六
かつて彼はこう決意した。
滅ぼそうとするのならば俺は戦う。
全員殺されてしまう。
一方的に虐げられている。
正しい者こそ生きるべきなのに、悪人ばかりのさばるなんておかしい。
より良い世界。
明るい希望の世界。
鮮やかな未来。
俺はその為に必ず希望を残す——……。
☆
今日も悲しくて苦しい夢を見て、嫌な汗で気持ちが悪くて飛び起きた。
大切な人が焼かれて悲しくて苦しくて辛くて、絶対に許さないと心の中で叫ぶ夢。
この夢は何度も何度も繰り返し見ている。
味噌汁に蜘蛛を入れられて、知らずに飲んでしまったあの日からたまに見る。
他にも大きな蜘蛛同士が戦って片方が殺されるとか、自分のお腹を刃物で刺され続けるとか、そういう嫌な夢を定期的に見る。
おまけにかなり生々しいので、目を覚ますととてとホッとする。
目を開いたら目の前に若い女性の顔があり、悲しげな表情で私を見つめていた。
髪は肩くらいまでしかなくて結んでいない。私よりはそこそこ劣るけど、美人の分類には入る甘めの顔立ちの同年代に見える女性だ。
彼女も善人らしい良い香りがするので、外街は天の原な気がしてきた。
この人は誰だろうと考えていたら、彼女は急に笑顔になった。
「おはようございます。どこか辛いところはありますか?」
「……いえ。悪夢を見ただけです」
ゆっくりと体を起こして周りを見渡して確認すると、今夜泊まる予定のアリアが借りている部屋だった。
冬は昼が短いから時間は遅くないかもしれないけど、かなり暗いのでもうすっかり夜のようだ。
光苔の青白い灯りで色々見えはするけど。
「私はアズサと申します。今夜、一緒に寝ますのでよろしくお願いします」
「アズサ? 同室になるのはアリアさんだったけどそれも夢?」
「それは夢ではありません。今夜は三人で眠ります」
アズサは今日、この家で暮らす友人と遊ぶために来訪していて、別の部屋で寝る予定だった。
そこへ私が来て、事情を少し聞いて、話をしてみたいと思ったという。
「辛くて話せないことを聞き出そうなんて思っていません。特技や性格が分かれば、お父様に何か仕事はないか相談出来ます」
「アズサさんはどこかのお嬢様ってことですか」
とんとん拍子だし、親切にされてばかりだから、何かの罠ではないかと不安になってくる。
「お嬢様ではなくお嬢さんくらいです。我が家は豆腐屋を営んでいます。大儲けは無理ですが、皆でそれなりはなんとかです」
身分証明書がなくて、家族のことや経歴を語れないと日雇いで信用を得てもらうしかない。
信用信頼は積み重ねなので、いきなり大支援は出来ないけど、困っている人を無視するような店でもない。
アズサはそう語り、だから日雇い希望があれば父親に話しをしてみますと可憐に笑った。
女性の私が見惚れる程、可愛らしい笑顔で、同じ立場なら飛ぶように売れるのは容姿が綺麗な私ではなくこの子という、変な考察をしてしまった。
「身の上を少し聞いた際に提案したら、副隊長さんはええって言いました」
「……その話をする為にここにいたんですか?」
「アリアさんがお風呂の間、うなされていて可哀想だから手を握って欲しいと。私もそうしたかったです。辛い時にぬくもりは嬉しいものですから」
「……」
そうしたら私の火傷跡に気がつき、慌てて副隊長に単なる家出人ではなさそうだと報告したら、彼はさすが副隊長でもう把握していた。
何か手助け出来ないかと尋ねたら、何なら出来るかと問われたので、思いついたことを口にして、それは良いという返事をされた。それが今の話だそうだ。
「お腹は減っていませんか? 食べられそうなら大奥様にお夕食をいただいてきます」
「自分で行け……ぎゃあ"ああああああ!!!!」
布団の上にそれなりに大きい蜘蛛がいて、そのあまりの気持ち悪さと強い拒絶感で叫びながら布団を投げ飛ばした。
「ど、どうしました?」
「その蜘蛛を殺して! う"っ……」
普段なら気を張っているので耐えられたけど、今は無理だったようで吐きそう。
吐きそうというか吐いて、お腹の中に中身があまりないので液体が出てえずいて喉が痛む。
それを両手で受け取ったものの、止まらなくて嘔吐というか嘔気が続いた。
「大丈夫ですか?」
当たり前みたいに背中を撫でられて、そのあまりの優しい感触に驚く。
火傷跡を作った時よりも熱い。焼かれる。焼かれていく。炎の中で息が出来ない——……。
蜘蛛長く見るとこういう錯覚がするから本当に嫌。
「げほげほっ! ぐう"ぇっ! 蜘蛛が……ダメなの……早く殺して捨ててちょうだ……うぇぇぇ……」
「殺すなんてそんな可哀想なことは出来ません。庭に移動してもらいますから安心して下さい」
涙目で様子を確認していたら、アズサは扇子を広げて蜘蛛を乗せて、蜘蛛が動くたびに小さな悲鳴をあげながら扇子を動かし、落ちないで下さいと叫び、落下しかけた蜘蛛を袖で受け取り、慌てた様子で部屋の外、廊下から庭へと移動。
蜘蛛なんて見たくないのに、こんなことをする人間は初めてで魅入るように観察してしまった。
投げたりしないでそうっと置くような仕草をして、しゃがんだまま手を振ってから戻ってきた。
店では下働きや下っ端が箒で殴って殺して捨てていた。
「吐くほどお嫌いとは辛かったですね。大丈夫ですよ。蜘蛛さんはもう旅に出ました。新しい家を探すでしょう」
私のところまで戻ってきたアズサは、手拭いを出して私の口元を拭い、手も拭き始めた。
「……ありがとう」
心の底から感謝するなんて何年振りだろう。
「お風呂、まずお風呂をお借りしましょう。お腹が減り過ぎていなければ、まずはお風呂が良さそうな状況です」
「その通りです。ヒナさん、どうですか?」
声がしてようやく副隊長が廊下にいることに気がつき、アズサもそのようで、いらしたのですかと話しかけた。
「あんなに大きな叫び声が聞こえればすぐに駆けつけます。母もさっきまで一緒で、この状況を見て、拭くものや水桶を取りに行きました」
お風呂に案内したと伝えて、着替えは女性の誰かに運んでもらうので、こちらへどうぞと促されてアズサと共にお風呂へ。
ちょうどアリアが出る時で、出入り口で会った。
「あら、起きたの。寝不足? うなされていたけど平気?」
「アリアさん、アリアさん。ヒナさんは蜘蛛さんが吐くほど苦手なのに、蜘蛛さんが部屋に遊びに来てしまったのです」
「……蜘蛛さんで遊びにきた? アズサさんって変わっているわよね」
「シーナ物語を読むと、友達になりたくなりますよ。私も見た目は苦手ですが」
「ふーん。ミズキに教えてもらおう。文学ならなんでも知ってて分かりやすく教えてくれるもの。蜘蛛が出て、吐くほど苦手……吐いたの?」
「まったりお風呂で落ち着くでしょうし、体も綺麗になります」
アリアの問いかけに、私よりも早くアズサが答えた。
「うなされているから交代でお風呂って言ったけど、二人で来たならもう一回入ろう。三人で楽しく月見風呂。今夜の月はうんと綺麗よ」
さぁさぁおいでと誘われて、風呂付き屋敷というだけでもお金持ちなのに、脱衣所も広いと観察しながらそろそろと服を脱いだ。
アズサが恥ずかしそうに裸になって手拭いで体を隠したのに、女同士じゃないとアリアがひんむく。
今のだけ、遊楼の風呂場に戻った気分になった。
同情を誘う為に見せるか、自然なのは隠すことか。悩んだ結果、アリアが貸してくれた手拭いで体を隠すことにした。
「ヒナさんも別に隠すことなんてないじゃない」
手拭いを乱暴ではない手つきで奪われて、隠すように身を捩る。
「あら……。あー、痣なんてそのうち消えるわよ。その頭の傷とは違ってね。心の傷には時間や幸福。寒いから早くお風呂に入りましょう!」
どうしたとか何があったのかなどの質問はなく、手を繋がれて風呂場へ。
洗い場で体を洗い、竹製の壁で囲われている、石造りの湯船に入ると、半分だけ屋根がないので頭上に輝く月が見えて、それはとても美しく光っていた。
「……綺麗。いつもの月と違う……」
「そう? それは良いことね。辛いと世界が歪んで霞んでいるもの。空を見る余裕もなかったり」
「そうですね。世界が美しく見えることは素晴らしいことです」
遠い目で月を眺めるアリアの横顔はどこか寂しげで、目線を上げたアズサも似た雰囲気。
「アズサさんも訳ありですか? アリアさんの身の上話は少しだけ聞きました」
「私は訳ありではなく果報者です」
「アズサさんはずっと体が弱かったけど元気になってきたから外出訓練中」
「そうなんです。私は初めて友人の家に泊まりにきました。そうしたら、新しい友人が増えそうな気配です。仲良くなれたら嬉しいです」
真っ直ぐな目は夜空の月よりもキラキラしていて、驚いていて眺めていたら、アズサは恥ずかしいと両手で顔の半分を覆った。
同じことを遊楼姉妹がしたら鼻につくし、自分も出来るけどイライラするのだが、アズサの言動は自然過ぎて別に。
これが天然物で、これを完璧に演じられないと頂点は無理で、朝露姉さんはあんなに色々演じ分けられて特別なのだなぁと小さくため息。
「あの……すみません。不躾に」
「不躾? なんのことですか?」
「いきなり友人になりたいなんて失礼でした」
「まさか。私なんかとお嬢様が友人なんて無理ですけど、お気持ちはありがたく受け取ります」
「私はお嬢様ではなくて街娘ですし、ご自分を私なんかなんて……なんて……言っていた気がします。言うて怒られました。そっか。ミズキさんはこういう気持ち……」
「ミズキがどうしたの?」
アリアがアズサの顔を覗くと、彼女は苦笑いを浮かべた。
「自分なんかが神様にお願い事なんてと言うて、怒られました」
「ふーん。ちゃんと謝りなさいよ」
「その場で謝りましたが今、本当の意味で理解して、謝るべきだと感じました」
善は急げ、長湯はのぼせるし、次の人もいると湯船から出て脱衣所へ。
着替え終わると、アリアはアズサに向かって早く早く、行きましょうと告げて彼女を急かした。
「ほら、ヒナさんも」
私も? と頭にはてなを浮かべながら、早くしてという命令口調に、私は気が強いはずなのにあっさり従っていた。
ミズキという人物は離れにいるようで三人で移動。
アリアは声をかけずに玄関扉を開き、私達に「静かにね、しー」と言いながら中に入った。
「驚かす悪戯ですね」
「ただ現れても面白くないじゃない?」
二人はとても楽しそう。
なぜ私もいてそれに参加なのか謎だけど、来てしまったから後ろをついていく。
茶室みたいな小さな離れなのですぐに襖の合わせ部分にたどり着き、アリアがそこをほんの少し開いた。
「……」
アリアは黙って動かず、アズサがその少し上から覗いて一言。
「男装で男性役の練習中ですね」
「……」
役って何? と私も覗きに参加。
すると、そこにはあの「夕霞」がいた。
ジオは謎役者夕霞の付き人みたいだった。
なのに彼は副隊長の甥で公務員。
なぜ役者と接点があるのか、あの夕霞と私が再会するかもしれないことも含めてまるで想像せず、危機感を有していなかった。
「それで、君はいつまでお面を被っているんだ? 暑いだろう?」
一人で練習ではなくて相手がいるようで、夕霞はお面を被った女性を、艶のある動きで抱き寄せた。
「うわぁ。かなり破廉恥……。ミズキさん、本物の男性みたいです」
これで破廉恥って外街娘はそうなのか。
逃げよう。
ジオは見逃すどころか新しい生活の後押しをしてくれたけど、この夕霞ことミズキはどうするか不明。
ジオが根回しした場合、この人も巻き添え死罪の仲間入り。
あの感じだとジオは彼に話さず、私と彼を遠ざけて再会しないようにする気する。
しかし、こうしてあっさり再会しそう。
ジオとの打ち合わせでこれは想定していなかった……のは彼も夕霞の存在を忘れていたとか?
私達は急な再会に驚いて、お互いの保身に動き、勢いで打ち合わせをしただけで、時間をかけて熟考した訳ではない。
「あ、あ、あの……あの……」
「声ですぐに分かった。それで、まさか君が私に好意とは……」
どういう話か不明だけど、男性が女性を口説く場面のようだ。
光苔に照らされる夕霞の色気は男性役だとなお光って見える。
このまま盗み観劇したい程に惹かれるが、逃げないと死ぬかもしれない。
「中止します。こらっ。お稽古の邪魔をしないで下さい」
扉が開かれて、仁王立ちのウィオラが腰に手を当てた。
眉毛はハの字で怒っているというよりは困っている表情で、声色も優しげな響きが含まれていたので全くもって怖くない。
姉さん達の同僚だったら真っ先に潰されてそう。
この叱責がきっかけで、夕霞と目が合ってしまった。
気がつかないで。気がつかないで。気がつかないで——……。
今逃げたらおかしいと小さく震えて固まっていたら、夕霞が勢い良く私の前に来てゆっくりとしゃがんだ。
「こひの穴へ落ちるとは、まるで想像もつかない感覚だったのですが、今、理解出来ました。自分はミズキと申します。月下の華君、お名前を教えていただけないでしょうか」
「……。あの……」
「アノさんですか。ア……っ痛!」
「何、いきなり女を口説いているのよ! 恋の穴に落ちたって何よ! 真面目に稽古をしなさいよ! 稽古中でしょう!」
突然アリアが怒鳴り声を出したのでびっくりしていたら、彼女は夕霞の胸倉を掴み前後に揺らした。
「ははははは。アリアさん。嫉妬ですか? 君が俺に気があるなんて知りませんでした」
「あるわけないでしょう! このスケコマシ! 誰かれ構わず口説くんじゃないわよ!」
「ア、アリアさん。お芝居のお稽古と現実をごっちゃにしていませんか? ミズキさんの演技がお上手だからと」
「あの、アズサさん。そのお上手ってやめていただけせん? まるで幼子を褒めたように聞こえますもの」
夕霞の声色が女性っぽく変化した。
「皆さん、楽しそうですがお稽古中です。そちらの三人は静かに見学するなら許します。見学するなら中へどうぞ」
室内を覗き見では分からなかったけど、ただの広間ではなくて人が住んでいるような空間だった。
その部屋の隅に、あの夜に夕霞が破壊した三味線が立てかけてある。
私が巻いた包帯はそのままなので修理していないようだ。
壊された三味線は使い捨てのような品ではなかったので、朝露姉さんが捨てさせなくて、私も同じ気持ちで、全く興味の無い三味線なのに泣いているように見えて悲しくて、気がついたら包帯を巻いていた。
それ程、三味線にさえ命を感じてしまう程、朝露姉さんが影になる程、あの夜の夕霞の存在感は凄まじかった。
知らない間になくなっていた三味線が、この部屋にあるということは取りに来たということ。
来たら教えると言ったのに、朝露姉さんの嘘つき。
あの人の心には優しさは一割くらいしかないし、嘘ばっかりつくから信じてなかったけど、自分が思っていたよりは信じていたみたい。
「逃げないでくれ。鳴神など恐ろしくない。命よりも大切なものを君が守ってくれたあの日から……」
逃げないでという台詞の時に私としかと目を合わせたし、命よりもの時は部屋の隅の三味線。
「好きだ……迎えにいくはずだった……」
流し目でまたこちらを見られて、お芝居の稽古をしたまま、こっそり私に味方だと伝えた気がした。
胸の真ん中が妙に熱い。
一つ結びの夕霞の髪がほどけてはらはらと落下し、そこに月明かりと光苔の灯りが乱反射。
キラキラ、煌々——……。
こんな再会はまるで運命だと、ときめきという感情を知ったと思ったのに、この少し後に夕霞ことミズキは同じ女性だと知った。
私はこの詐欺師! と大絶叫。
人を食ったような顔で「また一人釣れましたわ」とは腹が立つ女だ。




