十六
この世に神などいない。
理不尽で残酷な世界で生きていくか、耐えられなくて死ぬしかないなんて考えた日々もあったというのに、私は目の前の光景に唖然とした。
太陽を覆う分厚い雲で世界は暗くなっているというのに、ただ一筋、そこだけに光が射していて、鳥居をくぐったばかりのアズサを浮かび上がらせている。
おまけにそれを目撃した瞬間、空から次々と魚が降ってきたのだ。
「ナナミさん!」
可愛らしい笑顔で私の名前を呼んだアズサが小さく手を振って、小走りで駆け寄ってくる。
その時、確かに私の耳に歓喜を演出するような音楽が微かに聞こえた。まるで祝福というように。
「……」
出会ったばかりの同年代の女の子が、まるで物語の中の聖女みたいで、なぜかそれがとても嬉しくて声が出ない。
「さすが海の大副神様を祀る聖域ですね。私はこのような奇跡を初めて目撃しました」
「……えっ。いや、あの」
その「奇跡」らしき中心にいたのはアズサのように見えたのだが、本人にその自覚はないようだ。
彼女に好意的な自分だけがこう感じたのだろう。
わらわら人が集まってきて、老人がアズサに向かって奉巫女様と拝みだし、体の大きい身なりの良くない男性達は、
「ついに新しい豊漁姫か!」と騒ぎ出した。
「そんな話、聞いてないぞ!」
「普通は俺らが見つけるのに、農林のやつらもたまにはやるな!」
「豊漁姫がついに本物の姫に交代だ!」
「おい、ババア姫達に怒られるぞ。彼女達も本物なのに若くないから本物姫じゃないのかって」
「そんなのババア姫達なら笑って許してくれる。許すというか怒りもしない。あの人達はそういう人だ。若いお姫様が現れて良かったですねってニコニコしてくれるだろう」
「そうだそうだ。ババア姫達は言わねぇ。これでババア姫になるウィオラさんも言わねぇ。全員、人間が出来てるからな」
「農林なんかが見つけてきたこの娘っ子は、人間が出来ていると思うか?」
荒くれ者と表現したいような男性達がどんどん集まってきて、わーわー喋り、おまけにアズサを囲うから、まるでアサヒ姉さんに近寄ろうとする男性達みたいだと、これまでの癖でついつい庇うような立ち位置に。
「こっちのとびきり美女は誰だ?」
「付き人さんか? お前は農林か? 農林には女役人もいるのか?」
「いねぇだろう。女役人は天上役所にしかいない」
「華奢だけど女性兵官か?」
次々と話しかけられて返事が出来ない。
アズサもそのようで、誰だとか、どこから来たと問われているけど、話しかけられ過ぎておろおろしているだけ。
「皆さん、離れて下さい」
三味線の音がして、よく通る女性の声もして、場が静まり返った。
「おお! ウィオラさん! ついにババア姫になれるぞ! 下っ端は卒業……」
私の位置からは見えないのだがウィオラがいるらしい。
そのウィオラに話しかけた中年男性は途中で面食らった顔をして黙った。
「皆さん、ご紹介致しますので離れて端に並んで下さいませ」
「はーい」
荒くれ者みたいな男達が素直に参拝道の端に移動したので驚く。
他の参拝者らしき老若男女も彼らと同じように端へ寄った。
「ナナミさん、私達もまいりましょう」
アズサは自分が紹介されると理解していないのか私にそう話しかけた。
「あっ、ミズキさん」
ウィオラの隣に三味線を手にしているミズキがいて、アズサがとととっと近寄っていく。
私は参拝道の端かなと歩き出そうとしたらウィオラと目が合い、手招きされた。
すぐにアズサのことを紹介するだろうと考えていたが、ウィオラは私が彼女達の近くにいくまで笑顔で何も言わず。
「ナナミさんはミズキさんの隣へ。アズサさんはこちらへ」
私は理由が分かるけど、アズサは返事はしたものの、きょとんと不思議そうな表情である。
ウィオラの隣、それでいて少し前に立たされたアズサが参拝者達にこう紹介された。
彼女は農林水省が見つけた豊漁姫候補ではなくて、自分や先輩達がもしかしたらと考えて招いた豆腐屋を営む家のお嬢様だと。
「先程のように海の大副神様は、寝る所であるこの大神宮に参拝にきた彼女に歓喜や歓迎の意志を示しました」
農林水省はきっと彼女を奉巫女候補に加え、自分達の神事の手伝いを依頼するだろうと話が続く。
「しかし彼女は体が丈夫ではありません。長年、ずっと床に伏せっていました。まだまだ体力がなく療養の身です」
神職だからなのか、あの夕霞の師匠だからなのか、声が良く通る。
「楽器も歌も舞も経験が無く、努力してもらおうにも難しいお嬢様ですから、くれぐれも、なぜ働かせないなどと騒がないようにお願い致します。漁師の皆様、何か質問はございますか?」
突然、ミズキがベベンッと三味線を鳴らた。
まるでそれを合図というように、荒くれ者達——漁師達らしい——が喋り始める。
「皆さん、質問は一人ずつでないと聞き取れませんし返事も出来ません。そういう感じでしたら並んで下さいませ」
ウィオラは扇子を持った手を軽く動かすと、ミズキがこちらに並んで下さいとアズサの前に列を作っていった。
「あ、あの。あの、ウィオラさん」
「アズサさん。どうされました?」
「ほ、ほ、ほ、ほ、奉巫女様の候補ってなんでしょうか……」
「その通りの意味です。この後、お母様と共に、農林水省の方々とお話ししていただきます」
えー、なんで、みたいな顔をしたアズサが私を見たので、昨日会ったばかりの私にこんな訳のわからない状況について助けを求められても何も出来ないという意味を込めて、肩をすくめる。
「大変そうですね。アズサさん」
「……まぁ、大変! ナナミさん! そのまま動かないで下さい」
「え?」
扇子を出して開いたアズサは、それを私の右肩へ近づけてきた。なので自然とそこに視線が移動。
蜘蛛!!!
ひっ! と身が縮まったけど、若草色の六つある目の変わった蜘蛛はそんなに怖くなくて、吐き気もせず。
気がついたら私はアズサの扇子を手で止めていた。
「……今日は大丈夫」
「大丈夫? 大丈夫ですか?」
「……うん。大人しく動かないからかしら。ここで払ったら参拝者に踏まれてしまうし……。端も危なそうだから……」
なぜだが、どうしてだか、大嫌いなのにこの蜘蛛をそのままにしておきたい。
「アズサさん、ナナミさん。ここは聖域です。たとえそちらの蜘蛛さんに噛まれてもご利益があるでしょう。そのままにしておきなさい」
良い判断をしましたねと、ウィオラに笑いかけられた。
アズサは友人を助けようとしましたねと褒められている。
「ミズキさん。私は皆さんの質疑にお答えしますので、アズサさんを休めるところへ案内して下さい」
「はい、師匠」
「ナナミさんもお手伝いしていただけますか? 掃除をしてくださっていたようですが、それについては終わりだと、担当にお伝えしておきます」
「はい」
「肩だと誤解されますので、袖の中へどうそ」
私にではなく私の右肩に向かってそう告げたウィオラは、素手でそっと蜘蛛に触れて人差し指に乗せた。
それで蜘蛛私の右袖の中へ。
「ナナミさん、潰れないように気をつけてあげて下さい」
「あっ……はい……」
ウィオラの服装が神職のものだからなのもあるが、副隊長のお屋敷で一緒に過ごした人物と同一人物だと思えない程、雰囲気が厳か。
所作の一つ一つが神聖に見えますとアズサが耳打ちしてきて、私は違うのにと一言。
「アズサさん。本物中の本物は最初からですが、そうではない私のような者は後から創られるのです。アズサさんも同じですよ」
今の耳打ちを聞いていたの? というようにアズサが目をまんまるくすると、ウィオラは意味深な笑みを残して私達に背を向けた。
私もアズサと同じ気持ちで、今の私にだけの小さな声が聞こえていたなんて驚きだ。
アズサの母親らしき優しげな女性が彼女に近寄ってきて、無言で彼女の背中を撫でた。
ミズキに案内されて神殿に入ると、彼女に私はどこに泊まったのかと問われて、教えたらそこに居ましょうと促された。
「師匠のあの様子ですと、アズサさんは有象無象から一気に昇進ですので、まずお母上にご説明で、次はお父上が来訪するまで待機でしょう」
「昇進って、娘がまさかあの、ほ、ほ、奉巫女様に……」
「その辺りをこちらの農林水省の方々が説明されると思いますので、お母上はこちらへどうぞ。そうですよね?」
そうですよね? と問われた役人らしき中年男性二人が、察しが良くて助かりますとミズキに頭を下げた。
「師匠ならまずそうするでしょうから、アズサさんはこちらでナナミさんと遊んでいなさい。近くの庭なら、出ても良いですからね」
「は、はい……」
「ナナミさんは確かそろそろジオさんが来る時刻ですが、彼にこの話は特にしなくて構いません、まずは自身の身の振り方ですので」
「はい。ありがとうございます」
こうして、私は新しい住処でアズサと二人きり。
「アズサさんって病弱なの?」
「黄泉招き病をご存知ですか?」
「いえ」
それは体が石や鉛のように重く、風邪を引きやすい虚弱体質になってしまう病気らしい。
「ああ、姉さんにもいたわ。それで大人になる前にころっと死んでしまったの。半元服は超えられたけど、十二才の壁ってあるでしょう?」
アズサはどう見ても私と同年代なのでその壁を越えられたのねと言ったけど、彼女は複雑そうな顔をしている。
「ころっと死ぬこともあるなんて言い方は悪かった。ごめんなさい。随分良さそうだと誤解したけど、実は良くないの?」
「えっ? いえ。お姉様が亡くなって辛かったですよね」
「親しくなかったし、なんならいびられていたから別に。死ねとまでは思ってなかったから、死んだのは気の毒だけど、全く辛くないわ」
「……。お姉様にもいびられていたのですね」
「アズサさんって私のこと、誰かに何か聞いてる?」
「いえ、特にです。どなたも何も言いませんので。副隊長さんが保護したこと、身寄りがないこと、落ち着いたら働くことは存じ上げています」
私としては、アズサは友人第一号で何度も会いたいので、簡単に自分の事情を説明するか悩んだが、とりあえず今はやめた。
「嫌なところから逃げてきたら、運良く親切な人達に助けてもらえたの。副隊長さんが味方だと本名でも安全かなって思って偽名はやめた」
「本名はナナミですの意味を考えても分からなかったけど、そういうことですか。我が家もお助けしますので、悪い家族に見つからないようにしましょう」
一人で外出したり、見知らぬ人についていってはいけませんよと真剣な顔で教えられて、思わず吹き出してしまった。
「その、そのくらい、そのくらい分かっているわよ」
「すみません」
「ううん。嬉しい。でもおかしくて。そんな子ども相手みたいに」
ここにジオが訪れて、アズサを見て不思議そうにしたので、私のその後が気になって会いに来てくれたということにしておいた。
彼の後ろに背の高い凛とした女性がいて、すまし顔で私をジッと見つめている。
袴姿で木刀を腰に下げているので女性兵官かもしれない。
ただ、それにしては着物は可愛い柄で袴にも唐草の刺繍がある。
「こちらは従姉妹、妹同然のユリアさんです。母の妹の娘さん。今日のお出掛けの付き添い人です」
「ユリアです。よろしくお願いします」
ピシッとした礼をされたのでこちらも軽く自己紹介。アズサの挨拶も終わったのに、ユリアは彼女をジッと見つめ続けている。
「兄と文通なんて大丈夫ですか? 目が悪いですか?」
「……」
ジオとアズサは文通する仲らしい。
こんの浮気者! と腹が立ったけど、ジオと私には何も無かった。
身請け話もお見合い話も放火の為の嘘なので。
「……ユリアさんって、あのユリアさんですか? 剣術小町さんの! うわぁ。レイスさんと似てないから、繋がらなかったです」
「私は父似で兄は母似です」
兄というのは、隣のジオのことではなかったようだ。
「なにかに食われて痒いです。ユリア、塗り薬を持っていますか?」
「持っています」
こうして、私とジオのお出掛け——買い出し——に付き添い人のユリアとアズサも同行することに。
アズサは神職になる、というような大事な話がありそうだけど、父親がまだまだ到着しないからなのか、私達が出掛ける時間くらいは自由にどうぞと言われていた。
ジオが美人三人の護衛みたいだからええとデレッと笑ったのでまたしてもイラッ。
私はどうやら初対面の時よりもずっと、ジオが気になるようだ。




