稀代ノ小説家1
温泉が枯れて廃業になった旅館に、いつか再度温泉が湧くかもしれない。
人が暮らさない家は空気が澱み、荒廃が加速する。
四男を虐待しているなどと言われたら困るガエン・ナガエは、全てを解決する為に、四男シンを北部海辺街にある、元旅館「吉祥きっしょう」を彼の財産として住まわせた。
他の三人の息子とあまりに差別すると、兵官や役所に監査されるかもしれないので、これを四男への生前相続とした。
死後、四男に残す財産は何一つなく、この生前贈与についても四男に渡す気はなく、表向きの体裁として整えただけなのでガエン・ナガエはシンに彼の私財だとは教えていない。
あくまでその旅館に「住まわせてやっている」という話にしてある。
かつては蔵、少し前までは幽霊屋敷で一人で暮らしてきたシン・ナガエにとって、良く掃除された部屋があり、粗末では無い温かな食事が提供され、眺めの良い景色があればそこが天の原。
更に以前は居なかった自分の味方が居るので、これ以上望むものはない。
小説家シンイチはそこそこ売れる予定で、ミズキとアサヴからの舞台脚本の依頼も受けたので、食うに困ることもない。
慎ましく生きていけば、マリと二人で暮らしていけて、路頭に迷うことはないだろう。
改築に大金を注いだ屋敷には、お金以上にマリやアザミと知り合った場所という付加価値がある。
しかし、それ以上にシンはもうナガエという家と縁を切りたかった。
屋敷を出て行く代わりに、引っ越し代と新しい家を買う購入代を貰いたい。それから親子の縁を切る手続きをして欲しい。
シンは父親にそういう返事をしようと決意してマリに相談。
てっきり、彼女は実家に自分を招いてくれると考えていたが意外な返事がきた。
「アザミさんがしばらく息子さんのところですから、七地蔵竹林長屋はいかがでしょうか。きっと毎日、楽しいですよ」
マリは続けた。
家賃が安そうなので節約になり、部屋が狭いからシンさんの姿を見られる時間が長くなる。
竹林はあそこの庭のようなものなので、イノハの小屋を移せる。
「大家さんはどなたかレイさんに聞きましょう」
「……マリ。そろそろなんとか立ち乗り馬車に乗れるだろうし、頭を下げてユミトに赤鹿に乗せてもらっても良い。実家の方が人手もあり、親もいて、気が楽ではないか?」
するとマリは落ち込んだ顔になり、横坐りの足を撫でて、困り笑いを浮かべた。
「命が助かって心底嬉しいのですが、まだまだ人目が辛いです。お父様やお母様の悲しげなお顔も辛くなります。我儘わがままを申しますが、人の多くない、知人が全然居ないこの地域が気楽でございます」
正直者のマリは正直に自身の気持ちを伝えた。
「そうか。それならそうしよう。あの長屋の皆なら、君がまだ不慣れな新しい生活を今後も手助けしてくれる」
「読み書き勉強は得意ですから、これまで以上に皆さんに教えます。持ちつ持たれつと申しますので、その分助けていただきます」
自分はまだ未成年だから、子どもを守る七地蔵が命を助けてくれた。
なにせ七地蔵の裏にある小屋で暮らしている赤鹿ケルウスが自分を奉巫女ほうみこ様のところへ運んでくれたのだから。
マリはそう笑って、きっとこの引っ越しは良いことがある兆しですと可憐に笑った。
「人とは異なる体で堂々と過ごすには、とても勇気が要りますね。シンさんという見本が側にいる私は果報者でございます」
「……」
マリの照れ笑いが可愛らしいので、シンはしばらく見惚れた。
シンはいつか相続関係を使って父親や兄に復讐しようと考えていたが、この毒気のない笑顔に毎日接していたのでそのような後ろ向きの気持ちは孤独や妬み、恨みなどと共にすっかり消滅。
親子の縁切りに一番簡単なのは婿入りなので、フユツキ家に引っ越す事を口実にそうしようと考えていた。
しかし、狭い長屋への引っ越しを理由に婿入りするのも似たようなもの。
広い屋敷で男女が離れて暮らすから同居結納、まだ他人という関係は成立するが、狭い部屋で二人ではそうはいかない。
「それならマリ」
「あっ。シンさん。流石にあの長屋で二人暮らしは夫婦めおとに見えるでしょう。同居結納とは流石に言えないかと。籍だけ先に入れますか?」
「……」
男の自分からその提案、求婚をしようとしたのにマリにサラッと言われて、シンは機嫌を悪くした。
「シンさん?」
「……別々だ」
「別々?」
「どう考えたって、あのレイとユミトは夫婦だ。誰も何も言わないし、レイは見合いをしこたましているらしいが、あれはもう夫婦だ。あの二人を同じ部屋に押し込めて、俺と君は別々の部屋!」
「なぜですか?」
「祝言は一年後くらいが良いと言ったのは君だ。籍だけ入れるなんて、俺はそんな甲斐性無しではない。籍を入れる日にきちんと祝言を行う。まだ正式な婚約者らしいことを何もしてないだろう」
マリが足を失う前なら不機嫌に天邪鬼さが加わって嫌味などになったが、今のシンの口からはわりと本心が飛び出た。
「……嬉しい提案です。婚約者らしいことをして下さるなら……川に紅葉を見に行きませんか?」
さて、このようにしてシンとマリは一番近くの小さな川まで散歩へ行って、二人で川に紅葉を浮かべて流すという、煌国王都では超定番の恋人同士の永遠の誓いをした。
それで、この日の夜に二人は揃ってレイとユミトに相談。
屋敷を出ないといけなくなって、都会であるマリの実家ではなくてこの田舎街にまだ居たいので、アザミが抜けた空き部屋で暮らしたい。
ただ、出来れば婚約関係をまだ続けたいから二部屋欲しいと。
「俺は人が多い都会なんてゴメンだ。それに新しい仕事を終えたばかりでその給料はまだそんなに入らない。改築にかなり貯金を使ったし、フユツキ家の借金も返すから節約したい」
シンはマリの気持ちを尊重して、こういう話にすると彼女と決めてある。
「あの部屋にはもう新しい子が入ります。アリアさんとミズキが居なくなった代わりはどうしようかなぁって悩んでいたけど、そっかぁ。この家を追い出されるのか。それはこっちとしても困ったな」
「レイさん、いつも良くしてくださっているので困らせてすみません」
そうマリが謝ると、違う違うとレイは首を横に振った。
「ウィオラお姉さんが何年か前から、オケアヌス神社の保護所がいっぱいでどうにかしたいって悩んでいて、このお屋敷は広くて、マリさんには世話役が欲しいでしょう?」
ここを寺子屋にしてくれたら、その分オケアヌス神社附属の孤児達中心の寺子屋にしている建造物が空く。
そうしたら保護所を拡張出来る。
マホ達長屋の住人はオケアヌス神社の管轄する保護所出身なので、寺子屋の手伝いを進んでしてくれる予定。
「それでマリさんは子ども好きで、国立女学校を卒業するから寺子屋の先生に丁度ええなって。一人ではなくて他の人と女性兵官さんも担当するけど」
「各役所に掛け合って、色々調整してからシンさんやマリさんに相談する予定だったんですけど、家を出ていけかぁ。ここはシンさんに与えられた家では無かったんですね」
「孤児のお世話って一人で沢山は難しいし、性格の悪い人が担当すると悲惨なことになるけど、マリさんなら安心だし、他の人も同じくウィオラさんの人選」
フユツキ家には借金があり、シンの仕事は水もので、性格的に困った時に奉公に出るのはあまり。
レイとユミトの発言にシンは、
「あまりってなんだ」
口をへの字に曲げた。
「すぐクビになりそう」
「おいこら」
「マリさんも外で奉公はその足だと仕事を選ぶから、奉巫女ほうみこ管轄の寺子屋、それも自宅で働くって、悪くないと思ったんだよね」
「レイさんはシンさんが長屋に現れて少ししてから、こういう話を兄夫婦に相談していました」
お互いにとって、そして孤児達にとって良い話だと思って色々進めていたのに屋敷を出て行け、ここは旅館になるだと全て白紙。
居間でなんとなしに話した結果、そこに居た者達に話が伝わっていって、これは流石に酷い話だと始まる。
そこに、特に連絡無しに遊びに来たテオが加わった。
「なんで娘になる女性が大変な時に屋敷から出て行けなんだ。おまけに次の家も用意しないで、無一文で出てけって人でなしだな。俺は許さねぇ!」
火消しという一族は、基本的に短絡的で短気である。思い込んだら一直線という気質も有しがち。
南三区六番地ハ組出身、六防所属のテオもまたその一人で、彼は即座に、
「ネビーさんに相談しましょう!」とユミトの手を引いて、赤鹿の方が早いから頼むと乞われて帰宅。
その後シンは、
「家から追い出されるのは二度目で、前は自分に近寄ろうとしない見張りと二人だったけど、今回はマリがいて、そのうちひょっこりアザミ君が顔を出すだろうから別に」
特になんでもない事というような発言。
レイに、
「追い出されるのは二度目って?」と問われたシンは、自身の境遇設定を忘れ、
「蔵にいると虐待と誤解されるからと、ここに来た。広くて自由で天国だった」と口にした。
「蔵?」
「なんだその顔は。ああ、そういえば俺は病気で療養って話だったか」
「シンさんの両親は君を蔵で育てたの?」
「母親は俺が殺した」
「……えっ?」
場の空気が凍りついたので、シンは言葉を間違えたと発言を訂正。
「いや、俺を産んだせいで母親は死んだ。俺が殺したようなものだ。この鉤のような手のせいで」
「……何……その言い方。そんな風に言われて育ったの! それも蔵で!」
「えっ?」
この彼にとっては何気ない発言は、レイを怒らせて、その場にいる者達にも火に油。
押しに弱いシンはレイの詰問のいくつかに、戸惑いながら正直に話していた。
「そんな父親がマリさんみたいな気立ての良い子を婚約者として用意しないでしょう! マリさんはどうしてシン君と婚約したの⁈」と、七地蔵竹林長屋の住人、マリの友人になったマホが叫んだ。
「いや……あの……。花街の特別競りで売っていたから……買ってきた……。買って花街外で使うのは犯罪になるから、夫婦にならないかと頼んで……。小説の資料が欲しくて……」
「そうなの、マリさん!」
マリもレイ達の勢いに気押されて、
「そう言いながら、そんなに資料にされていないので……多分、同情して下さったのかと……。お姉様の代わりに親と共に借金を返す覚悟を決めて遊女になるつもりでしたが、このように助かりました……」と語った。
「実家暮らしや遊楼暮らしでは病に気づいてもらえることはなく、既にこの世から去っていました。シンさんと運命のようで嬉しいです」
場の空気を若干読めないマリは、この状況で少々惚気た。
「借金返済の三分の一以上を贈って下さり、フユツキ家はシンさんに足を向けて眠れません」
「シン君。マリさんにいくら貢いだの?」
マホは更に問いかけた。
「そんなの俺の勝手だろう。俺はマリになら騙されて構わない。裏切られて無一文になったらまた稼ぐだけだ」
「……そんな。シンさん酷いです! 昼間、二人で永遠を誓ったのに私に騙されると思っておいでですか!」
「いや、そういう訳ではないが、貢いだなんて言い方をされてつい」
「フユツキ家の借金は確か……それでこの屋敷の改築の数々……。マリさんの通院治療代に義足代……。シン君、それを全部自分で払ったの? 家族に頼ったんじゃなくて?」
レイは脳内で計算してみて、年下の引きこもり男性の稼ぎや資産はかなりの額では? と驚き顔を浮かべた。
「フユツキ家の借金返済は半分以上残っている。マリの治療代や改築費の方が急ぎだから彼女の父親と話し合った。必ず返すと言うし、すでに少しずつ返して貰っているが、祝言時に返却しようかと。婿入り資金として」
この発言でレイは、
「シンさんって自分でそんなに稼げる本物小説家だったの⁈ 小説家の卵とした励んでいるとか、道楽で書いているんじゃなくて!」と大きめの声を出した。
「ま、まぁ……」
「自分の力で大金持ちじゃない! なんで自分の財も投入した家を、そんな簡単にロクデナシの父親に渡そうとしているの!」
「いや、金は稼げば良いだろう……。もうすぐまとまった金が入るし、多分新規本数種類は売れるから更に。代わりに縁切り……」
「頭にきた。正当な商売敵は歓迎だけど、そんな父親が鶴屋の近くで旅館を経営するなんて許せない。お兄さん達が動く気がするけど、私も邪魔してやる!」
かくして、シンとマリが現在住んでいる屋敷から離れないとならないという話は多方向へ伝わり、その過程でたびたび人を怒らせて、やがてこの件は火の海となる。
なにせ、シン・ナガエが縁を結んだマリ・フユツキには、本人も知らない巨大権力がくっついていた。
正確には、マリ・フユツキの友人家族の先にとんでも人物が居た。
レイとユミト、それにルーベル副隊長にしばらく家を出なくて良いと指示されたシンとマリは二週間半後、とんでもない来客に腰を抜かした。




