苦
夜明けと共に閉店だと追い出されたので、涙を流しながら眠るミズキをおぶって家路へ。
このような状態の彼を家に連れ帰って良いのか悩むけど、いっそこれを家族全員に見られて、うんと心配されると良い。
ただ、彼のアリアという寝言が気になってならなくて、心が嫌な音を奏でているし、頭の中で警鐘のような音が鳴り響いているから悩む。
そこへ、
「よお、ジオ。朝までありがとう。すぐ家に連れ帰ってくれると思っていたけど、ずっと振り回されていたな」
前から威風凛々とした歩き姿で登場したのは俺の叔父ネビーで、隣には妻ウィオラもいる。
叔父は笠を被っていて私服なので、いつものように「副隊長さん」と声をかけてくる区民はいない。
「弟子がお世話になりました」
このタイミングで現れるということは、まさかずっと見張っていたのだろうか。
その謎は向こうから教えてくれて解けた。
叔父はあくび混じりで「久しぶりに、一晩中夫婦水入らずになれたからありがとう」と口にした。
「見守ってくれていたんですね」
「さすがジオ、言葉選びが良い。レイスなら見張るなと怒りそうだ。そりゃあ大事な甥と妻の弟子は見守る」
酒臭弟子を預かると、叔父は俺の背中からミズキを引き受けて、子供相手のように前で抱えた。
「朧屋で乱痴気騒ぎをするなら、その時点で連れ帰ろうと思っていたけど、良くあの場からミズキを救い出したな。偉いぞ」
叔父にそっと頭を撫でられて、子供じゃないのにと拗ねつつも、嬉しくて口の端が緩む。
「いえ。何も出来ていません」
「一人では苦しめないと、ミズキは君に助けを求めた。止めて欲しかったんだろう。見事に成したじゃないか。胸を張れ。君に足りないものだ」
「叔父上と叔母上は、あの寒空の下、朧屋の店前でずっと待っていてくれたんですか?」
そうでないと、俺達の行方が分からなくなる。
叔父が歩き出したのでついて行くと、叔父は首を横に振り、ニッと笑って「俺は番隊副隊長だぞ。監査と言えば店に簡単に入れるし、多少自由が許されるさ」と告げた。
「私達は隣の部屋にいました」
「そうなんですか」
「ジオさん。お袖に悪戯文が入っていますよ」
「えっ?」
叔母が扇子で俺の右袖を示したので中を確認したら、確かに文が入っていた。
旧煌紙で仄かに白檀の香りがするその手紙には、雛罌粟と記されている。
「着物を預かった家族の誰かにお説教されますので、お預かりしますね」
「えっ? ああ、はい。お願い致します」
女性に手紙を貰ったことなんてないから残念でならないけど、おそらくこの文は遊楽女からのものなので、読まない方が良い。
手練手管で拐かされてお金をむしり取られるだけだ。
家に帰るのかと思ったら、この酒臭くてならない潰れたミズキを連れて帰る訳にはいかないと、俺達は海辺街を目指すことに。
観光地方面への立ち乗り馬車はもう動き始めているので、徒歩で行かなくて済む。
叔父はこのミズキは他の客の迷惑だからと、騎手に相談して操縦席の隣を確保したので、俺と叔母だけが馬車内へ。
これから観光を楽しむような旅装束の人達に囲まれて、叔母と二人で端の方に立ち、窓の外の夜明けを眺める。
美しい景色なのに、徹夜して疲れている俺の目には毒。
「あの叔母上、なぜミズキはあのように苦しんでいるのですか? 見守っていたということは、なにかご存知ですよね?」
「ミズキさんがジオさんに何か少しでも語ればお話し致します」
それきり叔母は無言で、人が大勢いるこの場所で叔母が大切な弟子について語ったりしないのは明白なので、俺も何も喋らず。
立ち乗り馬車が到着すると、叔母は垂れ衣笠を使った。叔母は地元でもちょこちょこ呼び止められるが、勤務先のオケアヌス神社のあるこの街だと、かなり声を掛けられるから、叔父と同じく顔を隠したいのだろう。
誰にも副隊長や奉巫女がいると気がつかれないままオケアヌス神社へ到着。
叔父は神殿内へ入らずに裏庭へ行き、井戸の前でわりと雑にミズキを降ろして、驚いたことに井戸水をぶっかけた。
「叔父上! そんな、可哀想です」
「起きろミズキ!」
冷たさと驚きで目を覚ましたミズキは周りを眺めてから、叔父と叔母の存在に気がついて顔を上げた。
叔父がしゃがんでミズキの頬を軽く叩く。
「ド派手な憂さ晴らしだったな。お披露目広場で稼いで飲みに行くのかと思ったら、遊楼になんて入って」
「……なぜそれを。ああ、ジオさんですか」
「この目で見ていた。ウィオラさんもだ」
「……見張っていたんですね。大事な甥のジオさんの為に、兵官の一人くらいつけるかもしれないと思っていましたが……ご本人達ですか……」
「ジオも大切だけど、特に大きな悩みのない彼は道を踏み外さない。俺達は大事な弟の為にわざわざ時間を作って一晩中監視したんだ」
トントン、と胸を拳で軽く叩かれたミズキは叔父ではなくて叔母を見据えて、涙目になった。
叔母は涙目どころか泣いていて、優しく微笑んでいる。
「ミズキさん。一人で抱えていても苦しさは増すばかりです。私はもう待てません。キジマさんに聞いていますので、ここにいる者達で共に荷物を持ちましょう?」
叔母もミズキの前にしゃがんで、彼の両手を取り、自分の手で包み込んだ。
「……。キジマさん……。手紙ですか?」
「いえ、直接です。ミズキさんの音があまりにも酷いので、ネビーさんに会いに行ってもらったのです。我が家に来る前にミズキさんと一緒だったのはキジマさんですので」
「東地区までわざわざ? それは……ありがとうございます……」
「昨夜のあれに付き合わせたのでしたら、ジオさんもご一緒でもよろしいですね」
「……はい」
何の話? と傍観していたら、叔父が俺に「ミズキは我が家に来る前に、あの百花繚乱にお世話になっていたんだ」と耳打ち。
あの百花繚乱とは、昨年約一年間を通して行われた第一属国である華国との大規模交易における、この王都区民の楽しみの一つだった歌劇団の名称。
原因不明の飛行船火災事故で、百花繚乱は壊滅。
生存者は確か……居なかった気がする。続報を読み込んでいないけど、俺が覚えている限りでは、生存者無し、死者多数という報道だ。
「すみません。友人達が亡くなっただけでろくに弾けなくなりました……。負の感情系統なら問題ありませんが……。陽舞妓の基本は喜劇です。自分を偽れないなんて、あまりにも未熟者で……」
「いいえ、ミズキさん。あなたは本物です。隠して、隠して、隠して、隠せなくなっても、知られない場所で発散。そんなに頑張らなくて良いのですよ」
ミズキが年始に寝込んでいたのは、病み上がりの体調不良ではなくて友人達を失った苦痛のせい。
もう月末近いのに、我が家でミズキの異変に気がついたのは叔父叔母とオルガだけ。確かにミズキは隠し過ぎだ。
「いえ、師匠。自分は誰よりも強くなり、芸者の高みへ昇りたいです」
「嘘おっしゃい。お祖父様の三味線を壊してしまったではないですか」
「……ラルス師匠はきっと自分に引導を渡します。もうこの手は明るい音を作れません。偽物やそれなりなら作れますが……。姉上、もう魔法の音は作れません……。作りたくありません……」
魔法の音とはなんだろう。
姉上って、ウィオラの弟は一人だけでミズキではないが、女性師匠をそう呼ぶのだろうか。いつも、ウィオラさんや師匠と呼んでいるが。
「本格的に音楽と決別するのですね。それなら帰りなさいとは言いませんので安心して下さい。ずっと彼女の側に居たいでしょうから。自分に出来ることはあまりないので、そのうち帰りますとは嘘ですよね?」
「……キジマさんはその話もしました? 口止めしたのですが」
「いいえ。あの方はミズキさんの為に何一つ語りません。けれども私はあなたの師匠ですよ。音を聞けば分かります。人の心は移ろうものですが、望む間はずっと支えますので、一人で苦しまないで下さいませ」
叔母はさらに涙を流している。
感激屋の叔母は甥や子供のちょっとした成長くらいですぐ泣くけどこれは涙の種類が異なるし、親族の結婚式くらいでしか見ない叔父の涙目には動揺。
俺だけ置いてきぼりなので、なぜ自分がここにいるのか分かりかねる。
「ジオ」
叔父が立ち上がって俺の隣へきて、背中を軽く撫でた。
「なんでしょうか」
「俺もウィオラさんも多忙でミズキに中々寄り添ってやれないだろう。彼の実家は遠い。よろしく頼む」
「知り合ってからの期間は短くても、親しい友人だと|思っていますので、もちろんそうしたいですが、自分は役に立ちますか?」
この問いかけは叔父ではなくミズキへのものなので、俺は彼を見つめた。
叔父は「昨夜誘われたから、君が求められている」と言ってくれたけど、ミズキの心は彼にしか分からない
まだ凛とした雰囲気を保っていたミズキが、ぐしゃぐしゃな顔になって、俺に返事はせずに、叔母に縋るようにうずくまった。
「行かないでって言われたんです! あの時それなら行くなって言えば……。迎えに行くって約束したのに……」
「そうなのですか……。ミズキさん、一度全て吐き出してしまいなさい」
「姉上、いくらでも待つって言ってくれたのに、彼女は全て忘れてしまいました……。君と生きると……伝えそびれて……。まずは親に会って欲しいから……帰国は後でって……熱なんか出したから……」
ミズキはそのまま、うわああああああんと子供のように泣き続けて、叔母の腕の抱きしめられ続けた。
「ミズキが我が家に来たばかりの頃、ウィオラさんが彼の音は恋をしている音だと。相手は幼馴染の親戚だろうと思っていたけど、あの事件後に音が変わって察した」
叔父にトントン、と背中を叩かれて、今の台詞とミズキの発言から考察すると、彼の想い人は百花繚乱にいたと推測可能。
それで、明け方のミズキの寝言を思い出して、思わず声に出していた。
「アリアってあの寝言……あの歌姫アリアですか! 行かないでって言われたって、恋仲だったんですか! あの歌姫と!!!」
恋人が亡くなったなんて……と呟いたら、叔父が「我が家で元気に生きている」と告げた。
「……えっ?」
「事故現場と離れすぎているし、彼女の発見時刻は飛行船の墜落時間とほとんど変わらない。でもミズキが俺達には教えてたんだ。彼女はあの歌姫アリアです。どうかお世話になった知人を隠して助けて下さいって」
「そう……なんですか……。今の話だと……知人どころか恋人ですよね……」
「ああ、考察はこれで確定。歌姫アリアの顔を知る者はミズキ以外にもいるから、彼女を表に出そうとすれば出せる。でもほら、記憶は無いし、情緒も不安定だ。所属組織は壊滅。同じ忘れたままなら、我が家関係で暮らしていく方が、遥かにマシだろう」
「記憶を取り戻したら、アリアさんはきっと喜びますよ! だってミズキが……恋人がいるところで……」
違う、というように叔父が首を横に振ったので声が小さくなっていく。
顔を上げたミズキが俺を睨み、こう叫んだ。
「声を失ったらきっと死ぬって言っていたアリアが、その声を失って、生きる目的だった宝物の子供達が大勢死んだんだぞ! 思い出したら死ぬに決まってるじゃないか!」
春イボ蛙の鳴き声のような同居人アリアの声を思い出し、あれでは誰も「歌姫アリア」とは結びつけないだろう。
舞台を観劇してあの至極の美声を知っている俺は、微塵もその可能性を考えなかった。
あの悲しい酷い声が怪我のせいだと知っているのに。
「アリアは俺のことなんて思い出さずに、真冬の海に飛び込んで死のうとしたんだ!」
この絶叫の後に、ミズキは昨夜の芝居のシャーロット役以上に苦悶に身を沈めて、地面に爪を食い込ませて、ひたすら嗚咽し続けた。
叔父が一言、俺に小さく小さく「おまけに今のアリアさんはユミトに惚れてるように見える。そりゃあミズキは潰れるさ……」と囁いた。




