十一
お喋り下手の私が知る真実よりも、テオの主観とお喋りが勝り、私は手を繋がれて照れて軽く彼を突き飛ばしてしまい、それで彼は骨折ということになった。
木刀という単語で「何をしようとしたんですか?」と父が激怒して、叔父ジンも怒ったので、母が叔父ネビーならもっと酷い怒りを爆発させると「許可をして、手を繋いで照れたことにしましょう」と言うので。
叔父ネビーに怯えたテオも賛同。
なのでマリへの手紙にも、婚約者の手の痛みがひいてから会いに行くと綴った。
それまでの期間に、私はフユツキ家を訪問してみたり、叔母レイの職場に行ってマリの様子を確認。
剣術稽古で会うユミトにもマリは元気なのか確認。
教育係の祖父に、これでは単に友人として気にかけているだけで、支援に必要な情報が何もないと怒られた。
フユツキ家の借金に違法性はないのか、この縁談に不穏な気配はないのか、相手の婚約者にどのような不安材料があるのか、二人を破談させるのと後押しするのではどちらが良いのか。
そういうことを考えなさいと教わり反省。
アリアのことも、こんなに時間が経つのに心配で会いに行って様子を見ている、という内容は友人として気にかけているだけ以下略と怒られた。
「ネビー君は彼女が誰かすぐ推測して、あっという間に裏付けを取り、おおよその支援方法を考えて実行したぞ。昔はユリアみたいな腕だけの鈍臭だったのに。いやぁ、俺の教育の賜物だ」
祖父の叔父——祖父から見たら義理の息子——自慢が始まると長いので逃亡。
そうしようとしたらまた怒られてお説教された。
祖父にお説教されるのは大体レイスなのに、見習いになったら「甥姪の関係で、同じ道を選ぶなら、ずっと比較されるから聞きなさい」とこんな感じ。
長男だから、跡継ぎだからと期待を背負うレイスは大変だと傍観していたことを反省。
兄はいつも、このように期待されて、背中を押されて、気が滅入って最近反抗期気味だったり、引きこもり気味なのだろう。
そんな日々だったけど、ついにマリに会える日がやってきた。
マリと婚約したナガエ財閥の四男シンがどのような人物なのか、今のところ全然分からない。
叔母レイは「知っているけどお兄さんが修行の為にあっさり教えるなって指示しているから教えません」だし、ユミトも「ネビーさんが修行の為に以下略」なので、自分なりに調査したけど、家が分かっただけ。
叔母やユミトが暮らす、七地蔵竹林長屋のご近所で幽霊屋敷と呼ばれているところなのは把握していたので、探しに行ったらすぐに家を発見。
しかし、聞き込みをしても「あそこは無人でしょう?」という答えばかり。
マリは手紙に返事をくれたけど、優しくしていただいていますしか書いていなかった。
そういう感じで今日を迎えたので、予備知識がないままシン・ナガエに会うことになる。
両親とテオと共に幽霊屋敷へ到着。
幽霊屋敷と言っても玄関までの道はわりと綺麗で、石畳なんて掃いて拭いたように美しい。
「なぁユリアさん。シンって人は、こんなに大きな家に一人で住んでいるんですか?」
父の前なのでテオの言葉遣いはいつもより丁寧だ。
「そうらしいです」
シン・ナガエは調査資料によれば使用人と暮らしているのに、ユミトによれば一人暮らし。
この二年くらいは押しかけ人のアザミという親切な人が同居していたそうだ。
アザミは現在、シンに追い出されて七地蔵竹林長屋暮らしだけど、夜寝る時と仕事以外はこの屋敷にいるという。
呼び鐘を鳴らすと、実に不穏な濁った音。夜に肝試しに来たら嫌な感じが増しそう。
そうやって楽しみに来る人がいるから、ここは幽霊屋敷なんて呼ばれているのだろう。
出迎えてくれたのはアザミとマリで、私は元気そうで大きな変化のない彼女を見て、良かったと泣きそうになった。
すると父に「ネビーさんから伝言で、人の内面は見かけからでは分かりません。元気そうだと感激するのはやめなさい」と耳打ちされた。
父は私に何も言わなかったというように、代表者としてアザミとマリに挨拶をして、家族とテオを紹介。
娘の婚約者と言いたくないようで、テオのことは「息子の幼馴染の火消しさんです」である。
「息子の幼馴染の火消しさんで、娘の婚約者さんです」と、母が追加説明。
父は渋々という様子でそうですと口にして、母を少し睨んだけど、母はすまし顔をしている。
仲良し夫婦なのに、私の縁談関係では若干不仲になる。
居間に通してもらい、アザミとマリにもてなされたけど、シン・ナガエは現れない。
父がそれとなく体調不漁ですか? と尋ねた。
「先生は仕事中で集中しているのかと。声を掛けてきます」
「アザミさん、それなら私が行きます。皆さん、失礼します」
シン・ナガエは働いているの? と首を傾げる。
病弱で看護嫁をあてがわれただから、療養していて無職だと思い込んでいた。
「よければ日常をご確認下さい。皆さん、マリさんを心配されていらしたのですよね。多忙なマリさんのご家族にも事実をお伝えして欲しいです」
小太りで愛嬌のある外見のアザミが私達を手招きしたのでついていく。
廊下の角で止まり、覗き見する形でマリの後ろ姿を拝見。彼女の前は障子だ。
「シンさん! お客様がいらっしゃいました。一緒に昼食へ行きますよ」
アザミがマリに近寄って「多分執筆中です」と静止したど、彼女は障子を開いた。
ここからでは室内はほぼ見えないが、本が散乱しているのと、布団が敷いてあるのは確認出来る。
マリが何度声を掛けても返事はない。
「シンさん。お客様がいらっしゃいました。一緒に昼食へ行きますよ」
マリは懐から手拭いを出して丸めて、室内に投げつけた。彼女はこんなこともするのか。意外。
「不法侵入者か! だ……」
叫び声はすぐに消えた。
「今朝のお返しです。そのように腹が立つものですから、二度と物を投げ……」
投げ返された丸まった手拭いがマリの顔に直撃。
全然優しくされてない! と憤ったけど、先に戦いを仕掛けたのは彼女だ。
いや、今朝の仕返しなら先に手を出したのはシン・ナガエだ。手じゃなくて物みたいだけど。
マリに怪我はなさそうだったけど、本当にないか心配になってくる。
「本当に君はお嬢様ではなくて下街お嬢さんだな! この詐欺師!」
「詐欺師って、私は自らお嬢様だとは名乗っていません!」
マリが再度手拭いを投げ返した。
「何が華族の血も混じっているお姫様だ!」
「それは事実なので詐欺ではありません!」
「いきなり物を投げるなんてどういう了見だ」
「何度も声を掛けました。部屋に入るなと言われていますので、呼んでも無駄なら、怪我をしない手拭いかなぁと。今朝の仕返しという意味もあります」
この様子だと、マリは一方的に何かされてはいなそう。
言いたいことを言えるということは、特にそれがこのような軽口喧嘩ということは、多少なりとも気心知れている。
相手を信用していないとこういう言い合いは出来ない。
「仕返しって、むしろ感謝しろ」
「それはもちろんしています。シンさん、昼食はレイさんが働く鶴屋さんだそうです。ユリアさんのお父上が予約をしてくれていました」
「昼頃に来るけど昼食の準備は要らないという手紙だったから予想通りだな」
「お支度出来ましたら居間へお願いします」
私達の位置からはシン・ナガエの姿は見えず、声しか聞こえないけど、悪い人ではなさそうな気配。
「仲良しそうです」
思ったよりもそうだったので、テオにコソッと話しかけた。
「そうだ——……」
「俺は行かない」という、強めの声がしたので、テオが唇を結んだ。
「まぁ、なぜですか?」
「筆がのっているからだ。婚約者は具合が悪いとでも言っておけ」
筆がのるとは、何か書き物をしているということである。
「具合の悪い方を置いていったりしません」
「それなら仕事が佳境だと言え。米は余分に炊いてあるよな? 昨日言った通り、勝手に食べる」
「アザミさん。シンさんには急ぎのお仕事があるのですか?」
正座しているマリが斜め後方にいるアザミを見上げた。
「いえ、ありません。出不精と人見知りでしょう」
「シンさん、それなら思い切って行ってみましょう? レイさんの料理は気になりませんか?」
マリのこの気遣いに、優しい声に返事はない。
「きっと美味しいですよ」
少しばかりの沈黙の後にシン・ナガエからの返事があった。
「仕方が無いから行ってやる」
「居間でお待ちしていますね」
こうして、私達はコソコソ居間に戻り、後から来たマリとアザミを何食わぬ顔で迎えた。
少しして、シン・ナガエが居間に登場。
昔からよく躾られている兄やジオのようにどころかもっと丁寧に扇子を使って入室して常識的な挨拶。
しかし、その表情は能面のようで、目は死んだ魚のように濁り、暗く、背筋がぞわぞわとして冷えていった。
こんな目を、私は見たことがない。
挨拶や動きに袖の様子で分かるが、彼には左手が無いようだ。
そして、左目周囲と頬の一部に赤くてぼこぼこ盛り上がったあざがある。
恐ろしい目をしている上に、このような見たことのない容姿なので戸惑う。
「皆さんの来訪まで少々雑用を済ませておりましたが、集中すると周りが見えなくなり色々忘れてしまう性格でして。お待たせしてしまい、申し訳ありません」
では、参りましょうというシン・ナガエの声掛けで私達は外出。
シン・ナガエはアザミと何やら会話しており、これならマリと話せると近づこうとしたけど「ユリアさん、帯が」と父に声を掛けられたので立ち止まる。
「そのまま前を向いて黙って聞きなさい。返事は要りません」
つまり内緒話? とそのまま静止。
「あの彼の目は鶏冠病です。祖先に人殺しがいると発症し、あの範囲だとその業は一人ではないかと。自分はそういう話は好みませんが、わりと有名な話です」
父はそれだけ小声で告げると「帯は直りました」と大きめの声を出して私から離れ、母の隣へ。
なぜあんなことを言われたのかと悩みながら、私は道中、マリにあれこれ話しかけた。
シンが近くにいるので、酷いことをされていないかという質問は出来ないので、どういう生活なのかそれとなく確認。
マリはよく喋った。
料理会で修行しているつもりになっていたけど、あれは楽しく皆で料理をしていただけで、現実の炊事ではあまり役に立たない。
女学校での学びのおかげでゆっくり作ればそれなりに美味しいものを作れるけど、掃除、洗濯、裁縫などに追われて、慌ててしまってあまり。
献立も全然思いつかない。
区立女学校だときっと実践に即した学びがあっただろうけど、国立は我が家と同じく使用人がいるような家の娘が多いから、家事はあまり重要視されていないのだろう。
国立女学校卒業後何年かは、花嫁修行期間と言われているのはそういうこと。
「なのでレイさんが教えて下さりとても助かっています」
マリはご近所のレイがお世話している人達と共に、炊事を教わっているそうだ。
同居結納早々、色々失敗した事がその理由。
「私は必ず、シンさんに三食マリの作った食事が食べたいと言ってもらいます。必ず」
マリの目が燃えている。
彼女は「シンさん」という単語を何度も口にして、その声には心配や優しさが滲んでいるような気がするので、やはりマリは酷い扱いはされていなそう。
叔母の働く旅館、鶴屋に到着して、叔父ネビー夫婦も合流して食事会。
赤鹿に乗せてくれると約束したユミトが、私のせいで変更された日程では、仕事の都合がつかなかったので、赤鹿に乗れる叔父が勤務調整してくれた結果。
お座敷に入る時に、テオにこう囁かれた。
「いくらユリアの友人が心配だからってさ、これはシンが可哀想」
「可哀想ってなんですか?」
「何って中央裁判官と番隊副隊長の視察だぞこれ。ナガエ財閥もシンも、下手をすると社会的に首ちょんぱ」
「えっ? まさか」
「なんでまさかなんだ。それにこれって娘の友人、マリ・フユツキに何かしたら黙っていないぞっていう無言の圧力だろう。赤ん坊の頃からお世話になって可愛がられている俺でもこんなのは怖い」
テオにユリアは相変わらずぼんやりだから、女性兵官見習いを卒業出来るか心配。
私の腕なら要人護衛や用心棒として役に立つけど、その業務はおそらく私の家族親戚は許さない。
そうなると、私の女性兵官としての仕事は福祉班関係なので、私の苦手分野というのがテオの推測。
「だからさ。今回の任された二件ってこういうことなんじゃないかな。このくらいのことも出来ないならやめなさいって説得する為の布石」
「布石、ですか」
「アリアさんもマリさんも、レイさんとユミトさん関係でルーベル家、レオ家に話が舞い込んだから、二人に頼られたロイさんとネビーさんならもう色々動いている気がする」
それすら気が付いていなかった私は既に崖っぷち疑惑。祖父や叔父のお説教や、父の「命を助けることと、心や生活を助けることはまるで異なります」という言葉が蘇る。
成せばなるから頑張れよ、と励まされた。
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。
私の座右の銘なので、もちろん励む。
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