十四
これはシン・ナガエのお屋敷に、ユリアが初めて来訪した日のこと。
ユリアの人生は、趣味会で知り合ったマリを心配し、婚約者と共にこのお屋敷へ足を踏み入れた時に、かなり変化した。
★
シン・ナガエは庭で愉快そうに笑う兄妹から視線を背けた。
街中で見かける仲の良い家族もこういう雰囲気である。
彼はその場にいるのが辛くなり、自室へ行き、机に向かって筆記帳を開き、衝動に任せて仲良し家族が強盗に襲われて若い娘が強姦される、という話を書き始めて途中で手を止めた。
若くて美しい下街お嬢さん、という設定で書き出したものだから、マリの姿がチラついて、自分が作り出した想像のお嬢さんに酷い扱いをしたくなくなったので。
「んー……」
両手で髪をぐちゃぐちゃにすると、シンはそのまま後ろに倒れて天井を見上げた。
元旅館のこの屋敷の中で、この部屋はどのような役割を果たしていたのか知らないが、天井には色褪せた絵が並んでいる。
色紙を並べたように飾られている天井画は龍神王説法を描いたようなもの。
「神など居ないと思っているのに、この部屋を選んだ俺はバカだな……」
加護があると無意識に信じてこの部屋を選んだのだろうかと自問自答。
もう何年も長い時間を過ごしている自分の部屋なのに無関心だった。
「……」
「シンさーん」
この声はテオだ、とシンは横を向いて体を丸めて無視した。
明るい性格の美形の火消しは目に毒。
火消しや下街のことや一閃兵官の情報が欲しいから我慢していたけれど、虚無感が強い今は会いたくないどころか話したくない。
「大丈夫ですか!」
スパンッと障子が開いたのでシンは慌てて起きて振り返った。
「た、倒れていたんですか!」
「い——……」
いや、と告げる前にテオはシンに駆け寄ってしゃがんで彼の手を掴んだ。
掴まれてから、執筆するのに不自由だからと左手を出していたとハッとする。
「体温も脈も正常……。おお、袖から出ていないから左手は無いのかと思っていたらあったんですね」
「さ、触るな!」
シンは慌ててテオの手から逃れようとしたけれど、彼の力では難しかった。
火消しという一族は生来力が強めであり、シンは逆に生来左腕左手の力が弱い。
「あっ、ごめん。接触で痛むのか。悪かった。それにしては布か何かで保護していないんだな。皮膚病ではなさそうだけど」
テオは彼としてはそんなに力を入れていなかったが、さらに力を緩めてシンの左手を持ち上げた。
これまで受けた罵倒や蔑み、怯えによる拒絶などではなく、物珍しそうにしているだけのテオに、彼は面食らって言葉を行方不明にさせた。マリと似ていると。
「……」
「これはまぁ、隠すか。皆が皆、龍神王様の爪の形だーって言うてくれる訳ではないからな。人と違くて生きにくい人は多い」
「……他にもいるのか?」
「四本指でこんなに細い手は知らないけど、短い尻尾が生えていたとか、指が六本や、口の真ん中が少し裂けているとかはまぁ。それで捨てる親が居るから火消しが拾う」
「……拾ってどうするんだ?」
「火消しが拾うんだから育てるに決まっているだろう。病気で子が育たなかった家族が欲しがるから養子にする。火消し家族じゃないこともあるけど概ね俺らの家族になる。火消しって大体頭が悪いから補佐官候補として育てるんだ」
「……補佐官?」
「一部の火消しの肩書きでもあるけど、防所で働いてくれる役人のこと。これは動くのか? 外だと片手しか使わないから支障があるけど家の中では大丈夫か?」
「……」
以前のシンだったら、触るなと叫んだ後にテオを突き飛ばして逃げていただろう。
しかし、今、彼は目の前にいるテオの瞳がマリと似たような輝きであると気がついている。
この瞳の光は慈しみや優しさ、心配と呼ぶ。
偽善者で詐欺師だと疑う気持ちがイマイチ湧いてこない。
「何にそんなに驚いているんだ?」
「……。気味が悪い、妖や鬼だと言わなかったから……」
テオは顔をしかめて口をへの字にした。
「ここで闘病生活って嘘か? 親にここに一人で住んでいろって言われているのか? さっき、捨てる親がいるって言うた時に恨めしそうな顔をした」
「……だったらなんだ」
「殺す親もいるからここまで大きく育って良かったな。親っていうのは覚悟がなくても、他人に情を抱けなくてもなれる。なれちまう。不運だからロクデナシの親に生まれて、幸運だからこうして育った。本当の家族は自分で作ろうぜ。俺も協力する」
屈託ない笑顔を向けられたシンはぼんやりとテオを見つめた。
「……」
「この手を見られたらどうしようっていう心労で疲れたってところか。にしても汚い部屋だな」
「汚くない。掃除している」
放っておけと言うシンを無視するアザミとマリが乗り込んで掃除しているだけである。
今のところ、その頻度は二日に一度だ。
「これで?」
「散らかっているだけだ。布団も干している」
布団を干しているのもアザミとマリである。
二人が放置したら、この部屋の畳には万年床が生成される。
「小説家って聞いているけど、俺はあまり読書家じゃないからシンやナガエって名前は知ら……おお、良さげな題名の本を持っているんだな。緊縛女学校講師って既にエロい」
「それならそっちに女学校講師緊縛っていう対本もある。攻められるのと攻めるのどちらが好みだ? この二冊はその違いだ」
「そんなの攻める方に決まっているだろう。うおっ。春画付き。これ、花街本じゃねぇか」
資料を勝手に読むな、と思いつつシンはこれで火消しの夜話を聞けるなと考えて余計なことは言わず。
攻める方に決まっているという台詞で、あの背が高めで凛としているユリアを攻めるのかと若干妄想。
勇ましい凛々とした剣術小町は攻められるとどうなるのかと想像しようとして、手を繋ごうとしただけで突き飛ばされて骨折した男だとテオの左手を凝視。
手を折られてもまだ婚約者って、そのうちこの男はあの女に縛られるかもしれない。シンはそんな失礼なことを考え始めた。
「花街本って呼び方もあるんだな。どんな分野も参考資料になるから編集に持ってきてもらった。この手だからあまり外に出たくなくて、色々な人間について、わりと本から知識を得ている」
「緊縛が先にくると女が縛って、後にくる方は女を縛る本ってことか。エロいどころかどエロい春画だな」
「絵があれば充分か?」
「いや、内容も気になるけど人前で読むもんじゃねぇだろう」
「部屋なら沢山あるから一人で読んできて良いぞ。他にもあるから選んで持っていけ」
シンのこの提案は、戻ってきたところで初体験はいつだとか、火消しだとその年齢は平均かなどなどあれこれ質問することが目的。
「他にも?」
「有名古典から玄人向けの古典、最近流行りの本に艶本までそれなりにある。見ての通りだ」
シンの部屋は本棚が複数あって本がギッシリ並んでいるだけではなくて、いくつもの本の山がある。
「……花街本で女学生ものとかある?」
あまり明るくない部屋なので実際の顔色は分からないが、テオは明らかに照れ顔を浮かべたので恐らく顔も赤いだろう。
女に受ける作品に必要なのは色男なので、美形はこういう照れ顔をするのだなと観察。
「現実的なものか? 女学生という設定なだけのエロい女がエロいことをしてくれたり、されたりするものではなくて、本物の女学生っぽい人物が出てくるもの」
「……そりゃあ、まぁ。うん」
「強姦されるものではなく?」
「そりゃあそうだ。当たり前だ。強姦魔は俺ら火消しや兵官が捕まえて斬首だ斬首。そんな本は破く」
自分の作品のいくつかは凖強姦ものなので破られそうだな、とシンは自分の作品は隠すことにした。
「いや待った。女学生ものは生々しいからやめておく。ユリアの顔を直視出来なくなる」
直視出来なくなったテオを観察したら良い資料になりそう。
そう考えたシンは先日書き上げたまだ未完成の短編が書いてある筆記帳をテオに差し出した。
「作家知人から借りた。仮題は雨宿りで濡れる。そこそこ売れている人の未発表作だから良ければ感想を知りたい。まだ改訂したいらしい。短いから帰る前までに読み終わるだろう。花街本だ」
「いやぁ、今読みたい訳では無いけど……父上に発見されるたびに捨てられるからありがたく読んで帰る!」
母親ではなくて? と問いかける前にテオは「隣の部屋を借りる」と出て行った。
★
部屋に戻ってきたテオは「雨宿りで濡れる」を「これはエロ本の皮を被った悲恋物で辛くて抜けない」と評してメソメソ泣いた。
「不幸話は現実だけで充分だ。創作話でまで病人を殺すなよ。奇跡的に回復して幸せになりましただろう!」
「あー……。作者に伝えておく」
「悲恋物だったからっていうのもあるけど、綺麗なエロだから抜けない。しかも女学生は避けてくれって言ったのに女学生じゃないか!」
「つい」
「ついってなんだ」
普通のエロ本を貸してくれと言われて、自身の短編を読んで泣かれたことに動揺していたシンは、エロ本ではない最近流行っているという、アザミが買ってきた連続小説を貸してしまった。
結果、テオは「エロ本じゃないけど面白い。長くて読み終わらない」と本を借りていき、続と書いてあると続きを求めて再来訪。
このようにして、シンに人生初の友人が出来た。
テオは来訪するたびに、シンが聞いてもいない婚約者話をして、婚約者を自慢し、褒めて、惚気るので、彼はうんざりしている。
しかし、お嬢様受けする本も依頼されているシンにとって、本物のお嬢様と交流する、アザミ曰く女性に人気の火消しは、とても貴重な資料なので、きちんと耳を傾けている。
「シンってさ。小説家って聞いたけど、売り出し前の小説家なんだろう? 写本とかで小遣い稼ぎをしつつ、写本すると本を読むから勉強になる。アザミさんがそんなことを言っていた」
「まぁな」
こんな胸糞悪いエロ本は参考資料や勉強にならないから捨てろと、先程テオが投げたものが、シンの処女作であり、彼はかなり稼いでいるが何も言わず。
「なぁ、なぁ。ユリアの事を書いたらきっと面白いぜ。ユリアは街でそこそこ人気者。剣術小町さんや百合の君って呼ばれてるんだ」
その情報をシンはマリから既に入手済みで、卿家で裁判官の親がいるとなると許可取りが面倒だということで、編集からこの素材はボツと言い渡されている。
シンとしても、番隊副隊長や裁判官に目をつけられたくないのでそれに賛同した。
「人気者について書いたら、興味本意で買ってくれる人がいて、そこそこ売れそうだけど見本にしたら誰のことかすぐに分かる。ユリアさんやご両親に許可を得ないとならない」
「書いてみてくれよ。売り出し前のものを読ませられないのは当然だけどさ、俺、シンの書いた話を読んでみたい。だから、俺の為に書いてくれ」
「つまり……君の為に婚約者と自分が絡むエロ本を書けってことか?」
「違ぇよ! 確かにここに来て借りるのはそっち系が多いけど、俺は普通の本も読んでいるだろう!」
「冗談だ。家族受けも良いように書けば咎められることはないだろう」
こうして、シンは生まれて初めて出来た友人の為に、一作の小説を生み出した。
題名は「街で噂の剣術小町」である。
男性が主役の活劇物は多々あるけれど、女性が主役でさらにお嬢様で剣術の達人は珍しい。
書きかけのこの作品を読んだアザミは、シンの文章力もあるし、実話が下地なので所詮は創作とは言われない、絶対にウケると上司へ持っていった。
一度はボツにした素材だけど、今は以前と異なり当事者達と交流があるので交渉、相談は可能だと、アザミはそう推した。
問題は本人と家族の許可だったが、この内容だと家の名誉になるのでとあっさり了承を得られた。
本格的に出版となると、話を増やして、会議を重ねて改定をする必要があるので、未編集・未改定の初稿だけ依頼主のテオに贈られることに。
「これさ、ユリアと読んでええ?」
「本来は捨てる物だから好きにしろ」
「これさ、ユリアが俺に惚れたのはこうってシンに教えたからこういう内容?」
「まさか。俺は剣術小町と殆ど喋っていない。創作だ」
剣術小町ユリア・ルーベルが幼馴染テオに惚れた理由を、観察眼も人物分析も得意なシンは、的確に予想しており、テオから本を借りて読了したユリアは照れて彼に返さず。
結果、その本はユリアの母親のうっかりで、彼女の友人が働く皇居へ行ってしまった。
友人へ送る荷物に、間違えて混ぜてしまったのである。
受け取った友人は、リルさんがお勧めしてくれた本としてそれを読み、彼女の主が読みたいというので貸した。
友人の娘を見本にした本ということなんて知らないし、内容がとても秀逸で、面白かったので。
紆余曲折を経て、誰もが全く予想していない事が起こり、煌護省より、ユリアにとある任官命令が出た。
役職名、剣術小町。
業務、見回り。
通常、女性兵官は見回り業務を行わないが、生活しているだけて見回り兵官以上の功績を積み上げているようなので、以後、成果報酬を与えるという内容。
一方、家族親戚がユリアの身の安全を考慮して、護衛官などの危険の伴う業務以外で女性兵官にしようとしていたが、その過程の資料により、上層部が「適性無し。通常の女性兵官には任官不可」という評価が下された。
こういう事がなくても、活動範囲の広がったユリアは、女学校の通学路や生活圏内から活躍の場を増やし、任官命令が出る前からその名を徐々に広めていたが、シン・ナガエが「シンイチ」という名前で世の中に発表した三作目の作品が、前二作品と共に爆発的に流行ったので、剣術小町ユリアの名前もうんと広がった。
彼女の祖父、父、叔父は「向いていないから、前例がある見回り官に出来ないか」と画策してはいたが、それは前例のある見回り官で、飾り物のようなもの。
此度、南三区六番地、ユリア・ルーベルに用意された見回り官「剣術小町」には、まだ本人達には教えられていないが、前例とは異なり様々な試験的業務が計画されている。
能力がある使える人材は目一杯使うという、皇居官吏に発見されたばかりか、その上の皇族にまで「使えそう」と見つかったからだ。
こうして、友人マリの婚約者と自分の婚約者が親しくなった結果、ユリアは非常に多忙な人生を歩むことになった。
☆
この国は私にとって少々生きづらい。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。良妻賢母を目指しましょう。
これが私のような、それなりの家に生まれたいわゆるお嬢さんやお嬢様が通う国立女学校の目標。
このような文章で始まる、標準から外れたお嬢様が、自らの能力と努力と運で人生を切り拓く活劇小説は、様々な特殊なお嬢様に勇気を与えることになる。
街で噂の剣術小町の作者シンの人生と同じく、それはまた別の物語——……。
次は、忘却の章です




