八
耳にタコが出来るくらいお金で人を買うなと言われて育った俺が、まさか高級遊楼に来ることになるとは。
俺は女性と触れ合ったことなんてないし、誰かと縁があって婚約出来たら徐々に本当の意味での大人の階段と考えていたのに、目の前に絢爛な衣装に身を包む花魁が肘掛けにもたれかかって、煙管を吸って、妖艶な笑みを浮かべているなんて。
息を吸うだけで、花魁の色香に酔いそうである。
たわわな胸に目のやり場が無くて困るので、着物をしっかり合わせて欲しい。
花魁は高級遊楼の広いお座席の上座に鎮座していて、俺達はかなり離れた出入り口付近にいる。
花魁の近くには店の者数人と、彼女が育てていると思われる遊楽女らしき女の子が三人。
花魁の隣に座ってお酌されている初老の男性は、おそらく客だろう。
身なりが良くて、良いものを沢山食べてそうな肥えた体つきだけど、目や顔つきは優しく見える。
なんでこんなことになったかというと、お披露目広場での公演後、防犯の為に兵官を雇って稼いだお金の確認をしていたミズキに話しかけてきた人物がいて、それがこの花魁の遣いの者だったから。
今夜ド派手に稼いだ君に、うちのお店の花魁が興味を抱いたから来て欲しいと声を掛けられた結果が今だ。
「さて、お兄さんが夕暮れ時の霞で夕霞? そう聞いたわ」
「ご覧の通り南地区で伝説のあのゆうがすみではありません。彼女は天から降りてきて人と遊ぶ霞で女性。自分はこの通り男性です」
「女にしても、男にしても、花街でゆうがすみを名乗るのは酔狂ってものよ。名を売りたいにしても、大胆不敵過ぎる」
天から降りてきて人と遊ぶ霞は一昔前に南地区で一、二を争う一区花街で、五本の指に入った、かなり客を選んだという遊霞花魁のこと。
色も春も売らずに芸だけ売るから自分は遊女ではなく芸妓だと主張し、気に入らなければその芸すら売らなかったという非常に高飛車な花魁。
彼女はどこかの没落華族のお嬢様で、絶対に純潔のまま街を出ると決意して、それを成して花街舞台から姿を消した。
たまに舞台に上がる叔母ウィオラも、今はもういない花魁の名前を借りて客寄せする為に、遊霞を芸妓名にしている。
つまり、花魁の言い分だと叔母は酔狂で大胆不敵ということになるが、わりとその通りなので納得。
ミズキは遊霞の弟子だから師匠と同じゆうがすみを名乗り、別人だから夕方という文字を当てたのだろう。
「そうですか? 色春売らずのまま、名前の通り霞のように消えた彼女にあやかる芸者は大勢います」
「この街にもいるわ。恐れ知らずなのか、無知なのか、とてもバカな女が何人か。腕もないのに大看板を掲げて墜落。あなたもそうなのかしら? 旦那様が是非私にも見せたいと言ってくれたけど、名前が名前で躊躇ったわ」
「そう言うな朝露。今夜、この街で時の人になった彼を知らないままなんて損だぞ」
「そうですので購入して下さい。三味線、舞、歌、お芝居。それぞれ五銀貨でございます。そちらの自分の従者に心遣け二銀貨。指名料二銀貨。お披露目広場ではなくわざわざここまで来たので一銀貨。合計十銀貨で一つの項目を披露します」
「あらぁ。観劇券一枚よりも高いわねぇ。ふふっ。可愛らしいお顔なのに勝ち気。若いって向こう見ずね、旦那様」
「あっはっは。そうだな朝露。どれ、全て見せてみなさい。気に入ったら宣伝してあげよう」
ミズキは無言で会釈をして、まずは三味線。曲は何になさいますか? と問いかけた。
朝露花魁は「満華光」を望み、旦那が「それはあまりにも難しいだろう」と笑う。
しかしミズキはしれっと弾き、俺を含むこの場にいる全員が感嘆の息を吐き、聴き惚れた。
演奏が終わると旦那が大笑いで「若いのに熟年のごとし。見事だ。ここまでの弾き手はなかなかいないぞ」とミズキを褒めに褒めた。
朝露花魁も感心顔だし、他の者達も素晴らしい演奏で胸がいっぱいという様子。
「この世に生を受けたその瞬間から、琴と三味線に触れ、歌っております」
「家業は琴門か。お披露目広場では見事な芝居をしていたが」
「霞は龍神王様が天と地を創生された際に生まれたのでございます。家などありません」
スッと立ち上がったミズキは持ってきた着物を羽織って舞を披露。
これは叔母が他の神職と共に行う神楽舞だなぁ、相変わらずミズキの舞は綺麗だなぁと良い気分で眺めていたら、いつの間にか遊楽女が隣に座っていて、目の前にお膳があり、お酌しようとしてくれた。
「理性を失う酒を、理性を保たねばならない花街では飲まないどころか舐めません。お心遣いありがとうございます」
これまで我が家に来たお嬢様や現在我が家にいるお嬢様みたいなこの美しい女性は、未来の花魁候補である遊楽女だけあって、大変可愛らしい容姿をしている。
まだ生娘ですというように、前帯ではなくて後帯なので、なおさら深窓のお嬢様みたいだ。
「そうでございますか。それではお茶をご用意致しましょう」
「いえ。すぐ帰りますので」
「そんなつれないことを申されると悲しゅうございます。嘘でも一晩お話しして下さるという優しいお言葉が欲しいです。ね?」
美少女に顔を上目遣いで覗き込まれたので、照れで全身が熱くなる。
惚れたらお金をむしり取られるので、慌てて顔を背けて鬼叔父の顔を思い浮かべて、お説教される自分を想像。
自分で稼いだお金で破滅することは許されるが、俺にはまだそんな稼ぎも貯金も無い。
不意にアリアの笑顔が浮かんで、そうしたら少し落ち着いてきた。
しかし、代わりに「なぜ今、アリアさんの顔が」と変な汗が出てくる。
ミズキが三味線の演奏と歌を開始。
煌びやかな場所に似合う音楽と歌に酔いしれていたら、それは去年、家族親戚で観劇に行った、異国歌劇団の演目の冒頭の音楽に変化。
ベベンッと琴の音で区切りをつけると、ミズキは着席して、凛と背筋を伸ばした。
しかし、彼は何も口にしないし、笑いもしない。ただジッと、相手の反応を待っている。
室内にいる人間は全員、俺と同じく浸っていたようで、ミズキの終了に遅れること数秒後に、ようやく拍手と笑顔を贈った。
「ほほう。君もあの歌劇を観たのか。見学しただけでこんなに覚えて弾けるとは素晴らしい」
「霞は空を飛べますので、何度も何度も繰り返し観ました」
「あっはっは。では夕霞。朝露花魁は連れて行ってやれたが、彼女の楽達は既定で難しくてな。彼女の可愛い妹達に、今のを全て披露してくれるか? 全てでは長いか。こう、かいつまんで上手いこと。君なら出来そうだ」
「高くつきますが、よろしいでしょうか」
「いかほどに」
「この街一番と評判の朝露花魁の歌と舞。それと交換です」
「それはまた高い要求をするな。朝露、どうだ?」
「これからの芸次第でございます」
こうしてミズキは異国歌劇「青薔薇の冠姫と伯爵」の一人芝居を開始。
細かいところは飛ばされて、歌劇が普通の芝居になっていて、ミズキ一人で数人役。
たった一人でこんなにあの歌劇を再現出来るなんてと驚くよりも、完成度の高さに魅了されて物語に没入していく。
終盤、主人公シャーロットが伯爵と「いつまでも幸せに暮らしました」となるはずが、目の前の物語の二人は破局を迎えた。
伯爵は彼女に自分は相応しくないと身を引いてしまったのである。
二人があまり納得出来ない理由で別れたけど、ここからどう大団円になるんだ?
そう考えながらミズキの芝居を観賞し続けていると、彼は三味線を演奏をしながらこう語った。
シャーロットが正式な王女の座に就くには、王族との婚姻が必要だと議会で決まったので、シャーロットはまだ未婚の異母兄第と結婚することに。
その婚姻の儀をもって、シャーロットは祖母レティアの名を継ぐ。
ミズキは三味線を畳に置き、付き人にそう告げられたシャーロットを演じ始めた。
ここからは芝居ではなくて歌劇になった。ミズキが台詞を歌にして物語が続く。
実際のあの歌劇にはこのような曲も歌もなかったから、これは彼が作ったものなのだろう。
貧乏令嬢から王女になっても、自分という人間は変わらないのに、色々な者達が態度を変えた。
恵みの雨が降るたびに、それはますます起こるだろう。
自分は姫という肩書きを欲していないし、この部屋にある贅沢な物も何一つ要らない。
しかし、今後、数多の宝物が贈られるに違いない。
欲しいものは、たった一人からの愛だけなのに、あっという間に失ってしまい、もう手に入らない。
歌はそのような歌詞で、歌は徐々に震え声になり、やがて歌は消えて慟哭になった。
殆ど声を出さずに暴れたり、物を投げるような仕草は迫真の演技で、あまりにも辛くて泣けてくる。
まるでここにシャーロットという女性がいて、今にも自死しそうな程悲しみ、もがき苦しんでいる幻が見える程、今のミズキは俺が知るミズキではない。
お披露目広場で観たミズキの芝居が、まるでおままごとみたいだ。この演技は次元が違う。
俺も含めて室内の人間は全員胸を痛めているので、涙ぐんだり、かなり泣いたりしている。
ミズキはそのまま半狂乱という状態のままで、三味線を破壊した。
なぜ壊した……。
ミズキは静かになり、しばらくそのまま畳に突っ伏してすすり泣き、やがてゆっくりと立ち上がり、凛と背を伸ばし柔らかく微笑んだ。
頬に涙が流れていて、明かりに照らされて煌めいている。
先程とはまるで別人で、あまりにも美麗な笑顔に鳥肌が波のように体を駆け抜けていった。
「恋は求めるもので、愛は与えるもの。それなら私はこの国の全てを豊かにして、彼の暮らしを守り続けましょう」
美男美女は何人も知っているけれど、ミズキは美青年ではないのに、ここから見える彼の笑みはあまりにも綺麗で、まるで日の出のようだ。
「はい、戴冠式ですね、今参ります」
誰かに呼ばれたので返事をしたというような演技は、本当に誰かに呼ばれたよう。
先程まで絶望の中で苦しんでいたミズキはすっかり消えて、どこからどう見ても上流の女性というように品良く歩いていく。
彼は非常に可愛らしい笑顔のまま退室した。
「素晴らしい! なんて素晴らしい役者なんだ! これはあれだな。彼は陽舞妓役者だろう。男の身で本物以上の女性になれるとはそうに違いない」
「演奏も歌も舞も最初とはまるで別人。まさかこんなに感激させられるなんて」
「なぜ表舞台に立てないのか分からないが、理由があって支援者探しのためにこの街に来たのなら、俺が後ろ盾になろう」
「旦那様、是非そうしてあげて下さい。それでたまに彼をここに連れてきて私達を楽しませて下さいませ。夕霞、褒美を与えますからいらっしゃい」
「しかし、なんでまたオチを変えた。夕霞、このオチの話を知っているなら朝露達に教えてくれ」
「旦那様。噂の特別公演のオチですよ。たった一度しか行わなかった、原作話のオチです」
朝露花魁が呼びかけてもミズキは戻ってこない。
様子を確認しようと廊下に出たら、彼は座り込んで頭を抱えて、声を出さずに、号泣していた。
「……ミズキ?」
「畜生……未熟者過ぎる……。これじゃあ俺はもう舞台には立てない……」
あれで未熟者なら、かなりの数の芸者や役者が廃業だと思うが。
あまりにも衝撃的だと驚いていたら、ミズキは「すみません」と俺の袖を掴んで、よろよろ立ち上がり、深呼吸をして涙を袖で拭い、ニコッと元気良く笑った。
「あの……」
「いやぁ、すっきりしました。子供に本心を見抜かれるなんて役者失格です。三流ならともかく、自分は一流役者なのに」
「すっきりしたって……。そうだあれ! あれは確か半元服祝いに亡きラルス師匠が贈ってくれた三味線ですよね! なんでそんな大切な三味線を壊したんですか!」
「今夜を最後に本気の演奏はしないと、自分で自分に引導を渡しました。さぁ、無料でじゃんじゃん飲ませてもらいましょう。美女だらけですよ」
どこからどう見てもいつもの明るいミズキの笑顔に慄いて、俺は自然と首を横に振っていた。
「……すみません。何も気が付かなくて。何があったか知りませんが、話なら俺が聞きます」
「平気平気。騒いで飲みますよ!」
俺はミズキの見張りで、道を踏み外しそうになったら止める役目を任されたのに、ここまで傍観してしまった! と慌てて彼の腕を掴んで、引きずるようにして遊楼から逃亡。
花街内はダメだと判断して、嫌がるミズキを花街から引っぱり出して、近くの酒処の個室へ。
とにかく飲んで、潰れて良いから飲んで、話したくなったら話しましょうと酒を勧めた。
彼は何も語らず、ひたすら飲んで文学話をして、げろげろ吐いては飲んで、吐いて、飲んで、吐いて、吐いて、飲んで、泣きながら眠りに落ちた。
おかげで俺は厠と個室を行ったりきたりだし、部屋内でも借りた桶に吐くミズキの看病役。
「アリア……」
夜明け鳥が鳴く頃に聞いたミズキの小さな寝言は、あまりにも意外だった。




