二十一
シン・ナガエ邸に引っ越す当日が訪れて、約一年お世話になったレオ家を後にした。
琴門育ちのお坊ちゃんだったので、知らない世界を沢山学び、家事や子守りに妹弟子の世話など、様々な経験を積んだ場所。
去るのは寂しいけれど、あのシン・ナガエという男性を観察してあれこれ吸収するという目的にわくわくしている。
家主が現れないまま、同居人になるマリと半使用人のアザミの案内で、アリアと俺はそれぞれの個室へ。
手伝ってくれる者達と共に荷物を片付けて居間に集まると、師匠が仕事なのでと去った。
赤鹿で荷車を引いてくれたユミトも、師匠を神社に送って出勤だと一緒に。
その時のアリアが普段よりもかなりあっさりしていて、ユミト、ユミトという感じがないので気になった。
「もっと長く居られると思ったのに、ではないんですか?」
「何が?」
アリアに耳打ちしたらハテナが書いてある顔が返ってきた。
「何ってユミトさんのことですよ」
「ミズキって本当に人の話を聞いていないし、おまけに皆と会話不足よね!」
こっに来てと誘われたので居間を出て近くの縁側へ。
何度も言っているけど自分はユミトに興味が無い。
命の恩人としての感謝の気持ちや、なぜか頭が夫と錯覚しているので見かけるとドキドキするけど、それは怪我や溺れたせいで、彼自体に気持ちがある訳ではない。
「それにユミトさんはレイさんなのよ。最近、レオ家はその話題で持ちきりなのに聞いてないの?」
「今、なんて?」
「レオ家はその話題で持ちきり」
「その前です」
「ユミトさんはレイさん」
それはそれで衝撃的事実。二人は兄弟のような雰囲気だし、レイはなぜかいつも男装している。
「その前です」
「その前? なんだっけ」
「夫って……」
アリアの夫って誰のことだ。
「言わなかったっけ? ミズキだと言いやすいから話したような気がしていたけど」
聞いていないと答えたら、時々夢に現れる顔のボヤけた男性がいて、絶対に彼と会いたいと感じるからきっと記憶を失う前の夫だと、アリアは実に可憐に笑った。
「へぇ……」
「だから私は早く自立してその人を探したいのよね。海辺街に戻ってきたから彼が見つけてくれるかもしれないわ」
「……」
協力するのでどのような人なのかと問いかけようとして、怖くて唇を結んだ。
アリアは俺を探しにこの国に来て、あの舞台上である意味失恋だと踏ん切りをつけたようだから、その後に誰かと何かあったかもしれない。
恋人ではなくて「夫」と口にしたので、そんな風に怖くなる。
「ミズキも協力してちょうだい」
「……まぁ」
「何、何、何? や、き、も、ち?」
顔を近づけてニコッと笑って頬をつついてくるのはやめて欲しい。
ふざけにはふざけを返してやる。
「もしそうだったらどうするんですか?」
素の声を出して押し倒す寸前まで追い詰めたら、アリアは真っ赤になって「ミズキのバカ!」と叫んで逃亡。
廊下に出たアリアはいーっと歯を見せて、この人たらしとあっかんべ。
本当になんで俺はこんなに品のない女性に惹かれたんだか……。
「はいはい、私はおバカさんです」
二人で居間に戻ると、皆で昼食をとりに鶴屋へ行くということで出発。
家主シン・ナガエは面談日よりも大人しく、礼儀正しく、愛想も悪くないが目の奥に警戒心が滲んでいる。
隣を歩いて観察と思ったけれど、自然とアリアが横に並び、シンの隣はアザミで、二人は打ち合わせのような会話なので諦めた。
アリアは記憶を取り戻したら、こんな声では死んでしまいたいと海に沈みそう。
そろそろかなり恋しい舞台や大事な幼馴染。
死病ではなくなった疑惑はあれど、結局は死ぬその時までそれを証明出来ないアズサへの誓い。
とりあえず半年程はシン・ナガエ邸で過ごすとして、多忙な年末年始を避けて一時帰宅するとして、その後はどうしたものやら。
アリアは俺と別れたつもりでいたようで次の相手、夫がいるって誰だ。興行中に極秘結婚ってどういうことだ。
まさかその相手もあの飛行船に乗っていて、死別したから海に入ったのか?
それとも子供達だけを残していけないだけではなく、その夫もあの事故現場にいたのだろうか。
脱出装置をつけられて、空へ逃げさせられた彼女のその後は海で溺れていて死にかけていたということしか分かっていない。
間のことはアリア本人しか知らない事だ。
俺は自分の人生をどうしたいのだろう……師匠は悩みなさいと言うが……と考えながら、アリアの話に相槌。
夕食はレイや彼女の暮らす長屋の住人達と作るので問題無い……。
そういえばそんな話だったっけ。
「おいマリ。止まれ」
後方からシンに呼びかけられた、俺とアリアの前をユリアと並んで歩いていたマリが足を止める。
シンとアザミは彼女達に近寄らず、むしろ遠ざかり、日用品店らしきお店へ寄っていった。それでシンがマリを手招きしている。
「君だけ日傘が無いとは不憫だから買ってやる」
確かに今いる女性の中でマリだけ日傘を持っていない。
拗らせ思春期みたいな発言だなと、俺は同年代のシン・ナガエの口説き方に呆れた。
「……えっ?」
「アザミ君に、肌が白い女は日焼けで黒くならずに赤くなって火傷のようになると言われた」
「そうでございますね」
「その感じだと君は黒焦げになるのか?」
「いえ。赤くなり痛くなります」
「それなら安いから選べ。今日はもう暑いし、今日からまた買い物などへ行くだろう?」
アザミが「昼食の予約に遅れると良く無いので、皆で先に行きます」と告げて、俺達を促したので二人を置いていくことに。
友人を心配するようなユリアに対して、アザミは何かを耳打ち。
微かに、あれでも先生は勇気を出したのでと聞こえてきて、ユリアは納得したように歩き出した。
しばらくゆっくりめに歩いていたら、シンとマリが追いついたのでそれとなく観察。
椿柄の日傘を持っているのはシンで、非常に不機嫌そうな顔でマリに日傘を傾けている。
その隣を、赤い顔のマリが困り笑いでうつむいていた。二人は無言である。
「……」
シン・ナガエ。
小説家のたまごとして、とある出版社に目をかけられて写本などの仕事を与えられて物書きとして修行中となっているが、実際は人気春本作家である。
作家偽異魑といえば人気浮絵師が心酔する鬼才で、有名遊女も虜にしている若手小説家。
数年前に裏文壇の世に現れて、様々な分野の一流の者を魅了して、そこから多くの客を手に入れて一気に人気作家へ。
巧みな心理描写と痛快な懲悪話に、あまりにも生々しい春や残酷描写がその人気の理由。
俺はこの話を師匠の夫ネビーに教わり、花柳界と文壇は切っても切り離せないので興味がありそうだと、シンという人物を知るための参考資料として、彼の作品を数冊くれた。
シン・ナガエは引きこもりの人間嫌いで、作風からしてもこの世をかなり恨んでいそうなので、同居するならちょっと気にかけて欲しい。そういう言葉と共に。
結果、俺は偽異魑の作品を全て集めることに。
現代作家に有名古典並みに惹かれることは珍しい。
俺は攻め派だし、懲罰系は好まないのだが、うっかり変な性癖に目覚めそうになるような話もあった。
そんな売れっ子春本作家偽異魑は、療養中ということで別荘で暮らしている。
ネビー曰く、外聞の悪い見た目——鶏冠病——に加えてこの職業なので、実家ではないところで暮らせと追い出されたのだろう。
作家という職業柄引きこもり。おまけにこういう作風なので分かる通り気難し屋。
そんな彼は、どういう経緯なのか不明だが、質屋のマリに惚れて、家が借金持ちになったことを利用してお金で買うように結納。
お金を出したのも、同居結納話も世間体の悪い四男の見た目を少しでも良くしようと考えた父親が行動した結果なのだが、マリという人選はシン本人。
それがネビーの調査による彼の考察。
普通にお見合いを申し込んだらまずフラれるので、弱点を見つけて、嫌ってそうな親に頼んだとは中々の本気。
照れで口も態度も悪いが、シンという青年はマリをかなり溺愛しているらしく、本人なりに口説こうと必死らしい。
(ふーん。この雰囲気だと、必死の口説きは成功しているってことですね)
前髪を切り、見た目や世間体の悪い見た目を受け入れて、自堕落生活も改善中。
そんな風に聞いているので、年はさほど変わらないのに微笑ましく感じる。
マリには今日のうちに自分は男性なので、何もしないけど警戒しましょうと伝える予定。
しかし、シン・ナガエには教えないで他の男性達と同じようにからかって遊んでみるか、それはしないでおくか。
ネビーからシンについて教えられてからずっと悩んでいるけどまだ答えは出ない。
「ミズキは何が嬉しくてそんなにニコニコしているの?」
「今日も空が綺麗だなぁと」
考え込んでいることを見抜かれないように気をつけていて、上手く騙せていたようだと話しかけてきたアリアに笑いかける。
「そうね。うんと綺麗。良い天気よね」
しかし、その青天は長くは続かなかった。
鶴屋で昼食後、今後そこでたまに働くアリアがレイと共に挨拶をするのと、シンがマリを連れて取材に行くので、俺はユリアと共にオケアヌス神社へ。
二人でナナミの様子を見に行き、最年長の奉巫女から古い話を教わっていて、その内容が楽しそうで、誘ってくれたので一緒に過ごしていたら、天候が怪しくなってきた。
そしてそこへ——……。
「ウィオラ様が灰疹病患者を連れてきました!」
そんな風に神社仕者の一人が俺達を呼びにきた。
祈祷が必要そうだと奉巫女が呼ばれ、俺達も付き添って移動したらネビーと遭遇。
俺とユリアは一番近い、この街の中でも大きな病院へ行き、入院準備をと頼まれた。
これから死病である灰疹病患者を救助する為に足の切断を行うという。
「あ、足の切断ですか?」
「急いでいるから頼んだ!」
灰疹病は体を腐らせる死病で、発症した場所をいかに早く切り離せるかが鍵。
それをこれから行う、医者は間に合わない、必ず助けるから切断後の治療や入院準備を。
そう頼まれて、早くと促されたので二人で病院へ。
「私は足が速いので先に行きます!」
ユリアは病院に話しをつけに行き、俺は入院に必要な肌着や浴衣の買い出しへ。
女性用の肌着や浴衣、手拭い数枚と言われたのでそれを買い、指定された病院に着いた頃には大雨が降っていた。
★
俺がシン・ナガエ邸へ引っ越した初日、家主のシンは帰宅せず。
そして同居人のマリも同じく。
死病を発症したのはマリ・フユツキで、彼女はオケアヌス神社で片足、膝の下を一刀両断されたからだ。
病の兆候があれば再度、もっと中枢側を切り落とすしかない。
それは元服前の少女にとってあまりにも酷な話だが、彼女は病か足の切断による熱発で昏睡中。
俺はマリの手を握って死なないでくれ、置いていかないでくれと泣き叫ぶシン・ナガエを眺めながら、だんだん気分を悪くした。
あの姿は少し前の俺と似たようなものだから。
気分不快はちっとも良くならず、むしろその強さは増し、頭痛も加わってついに失神するように眠りについた。
『あなたの手は魔法の音を作れるのね。なーんて、覚えてる?』
悪戯っぽく笑ったアリアに覚えていますと告げて手を伸ばしたけれど、彼女は炎に囲まれていく。
『アリア! アリア! アリア!!!』
目を覚ましたけどまぶたはまだ開かない。
少しは戻ったものの、まだまだ醜い声による歌は非常に心地良くて、そのまま目を閉じて聴き入る。
『名を上げて隣に並んで似合いになるから待ってて下さい』
眠れない子供達の為に一生歌うという女性にあの口説き文句は無い。
俺はあの日、なんてバカな選択をしたのだろうと今日も今日とて自らを呪った。
それでこの太腿らしき感覚も、優しく髪を撫でてくれる手や指も、この歌も、あの日と何も変わらないと自然と涙が頬を伝う。
実家に帰ってアサヴと舞台に立って天下を取りたいし、そこにアズサの名誉や命を乗せたいけれど、アリアとどうしょうもなく離れがたい。
記憶を取り戻して俺との再会を喜んで欲しいけれど、絶望して大泣きする彼女も、そのまま立ち上がれないなんて未来も望まない。
俺はそのまま狸寝入りを決め込み、答えの出ない自問自答を繰り返して現実逃避を続けた。
師匠の悩みなさい、心底悩んだ先にしか答えはなく、真の答えとは抗いようの無い出来事によりもたらされるという言葉を噛みしめながら。




