去を忘れていろ」
「自分が誰か分からない不安があなたに分かる⁈ ミズキが騙していたなら、友人のあなたが代わりに喋りなさいよ!」
アリアとミズキは、ルーベル副隊長の家で今年の一月から一緒に暮らしていて、その後はこのお屋敷へ来た。
ミズキがアリアの過去を知っているとして、半年以上隠していた理由はなんだろう。
「……まさか、同名の別人じゃなくて本物の歌姫アリアか?」とシンが小さく呟いた。
「私は華国人ではなくてドゥ国人よ!」
「こんなに似ている他人がいるか。歌姫アリアはドゥ国の難民で、旅医者に保護されて華国の孤児院に引き取られた。その非公開情報を本人が教えてくれた。その声……それにあの事故……。記憶が無くなるのも無理はない……」
アサヴは額に手を当てて深いため息を吐き、アリアは青白い不安そうな顔で視線を彷徨わせ続けた。




