参
古典「万年桜」は煌国建国くらいに作られた非常に古い文学作品である。
様々な分野で題材とされ、陽舞妓一座、輝き屋では看板公演の一つとなっている。
万年桜は大きく分類すると、万年桜の精が主役の脚本、青年が主役の脚本に分かれる。
これから半年間続く、久々の古典「万年桜」の公演はアサヴを主役に据えるために、青年が主役の脚本を採用している。
代々続く脚本、音楽、演出を守りつつ、そこにアサヴの独自性や新しい舞台装置などを加えた作品。
俺は次の次の公演から、アサヴの相手役である万年桜の精役を務める。
今夜と明後日の公演でのその役は、幻の芸妓・遊霞に奪われた。
今夜、彼女は前回同様時の人になるだろう。
そして、なぜかまだ販売していない明後日の公演の鑑賞券は、奪い合いの競り合いになること必至。
遊霞ことウィオラ・ムーシクスはお金が欲しいらしい。
あっさり役を奪われて悔しいのに、今回の彼女の出演は帰省ついでの出稼ぎという理由だから、はらわた煮えくりかえる。
しかし、舞台が始まると「敵わないな……」と素直に認めてしまい、物語に没入してしまう。
昨夜耳にした、隣にいる歌姫アリアの歌声に劣らない美声に、豊かな表情や抑揚、可憐な舞。
遊霞はいつだって完璧だ。
舞台の上にいるのは人間の女性ではなくて、人ですらなくて、本物の桜の精だと感じる者は俺だけではないだろう。
俺は彼女彼女に手を引かれて舞台へ上がった。それは五つの時のことだったけれど、当時の他の記憶は全く覚えていないけど、あの公演のことは今でも鮮明だ。
気になってチラッと見たら、隣の席にいる歌姫アリアは半面をしていても分かる、鬼のような形相だった。
歯を剥き出しにして、その歯を食いしばり、今にも唸りそう。
主役のアサヴの存在感が、万年桜の精の登場であっさり食われて、これでは万年桜が主役になると予感した場面でこれ。
「ねぇ、ちょっと。彼女の名前は?」
いきなり手を掴まれて、その手がかなり激しく震えているので動揺。
「遊霞。気まぐれで、年に数回、それも不定期にしか舞台にあがらない芸者です」
「……なにそれ」
「彼女は舞台の上を占拠するよりも、拍手喝采を浴びるよりも、恋を選びました」
厳密には異なるけど、ある意味では正解なので、こう教える。
見た目と声頼りの陳腐な役者のくせに、鼻だけはやたら高い自惚れ女性なのに、このように激しく嫉妬出来る感覚があるのだなと、ほんの少しばかり感心。
「恋を選んだ?」
「ええ。恋をして、芸妓人生よりも内助の功を選びました」
「こんなに、こんなに心を震えさせるのに……恋なんかで……」
「集中したいので話しかけないで下さい」
俺は扇子を開いて歌姫アリアに対する壁にした。
物語に没入しそうになるけれど、俺の目的はウィオラの動きや表情に歌などの全てを取り込んで、自分の芸に昇華させること。
琴の腕だけなら鬼才ウィオラと肩を並べられると言われているから役者から若干逃げたい気持ちはあるけれど、俺はまだ二十才にもなっていない。
俺はまだまだだ。
まだ高みを目指せる。
時折、アサヴを観察しながら少しため息。
今夜のアサヴは主役の座を奪われてしまったものの、唯一無二の光は失われていない。
アサヴという怪物役者がいるので、俺は女形である。
俺は逃げた、逃げている。年が離れていて性別も異なるウィオラとなら比較されても悔しさがマシになるし周りの評価も甘くなる。
そうやってアサヴと同じ土俵に立たずに逃亡中。
せめて女形としては誰よりも輝きを放ちたいので、そのための努力を惜しんだことはない。
なのにそっちはそっちで、この怪物中の怪物ウィオラがいる。
幕間、休憩時間に歌姫アリアは俺に怒涛のように話しかけてきた。
あーだ、こーだ、質問ざんまいでうるさすぎる。
「無視しないでよ!」
返事をしないでいたら、両肩を掴まれて体の向きを変えさせられた。
「うるさいですわ、この高飛車姫。世界はあなた中心に回っていません。普段、そう感じているからこのようなんでしょうけど、違うと学べて良かったですね」
「なんでそんなに喧嘩腰なのよ」
「ご自分の胸に聞いて下さいませ」
言い合いをしていたら幕間終了。
物語の後半が始まり、緊張感が漂い、最後の場面で万年桜の精が力を使い果たして衰弱していくと、客達のすすり泣きが聞こえ始めた。
自分がアサヴを食ったと感じて、ちょこちょこ即興台詞を投下して、本来の内容とは異なる脚本で演じるウィオラは鬼。
ウィオラというか、アサヴ以外は全員鬼側。でないとこんなに台詞や演出を変えた舞台は成立しない。
おそらく、両家の総当主と話はついていて、アサヴが天狗にならないように鼻を折るためだ。
そして、さぁ、あなたならここまで来られると試して、アサヴをより高みへ引き上げようとしている。
これは、縁恋草子中に出てくる作中小説版の万年桜のオチだ。
その古典は読んでいますよね? それは当たり前ですよ、とは恐ろしい。
あんなかなりの玄人向けの古典の、作中小説のことなんて、俺くらいの本の虫でないと知る訳がない。
幼馴染のミズキは読んでいるし覚えているのにな、という輝き屋御隠居の高笑いの幻聴がする。
くわばら、くわばら。
大団円になる喜劇を観劇しにきたはずが、万年桜は奇跡の満開後に枯れてしまい、その精は亡くなってしまうという悲劇物。
幕が降りていくのに拍手は全く起こらず、客は放心している。
誰かが「ヨウ姫ー」と震える声で小さく叫んだので、そこからはヨウ姫の名前があちこちから呼ばれた。
すると幕が上がり、龍神王様の化身登場。仄暗い舞台の真ん中で、
「そなたはすっかり忘れられて朽ち果てる運命であったが、甦ることが出来るようだ。私の鱗、私の娘、幸せになりなさい」
先代当主、ご隠居の久々の登場に常連客らしき者達から「カラザ!」と歓声が上がり、拍手喝采。
パッと明るくなった舞台の上で、万年桜の精ヨウ姫が三味線を奏でながら、人になれると喜び、歌って踊り始めた。
「嘘……これ……」
へぇ、と思いながら俺は舞台上のウィオラと隣の歌姫アリアを交互に眺めた。
人が悪いウィオラは昨夜の公演で俺が観た歌姫アリアの歌と踊りを披露している。
俺と同じく、昨日一回観ただけなのに、彼女は良くここまで覚えている。それに、いつ稽古をした。今朝から夜にかけてか……。
最後の場面は伯爵と青薔薇の冠姫が抱き合ったように、アサヴとウィオラが抱き合って終了。
俺の感想だと、幸福と愛おしさに満ちた二人と、昨夜のわりと大根気味の演者達は雲泥の差。
笑顔と涙が会場内に溢れている。
「ぷっ。まさかあの遊霞が歌姫アリアに敵対心剥き出しにするとは驚きです。そのくらいは、あなたの歌声は彼女に響いたようですよ」
チラリと見たら、歌姫アリアはわなわなと震えて、額に青筋を立てているような非常に険しい表情をしていた。
「……」
アリアからの返事は無い。追撃しようとしてやめた。
俺は次の次の公演から、このウィオラの万年桜の精の幻影を背負って舞台に立たないとならない。
次の公演でもっと追い討ちをかけられるかも。
これはアサヴだけではなくて、俺へも向けられた修行の一つなのだろう。
拍手はいつまでも鳴り止まず、役者達が次々と挨拶に出てくるのに、主役状態だったウィオラは全く姿を現さない。
慌てて控室へ向かったら、舞台化粧を落として着替え終えた彼女と遭遇。
「ウィオラ姉上、お疲れ様でした」
「息子達の熱が心配なので帰ります。明後日の公演には出演しません。すみませんが失礼します」
彼女はあっという間に去ってしまった。
明日の午前中にお見舞いがてら会いに行けば良いと考えて、彼女が明後日の公演に出ないのなら俺? と思って当主探し。
当主に明後日の観劇券の販売は、予定を変えて遊霞が出ないと分かるようにするという。
「ウィオラさんは相変わらず舞台の虜になってくれない。息子さんの看病をしたい気持ちも分かるけど、微熱だぞ微熱」
「次の公演には出演しませんなんて、相変わらず自由な方ですね」
「実力や実績があれば、このくらいは許される。しっかり会議をして、道をいくつか用意しているし、持ちつ持たれつだから」
ここへ、父が歌姫アリアとその関係者らしき異国服の者達を連れて登場。
アリアが即座に「遊霞はどちら?」と質問。礼儀として、労いの言葉くらい言え。
「幻の主役は帰宅しました」
「もう? 私に会わないで帰るなんて。なぜそのくらいの気配りが出来ない訳?」
アリアが彼女の連れらしき壮年女性を睨みつけた。
「すみません。お会いしたいと聞いていませんでしたので」
畜生! という叫びが響き渡ったので視線を移動。
「また遊ばれた! 俺が主役なのに、あのように!」
舞台上では笑顔で居続けていたアサヴが怒り心頭という表情で控え室へ入室。
「悪くなかったぞ、若造」
「祖父上! あれは完全即興ではないですよね! 俺以外とは打ち合わせ済み!」
「そりゃあ、そうだ」
アサヴの祖父、輝き屋御隠居が舞台に上がったのは引退後初なので、打ち合わせしていない訳がない。
「相変わらず恐ろしい女だ。ババァで既婚者の癖に惚れそうになった。あの地味地味顔なのに絶世の美女だった」
「次の舞台に向けて練習は良いが、最近日常にも侵食しているぞ。その口の悪さを直しなさい」
「はい。未熟者ですみません」
その時、軽く大地が揺れた。軽くと言っても弱い地震ではないし短くもない。建物が崩れたり、怪我人が多発する程大きくはないというだけ。
ご隠居、当主、父などがすぐに客の安全確保の為に動いたので俺もアサヴと共についていく。
気がついたら歌姫アリアが舞台上にいて、突然高らかに歌った。
あまりにも唐突だったその美しい歌に、混乱と恐怖で騒然となっていた客達が足を止めて、次々と振り返る。
「もう揺れは止まっているわ。だから慌てなくて大丈夫。皆さん、落ち着いて下さい」
両手を握りしめて、舞台の中心でしゃがんだ歌姫アリアがニコリと微笑むと、劇場内の空気が一気に柔らかく変化した。
「私の可愛い妹達、お姉様はここよ。泣くならいらっしゃい」
叫び声ではないのに、そこまで大きくない声なのに、彼女の言葉はよく通った。
舞台の上でしゃがみ、両腕を広げたアリアの慈しみに溢れた笑顔は意外。
異国のある国では人の形をした神やその使者を崇めているという。
背中に白鳩のような羽が生えているのは「天使」と呼ばれており、先日美術展で天使の絵画を鑑賞したけれど、今のアリアはまさにそれ。
何人もの異国人の女の子達が舞台へ向かっていき、アリアの周りに集まった。
美貌を有さないウィオラは溢れんばかりの才能全てで天女のようになれるけど、このアリアは「美」と「声」いう才能のみでそれを易々とやり遂げる。
彼女がアサヴのように本気で花柳界で生きていく覚悟がないのが残念。
あんなおままごとのような三流歌劇団で芸者人生が終わるとは、俺からすると憐れ。
ああ、腹が立つ。
俺が喉から手が出る程欲しいあの美声や美貌があるというのに……。
ああ、腹が立つ。
芸よりも恋を選び、気まぐれで金稼ぎする為だけに舞台に上がるというのに、あの圧巻の存在感と主役の煌めきを放つ遊霞……。
ああ、腹が立つ。
なぜ俺は輝き屋の歴史の中で最も偉大な役者になるだろうと言われるアサヴと同じ時代、さらに同年代に生まれてしまったのだろう……。
「……」
「……へぇ。冷静だな」と俺の隣でアサヴが呟いた。
「一度座らせて少しずつ外へ促す方が安全だ。アサヴ」
「祖父上、言われなくても。行こうぜミズキ。あそこは俺達のものだ。余所者に取られてたまるか」
「ええ……」
この日、俺は初めて歌姫アリアと同じ舞台に立った。
俺の心をときめかすことはないけど勿体無い逸材。アサヴがアリアをそう評して、口喧嘩の果てに意気投合した。
その日から、歌姫アリアはアサヴの家に居候。女同士なのでと、俺は世話係に指名された。