二
龍神王は告げている。
生来持つ悪欲を善欲へ変えれば、我や我の副神が味方しよう。
裏切りには反目。信頼すれば背中を預ける。
★
ジオという男性について私が知っていることは、朝露花魁の贔屓客が呼んだ芸者の連れということ。
初対面のあの日、彼は私のお酌を拒否し、話しかけてもこちらを見ないであまり返事をせず、名乗らず、お酒どころかお茶も飲まず、何も食べなかった。
朝露花魁も私達楽も魅了した訳アリらしき芸者夕霞の付き人ジオは、店番曰く、夕霞を引きずるように、逃げるように遊楼を出て行ったという。
少ないけど食事代、少ししかないけれど楽さん達にお菓子をと、わずかな現金と絵飴の入った年季の入った缶を残して。
返事はなさそうだが手紙を袖に入れたけど、予想通り返事無し。
中身を全て配って捨てられそうだった古ぼけた缶を、私は今、荷物として持っている。
使い古されて表面が削れてしまっている缶は青色で、模様は銀で描かれており、絵は鬼灯だ。
着ていた着物の質は良かったし、そのような缶だから、彼は多分どこかのお坊ちゃん。
芸者の付き人だから、経営関係者の息子だろう。そう考察していた。
しかし、河原の紫陽花の枯れ木群の中、外からかなり見えないところで提示された身分証明書の記載内容はまるで違った。
ジオ・ルーベル。
この番号は客なら嫌煙すべき卿家だ。
稼ぎはありそうなのにケチだし、世間体を気にしてあまり来ないので金づるにならない人種。
養父は煌護省南地区本庁を定年退職。
実父と実母は「ひくらし」雇用の竹細工職人。
そこに普通は記載しなくて良い親戚や名前や肩書きも並んでいる。
兄は南地区中央裁所の裁判官。
別の兄は南地区本部所属 南三区六番隊副隊長。
義姉はオケアヌス神社の奉巫女。
「……あなた、なんていう疫病神なの」
「疫病神? なんでですか」
「なによこの家族関係。裁判官に副隊長におまけに奉巫女。奉巫女って王都に百名くらいしかいないのよ」
「頼りになる、自慢の家族親戚です」
ニコッと笑いかけられて思わずドキッとしてしまった。
花街にはこういう爽やかで優しい目をした男は全然来ないから。
色男はたまに来るけど、色欲にギラついた目をしているし、そもそも瞳が濁っていて臭く感じる。
私は他人よりも嗅覚が優れていて、他の人が気がつかない体臭が分かるから日常生活が辛い。
花街の外に出たら匂いがマシになって清々している。
「このネビー・ルーベルって、あのルーベル副隊長のこと?」
別名、大狼兵官。
獰猛な大狼に一閃雷光のような突きをして街から追い払ったという英傑兵官。
その事件のことは、新作陽舞妓になり、人気の演目の一つとなっている。
花街から出られない私は、劇を観たことがないけど。
「あの、というのが一閃兵官のことなら叔父のことです」
「叔父? 兄って書いてあるけど」
「戸籍上は兄で、血筋では叔父です」
「なにそれ」
母親の妹がルーベル家に嫁ぎ、跡取りが無事に産まれるか不明なので、先に産まれた自分は戸籍だけ養子になった。
そうすると、卿家特権で基本的には学費が無料になるし、他にも色々な特典があるので。
結果として跡取りが産まれたけど、この養子縁組で両家が困ることは全然ないので、親しくしている親戚ともちつもたれつだそうだ。
「自分は両親のところで育って今も同居しています」
「ふーん。卿家って、私を匿ったらまずいんじゃないの?」
「そうなんです。なのになんで自分の前に現れるんですか……。なんでこんなことに……」
「匿わないで連行したらあなたは人殺し。末代まで呪うから」
「分かっていますよ! だからこうしてまず落ち着いて考えようとしているんじゃないですか……」
しばらく唸っていたジオは、知らなかったフリをすると宣言。
「ええですか。自分は君を匿いもしないし、連行もしません」
兵官に「兄と解決します」と言ったから、兄に伝えないとおかしなことになる。
嘘をつく場合、なるべく喋らないことと、嘘を上塗りしないことが鉄則。
一番良いのは嘘をつかないこと。真実なら綻ぶことはないし、常に一貫性があるからだ。
彼はそう、私に説明した。
お酒を飲まないどころか舐めないと口にした、凛々しい横顔の男性は、あの時の印象通り真面目っぽい。
「自分は君が朝露花魁の楽だと知らない。君もさっき自分と初めて会った。この嘘だけなら突き通せるはずです」
私がスリは冤罪だと主張して泣くので、叔父に相談しようと考えていたら逃げられた。
確認したらスリはされていなくて、自分の誤解だった。財布は懐から袖に落ちていただけ。
彼の脳内で即座に書いた脚本はそれ。
「前にそういうことがあったんです。財布が無い、無いと騒いだら、袖に落ちていたことが」
その時は財布と着物を結ぶ紐が切れていたので……とジオは紐を引きちぎった。
「ええですか。君と俺は花街で出会わなかった。それでさっき出会った。そうしましょう」
昔、母が教えてくれた小説みたいに、真面目に優しく生きていればいつか誰かが助けてくれる、皇子様が現れて私を見初めて、売られる前に身請けしてくれるなんて夢を見たこともある。
目の前にいる優しい目をした、全く嫌な匂いのしない彼がそうかもしれないなんて阿呆な夢を見て袖に手紙を入れた。
貧乏卿家じゃ花魁の楽は買えないし、返事もくれなかったし、死を覚悟して地獄から逃げた女性を自己保身の為に見て見ぬふり。
この世は地獄で全然助けてもらえないのに、私にはまだ甘ったれた感情が残っていたと呆れる。
君を助ける、匿うという言葉を期待したということはそういうこと。
「自分は君に冤罪をかけたから、たまに少し手助けすることは自然なことです」
「……つまり、今後何か手伝ってくれるってこと?」
まさか、と目を見開きかけてゆっくり伏せた。
後から脅して私の体を無料って使おうってこと。
まぁ、見た目は良いし、臭くないし、新しい生活をうんと手伝ってくれるなら検討しても良い。
大勢に春売りより一人を相手にする方が遥かにマシだ。
「必要があれば、最低限」
まず、私はスリの冤罪をかけられたと小屯所へ駆け込む。
相手はルーベル副隊長の弟だった。
何もしていないのに罪人にされるなんて嫌だと主張する。
これは真実なので常に一貫性をもって主張出来るから怪しまれることはない。
小屯所の人間が何をするか完璧に予想出来ないが、私は若い女性なので女性兵官が呼ばれるはず。
潔白を証明すると持ち物を全て見せる。
それで最悪な家族と縁を切りたくて身分証明書は捨てたから無い、何も語りたくないと言う。
「一つ嘘をつくと、嘘が綻びかけた時にまた嘘をつくことになり、主張に一貫性がなくなり、破綻します。余計なことは語らないのが一番です」
ジオは叔父である副隊長に、自分のうっかりで冤罪容疑をかけてしまったという汚点を伝える。
生真面目で立場のある叔父ならまず私を探して自分に謝罪させようとする。
小屯所へ駆け込んだ私と、叔父に話したジオは、再会する可能性がある。
「そうなればあとはまぁ、世話焼き叔父もいるので住むところや日雇い先はなんとかなるでしょう」
私とジオが再会しなくても、女性兵官達が良くしてくれる。
そういう訳で解散。
つまり、二回も出会ったけど、私とジオの縁は点のままってこと。
彼にあれこれ世話された結果、そこにつけいられることはなくなるので再会しないようにしよう。
一人を相手にするはずが、仲間を呼ばれて複数人になったらたまったものではない。
地獄の街から逃げてきた意味がなくなる。
男物の着物を羽織っていたけど回収されて、顔を隠すように巻かれていた手拭いも外された。
先に行くように指示されて、信用していないけど、信じて良い匂いがするので素直に従う。
走って、走って、走って、走って、走って、街中の兵官に話しかけて、事情を伝えながら泣き真似。
「自分は副隊長の弟だなんて、あれもきっと嘘です。そうやって難癖をつけて路地に引きずり込もうとか……ひっく」
泣き真似は得意というか、花魁を目指すには必須の技術。
ジオは小屯所に連れて行ってくれると予想していたのだが、若めの兵官は違うことを口にした。
「俺達の副隊長の家族を騙って強姦未遂とは許せねぇ!」
これは大事件なので屯所へ行きますよと言われて、ジオの予想と違う……と考えながらついていき、屯所に到着すると門近くで待たされた。
しばらくしたら羽織りの模様の色が明らかに異なる中年兵官が先程の兵官と女性兵官を連れてやってきた。
若い兵官は叱られた後みたいな表情である。
中年兵官がルーベル副隊長で、部下の不手際を謝罪して、私を女性兵官に任せた。
若い兵官の不手際とは、ろくに調書を取らずにここまで連れてきたことと、相談前に女性兵官へ連絡を入れなかったことだそうだ。
ルーベル副隊長はジオと全然似てなくて、浮絵とは違って色男でもないし華奢め。
ただ瞳に宿る温かみはジオとかなり似ている。地獄街とは異なり、外街にはこういう男性が沢山いるってこと。
大狼は家程あるというけど、大型犬くらいの大きさだったようだ。
たまたまそこにいて、大型犬くらいの狼を追い払ったら英傑と呼ばれるとは運の良い人。
「まずは休みましょう」
いかつくてゴツゴツした顔の女性兵官に優しく笑いかけられて、そっと背中に手を回された。
この人も瞳の中の光がとても綺麗。
こちらへと促されたので歩き出すと、背後からルーベル副隊長の「やはり自分も」という台詞がぶつかった。
屯所内は広くて、いくつも建物があり、そのうちの門からそんなに離れていないところにある、相談室三という部屋に案内された。
部屋はそんなに広くないが、大きな窓があって明るく、畳にはふかふかそうな座布団がある。
ただ、相談室なら相談内容を書きとめるはずなのに、不思議なことに机がない。
着席を促されたので座ると、私の隣に女性兵官、向かい側にルーベル副隊長という位置になった。
「カインさん、そちらのお嬢さんの左耳の後ろを確認して下さい」
「左耳の後ろですか?」
この台詞に、私は冷や汗をかきながら固まった。
耳の後ろには「花楽印」がある。
花楽印は遊楼に売られて商品登録された者がつけられる焼印だ。
毎年変わるという終了焼印を押されない限り、花街から出ることは叶わない。
女性兵官が「失礼します」と私の左耳の後ろを確認し、彼女が息を飲む。
「副隊長、これ、多分煙管か煙草を押しつけられた跡です……」
花楽印に上書きだと自ら押しつけたし、それだけだと不自然なので他にもいくつか。
時期もずらして、少し手当をしないで膿ませてある。
乗り切れそう!!!
「先程チラリと見えて、君なら気がつくと思いつつお節介しました。それでは後はよろしくお願いします」
副隊長はそう告げると私に会釈を残して退室した。




