二
朝目を覚ましたユリア・ルーベルは部屋を出るとまず洗面台へ行き、顔を洗って髪の毛を朱色のリボンでまとめ上げる。
次に庭に出て、昔、親と使った鳥の巣箱の中を確認。今日はピピ鳥は来ていないと少し落胆して、次は庭の片隅に作ってある小さな小屋の前へ移動。
「おはよう」
彼女の女の子にしては少し低めの声に反応して、小屋から緑色のトカゲが現れた。
トカゲの大きさはユリアの手二つ分なので、それなりに大きい。
「エリトカゲさん。今日も元気ですね」
ユリアは近くの草をむしって、エリトカゲに差し出した。
草食のエリトカゲはそれを美味しそうにむしゃむしゃと鋭い牙で噛んでいく。
今年で十六才になるユリアがこのエリトカゲを飼い始めたのは八才の時である。
成人になれる可能性の高い八才、半元服を迎えたお祝いに両親と兄弟の五人で南西農村区にある温泉地へ行った時に拾った生き物だ。
緑色のぼこぼこした固い肌に、鋭い眼光、鋭い爪に鋭い牙を有し、首部分に扇子や襟のような部分があるのでエリトカゲと命名。
好奇心旺盛なユリアは旅館の庭で見つけたこの生物を、自分に懐いているから持ち帰って飼うとうんと泣いた。
それで親は「見た目とは違って危なくなさそうなので」と許可。
ちなみに、このエリトカゲは北東部に生息する生物ドラドラコで、この国で売ろうとした者が持ち込んで、そのうちの一匹が逃げたもの。
ユリアが飼っているのはまだ子どもで、ドラドラコは獰猛で肉食なのだが、別に肉を食べずに草食でも生きていけるし、孵化したばかりでユリアを親と思い込んでいて彼女の真似をして生きているので、本来の気性の荒さはなりを潜めている。
そんな事は、狭い世界で生きているユリアは全く知らない。
エリトカゲを撫でて満足したユリアは、部屋から持ってきた木刀を構えて素振りを開始。
しばらくすると、その隣に父親も並んで無言で同じように素振りを始めた。
すると、ユリアは無言で素振りをやめて会釈を残して撤収。
最近、娘が冷たいから話しかけようとした父親ロイは、お年頃のユリアに今日も避けられて意気消沈。
そんな事は意に介さない思春期真っ盛りのユリアは、自室に戻って着替えた。
彼女が通う国立女学校は指定の制服を着て登校する。学年により着物の色が異なり、ユリアは淡い水色だ。袴は紺色と決まっている。
今、季節は冬で年が明けたばかり。寒いので、今日も足元は毛糸の靴下にすると決定。
この靴下は何年も前に、ユリアの祖母が「あなたが大きくなるまでに手が無事か分からないので」と編んでくれたもので、伸縮性があれば予想した足の大きさと未来の孫の足の大きさが異なっても履けるだろうと工夫してくれたものでもある。
なので、この靴下はユリアのお気に入りで宝物の一つだ。
模様が複雑で可愛らしくて、友人達に褒められて羨ましがられるので尚更。
化粧をしたいお年頃だけど、華美なものは校則で禁止されているので、ユリアは薄紅だけ引いて、目尻に透明なラメを乗せた。
これは先週、親しい友人が始めた新しいお洒落である。
髪の毛を結び直して、同じ一つ結びだけど、不器用でも頑張って出来るようになった編み込みを追加。
父親似の厚めの一重まぶたに、固くて強情なまつ毛を上げることは昨年諦めたのでそのまま。
支度を終えたので、割烹着を身につけて、二階の自室から一階の台所へ移動した。
「お母様。おはようございます」
「おはようございます、ユリアさん」
「運びます」
「ユリア。そんな風に髪の毛で遊んでいないで、作るのを手伝えよ」
「お兄様。口が悪いですよ」
前掛けをして母親の朝食作りを手伝っていた双子の兄レイスに苦言を呈されたけれど、苦言を返す。
「家の中でくらい息抜き〜」
息抜きって、賢いことにあぐらをかいて学校終わりに下街に遊びに行って、卿家の跡取り息子らしからぬ言動や服装をしているくせにと言いかけて、ユリアはすまし顔でそっぽを向いた。
兄に対して跡取り息子うんたらと言うと、跡取り娘うんたらと倍返しされる。
兄は父親似で頭の回転が早くて口も回る。口喧嘩では絶対に勝てない。それは口数少なめのユリアが更に無口になった理由の一つである。
いつものようにユリアは食事の配膳を手伝って、祖母の隣に腰掛けた。
長年、持病が悪化しなかった祖母は昨年から左手がほぼ動かなくなり、足も弱くなってしまった。
なので、ユリアはその祖母が上手く食事を出来るように手伝うために、ごく自然にその席を選んでいるのだが、今のところ彼女の出番はない。
手足の不自由さという壁に何度もぶつかっているユリアの祖母は、その不自由さの中でどうすれば自分が自由に楽に過ごせるか学んで工夫しているし、仕方ないと諦めてもいるので、手助けを求めることはほぼない。
「おばあ様。本日も元気で嬉しいです」
「ええ。あなたの元服祝いまでは元気ですよ」
「まではって弱気だなぁ。元服の次は祝言ですよ祝言。祝言の次はひ孫」
「レイス。卿家の嫡男がそのような言葉遣いをするな。それにレクスが真似をする」
「それならジジイ様こそ手本を見せろって。ごちそうさまでした」
レイスは苦言を呈した祖父にヘラッとした笑みを見せると、お膳を持って居間から去った。思春期ユリアと同種の反抗期である。
「ロイ。口だけ反抗期で、お行儀良く家のことをするのは格好悪いって言うてやりなさい。父親として励まないからこうなるのですよ」
「そうだ。仕事にかまけて教育を疎かにするな」
「出世しろ出世しろって言うておいて、そういう風に言うのはどうかと思いますよ」
「いつまでも反抗的だから息子も似るんだ」
朝から親子喧嘩が始まった、とユリアは黙々と食事を続けて「ごちそうさまでした」とレイスと同じくお膳を持って居間から退室。
台所で兄と遭遇したけれど、お互い一言も話さないで洗い物を進めていく。
仲が悪いどころか双子の二人は気が合うので、阿吽の呼吸で洗い物を分担して片付けていく。
「今日からだな」
「……何が?」
「何がってジオがここで暮らすのがだよ」
「そうだっけ」
「本当は指折り数えていたくせにー」
頬をつつかれて、無言と無反応で抵抗を示した結果、レイスのからかいが悪化したので、ユリアは木刀を少し引き抜いた。
「ぼ、暴力反対!」
「お兄様。遅刻しますよ。お兄様は一区まで通学なんですから」
「親父と同じ立ち乗り馬車に乗りたくねぇんだよ」
「色本を読みたいからですよね?」
「……ユリア! 俺の部屋に勝手に入るなって言うたよな!」
「破廉恥本は捨てました」
「借り物を勝手に捨てるな!」
ふんっと鼻を鳴らしたユリアだけど、兄がいるのなら本物の色春について知っているかとか、何か家にないかと学友に頼まれて、兄の部屋を物色して本と絵を発見。
彼女は今日、それを学校へ持っていく。兄弟がいる者からそういうことを学んでいく、知識を得ていくという女学生あるあるである。
早く登校して読書が最近のユリアの日課なので、早く登校する幼馴染との待ち合わせに間に合うように身支度。
その時、カラコロカラ、カラコロカラと玄関の鐘の音がして「おはようございます。ジオです」という声が、出掛けようとしてもう玄関にいたユリアの耳に届いた。
同じく、もう家を出ようとしていたレイスが玄関扉を開く。
「おはようジオ。今日からよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「例の女の子はどんなだった?」
「少々感じの悪い美人でした。あとぼんやりです。感じの悪さはともかく、大人しそうなのでユリアと気が合う気がします」
「ジオさん。やっぱり人魚姫でした?」
「さぁ。まだ挨拶しかしてないから知りません。自分で聞いてみると良いですよ」
「明日、会いに行く予定ですのでそうします」
従兄弟のジオは自宅に同年代の女性同居人が増えることになったので、通勤も楽になることもあり、今日からこのルーベル家にお引越し。
一応理由はあるけど単に親しいレイスと楽しく暮らすのも良いという意味を持つ、たまにしている同居と変わらない。
逆にレイスがしばらくジオの家に居候することもある。
「ユリア、ジオも付き添い人にしたらどうだ? 変な男が減る。たけのこの君に男はつかないけど、周りのかわゆい学友達に虫が群がる。ジオ、彼女達を是非守ってくれ」
「付き添い人って、自分は今年から社会人で、もう学生ではありません。自分が行く方向はユリアさんとは違いますよ」
「……そうだった」
玄関にユリアとレイスの両親も集合。
従兄弟のジオは挨拶をすると、玄関に荷物を置いて「帰宅後に部屋に運びますのでこのままで。仕事に行ってまいります」とレイスと共にルーベル家を後にした。
「旦那様もそろそろ行かないといけません」
「今日は休みでウィルさんの家です」
「そうでした。レイスの推薦状の話をしに行くんですよね」
「財務省が良いからよろしく親父ってなんなんですかあの息子は。財務省なんてどこから出てきたんだか」
「聞いたけど楽そうだからなんて言うんですよ」
「会って話してくれたはずなのに、ウィルさんの激務さを知らないんでしょうか。自分も話そうとしたのに自分からは逃げるし」
ユリアは兄から「税金泥棒も、財務省内の売国者も、ネチネチ追いつめて叔父上に逮捕させたら楽しいしスッキリしそうだから」と聞いているけど、それを両親に教えることはせず。
親は知らないのか、と心の中で呟く。
検事か財務省の二択で、どちらも区民の生活を直接的に守るような仕事があるから、祖父や父や叔父の守っているルーベル家という看板に泥を塗らないように、むしろ家の名誉を増やすという考えが兄にあることもユリアは知っている。
しかし、照れ屋の兄がいつか自分で言うだろうし、勝手に言うなと怒りそうなので、まぁいいやと放置。
まぁいいや。ユリアにはわりとこのようなところがある。
「行ってまいります」
「ユリア、まだ出掛けませんから自分も付き添い人になります。学校まで送ります」
「お父様と一緒だなんて恥ずかしいことこの上ないです。おやめ下さい」
思春期だけではなくて、先日父親が朝帰りして、それがヒソヒソ自分の幼馴染達の間で噂になっているのでユリアは怒り心頭中。
ただ、その朝帰りは単に親しい親戚の家で飲んでいただけなのだけど、お年頃の乙女は色々な事に過敏だし噂を鵜呑みにしたりする。
「ユリアさん。お父さんに謝りなさい」
「言い過ぎました。おやめ下さい」
レイス同様、母親の言うことは聞く反抗期の終わりかけ。
父親のロイは「自分が何をした」と今日も今日とて心を痛めるも、思い返すと自分もこの年齢の頃は尖り気味だったので、朝からお説教するのはやめた。
こういうことを理由に妻との会話を増やそう、休みだから妻に癒してもらおうと玄関から立ち去る。
「昨日はお友達にお父さん自慢をしていたのに」
「そうでしたっけ。行ってまいります」
「お弁当を忘れていますよ」
「ありがとうございます」
こうしてユリアは出掛けて、町内会の鎮守社で幼馴染達や下の学年の子達と今日の付き添い人と合流して通学開始。
女学校が近くなるとユリアは少し注目を浴びる存在になる。引っ込み思案の彼女はそれをあまり歓迎していない。
たけのこの君は兄のふざけ悪口で、ユリアの通り名は百合の君か剣術小町さんだ。
父親似の顔に父親似の体格のユリアは、たけのこのように背が伸びて、他の女性達よりも頭一つ程度飛び出している。そして肩幅もわりと良い。
狐の目を少し大きくしたような顔立ちで、背が高くて目立った次に、その涼しげな切長気味の目とすまして凛々しい表情が視界に入ると目を奪われる男性はそれなりにいる。
さらに、隠しても胸が大きめなのでそこにも男性の視線がいきがち。そして、ユリアを見ているのは男性だけではない。
「ゆ、百合の君。贔屓です。お手紙を受け取って下さい!」
女学校に通う一定数の女学生は先輩に憧れる。男性寄りの顔立ちに、高い背やその体格に凛々とした雰囲気のユリアは後輩女学生達にわりと人気がある。
「ありがとうございます」
「あ、握手もして欲しいです」
「ええ、どうぞ」
叔父が有名人で間接的に握手をしたいのだろうとユリアは後輩の求めに応じた。
ユリアは少々天然気味なので、自分へ向けられる感情を正確に把握しきれていない。
何人かの若い男性達の視線も、叔父の贔屓くらいに考えている。
涼しげな目に凛々しめの眉。程良く日焼けした肌。顔は小さいけれど、背は他の女性達よりもにょきっと高い。おまけにいつも凛と背筋を伸ばしている。
更に彼女は珍しいことに制服の袴に木刀を帯刀していて、鞄は他の女学生達と異なり剣術道具袋で、足元は草履ではなくてこの国では珍しい異国の平靴である。
これで、六年間同じ経路で通学する彼女を覚えない者は少ない。
国立女学生はほとんど全員注目の的で、普通は「かわゆい女学生」のはずが、自分の場合はたけのこの君だとか、大きい女性や男女か、有名な叔父の姪っ子として注目されていると、ユリアは誤解している。
ただ、最近それは卑屈で自信がないから自虐的に考えてしまっているだけで、違う気もすると気がつき始めた。
なにせ——
「うわぁ、剣術小町さんですよ。昨日はこの時間には居なかったのに。やっぱり綺麗ですね」
「あっ、目が合った気がします」
「気のせいですって」
このような声を耳にするようになったからだ。
集団で登校中のユリアを見かけた男子学生達がヒソヒソ声を出しながら彼女を熱心な目で見つめる。
ユリアはとびきり美人ではなくて平凡平均くらいの容姿だ。しかし目立つ分、彼女は美人というような評価がついている。
(それなら文通お申し込みしてくれないかしら。憧れの文通お申し込みをされてみたいわ)
男性学生達が近寄ってきたので、ユリアは「ついにだわ」と胸をときめかせたけど、付き添い人に渡された手紙は彼女の幼馴染宛であった。
いつものことだけど、と心の中で落ち込むも、表情筋があまり動かない彼女の顔は実に涼しげで他人の目だと彼女の落胆は分からない。
恥ずかしくて乙女の憧れを語れない彼女が恋話に興味津々だとか、文通お申し込みをされたいということを、幼馴染達でさえ知らないし気がつかない。
兄のレイスは従兄弟のジオと結婚すると言っていた子どものユリアのままだと認識しているけれど、彼女の恋心は別人へ向いている。
「大丈夫ですか?」
目眩がしてよろめいた女性を支えたユリアは、抑揚のない声を出した。
凛々しい顔立ちで、気遣わしげな表情に、落ち着いた声でそう告げられた女性はユリアに見惚れた。
サララと風に揺れた、ユリアの一つ結びの長い髪には気が付かず、男性だと思って頬を染めている。
ユリアは「女性だと分かるように編み込みまでしたのに」とガッカリである。
未だに男性から恋文を貰えないのに、女性からはもう三回も貰っているので、こういう反応がそういう意味だということは理解している。
「あ、あの。あの。ありがとう……ございます……」
「お気をつけ下さい」
ユリアは女性の体勢を直して歩き出した。それで女性は自分を助けてくれた人が女性であると気がついて、自分はもしかしたら噂の女色家の仲間かもしれないとユリアの背中に熱視線。
違うのでそのうち違うと気がつくだろうが、一時的にでも少女を無自覚に惑わすユリアは罪な少女である。




