落
ぼんやりしていたら、助けてくれてありがとうございますという可愛らしい声がして、ハッとした。
「い、いえ。お怪我は……ありませんね」
彼女をしっかり立たせて、しゃがんで足袋を確認し、枯葉がついて汚れていたので、手拭いでそっと払って、ジリジリ後退して軽く会釈。
下街幼馴染の姉妹ならともかく、それなりの家の若い女性をジロジロ見るものではない。
「お気遣いまでありがとうございます」
「いえ」
俺の視界の中の彼女の姿は一度足だけになったのに、急に全体像が登場。
なぜか彼女が座り込んだからだ。困り笑いを浮かべて、袖で顔を隠していく。
「すみません。腰が抜けてしまったようで……」
「……。いやあの、そちらからしたら不審者ですから怖がらせてすみません。自分はスザクさんの同級生で、体調不良の彼に学校の書類をお待ちしました」
「いえ。優しく助けて下さる泥棒さんなんていません。でも家の者以外の人がいるとは思わず……驚いてしまって……すみません」
一、年頃の女性だけど、緊急事態なので手を貸す。
二、年頃の女性なので、家の人を呼ぶ。
常識的なのは二で、少し冷静になったら彼女は足袋を履いていても浴衣姿だと気がついたので、そりゃあ男性に寝巻き姿を見られたら、良いところのお嬢さんは羞恥の極みだと察した。
なにせ、彼女の袖が隠しきれない耳が、季節外れの紅葉みたい。
羽織りを脱いで彼女に掛けて、家の方を呼んできますと去ろうとしたその時、
「あら。戻ってきてくれたのですね。ふふっ。くすぐったいです。遊び紐をどちらへ持って行ってしまったのですか?」
気になって振り向いたら、座り込んだまま、猫を抱っこする可憐な笑顔。
ぶわっと体が熱くなったので慌てて顔を背ける。
なんだあの、太って丸々としたふてぶてしい猫め。羨ましい。
「……」
羨ましいじゃない!
これではミズキお嬢様に騙されたのと似たようなものだ。
彼女が俺を騙そうとしているはずはないけど、上辺だけに惚けていては、また誰かに騙されることになる。
「失礼致します」
家の人を探そうとしたら、手伝い人らしき中年男性が「アズサお嬢さん」と渡り廊下を走ってきた。
「お気持ちは分かりますが、獣と戯れるとまた風邪をひきます。特に野良猫は綺麗ではありません。シッシッ」
ふてぶてしい猫は手で追い払われてもアズサから離れず、中年女性に軽く尻を叩かれ、押され、それでも動かないので、抱っこされたけど暴れ、まだどこにもいかないので連行された。
「……ど、泥棒! いえ、覗き魔です! 奥様! 奥様! 不届者です!」
太った猫を猫を投げつけられて、飛ばされて驚いた猫に額を引っ掻かれて、痛みで顔を押さえてうずくまる。
学生帽があれば、スザクの友人かもしれないと察してもらえたのに。
俺とイオリはこの手伝い人らしき中年女性にもてなされていないので、誤解されても仕方がない。
「マイさん、お兄さんのご友人です。すぐ説明出来なくてすみません」
まだ立てないアズサが、やめてと手伝い人らしき中年女性に手を伸ばした。
「えっ? ああっ! スザクさんのご友人が二人来たと……」
ここへスザクの母が現れて、俺達を眺めて、何があったのかと尋ねたので、アズサとマイの様子を見て、俺かな? と思って軽く説明。
猫と共にアズサが現れたので、挨拶をしたら猫が逃げて俺を引っ掻き、目撃したマイが心配してくれたところ、ということにしておいた。
「……マイさん、お客様は泥棒や覗き魔という無礼を許して下さるようです。手当てしてさしあげなさい」
俺の嘘は無意味だったようだ。
「もちろんでございます。お客様、すみません」
「いえ。あの、お嬢さんを驚かせてしまったので、彼女は腰を抜かしてしまいました。触れるのは失礼ですので、人を呼ぼうとしていたところです。よろしくお願いします」
引っ掻き傷なんて唾をつけておけば治ると言おうとして、唾をつけるなんて下品な気がするので、叔母が薬師なので診てもらうに変更。
「お嬢さん。冷えますのでご自愛下さい。帽子はありましたので、失礼します。奥様、スザクさんにもお大事にとお伝え下さい」
イオリが家の前で待っているし、このままでは手当てだお詫びの品だと始まってしまうので逃亡。
庭から外までは続いているので、そのまま家の前まで行ってイオリと合流。
野良猫が帽子の引っかかった木の枝にいて、引っ掻かれたと雑な嘘をつく。
「うわぁ。痛そうです。手当て、手当てしないと」
「ありがとうございます。そこの川で洗って、後で家で手当てすれば大丈夫でしょう」
河原へ降りて、トト川に手拭を浸して、しみるけど顔を軽く拭いていく。
ふと見たら、かつては立派だっただろうという枯れ木があり、気になった。
「落雷でしょうか」
「そう見えますね」
先程のふてぶてしい猫がトトトっとやってきて、その枯れ木のところで丸まったので、なんとなく近寄る。
さっきはなかったのに、今は水色と白色の糸で作られた組紐を口に咥えているので、あれはあのアズサのものでは? と手に取る。
ふてぶてしい猫は、なんだお前みたいに俺を睨み、にゃーおと鳴いた。
鳴いたので紐が口から抜けたので、そのままヒュッと奪う。
すると、猫じゃらしにじゃれるみたいに手を動かしてきたので、ちょっと面白くてそのまま遊んだ。
イオリも遠慮なくふてぶてしい猫を撫で回したり、手拭いを使って猫遊び。
そこへトトトトトッとリスが走ってきて、それを見かけたふてぶてしい猫が追いかけ始めた。
「もちはあっちのルーベルさんが良いみたいですね」
一瞬、なんのことかと首を捻ったが、もちはあのふてぶてしい猫のことで……。
「誰がリスですか!」
「あはは。自覚ありですか。すみません。リスが来て、うわっ! 誰かに似ていると思っていたら、誰かじゃなくて隣にいたーって」
「昔から言われ続けています」
こんな軽口を言ったり言われたりは、学校の同級生とは数年振り。
冗談を言ったら腹を立てられる、みたいな気が合わない人間と座席が近くて最初につるみだしたり、同じ卿家だからとつるんで性格が合わずに失敗的な人生だったのが俺。
アズサは俺の手にいま残っている組紐を遊び紐と呼んでいたので、あのお嬢さんはこの組紐をあのふてぶてしい猫と遊ぶ用にしていたのだろう。
それならスザク経由で返却したら喜ぶはず。
俺のいないところでも、きっとまた、あの可憐な笑顔を浮かべるに違いない。
なので俺は組紐を丁寧に縛って懐へ入れて、濡れた手拭いを枯れ木の枝に結んだ。
あのふてぶてしい猫は、可愛い女性を見せてくれたり、友人候補と距離を縮めてくれたから俺の副神様。
引っ掻かれたことは許してやろう。
「ルーベルさん」
「なんですか?」
「それはこちらの台詞です。何をしているんですか?」
「万年桜は包帯を巻かれて蘇るので、また成長しないかなぁと」
「へぇ。優しいですね」
「まさか。こんな枯れ木を放置していたら危ないので役所に伝えて伐採してもらいます。この辺りを見回りする兵官はいないんですかね」
叔父に文句を言って、日頃の鬱憤晴らしをしよう。
「引っこ抜く前に慈悲をってことですか」
「恨むな、呪うなって懇願です。下心を教えたからダメそうですけど」
「よし、俺も。ルーベルさんを呪うなー!」
イオリはそう言って、枯れ木に手を合わせてくれた。
お見舞いは終わったし、引っ掻き傷も応急処置したので、帰りましょうと告げて歩き出す。
よし、誘うぞ。俺はイオリを誘おうと意気込んだら逆に誘われた。
せっかくなので、この辺りをプラプラして、お茶でも飲もうというので二つ返事で了承。
心の中で「よっしゃああああああ!!!」と意気込む。
こうして俺はイオリを「イオリさん」と呼ぶようになり、イオリも俺を「レイスさん」と呼ぶようになった。




