十五
年末年始に風邪をひき、高熱が下がった俺が知った事実は、あまりにも衝撃的なものだった。
久々の食事をとっていた後に、ここ最近の生活で当たり前になっていた新聞を読むという行為で、まさかこんな気持ちになるとは。
【華国交易団の飛行船大破】
記事の内容は、絶望的なもので、俺が初めて慕った女性の死を知らせるもの。
「もう、誰ですか。この新聞を持ってきたのは」
師匠が俺の手から新聞を奪おうとしたけど、俺はそれを思いっきり拒否して、新聞を強く、強く握りしめた。
今、この居間にいるのは、遅く起きた俺と、これから出勤する師匠の夫と、彼と俺を世話する為にいる師匠と、彼らの三男の合計四人だけ。
二才児は文字が読めないし、状況も把握出来ないのでそれは助かった。
こんなに放心している時に、何も知らずにあれこれ騒ぐ子供達がいたらきっと頭がおかしくなる。
「ミズキさん。しばらく一緒に過ごした方々がこのようなことになり、とても心苦しく悲しいでしょう」
「体調が良くなってから話そうと考えていたのに、すみません。誰だ、この新聞をここへ出しておいたのは」
二人の姿も声もぼやぼやしていき、俺を気遣う師匠夫婦が何か言っていたけど聞き取れず。
ぼんやりとしたまま、気分転換がしたいと口にして家を出ていた。
俺とアリアの仲を知っているのは、俺の実家に帰ったキジマ夫婦だけ。
少し一緒にいた知人達が亡くなったのと、楽器だけを持って追いかけようとしていた人生初の恋人を失ったのでは、あまりにも苦痛の大きさが異なる。
何も知らない師匠は、俺の絶望感に気がつかず、気分転換してらっしゃいと俺を見送った。
走って、歩いて、走って、歩いて、走って、歩いて、ひたすら進めば現実から逃げられるのではないかというように進み続けて到着したのは海。
俺とアリアが恋人として始まった場所。
同じように火に飲まれてしまいたいが、それは恐ろし過ぎる。
真冬の海へ入れば、荒波に飲まれて溺れるし、凍死するだろう。
入水自殺は文学で定番なので、確実かつ痛みや恐怖が少ないかもしれない。
足を動かしながらそんなことばかり考えていたので、俺は偶然ここへ来たのではない。
家を出た時には、師匠夫婦に微笑みを浮かべて「行ってきます」と伝えた時には、半分以上決意していた。
「アリア……今……」
約束したから会いに行く。
待っていてくれると言ったから、行かないと。
「う、うえええええええええん!」
海へ入ろうとしたその時に、突然女性の叫び声がしたので声の方向へ顔を向けた。
同年代の若い女性が砂浜に座り込んで、子供みたいに泣いている。
「……」
海に入るのは人が居ない時だ。
こんなに泣いていては気になってならない。
アリアなら無視しなそうだと脳裏に過ぎったので、俺は彼女に近寄って声を掛けた。
「へっ? あ、あの。すみません。大丈夫です……」
彼女の着物はそれなりに質の良さそうな織物なので、そこらの平家娘ではなさそう。
髪は短くて肩くらいまでしかないので、見た目よりはもっと幼い、それなりに良い家のお嬢さんといったところ。
おっとり癒し系というような、甘い顔で、目鼻立ちは整っている。
こんなお嬢さんが人の少ない場所でめそめそ泣いているのは危険だ。
「どう見ても大丈夫ではありませんよ」
「……いえ、大丈夫です」
彼女は俯いて、困り笑いでもう一度「大丈夫です」と告げた。
「なぜそんなに泣いているのですか?」
家を出る時までは死のうなんて考えていなかったので、いつも通りの女装中。
彼女からしたら女同士だから警戒されないので、上手く保護して家に帰せるだろう。
俺は彼女の隣に腰掛けて海と空を見つめた。
このように邪魔されるなんて、アリアにこっちに来るなと言われているみたいだ。
「泣いていません」
「泣いていました」
手拭いを出して彼女の目元と頬を拭う。
「……ありがとうございます」
「二度と会わない者同士です。あんなに大泣きしてしまうくらい辛かったことを、井戸の代わりだと思って吐き出して良いですよ」
「……いえ」
このくらいの年頃の女性なら、大方、失恋だろう。
「ほらほら、帰るに帰れませんから話しなさい」
扇子を手にして、彼女の頬をぺちぺち軽く叩くと、彼女はおずおずと唇を開いた。
「……私の人生はもう長くないそうでして……。本日、そう宣告されました……。長くても三年だそうです……」
「……」
まるで想像していなかった台詞に言葉が出ない。
「気がついたら家出のように……ここにいて……」
再び泣き出した彼女を眺めながら、これは確かに大泣すると同情して、それは辛いですねという、なんとも気の利かない台詞を口にした。
「そ……そのように……ありがとう……ございます……」
「見ての通り健康ですので、寿命を与えられれば良いのですが……」
いっそ、全部あげますだと変に思われるので唇を結ぶ。
このように優しい俺こそ長生きして下さいと言われたけど、心の中で「この後死にます」と毒づく。
彼女もパッと見、健康体なのに、若者が長く生きられても三年と宣告される死病とはなんだろうか。
自死にあたって唯一の懸念はアサヴだが、彼なら俺の死なんて乗り越えて、糧にして、舞台上で光り輝き続けるだろう。
彼は輝き屋の輝き——……。
『ミズキさん、あの子は笑えなくなってしまったのに、君の音が彼女を笑顔にしたんですよ』
不意に、滅多に俺を褒めない父の微笑みと、頭を撫でてくれた手のぬくもりが蘇った。
『父上、あの子から今日も返事がありません』
『旅医者さん達と一緒だから返事は難しいです。確か彼女がお世話になる病院は華国だったから、いつか再会出来ますよ』
そういえば、そんな話もあったなとぼんやり。
俺が東地区一の琴の名手になれば、属国へ行くような有名音楽団に入れるだろうとか、乗せられて……。
それで俺は天下を狙うアサヴに誘われて、二人で世界中をまわろうと約束した……。
俺はいつから夢を忘れ、手紙の返事を待つことをしなくなったのだろう。
『待つわ……私、いくらでも待つから……約束よ。絶対に破らないで……』
俺は恋よりも自分の夢を選んだ。
恋を選んでいたら、俺は今頃、彼女と共に空で燃えられた……。
しかし、アリアは俺を引き留めなかった。俺が選んだのもあるけど、舞台上で俺に行かないでと泣いたのに、俺には待つと宣言。
彼女が望んだのは、俺と一緒にいることではなくて、俺という芸者と共に生きる道。
彼女は俺に改めて希望の光と夢を与えてくれた人で……。
「……——は何のために生まれたのでしょう。何も成せず、何も残せず、人に迷惑をかけ続けて……役立たずです……」
冷静さを失って真冬の海へ入ろうとしていたけど、とんだ邪魔が入って、あれこれ思い出して冷静になってしまった。
それにしても、とんでもなく自尊心の低い女性だ。どのような人生を歩んでいたらこうなる。
「人なんて勝手に生まれて勝手に死にます。無意味に生まれて、無意味に死ぬんです」
「……」
俺はまた優しくないことを。彼女は俺を見据えて、力無く笑った。
「このように考えるのは私だけではないのですね」
「君のせいで……いや、君のおかげで、私は海へ入って死ぬ気がなくなりました」
「……えっ? あ、あのっ! 自死なんて良くないです!」
「君がしたことが正解なのか不正解なのか、生きている間、見届け続けて下さい」
我が名は龍神王と、多少遊ぶことにした。
何も成していないと嘆いている暇があれば、その高そうな衣服を売り払い、貧しき者、特に子供へ施せ。
病の身なら、薬を一つ試して、残していく同じ病で苦しむ同胞達への礎となれ。
急いで子を作り、この世へ送り出して、命を繋げ。
一言やたった一つの行動が、時に大うなりとなり、果てしなく続いていき、誰かの命へ繋がっていく。
人よ、再び立ち上がって進め。
人よ、止まらずに生きよ。
龍神王説法は学校では一部しか取り扱われないが、俺は全て読み込んで記憶している。
龍神王関連の歌は沢山あるが、それも数多覚えて練習済み。
女形も極めたいけど、アサヴにいつか勝ちたいので始皇帝と龍神王話より龍神王役。
砂浜で一人芝居なんて初だけど、これは楽しいかも。
扇子を小刀に見立てて彼女の首に突き立てて、勇ましく見てるように笑い、軽く一礼。
「役者、ミズキと申します。以後、お見知りおきを」
「うわぁ……役者さんなのですか。歌も踊りも素晴らしかったです。凛々しい男性さんのようでした」
さっきまで大泣きしていたのに素敵で可憐な笑顔をどうも。
この光景は、アリアが望んだ世界の片鱗だ。
「君の名前も教えて下さい」
「アズサと申します」
どこかで聞いた名前だけど、ありふれた名前なのでそんな気がするだけだろう。
レイスが文通している豆腐屋のお嬢さんもアズサだったな。
「長くて三年なら、意地で三年生きて下さい。その間に天下に名を轟かせます」
「ミズキさんはどちらで役者さんをしているのですか? 家族に勧めます」
「東地区の陽舞妓一座、輝き屋です。私への賞賛は、自死を止めたアズサさんへのものです。よって、君はもう、何も成していない人間ではなくなりました」
「……あの。東地区の輝き屋って、あの歌姫アリアの恋人、天才役者のアサヴさんがいる輝き屋ですか?」
新聞を賑わせたアサヴとアリア恋人疑惑について、知らない人間は少ないだろう。
輝き屋の名前はさらに売れて良かったが、俺はあの勘違い報道は嫌いだ。
「その輝き屋です」
彼女はなぜか気まずそう。なぜかというか、理由はこれだろう。
「その顔、あの噂の天才役者には敵わないってことですか? 観てもいないのに。観にきなさい。その目でしかと比べなさい。彼を南地区へ呼びますから」
「えっ? いえ。その顔とはなんでしょうか。そのようなことは考えていません。あのアサヴさんを呼べるなんて……まさか、妹さんですか?」
すっかり涙が消えたので、この笑みを絶やしてなるものかと「幼馴染です。本当の恋人」と、年頃の女の子が食いつきそうな話題を提供。
案の定、アズサはきゃあきゃあ嬉しそうで、歌姫アリアさんは違うのですか? と更に食いついてきた。
「その話はまた後で。君は私の命の恩人なので、薬師処へ連れて行きます。知識や経験不足者もいますから、何人もに診てもらいましょう。お金はあるのでおごります」
ぐぅうううううううう、とアズサの腹の虫が鳴ったので思わず笑う。彼女は恥ずかしそうに縮こまった。
「まず食事ですね。カゴを借りて神社へ神頼みにもいきましょう。オケアヌス神社が良いでしょう」
「私なんかがお願い事なんておこがましいです」
「私の命の恩人ですのに? 二度とそのような事を口にしないように」
さぁ、さぁ、行きますよと彼女を連れて、まずは食事処でお腹を満たして、その間にアリアの小話で彼女を笑わせ、その次は近くにある師匠と訪問する病院へ。
俺達はそこで、師匠の夫と会った。
彼がこの街にいるのは良くある事だし、病院や薬師処へ顔を出すのも、業務上、なんの不思議もない。
驚いたのは彼の方だった。
アズサに向かって、体調はもう大丈夫ですか? 随分移動したんですね、である。
「……この街暮らしで観光していました……」
「会えて良かったです。薬師さんに天涯孤独って聞いたんですよ。色々支援が必要なのに動揺して帰ってしまったと担当薬師さんに聞きました。気になって、仕事終わりに確認しに行ったんです」
せっかく笑うようになったのに、アズサは一気に暗い顔になり、固まったように顔をこわばらせて俯いた。微笑もうとしているが、唇は歪んでいる。
師匠の夫が俺を見つめたので、一人で海で泣いていたので保護したと説明。
「誰にも言えないなら吐き出したらどうかと提案しまして、良くない病気だと知りました」
「大変、ご親切なことに……他のお医者さんや薬師さんにも相談しようと……連れてきてくださいまして……」
「それなら、おそらく君にとって良い提案があります」
師匠の夫は応接室を借りて、アズサにこういう話をした。
石化病は罹患者が多いので、国はかなりの予算と人手を割いて研究している。
特に未来を築く若者を救う方法を見つけることは急務。この病で、優秀な皇族や皇居官吏が命を落としたことは一度ではないので尚更。
なので、国はアズサのような若くて発見の早かった石化病患者を求めている。
「最先端の研究施設で、同じ病で苦しんでいる仲間と励まし合って暮らす。それも、待遇や環境の良い場所で。悪い話ではないと思います」
担当衛生省の官吏をすぐに紹介出来るので、詳しくは彼から聞くと良いが、頼れる人がいないようなので後見人になりますと、師匠の夫は続けた。
「と言っても多忙の身なので妻に任せます。あっ、詐欺ではないですよ。この格好で分かる通り、兵官です」
そうだった、身分証明書と懐に手を入れた師匠の夫に、アズサは「副隊長さんを疑ったりしません」と微笑んだ。
「ネビーさん。制服でその腕章ですから、流石に疑う人はいませんよ」
と俺も追撃。
「いや、そこは警戒心を持ちましょう。なんでも確認は大切です」
「ド忘れが酷いですからね。副隊長なのに、兵官の基本のキも忘れるなんて。兵官さんはまず身分証明書でしょう」
「ミズキさん? 君はなんでいつも自分に厳しいんですか?」
「師匠が注意する手間を省いています」
「おお、それはありがとうございます」
この、わりとすっとぼけた男性が、師匠を花柳界や我がムーシクス琴門からほぼ奪ったのは腹立たしい。
師匠がこの人と出会っていなければ……と考えた回数は、手足の指の数ではおさまらない。
「あの、私。今の話を是非検討したいです」
「それが良いです。もしかしたら助かるかもしれませんし、何かの治療でほんの少しでも効果があれば、君の命は他の命へ続いていきます」
ちょうどその時、気を利かせた病院職員が、お茶を出してくれて、師匠の夫は「厄祓いに金平糖でも」と、とても小さい金平糖を差し出した。
小さな缶に、三つしか入っていない白い金平糖を見て、師匠のようにそこらで配りまくってそうだと感じた。
師匠と彼は、根っこがかなり似ているので彼を嫌いになれない。
「ミズキさんに厄祓いは要りませんので落雁をどうぞ」
「お菓子をどうぞだなんて、姉上みたいなことを。子どもではありませんので結構です」
「……っ!」
俺の隣でアズサが体をこわばらせて変な顔をしたので何かと思ったら、師匠の夫が「お弁当に使う調味料と間違えました!」と慌てて、ぺこぺこ頭を下げた。
師匠はなぜこんな男性にくびったけなのか……。
「い、いえ。好意なのですから謝らないで下さい」
「金平糖はこっちでした」
甘くて美味しいと笑ったアズサは、嘘をつきましたと身分証明書を提示。
瞬間、場の空気が凍った。師匠の夫が目を大きく見開いて、何か言いたげに唇を微かに震わせた。
「副隊長さん。家族も奉公人もお世話になっております。どうかこの役立たずで家族不幸な娘を手助けして下さいませ。私はこの国の命の礎の一つになりたいです」
俺の視界からも見える身分証明書の名前はアズサ・クギヤネ。
それは、親戚レイスが恋に落ちたお嬢さんの名前だ。
「兄の友人の琴の師匠さんと海で会うなんて驚きました。レイスさんの弟弟子なのに師匠さんなんですよね?」
「……。こんな偶然あるんですね」
「家の近くで副隊長さんにお会いしてここで再会。海で師匠さんと会う。不思議な偶然ばかりで驚きです」
偶然は更にあった。
この日、俺は彼女のおかげで「記憶を失ったアリア」の存在を知り、実際にその寝姿を目撃。
絶望から一転、奇跡だと喜んだものの、やがて彼女は俺との再会よりも自死を選んだことや、本当に俺のことをすっかり忘れてしまったと理解し、おまけに命の恩人ユミトを慕ったと悟った。
心は正直で、俺の「魔法の音」は破壊され、自身では分かっていなかったその自分の音を、喪失してから初めて自覚した。
薄情なことに、それはアリア喪失の衝撃よりも凄まじく、俺を絶望の淵へ叩き落とした。
しかし俺はもう、海へ入って死のうなんて考えない。
声も夢も失ったアリアの意志を受け継ぎ、命の恩人アズサの命も自分の芸によって永遠へと導く為には生きねばならない。
それなのに、俺の音は「幸福感」を拒絶して、負の感情ばかり表現する。
アリアの夢を叶える方法も、アズサの命を繋いでいく方法も、今の俺の音楽では絶望的。
生まれ落ちたその時から琴と三味線に触れて育ったので断腸の思いであるが、こうなったら演技と舞の道を極めるしかない。
この苦痛に耐えきれずに師匠に全てぶち撒けたその夜、俺は酷い有様の琴の音を出しながら、高らかに笑った。
頬を涙が濡らしていく。
俺はこれで、憎たらしくも羨ましくてならなかった幼馴染の天才役者アサヴとようやく同じ土俵に立ったのだ。
温室育ちのぬくぬく御曹司からの卒業。
俺もきっと、演劇の副神様に愛されているに違いないが、もちろん、こんな愛は欲しくなかった——……。




