四
可愛がっている、弟みたいなオルガに泣きつかれたら帰るしかないので帰宅。
オルガに泣かれたし、ハ組から帰ってこいという圧もあり、そろそろ潮時だと思っていた。
さようなら、楽しいルーベル家生活。
初恋を邪魔していたと怒っているユリアが怖いので、早く逃げたかった。
オルガと共に実家に帰り、早くミズキに会ってあげてと手を引かれて、彼が暮らしている叔父家の領域へ。
我が家は中々広いお屋敷で、祖父母と俺の家族は同じ領域、叔父家は別の領域と分かれていて、間に共同の居間や客間がある。
家族が使う門ではなくて、正門側が叔父家の領域で、普通に帰っていつも使う玄関からだと少し遠い位置。
廊下を歩いていたら、例の人魚姫アリアと遭遇。
ふわふわとした落ち葉色の巻き髪が、廊下の光苔に照らされて、キラキラ光って眩しい。
彼女はこの間ララを突き飛ばしたけど、今日は二人で並んで笑い合っている。
少しふっくらしたアリアは、素敵な笑顔だし、髪型が変化したこともあり、絶世の美女と感じるくらい輝いている。
ミズキと出会って挨拶をした時以上の衝撃が俺を襲った。
「ど、泥棒!」
「へっ?」
ララに向かってすこぶる可愛い笑顔を向けていたアリアが、俺をキッと睨みつけて、後ろから短刀を取り出し、振りかぶって襲ってきた。
「親切な家に泥棒なんて許さないわ! ここから出て行きなさい!」
避けようとしたら、運動神経の悪い俺は廊下に足を滑らせて転倒。
思わず手を伸ばした結果、揺れたアリアの着物の袖を掴んでいたので彼女が覆い被さるように倒れてきた。
「アリアさん、ジオお兄様ですよ」
「アリア、この人は俺の従兄弟です。守ってくれようとしてくれたのは嬉しいけど」
呆れ顔のオルガと、おろおろするララの姿が視界の端にうつったけど、顔の横にはギラリと光る短刀の刃で、目の前にはアリアの美しい顔。
まつ毛は長いし、目はうんと澄んだ煌国にはいない翡翠色で、ふわっと良い香りが鼻をくすぐる。
わりと素早く立ち上がったアリアが、とても申し訳なさそうな顔で、俺に「ごめんなさい」と謝罪。
俺はうるさい心臓を鎮めようと深呼吸しながら、ゆっくりと立ち上がり、挨拶日に一応いたんですがと口にした。
「その日は全く記憶にないの。頭が痛すぎて。泥棒だなんて……ごめんなさい……」
悪気のなかった美女に心底すまなそうな表情を向けられて、許さない男なんているだろうか。いないと思う。
「わざとではないようですので、気にしないでください」
「そう? うんと危ない目にあったのに全然怒らないなんて、この家の人達と同じで優しいのね。ありがとう」
ニコッと笑いかけられたら、胸がギュッと鷲掴みされたみたいになったので息苦しさが増した。
矢に射抜かれるように恋に落ちるのはこういうこと。
と、言いたいけどこれは単に可愛い女性に弱いだけ。
相手が男だと知る前のミズキでも、ちょこちょこ入れ替わる叔母ウィオラの弟子でも、同じ感覚に陥ってきた。
そうだよな?
そのはずだよな?
まぁ、でも、身元不明者が俺と親しくなって、楽しくて賑やかな我が家の一員になることは彼女にとって悪い話ではないので、別にこれが初恋のときめきでも構わないはず。
俺は優しくて真面目で見た目も悪くないという噂なのに、幼馴染や通学中に文通お申し込みが無いモテない男だから、すぐこういう発想をしてしまう。
アリアとララが遠ざかっていくのを眺めていたら、オルガに袖を引っ張られた。
「ジオ兄上、そりゃあアリアは美人だけど美人は沢山います。あんなに慕ってくれているミズキが可哀想です」
「げっ、げほげほっ! げほっ! そりゃあってなんですか」
「なんですかって、目が可愛いなぁってなっていましたよ」
オルガはわりと鋭いけど、まさかこんな指摘をされるとは。
咳払いをして、慣れない美人には誰にでもそうなってしまいますと正直に伝えて、二人でミズキのところへ。
可愛い従兄弟に泣いたり頼まれても、俺は男をそういう目では見られないのでどうしたものか。
ミズキの部屋の近くまでいくと、いつものように三味線の音が耳に届くようになった。
彼は大体、琴か三味線の練習をしている。それも基礎練習なのか、いつも同じ音ばかり出している。
俺の叔母、祖父母の長男の嫁ウィオラの実家一族はかなり大きな琴門を経営している。
ミズキはその経営陣の息子なので、かなりのお坊ちゃん。
一ヶ月前後しか居ない他の弟子と異なり、ミズキはもう半年近く住み込み弟子をしている。
ミズキは役者として育つも家業は琴門なので、琴と三味線と歌が疎かになってはならないのに、疎かになっていたから元師匠の孫ウィオラに師事らしく、他の弟子と異なりかなり厳しく指導されているらしい。
本人は何も言わないけど、他の弟子や、ウィオラの実家関係の来客などからそういう話を耳にする。
「ほら、今すぐにも死にそうなほど悲しい音がしています。基礎練習ではいつもキラキラした音ばかりなのに、こんなのミズキじゃない」
「音? 俺には同じように聞こえます」
「父上もそう言ったけど、母上がミズキは苦悩中なんだろうって。よく気がつきましたねって褒めてくれました。でも理由は教えてくれません。他人の辛いことは勝手に話さないものですから、ミズキに聞きなさいって」
聞いたけど教えてくれなくて、気になって何度もミズキの音を聞き、音が教えてくれるから失恋して死にたいのだと分かったそうだ。
「皆の前で弾く時は普通になるんです。普通なんだ。ミズキなのに、あんなに凄いのに普通に上手いくらい」
俺が居なくなってからだから俺のせいというのがオルガの考察。
男と男だから恋人になれなくても、顔を見せて仲良く遊んであげて下さいと頼まれた。
「じゃあ、俺は鍛錬に行くから。父上がそろそろ帰ってきます!」
父親が大好きなオルガはうんと嬉しそうな顔で去っていった。
そんなにミズキの心配をしていないのか? せめて隣にいてくれよ! と心の中で叫んで、ごくりと唾を飲み、障子越しにミズキに声を掛けると、三味線の音がスゥッと消えた。
ドクン、ドクン、ドクンと胸の真ん中から全身に脈が伝わる感覚がして、膝の上で握った拳の内側が汗ばんでいく。
障子がゆっくりと開いて、ミズキが優しく微笑みかけた。
「あら、ジオさん。お帰りなさいませ。聞きましたよ。テオさんがユリアさんに結婚お申し込みをされて、二人の邪魔をしていたことがバレてしまったと」
最後に会った日と同じく、何も悲しいことはないというような可憐な笑顔。
髪型も服装も化粧も完璧で、俺に失恋して死にたいみたいな気配は全く無い。
そもそも、俺が親戚の家でしばらく居候するだけで失恋と感じるのはおかしな話。
会えない日が一日でもあると死にたいなんて恋があるとは思えないし、そのような恋慕からは恐ろしくて逃げたい。
「その話、ミズキも聞いたんですね」
俺としてはイラッとする話なのだが、この間、幼馴染のテオが妹みた従姉妹のユリアに求愛した。
本人を褒めまくるのは前からだけど、火消しのテオはユリア以外の老若男女も褒めまくり。
褒めるのは簡単だけど、きちんとした口説きは照れてならないから手紙だと、俺やレイスに橋渡しを頼むので、許さないしユリアも興味ないと手紙を燃やしてきた。
喋ってもらえないし、百八通も手紙を渡しても返事がないので、テオはユリアに直接突撃。
この間、朝の国立女学校校門で「俺と祝言しろ」と迫ったらしい。
結果、テオの事は好きではないどころはむしろ嫌っている気配だったユリアが、前からテオを好きだったと発覚。
なので、二人の仲を邪魔してきたレイスと俺の命が危ない。
叔父似の怪力剣術小町のユリアを怒らせるなかれなのに、怒らせてしまった。
「テオさんが、祝言して欲しい。せめて手紙の返事って泣いたら、恋人がいると誤解されて無視されていただけだったそうですね。誤解は私のせいだと大変、おかんむりでした」
ふふっと愉快そうに笑うミズキに室内へ促されたけど、オルガがあんなことを言うから意識して入れず。
「ジオさん? どうされました?」
「あー……。あのですね。あの……俺は正直者で隠し事も下手なので……」
「そうでございますね。そこがジオさんの良いところです」
「オルガがミズキは俺に惚れているから、俺が居なくなって失恋気分で死にたがっているなんて言うたんです! 音がそうだって。俺、気持ちにはこたえられないけど……ミズキは仲のええ友人だから……」
勇気を出してミズキを袖振りして、それはそれで元気になって欲しいとか、友人なのは変わらないと言うはずが、ミズキが吹き出した。
「ふふっ、自分のそういう対象は女性ですから安心して下さい」
「……そうですよね。そうですよね! いやぁ、オルガが泣くから本気にしてしまいました」
「オルガ君が泣いたんですか?」
渋い顔をされたので、こういうことを言われたと伝えたら、ミズキは柔らかく微笑んだ。
しかし、その笑みがぐにゃりと歪んで悲痛というように歪み、彼の右頬に一筋の涙が伝った。
「ミズキ?」
「あれっ……。あはは。なんで……。見なかったことにして下さい。俺はまだまだ未熟者だ……」
開いた時と同じように、静かに障子が閉ざされて、俺は途方に暮れた。
えっ?
ミズキが俺に惚れているって本当なのか?




