十
善人の匂いがする見た目の良い若い男性がお座敷に現れて、私に照れた様子を見せずに凛と前を向いて、お酒は飲まない、食事もしないと告げたあの潔さに、胸がざわざわした。
平凡な容姿なのに色気たっぷりで、まるで運命の再会みたいな状況には胸が高鳴った。
無理矢理連れてこられた地獄に抗って死ぬのだと思いつつ、もしかしたら皇子様が救い出してくれるかもしれないと夢を見ていたからだろう。
だから——……。
「その話が真実なら許し難いです。君から話を聞かずに自己保身に走った贖罪をするので、全て話して下さい」
「私……嘘つきかもしれないわよ?」
だから、だからまた、こんなにドキドキしているのだ。
握りしめられている両手が熱い。
熱くて火傷しそうな程だけど、この手を離してはいけない気がする。
たとえ目の前の彼があまりにも恐ろしい顔をしていても。
ジオの表情は、月明かりだけでも分かる青筋が立った激怒顔に鋭い眼光なので怖い。
ただ、この嘘つき女と怒っている気はしない。この怖さはきっと私のお嬢様人生を壊した相手に向けられているから、恐怖よりも喜びが勝っている。
「嘘は綻ぶものです。君の証言が本当かどうかは、自然と証明されます」
「……信じてくれるって意味よね?」
「その目を信じますし、死罪にも連れ戻しにもさせません」
「……」
真摯な瞳でこんな台詞を告げられたら、ミズキにうっかりときめいた以上になる。
そんなことを考えた時点で……なのだが、自分の体の内側からする音のうるささや、手だけではなくて顔までかなり熱くなってきて、自然と体が震えてきた。
その後のことはあまり覚えていなくて、気がついたら与えられた寝る部屋の近くの縁側に腰掛けてぼんやりしていた。
徐々に昇っていく朝日があまりにも眩しくて、あらゆるものがきらきら、きらりと光っている。
まだ手が熱いと、握りしめたり、離してみたり。
そうしていたら寝室から呻き声がしたので見に行ったら、アリアだったので、よしよしと頭を撫でた。
そうしていたら彼女はスヤスヤ眠り出したのだが、今度はアズサがうなされて泣いていた。
手が誰かを求めているようだったのでその手を握り、とんとんと軽く叩いたいたら彼女は目を覚ました。
「厠から戻ってきたら、うなされていたの。私にしてくれたからお礼」
つい嘘をついていた。後半は本音。
「……アトラ、ここにいたのね。……すみません、シーナ物語の夢を見ました」
「うへぇ。私がその夢を見たら起きた瞬間に吐いているわ」
「そうならなくて良かったです」
アリアはまだ寝ているので自分達の布団を畳み、着替えはアリアが起きてからにしようと廊下に出た。
寒いけど縁側から庭を眺めたら気分が良さそうなのでと誘われて、気が合うなと感じた。
縁側に二人で並んで腰掛けて、朝日が眩しいと笑い合う。
すると、アズサが庭に何かがあると縁側から離れたのでついていく。
そこには蛇らしき生物と、黄色い毛がばさばさ生えた、大きな蜂とかハエみたいな不気味な生き物がいた。危ないから離れようと言おうとしたら、
「世の中には変わった虫さんがいるのですね。かわゆい」
アズサはそんな信じられない台詞を口にした。
「か、かわゆい? これが? アズサさんって変わっているわよね」
「そうですか? 人と交流が少ない環境で育ったからでしょうか」
「触らないの! 噛んだり刺されたらどうするのよ」
蜂に手を伸ばしたらアズサをたしなめたら、拗ねたような顔をされた。
「噛まれたり刺されたら不用意に触れた私のせいで、どうもしません」
「毒があって死ぬかもしれないでしょう!」
「そうは見えませんけど……そうですね。かわゆくても触ってはいけませんね」
離れたいのにアズサが動かないので仕方なくしばらく眺めていたら、蜂の三つ目がピカッと青くなり、こちらを向いて緑色に変化した。
「お帰りなさい! ここは聖域ではありません!」
突然、背後から女性の声がして、振り返ったら副隊長の妻ウィオラだった。
彼女が叫んだからか、蜂はブーンッと勢いよく空を登り始めて、蛇達は土の中へ。
「……おはようございます」
「おはようございます。アズサさん、ヒナさん。彼らに触れたりしていませんよね?」
駆け寄ってきたウィオラに確認されて、触っていないのでそう伝えたら、彼女は安堵したような表情を浮かべた。
「あの、聖域ではありませんとはなんでしょうか」
アズサの問いかけにウィオラはすぐに答えた。
「多分、先程の生き物は副神様です。龍神王様は自らの鱗達に告げています。人里に出るべからず。言いつけを破るので数々の逸話が残っているのでしょう」
「福神様はあのような姿なのですか」
「副神様は何にでも化けて良くも悪くも人間界を引っ掻き回します。学べていないのなら今度教えますね」
「少しは学んでいますが、もっと学びたいのでよろしくお願いします」
変な会話というか、私が本来育つ世界ではこれが常識ってこと。
数々の龍神王や福神神話は勉強済みなので、奇妙な珍しい生物がその元なのだろうと腑にも落ちる。
「ええ、もちろん。二人して素足ではないですか。風邪をひいてしまいます。足袋を用意したはずなのに、そのように素足だなんて」
アズサとほぼ同時に「つい」と口にしたら、ウィオラに少し咎められて、体を労りなさいと注意された。
家の中に入りましょうと促されたその時、アズサが足を止めた。
アズサの足元に赤い木の実がいくつか落ちてきて、彼女は空を見上げたけど、そこには特に何もない。
「副神様の落とし物でしょうか。遭遇したのは二人なので二人で拾って下さい」
ウィオラに小さな手拭いを差し出されたので、アズサと二人で木の実を拾ってそこに乗せた。
全部で九つあり、一つだけは木の実ではなくて、透明な白銀色の玉もあった。
アズサが指でつまんで傾けると、べっこう色にも見えるし、虹色っぽくも変化する。
「アズサさん。ヒナさん。副神様の落とし物ですから、大切にして下さい」
二人で半分こだと、ウィオラは別の小さな手拭いを出して私に渡した。
アズサの頭に降ってきたものなので、一つだけ違うべっこう色の玉は彼女のもの。全部要らないけど、神職が私にもというなら一応貰っておく。
「……美味しそう」
とんでも無いことにアズサは謎の玉を食べてしまった。私は止められなかったし、ウィオラの手も止めようとして間に合わなかったというところで停止している。
「甘いです」
「ちょっ、ちょっと吐き出しなさい! なんで食べるのよ!」
「食べた方が良い気がしてつい」
「あなたは変わり者過ぎるわ!」
「副神様が食べるように呪文をかけていったのかしら。食べてもしまったものは仕方がありません」
ウィオラが大丈夫でしょうと笑ったけど、変なものを拾い食いなんて平気な気がしない。
「確かに、取り憑かれたように口にしてしまいました」
「三人とも、そんなところで何をしているの?」
アリアも起きたようで、縁側から彼女が叫んだ。
彼女のところへ行ったら、さぁ、さぁ、三人とも着替えて朝食ですよとウィオラに背中を押されて皆で支度。
それで居間へ行き、食事をとりながらジオの顔は暗いなとか、見るだけで手汗が凄いし顔に熱が集まって落ち着かないとソワソワ。
食事が終わるとウィオラにこちらへと呼ばれて別室へ。ジオもついてきた気がしたけど振り返ったらおらず。
こちらの部屋でお待ち下さいとウィオラに入室を促されて、とりあえず下座の末席にある座布団に正座。
そうしたら彼女に上座へ移動するように指示された。
しばらくすると副隊長と昨日お世話になった女性兵官カインに、見知らぬ年配男性が現れた。
さらにその後に制服姿のジオがいて、一番後から入室した彼の姿だけが光って見えて、おまけに時間が急にゆっくりになって、目が離せなかった。
まるで昨夜、ミズキにときめいた時のようだけど、その時よりも衝撃が強いし、もう触れていないのに両手が熱くてならない。
顔に集まる熱気を散らすのは無理そうなので、逆に集めてまだらにならないように意識して、ジオのことも見ない方が良さそうだと俯いた。
外街のお坊ちゃんなら誰にでもときめいてしまうのか、こんなでは生きていけない、今後の生活に集中だと、奥歯を噛んで自分を叱る。
彼のことを見ないと俯いた時に大きな音がして、ジオの呻き声がした。
「す、すみません。机の脚につまづきました」
姿を見たらジオは四つん這いで、立とうとしているところだった。
それを副隊長は呆れ顔で眺めていて、他の二人は心配そうにしている。
「君の足と机の脚は遠いし、君は自分の足にもつれていました」
「叔父上、そうでした? まさか」
「早く起きなさい。それでジオ。君は彼女の隣に座りなさい」
「えっ? あ、はい」
私とジオは横並びになり、向かい側に副隊長、女性兵官、謎の中年男性の三人。
意識しないように、意識しない! と自分に言い聞かせたのに、自然と隣に座るジオを盗み見したら、昨日よりも、初対面の日よりも、うんと格好良く見えてしまい、そんな自分に呆れた。
ちょっと優しくされてこうなるなんて、私は単純人間過ぎる。
「おかしい気がしたので問い詰めたら、甥は彼女に一目惚れして忘れられず、つい拐ってきたそうです」
「……叔父上! なぜそのような嘘をつくんですか!」
副隊長の発言にジオは即座に反論した。私も同じことを叫びたい。
「嘘つきは君だ。嘘つきは黙っていなさい」
叔父である副隊長に鋭い眼光で睨まれたジオは、嘘つきではないので黙りませんと宣言したが、顔色は悪く声は震えている。
華奢な優男の副隊長の睨みはゾッとする程で、私は彼を舐めていたと感じた。
大狼は噂や絵の通り大きくて強くて恐ろしくて、彼はそれと対峙した可能性あり。そのくらい、今の副隊長の姿や表情には迫力がある。
「副隊長さん。そない事件を隠蔽して下さいなんて席ではありませんよね?」
「ザイツさん。これはそういう話しではありません。拐ったと言っても合法的にです。借金分の大金を彼女の身元引き受け人に支払いました」
そうなの? とジオを見たら彼は驚愕顔で固まっていたので、副隊長の方こそ嘘をついている。
「副隊長さん。彼女の身元を知っていてご自身のお屋敷に招いたのですか?」
「甥の行動がおかしいので考察して、途中で彼女が誰なのか気がついて、身元引き受け人に会ってきたら甥が作った契約書がありました。甥が大金を払ったというのは、出世払いの事です」
「……」
半分立ち上がっていたジオは無言で座り、姿勢を正し、もう反論しなくなった。
「彼女は三区大花街、朧屋の朝露花魁の遊楽女です。甥が知らないところで身請けしていました」
そんな嘘は簡単に嘘だとバレるのに、副隊長はなんでこんな嘘をついているのだろうか。
彼は懐から手紙を出して机に乗せた。
「ヒナさん、朝露花魁から君へです。今読んでも、後で読んでも構いません」
差し出された手紙を読むべきなのか悩みつつ、私の雛罌粟へという文字が朝露姉さんの文字なので、興味が沸いて拝読。
内容は簡素で、あなたみたいなやる気のない妹を売り出しても自分の得にならないので売っ払うことにしたとか、育成金以上の大金が手に入るのでというもの。
【たまに妹達におやつを作って、得意の三味線を弾きにきなさい。アサヒより】
アサヒ……と文字を指でなぞる。
店に朝露花魁の生い立ちや本名を知る人間はいるかもしれないけど私は知らない。
彼女はアサヒという名前なのか……。
「……。あの、なぜ朝露姉さんはこのような手紙を……。この字は朝露姉さんのもので間違いありません」
「彼女は合法的な方法で甥が買い取りました。店が分割払いなんで許さないというので、甥の代わりに現金を置いてきました。それでもお店は納得していないようですが文句は言わず。彼女を育てた一人、朝露花魁は大賛成しています」
そりゃあ店は売り出し前の私を身請けなんて大反対だろう。金の成る木をみすみす手離すなんておかしい。
そもそも、誘拐してきてまで育てたのだから。血筋が良く、三味線の才能があり、変わった体質で、美しい上にこの美麗さには魔力があるらしいから尚更。
楼主や内儀が私を褒めるたびに、調べに調べて拐ったのだと、死ぬ前に刺し殺してやる、体が大きくなるまでは大人しくして油断させると心の中で牙を剥いていた。
なのに身請け出来たなんてどういうこと。
「叔父上はお金を払ってきたんですか?」
「これからの事で払う必要はなくなるけど、朝露花魁には少し恩があって、彼女にはまだ他にも育てている姉妹がいるから迷惑をかける慰謝料だ。では皆さん、本題です」
副隊長ってそんなに稼いでいるのか。
本題は私の元々の出自の事。
副隊長は筆記帳を取り出して、それを隣にいる男性へ渡した。
それは昨日、ここにいるカインと屯所勤務の女医が行った私の身体検査の結果などだと説明。
「彼女は甥に頼み事をしました。世界中がグルだろうから無駄だと諦めていたけど、無事に逃げられたから本当の家族に会いたいと。彼女は誘拐されて朧屋暮らしになったそうです」
そう証言したそうですねと副隊長に話しかけられたのでジオを見て、彼が頷いたから私は小さな声で「はい」と返事をした。
「ヒナさん、君の本名を教えて下さい」
昨夜、ジオにあれこれ聞かれたけど、彼はそれを副隊長に教えていないか、副隊長が知らないふりをしている。どちらだろう。後者なら目的はなんだろうか。
この場にいるカインや男性に私の口から教えさせたい?
「ナナミ・カライトです」
「元々の住所は?」
「覚えていません」
「家族のことは覚えていますか?」
「はい」
「当時の家族構成を教えて下さい」
「祖父と両親と兄が三人です」
「彼らの名前は?」
どんどん質問されるので覚えていることは答える。
祖父は自慢のお菓子職人で、母はその娘なのに不器用だから婿を取った。それが私の父親。
ただ、嫌な事があり過ぎたし、お店に連れて行かれてしばらくは閉じ込められて水責めや食事抜きで、忘れろ、忘れろ、お前の妄想だなんだと言われた結果、住所どころかお店の名前すら忘れてしまった。
質問されているうちに、話している内容ではないのに、幼い時に入れられた、あの暗くてカビ臭いお仕置き座敷牢での日々を思い出して気分が悪くなってきた。
昨日、ジオに話した時にもう喋りたく無いと泣いた時と似た気分。
「ルーベル副隊長さん、これって……」
ザイツは筆記帳を読みながら、手拭いを出して額の汗を拭き始めた。冬なのに、暑くないのに、かなり汗を掻いている。
「遠回しに確認して、懺悔や自首の機会を与えましたが、朧屋の経営者にそのつもりはないようです」
まるで燃えているような副隊長の激怒顔が怖くて小さな悲鳴が出た。
「叔父上、そちらの資料はなんなのですか?」
「十一年前、お世話になっている雅屋から捜査協力依頼があった。お嫁さんの姪っ子さんが行方不明になったと。結果は溺死だ」
「それがヒナさんということですか?」
「営利目的の誘拐なら犯人からの接触がある。なのにあまり管轄内の兵官は親身にならないし、おまけに身体的特徴が一致しない女の子の溺死体の発見で事件は幕引きした」
副隊長は静かで低い声で淡々と続けた。
あの溺死体はその女の子ではないという確信があった。勘もあるし、家族が必死に訴えたので。
なのに、その話は事件の管轄地域では聞いてもらえず、自分が上に嘆願したけど、どこから横槍が入ったのか無視された。
怪しい人間を、犯罪者を片っ端から捕まえていれば、もしかしたら変態に監禁されているその子を助けられる日が来るかもしれない。
役人や兵官の関与もあるなら、組織犯罪の可能性もあるが、糸口がなければ何も出来ない。
現に正式な事件ではないし、被害者ナナミは見つからないし、他の被害者の影も形もない。
権力者の一部が不法な性愛を貪ってそうだけど、そこに踏み込む正当な理由がないし、自分のような潔癖真面目人間はそういう情報を入手するのも困難。
けれども、そこに私が現れた。副隊長は私に向かって深々と頭を下げた。
「身体検査の結果を見て、君が彼女ではないかと疑い、懐に入れて、探る予定でした。ナナミさん、長年、見つけてあげられなくてすみませんでした」
「叔父上、痣や火傷跡でですか? それで過去に関与した事件の被害者ではないかと見抜いたんですか?」
「右足の裏にある三ツ星黒子と、ちょっと忘れかけていたけど彼女のお母上の顔にかなり似ているから、ちょっと待てと引っかかった」
こんな偶然ってある?
せっかく逃げたのに顔見知りに発見されてしまったとビクビクしていたら保護されて、誘拐された私を探してくれた人とこうして一緒にいるなんて。
私はこの時、現金なことに初めて龍神王様はいるかもしれないと感激して、昨夜のように大泣きしてしまった。
今朝遭遇した変な生物が落としていった木の実は、一生大切にするし、神様なんていないと世界を呪っていたけど、今日からは感謝する。
あんな短時間で私がナナミかもしれないと気がついてくれたなんて。
ずっとずっと家族でもない私を忘れないでいたくれた副隊長なら、きっと私を家族に会わせてくれるし、犯人達も捕まえてくれるだろう。
遊楼でチラッと見た時は化粧や暗さで気が付かず、足の裏なんて見ないから更に。
副隊長はまた謝り、もう大丈夫だと笑いかけてくれた。
私は彼を見た記憶はないけど、誘拐後に花街かもしれないと探してくれた時もあったみたい。
涙が止まらなくて泣き続けていたら、副隊長の妻ウィオラが来て、カインと共に私を別室へ連れて行った。
これから何度も何度も事情聴取があるので辛いだろうけど、他の被害者もいる可能性が高いから協力して欲しいと頼まれたけど、そんなのいくらでもする。
そんなの、八つ当たり気味に花街に放火したり、あの腹の立つ楼主や内儀を刺し殺すよりもうんと楽な道だ。
そんな喋らなくても良いことを口にしてしまったのだが、カインとウィオラは優しく抱きしめてくれた。
☆
私はこうして、ナナミという名前を取り戻した。




