七
歌姫アリアがアサヴ・トルディオの家に泊まることになった日の夜。
彼女はアサヴの指導者達から講義を受けて、もうそろそろ辞めようと考えていた演劇の世界に後ろ髪引かれた。
見た目と歌くらいが取り柄の三流と自らを評価して、特にそれに不満が無かったのだが、あれこれ褒められて勿体無いと告げられたし、遊霞に思いがけず嫉妬したこともあり。
婚約者と美女——おまけに有名人——が一緒にいて、自分は不在なのは嫌ではないのだろうか。
講義や話に夢中だった時は忘れていた気遣い心を取り戻したアリアは、ミズキのところへ案内してもらった。
彼は一人、暗い部屋で琴を弾いていた。
規則的なので基礎練習だろうと、アリアはあまり遠慮せずに彼に声を掛けた。
しかし、返事はない。
何度呼びかけてもミズキからの反応はなく、アリアは彼の目の前に着席。
それでもミズキの視線は琴で、アリアの存在に全く気がつかない。
アリアは手を伸ばして基礎練習の邪魔をしようとしてやめた。
そっと目を閉じて、音に耳を傾ける。
すると予感通り、かつて聞いた、ずっと追いかけて探していた音とかなり似ており、少々体を震わせた。
神職の血縁者でその演奏はそれなりに有名でイジュキと似た名前。
幼い頃に出会った男の子と儀式の日の少年は別人だったのかもしれない。
同じという偶然はありえないような話だから。
そして、儀式の日に出会って、胸をときめかせたのは少年ではなくて、この女性だったのだろう。
アリアはそう結論づけた。
似た音を奏でる者達がこの地へ招いた。そうして今、この国の人々は大いに楽しんでいる。
自分の儲けの一部は寄付金となり、誰かを救うだろう。
アリアはその事をミズキに教えようとして、あの日傘を見せようと考えてやめた。
歌姫アリアは妄想に恋をしている。ずっと長い恋をしてきた。そして、彼女にはその自覚がある。
だからこそ、誠実そうで尊敬出来るところのある男性から口説かれた時に、その誘いに乗って、恋人になるという約束をした。
しかし、ときめかないし、面倒くさくなってすぐに放り投げた。
手を出されることが嫌で、歌劇団の姉の一人に軽く相談したら、そは恋心がないという意味だから別れなさいと指摘されたのもあり。
そうしてアリアはイジュキと再会出来れば、妄想から生まれた恋心に決着がつくと考えるように。
しかし、このような結末はあまりにも予想外で終わらせることをためらった。
目の前のミズキに辿りついたのはきっとたまたまで、この王都のどこかに「初恋の皇子様のイジュキ」はいる。
目の前の真実に近いものよりも、己の願望に近いものを信じたい。
なにせ、彼女はまだ恋をしていたかった。
どんなに辛いことがあっても、この恋をしていれば元気を出せて、幸せでいられるから——……。
☆
ますますミズキを気に入ったアリアは毎日のように彼女につきまとい、連れ回した。
そうして、アリアはミズキの心の深いところに触れた。
彼女の心のトゲはどうやらあの遊霞だと。
そういう訳で、アリアは公演後のアサヴを料亭に呼び出した。
先に到着して部屋で待つアリアは、歌の練習をしていた。
そこへ、アサヴ・トルディオが祖父と共に登場。
アリアは人気看板役者が女性と二人きりになると考えていなかったし、彼女も付き人を勝手に二人伴わせているのでお互い様。
特にそのことには触れずに、予約してあるのは料理長おすすめの懐石だと告げて、今夜の公演について労った。
「単刀直入に聞くけど、今夜の公演はどうだった?」
足が悪い祖父を気にかけながら、アサヴは品良く着席しつつ、アリアにそう問いかけた。
「昨日より最悪」
「だろうな」
「カラザさんも来てくれてちょうど良かったわ。あなた達はミズキを潰す気なの?」
アリアが初めて観たミズキの参加する舞台は、前回の公演のヨウ姫の輝きが強くて多少の違和感はあったものの、実に満足のいくものだった。
ミズキは前回の公演でヨウ姫役を演じた遊霞とは異なる光を放ち、主役のアサヴを食ったりせず、むしろ彼を輝かせた素晴らしい助演振り。
それが、回数を重ねるごとにかげり、遊霞の模倣になっている。
それはすなわち、劣化だ。
偽物は決して本物にはなれない。
彼女の瞳に映っているのは愛しいセイではなくて、遊霞で、ミズキの個性を殺していくばかり。
彼女がこういう話をすると、カラザはその通りで、このままミズキを潰すつもりだと語った。
「挫折は成長に必要なものです。ミズキは稽古、稽古、稽古で孫と少し接するくらい。最近、あなたが彼女を連れ出してくれて助かっています」
「押しに弱いので、娘に興味があれば誘って下さい。娘をよろしくお願いしますって彼女の親に頼まれたのはそういうことですか」
「ええ。それにしてもそちらからそういう話が出るとは嬉しいです。ミズキも孫のようなものなので、ありがとうございます」
「会った初日に話したように、ミズキは私の恩人かもしれないので。輝き屋の劇場で公演をするこの期間、ずっと良くしてもらっていますし」
アサヴは祖父カラザに「恩人とは何の話ですか?」と問いかけた。
アリアが何も言わないので、カラザは彼女の様子を見ながら自分が聞いた話を孫に教えた。
「男の子かと思っていたら女の子だったなんて。でもね、調べ直してもらったら南東農村区というところにも候補がいるみたい」
ふーんと盃を口に運びながら、アサヴは祖父をチラリと確認。
名役者ぶりを発揮して、何も知らないフリをしているなと心の中で呆れる。
「ミズキな気がしたけど、性別が違ったり、印象が異なるから、やっぱり違うと思っているってことだな」
「イジュキと違くても違くなくても、ミズキは優しくて親切だから、恩返しをして去りたいなぁと」
この話を聞いたアサヴは、幼馴染のミズキは実は男性だと言おうとしてやめた。
彼は恐れた。
それなりに気が強くて、からかい屋で、自信家のお嬢様ミズキを見事に演じて生活しているが、ミズキという青年の素はわりと引っ込み思案。おまけにかなり自己評価が低い。
ミズキという青年は自信がないのに、ある意味尊大で上しか見ていない。
自分の足元に数多の低能力者、苦悩者、挫折者がいるというのに眼中になく、ひたすら天を見上げている。
そうして自己評価を下げに下げてくすぶっている。
アサヴは幼馴染が見上げるところに自分もいると自覚しているので、もう何年も身動き取れず。
発破をかければかけるほど、ミズキは稽古や文学考察という自己の殻に閉じこもる。
息抜きも必要だと遊びに誘えば、君とは異なると線引きされて拒否される。
なのでアサヴは、祖父がミズキとアリアを女性同士の友人みたいにすると良いと提案したことを、妙案だと感じて協力中。
「そのイジュキと再会出来たら、君はどうするんだ?」
「決まっているじゃない。まずはお礼を言うわ。それで誘うの。二人で拍手喝采と素敵な笑顔をうんと作りましょうって」
「二人で……イジュキが演奏して君が歌うってことか」
「隣に並んでね。大儲けよ! あちこちに寄付して帰るわ。煌国のお金はなるべく煌国人が使うべきだもの」
「ふーん……」
快活でわがままかつ奔放なようで、アリアは時折このような姿を見せる。
アサヴは改めてアリアの意外な一面を知り、思案した。
ほんのわずかに困っていたから助けた結果惚れられたという話は良くある。
しかし、助けた結果惚れたという話はほとんど聞かない。
せいぜい、相手が美しかったから一目惚れくらいだ。
アリアがイジュキに辿り着いても、彼はきっと「日傘ですか。覚えていないけど、そのようにありがとうございます」と淡々と返すだろう。
相手が歌姫アリアだから浮かれたり、幸運と考えるかもしれない。
ミズキは演奏よりも演劇で名を馳せたいと努力していることを、アサヴはよくよく理解している。
だから自らの演奏が赤の他人の心を震わせ、目の前の怪物歌姫を作り出したと知れば、気持ちに変化が起こるかもしれない。
アサヴから見て、幼馴染ミズキはアリアという女性を嫌悪している一方で、明らかに惹かれている。
付き合わされてぐちぐち文句ばかり言っているが、口を開けば「アリアさん」で、断固拒否すれば逃げられるのにそうしないで、むしろ観光提案や世話を積極的にしている。
そんなところに、ずっとあなたに会いたかったなんて言われたら、感情が大きく揺さぶられるだろう。
「イジュキはきっと喜んでくれると思うのよね。今、煌国中の人達が私とエリカに夢中なんだもの」
「まぁ、そうだろうな」
ミズキは男できっとそのイジュキだという台詞をアサヴは飲み込んだ。
彼は恐れた。
目の前のアリアのあまりにも眩い輝きと愛くるしさに。
彼はすれ違う女性にたびたび目を奪われるが、それはもれなく恋する女性である。
実体験からそれを易々と体現出来るからこそ、遊霞のヨウ姫は観客を魅了する。
ミズキがそこに並べないのは、女装してヨウ姫を演じているからという理由でも、彼の演技力不足でもない。
彼の中に異性愛というものがポッカリ抜け落ちていて、あらゆる恋が視界にも入っていないから。
このように可憐に恋心を語れるアリアのシャーロットが美麗な歌でしか観客の心を掴めないのは、単なる実力不足。
表現力があれば、この輝きを舞台で発揮出来るだろうから、やはり勿体無い逸材だ。
全てが噛み合うと、大切な相棒であり親友のミズキを奪われるかもしれないとアサヴは怯えた。
だから、ミズキは実は男性とは言わずに口をつぐむ。
今夜、アリアがアサヴを呼び出したのは、彼に婚約者のミズキのことをもっと大切にしてと言うため。
叩いて伸ばすにしては支援が足りていないのではないかと指摘したかったから。
なので話題はそのことになり、孫についてきたカラザがアリアに軽く状況を伝え、アリアは「余計なお節介でした」と軽く頭を下げた。
「他人の方が上手くいくこともあるので、良ければもっと彼女にお節介していただけますか?」
「アサヴさんから周りの方々に許可を取ってもらえたらなと思っていたので、こうして直接話せて良かったです」
この翌日、ミズキは人生で初めて女性の膝を枕にした。
その逆、女性を膝枕するのも初。
彼はまだ、自身の心に芽生えた気持ちに気がつかず。
さらに時間が経過してもそれは変わらないまま——……。
間も無くお別れなのに、ミズキが一週間程留守にしてしまうと耳にしたアリアは、いつものように彼女を訪ね、一週間南地区へ行くのならお土産をよろしくと依頼。
しかし、ミズキの姿を見て固まった。
男性が着るような簡素な寝巻き着物——ユカタ——姿で、普段は可愛らしくまとめている髪は無造作な一本結び。
湯上がりというように、その髪は濡れて見える。
「お土産って、君はその頃にはもう東下地区ですよね?」
「……ねぇミズキ、ヨウ姫の次は男の人の役をするの? っていうかあなた、すっぴんだとかなりの地味顔ね」
こう口にしながら、アリアはイジュキに似ていると心の中で呟いた。
「あはは! ミズキのこの姿を見てもまだ女だと思うのか。ミズキは男だ。ほら」
アリアは気がついていなかったが、部屋にはアサヴもいて、彼はミズキの浴衣の上半身部分を半分、引っ張った。
自分は言いたくないが、ミズキの性格なら騙したままにしないだろうと考えたので、ネタバラだと。
「……男?」
「アサヴさんが女性避けをしたいというので、稽古以外でもほぼ女装しています」
「だ、だま、騙したわね! この私に抱きしめられたいからって騙したのね!」
アリアの心の中は大混乱。
「俺は地味で癒し系の女性が好みなので、派手でうるさいあなたに興味ありません。慎みもないから色気のいの字もないですし」
この台詞はアリアの胸を貫き大出血させ、彼女を涙目にした。
ミズキが男性というのはアサヴと彼女の悪い冗談で、女性だから初恋のイジュキに無下にされたのではないと、彼女の心は瞬時に自己防衛。
「なっ⁈ 帰ってきたら覚えていなさいよ!」
「ですから、俺が帰ってくる頃には君は東下地区ですよね?」
「それがどうしたっていうのよ」
「もしかして、同じ東地区だから近いと思っていますか?」
「……えっ、それってつまり遠いの?」
地図を見せて説明されたアリアはめそめそ泣き出して、それなら自分が去ってから南地区へ行ってと言い出した。
「な、なんで君が泣くんですか……」
「ようやく友人を見つけたと思ったのにー! 寂しくないなんて酷いわミズキ! 狭い世界にいないで、広い世界に一緒に行こうって誘おうと思っていたのに! なんで男なのよー!」
肩をすくめたアサヴは、恐れていた時が来たなとため息を吐きながら無言で部屋から出て行った。
親友にして相棒がどういう決断をしようと、それは彼の自由だ。
彼の意志を聞いて、自分がどう決断するかは自らの自由である。
先日、祖父や義父に、このまま精神的にミズキにおんぶに抱っこでいるのかと指摘されて、アサヴの頭の中は混乱している。
「男って嘘よね? これは可哀想なくらい貧乳なのよね?」
二人きりでもないのに婚約者の浴衣をひんむいて、胸を見せて、彼女は男ですーなんて冗談は悪趣味どころではない。
見せつける相手が女性だとしても、そんなことをするはずがない。
だから、アリアはもう、ミズキは男性だと理解しているのだが、心がそれを拒否している。
「面白がって騙したのは悪かったけど、より女性らしくなるための修行でもあります。信じられないなら、下でも見せますか?」
「……み、見るわ。見ないと納得しないわ!」
見ると言うと思わなかったが、そう言うなら仕方がないと、ミズキは浴衣を脱いで下着一枚になった。
ミズキが男性なら、初恋の皇子様のイジュキと絶対に同一人物で、その彼のあられもない姿を見てしまった羞恥心と、失恋の絶望感でアリアは畳に突っ伏した。
ミズキが男性なら、確実に彼は「初恋の皇子様イジュキ」である。
彼は自分のことをサッパリ覚えておらず、おまけに「派手でうるさいから興味なし。慎みもないから色気のいの字もない」であるので、失恋以外のなにものでもない。
「どう見てもその体つきは男よ……。こんな可愛らしい、綺麗な声なのに、男ってどういうことよ……」
ミズキは女性でありますように。やっぱり女性って言いますように。
これは冗談で、ちゃんと女性ですよと言ってくれますように。
憧れのイジュキとこんな再会はあんまりだから、ミズキはイジュキではありませんように。
アリアはそう、強く祈った。
「あーあーあ。んんっ。あー。地声はこんな」
アリアはこのミズキの地声に更に絶望した。聞き覚えがあるどころか、何千回と反芻した大好きな声だったので。
「その声も男ね……。あるわ。何度見てもそれは女の私にはないものよ」
顔を上げたアリアは、この声もこの顔もあの時の彼……と更に絶望。
眼前にミズキの股間があるのに、それに驚きも、照れもしない程の大絶望だ。
「本当に、恥じらいのはの字もない方ですね」
アリアは畳に突っ伏して、両手で髪の毛をぐしゃぐしゃにして、足をジタバタさせて「嫌ぁああああああ」と呻き出した。
「悪い。そこまで悲壮的になるなんて思ってなくて。すっかり騙されたって笑い飛ばすかと」
「……ズキのバカぁああああああ……」
弱々しく呻きながら、アリアはのたうち回った。
初恋の皇子様イジュキはきっと、歌姫アリアと出会えて嬉しいとか、あの時の女の子だったと喜んでくれると妄想していたのに、実際は「まるで興味無い」だ。
ミズキが男となると、もしかしたら幼少期の男の子イジュキとも同一人物かもしれないのに、彼はこれまでアリアにまるで無反応。
彼の口から、あの時の女の子では? あの時、具合が悪かった子では? みたいな言葉は一度も出ていない。
相手——アリア——の反応を探る為に、昔こういうことがあった、という話もしていない。
「女性のご友人が少ないんですものね」
「少ないんじゃなくて……いないの……。出来たと思ったのに……」
このことにもアリアの心は大打撃を受けている。
「私にもようやく姉妹じゃなくて、友達が出来たと思ったのに!」
「でもほら、友人なのは変わりませんよ?」
「その嘘つき声をやめたらね!」
アリアはしばらく幼子のように泣いて、泣き続けて、自分には他の夢もあるので、イジュキのことは忘れてその夢に向かって生きようと、立ち膝になってミズキを見上げた。
しかし、その決意はすぐに消失。
気遣わしげに自分を見つめる今のミズキの姿は、かつて自分に日傘を差し出してくれた、あの人と瓜二つ。
「……男で良いわ! 南地区へ行くのはやめて、私達と巡業しましょう? そっちの方が修行になるわ」
まだミズキと一緒にいたいという気持ちでアリアはこう告げた。
☆
こうして、孤児アリアは歌姫となり、三度目の恋に落ちた。
一度目も、二度目も、三度目も、全て同じ相手だ——……。




