恋慕追想、再零
目が覚めた時、恐ろしく寒くて苦しくて、とてつもなく喉が痛くて、朦朧としていた。
次に気がついたら、どこか見覚えのある木製の屋根を眺めていて、また包帯を作ったり、洗い物をする生活が始まると体を起こし、周りを眺めて、首を傾げた。
視界に入ってきたのは全然知らない場所で、ここはどこだろうと訝しげる。
すると見たことのない、格子に紙を貼った扉が横に開いて、背の高い日焼けした青年と、女性にしては背が大きい二人が入室してきた。
青年の方は少し覚えがあり、冷たい水の中から私を引き上げてくれた、とても親切な人だ。
『大丈夫ですか? もう大丈夫ですよ!』
私は失いそうな意識の中で、暗闇で、誰かを必死に求めていて、再会したくてならなかった。
それは多分、この彼のことだ。命の恩人にお礼をしたいと考えるのは普通のこと。
命の恩人の名前はユミトで、彼はヘイカン? らしい。
二人に目が覚めて良かったと労われて、私は海で溺れていたと説明されて、カナエという女性ヘイカン? に名前は何ですかと問いかけられた。
「……名前? 私の名前……」
全く思い出せないのでそう伝える。
持ち物をあらためさせてもらったけど、そこに私の身分証明書はなかったそうだ。
「あなたの容姿はどう見ても異国人か混血ですが、ご自身について何も分からないですか?」
「……私のこと」
喋るたびに変な声しか出なくて、痛くて、我慢したけどゲホゲホ咳き込んだら、まだ目が覚めたばかりなのにすみませんと謝られた。
「カナエさん。また後日にしましょう」
「そうですね。今はゆっくり休んで下さい」
「カナエさん。俺、もう一回レイさんのお見舞いに行くので失礼します」
「それなら私もと言いたいですが、ご家族もいらしていて邪魔になりますね。私は先にコトンショへ帰ります」
こうして、私は狭い部屋にまた一人になった。
板製ではない布製のシャウとは珍しいが、柔らかくて暖かくて好ましい。掛け布団とお揃いの柄も素敵だ。
体を起こして、よろよろしやがら室内を観察して、なぜ海で溺れたのかとか、自分の名前は何かと自問自答。
徐々に頭が冴えてきて、私の名前はアリアで、両親と共に戦争から避難して、そこで流行病に襲われて、死にかけたことを思い出した。
顔も名前も思い出せないけど、親切な旅医者達が私を連れて、死者が多く出た村を去り、それで——……。
立派な両親のようになりたければ、病院で介護師になると良いと旅医者達に言われて、病院が私の身元を引き受けてくれた。
包帯作りや洗い物をする生活とは、それのことだ! と点と点が繋がってスッキリ。
他に思い出したことは、孤児仲間や友人エリカが「もうすぐ二十一才ですね。お祝いましょう」と言ってくれたこと。
彼女達はきっと、病院関係者だろう。まぶたの裏に映る彼女達の笑顔で心がじんわりしたが、急に頭痛と吐き気に襲われて、私は近くにあったトンにげぇげぇ吐いた。
そうしたら、喉があまりにも痛くなり失神。
気がついたら布団の中にいて、見知らぬ女性が私の目元を布で拭っていた。
猫っぽい顔立ちの綺麗な顔をした中年女性が、あら、起きたのと笑い、まるで天使みたいと笑い返す。
「ありがとう……。あなたは天使のような人ね……。ここの介護師さん? 多分、ここは病院でしょう?」
「私はあなたを助けた娘の母親よ。娘が助けたのに死んだら悔しいし悲しいから様子を見に来たの。起きないで死ぬかと思ったわ」
「……息子さんの母親ではなくて?」
娘は男性の格好をして、自ら誤解されようとしているけど娘なの。
本人が教えない限り秘密なのに、つい口を滑らせたわ。
彼女はそう口にして、困り笑いを浮かべた。
「……私、ユミトさんの秘密を守るわ」
「ユミトさん? ユミトさんは娘じゃなくて娘の親友。あなたを助けようとしたレイが共倒れして、あなたとレイを助けてくれた、頼りになる赤鹿ケイヘイさんよ」
赤鹿は知っているけどケイヘイはヘイカンの仲間だろうか。
喋ると喉が痛くて、咳も出てくるので、あれこれ質問したいのに出来ず。
会話は辛いから、自分は文字を書きたいと告げたら、彼女が用意してくれた。
筆も硯も知っていて、文字も書ける。
しかし——……。
「やっぱりあなた、異国の人なのね。これ、どこの国の文字? さっぱり読めないわ」
「……ところどころしか思い出せないの」
またゲホゲホむせたら、彼女が背中を優しく撫でてくれて、それでようやく名前を聞いていないと気がついた。
そこへ、別の女性が部屋に飛び込んできて、彼女の名前を叫んだので質問する前に判明。
「エルさん! 娘さんが危篤です!」
「危篤? レイ!」
エルが部屋を飛び出して、呼びに来た若い女性も去って、レイは私の命の恩人の一人みたいなので、気になってならないからよろよろしながら部屋を出た。
廊下を曲がるエル達の姿が見えたので、壁に手をつきながら歩いてそちらへ向かう。
角を曲がると、扉が開いている部屋から、レイ、レイさん! という大声がいくつも聞こえてきた。
白い服を着た男性が、横たわる髪の短い男の子らしき人物の上半身を力強く何度も押している。
「ゆ、指が動いた! 先生! 娘の指が動きました!」
「レイさん、しっかりしろ! レイさんが死んだら俺も死ぬから死ぬな! レイさん! レイさん! レイさん! このまま生きろ! 龍神王様! 俺が代わりに死ぬからレイさんはやめてくれ!」
命の恩人ユミトがレイの手を握り締めて大泣きしている。
二人は親友らしいけど、親友という響き以上の何かがありそう。
龍神王という名前は知っているというか、ふっと思い出した。
大国煌国の崇める神で、私や親が信じている竜王様の親戚。
なんだか急に歌いたくなって、つい歌ったけど、あまりにも醜い声と喉の灼熱感に絶望して、私は膝をついて体を丸めた。
命の恩人を助けてと、祈りの歌も歌えないなんて……。
「心音が戻りました! 脈もある。今日が峠かもしれなくて、今こうなら、娘さんは元気になるかもしれません」
それなら良かったと、私は再び気絶。なにせ、あまりにも喉が痛くて。
すると、夢を見た。
異国服姿のとても美しい天使が、私に微笑みかけて「桜、桜、舞い散る桜」と歌ってくれる夢。
目を覚ましたらまた布団の中で、顔を横に向けたらレイが隣にいた。
部屋に連れ戻すよりも、シャウを並べた方が楽だったのだろう。
天井へ向けられているレイの横顔は窓から注ぐ光に照らされているが青白く、あまり生気がない。
彼女の隣に座る中年男性と目が合い、エルの「起きたのね」という声がした。
「……ん」
レイの長くも短くもないまつ毛が震えて、ゆっくりとまぶたが上がる。
彼女は親に名前を呼ばれると、うるさいなぁ、まだ朝の鐘は鳴ってないし、鶏の声もしないから、もう少し寝るとこちらを向いて横になった。
「んにゃ……。でもお腹が減ったな……。ん? 誰?」
パチッと目を開いたレイは、私を見据えて、瞬きを繰り返した。
「助けてくれてありがとう……。ア……」
「人魚姫! そうだ、人魚姫が溺れていたんだ。……眠い……」
レイは白目を剥いて気を失った。
こうして、記憶が中途半端な私は命の恩人達とその家族にお世話になることになり、人魚姫というあだ名をつけられた。
☆
私よりも重症だったけど、みるみる回復したレイは先に退院して、全身状態はもう入院する程でもないけど、喉は重症で身元不明者の私はまだ入院中。
ユミトとカナエ以外の兵官——この国の警務官のこと——が二人と来て、私にあれこれ質問をしたけど、答えられる事は少なかった。
覚えていないのに質問攻めされると疲れるし、頭も痛くなってくる。
同席していたレイが「お兄さん、辛そうだから今日は終わり」と口にしたので、このネビーという兵官がレイの兄だと知る。
「言われなくても顔色が悪化しているからそうする」
「ウィオラさんが慰問演奏してくれているんでしょう? アリアさんにも聴かせてあげたい」
そうしようとなり、レイに寄り添われながら移動。
ウィオラはレイの義理の姉で、兵官ネビーの奥さんだと説明された。
歩いていたら徐々に聞き覚えのある楽器の音がして、鳥肌が立つくらい綺麗な音色で胸がいっぱいになる演奏をしているので、自然と足がはやくなる。
「……キ」
今、私は誰の名前を呼ぼうとしたのだろうか。
一瞬、一つ結びの凛々しい青年の幻が見えたけど、広間にいて琴を演奏をしているのは、見知らぬ中年女性だった。
後ろに三人、若い女性が並んで座っており、一人だけげっそりしていて、顔色も悪い。
彼女は大丈夫なのだろうか。
演奏が終わり、その顔色の悪い女性と目が合う。
すると彼女は目を見開いて、よろよろしながら立ち上がり、私達の方へ近寄ってきた。
彼女が倒れるのではないかと心配になり、駆け寄って支えようと手を伸ばす。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
彼女があまりにもしんどそうなので、涙が溢れてきて止まらない。
他人のことをこんなに心配出来る私は、多分悪い人間や犯罪者ではなかっただろう。
「お気遣いありがとうございます。あの、親切なあなたのお名前は? 私はミズキと申します」
「アリアよ。初めまして。さっき演奏していたウィオラさんの姪に助けてもらったの。ウィオラさんって人の後ろにいたから関係者よね? レイさんにお世話になっています」
「……。病み上がりでして。失礼します」
彼女は私が掴んだ両手を軽く動かして、私から離れてそのまま遠ざかっていった。
これから数日後に私は退院し、レイの実家で暮らすことになり彼女と再会。
ミズキ・ムーシクス。
叔母ウィオラの弟子の一人で、彼女は血が近い親戚。
他の二人の弟子、カナヲとマリサも親切だけど、ミズキはもっと親身で、なんでも教えてくれるし、不器用な私の代わりに、毎朝慣れない着物を着付けて、髪も結ってくれる。
化粧は良いと断ると「いつユミトさんが来るか分からないですので、いつでも戦闘体制になっておかないと」と、揶揄われる。
ミズキに恋慕っているように見えますよと指摘されて、彼と会うとドキドキする感覚はそうなのかもしれないと自覚。
応援しますよと言ってくれたミズキに、いつも親切な彼女に、なぜかどうしてもなんでもは話したくない。
ミズキには言わなかったけど、誰にも言わないけど、多分私はこれが初恋ではない。
なにせ、ユミトと会うたびにドキドキして、その夜に必ず一つ結びの凛々しい青年の姿を夢に見るからだ。
顔はぼやけて見えず、手を伸ばして走って追いかけても、彼はゆっくり歩いているのに、みるみる小さくなってしまうという夢。
レオ家は大家族で賑やかで明るく楽しいし、ミズキ以外も全員親切なので、私はこのまま身元不明、記憶無しの人魚姫アリアで構わない。
しかし、時折思い出さないとという、とてつもない不安に襲われるし、連日悪夢にうなされる。
どんな嫌な夢を見ているのかは、起きたら忘れているので思い出せない。
ただ、一つ結びの青年の夢だけは、目が覚めた時も覚えていて、夜明けに私はいつも咽び泣く。
なので、私は命の恩人への恋を大事にしたり、育むつもりはない。
助けられてうっかりしたようだけど、こんなに泣く程恋しい人以外と結ばれるなんてあり得ない。
ユミトと親しくなるみたいな事を考えると、心が引き裂かれて、灼熱の喉の痛みよりも余程苦しくなる。
なので、どんなに頭が痛くなろうと、吐こうと、悪夢にうなされて食欲が落ちようと、私はいつか記憶を取り戻す。
元気になり、この国のことを学び、生活基盤を整えたら、何か辛いことを忘却の彼方へ追いやった自分を奮起させて、思い出した記憶を辿って彼を探し出してみせる。
私がこんなに大切なら、あらゆることを忘れたのに大切だったという想いだけは強固に残っているから、きっと彼も私を探してくれているはず。
私には予感がある。
彼とはいつかきっと、再会出来る。
だから私は自分の心を取り巻く絶望的な感覚にも、恐ろしくて嫌な夢にも、決して負けたりしない。
☆ ★
次は、絶望ノ章です




