三十
今夜はミズキの送別会。
場所は父達の友人達が夜勤で、見張りがいるということで八組だ。ミズキの希望でもある。
今朝、起床したら母が挨拶だけではなくて「レイス、話しがあります」と話しかけてきた。
「夜のことですか? ハメは外しませんし、お酒も飲みません」
「それは信用しています。変な蝸牛かたつむりのことです」
今朝、母はいつも通り、起床後に家中の雨戸を開けてまわり、庭を眺められる縁側から花壇にキラキラしたものが見えたので近寄ったという。
たまに空を飛んでいる七色の光苔が少しあり、縁起が良い気配だと拝んでいたら、俺が庭に放した変な蝸牛かたつむりが紫蘇の葉の上にいて、急に跳び、水面を跳ねた魚が水中に潜るように、土の中へ去って行ったという。
「帰ってくるのか、来ないのか分かりませんが、今朝はどこかへ行ったようです」
「土の中に潜る生き物だったんですね。やはり蝸牛かたつむりっぽくないです」
「乗っていた紫蘇の葉に、緑色の露みたいなたまごがあったので、育ててみるとええです」
はい、と笹の葉を差し出された。
初夏に叔母レイが作ってくれる練り切りのおとしぶみみたいだなと、紫蘇を受け取ってしげしげとたまごを眺める。
母は朝ごはんと鼻歌混じりで去っていった。
「……ん?」
副神様は生き物に化けていて、健康を司る副神様の一鱗はカタツムリの中にいる。
副神リマクスはどんな怪我も治せる薬を作ってくれる。
植物の葉に緑色の露があったら、病院へ寄付しなさい。
幼い頃、叔母ウィオラに何度か聞いた話を思い出した俺は、母にこの話をしてみた。
「そういえばそうでしたね」
「まずは叔母上に相談します」
「何かの箱に入れて、自室の日陰に置いておくとええです」
「そうします」
箱、箱と母が用意してくれた空き箱に笹の葉を入れて蓋をして、自分と弟の部屋の箪笥たんすの上に置いたら、母がやっぱり神棚というので神棚へ。
学校へ行き、趣味会にも参加して帰ってきたら、叔母ウィオラがミズキとアリア、それにアズサと共に来ていた。
来訪理由はミズキは明日の昼前に東地区へ旅立つので、その前に挨拶回りをしているから。
ミズキの帰宅を理由にウィオラも実家に帰る。その旅にはアズサとナナミ、それからアリアも帯同すると聞いている。
驚いたことに、ミズキはいつものミズキお嬢様ではなく男性姿だった。
ミズキとアズサはもう親友みたいに親しく、ミズキは寿命不明のアズサを誘った。
クギヤネ家は少々多忙めで、アズサの調子がかなり良く、娘をウィオラやミズキ達友人に任せることに。
ミズキ以外にも、ナナミとアリアという友人が帯同するし、神職である叔母の旅には護衛兵官も役人もつくので、こんなにいれば安心だと。
居間で全員に挨拶をしたら、ミズキはアズサに真実を教えましたと笑った。
「驚かれましたが、わりとあっさり受け入れられました」
「レイスさんはご存知だったと聞いています。秘密にして欲しいと頼まれていたことも」
「……アズサさん、すみません。ミズキと共に騙して」
「いえ、皆さんもだと聞いていますし、大切な修行の為で、悪意は無いのですから、ミズキさんもレイスさんも謝る必要なんてありません」
こほんと咳払いをすると、アズサは俺にそうっと手紙を差し出した。この間のお返事だと告げて。
「お返事をありがとうございます」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
照れて見えるからかわゆいし、俺も照れる。
お見合い前の相思相愛の文通相手はなんて呼ぶのだろう。
副神様がアズサを見つけてくれて、それか偶然出会って、彼女の死病を治してくれた疑惑。
彼女が無事に秋を迎えられて心底嬉しい。
ここにユリアが帰宅してまた挨拶会。
それが落ち着くと、ミズキとアリアが立ち上がり、ミズキがこう告げた。
「皆さんにご報告なのですが、アリアさんの記憶が少し戻りました。彼女はあの歌姫アリアでした」
「空を飛べる脱出装置で墜落する飛行船から逃げることができて、風に飛ばされて海に落ちて、レイさんとユミトさんに助けられたと分かりました。皆さん、これまで大変、お世話になりました。ありがとうございます」
「炎の中で彼女を空へ逃してくれた同僚がいたそうです」
「まだ全てを思い出した訳ではありませんが、他にも生き延びられた同僚がいるかもしれないので探したいです。まずは以前お世話になった輝き屋やムーシクス家を頼って、政府と連絡を取ることにしました」
そういう訳で自分はウィオラ、アズサ、ナナミと共にこの地に帰って来ず、東地区に留まる予定だとアリアは続けた。
「可能なら帰国したくて、多分帰れるでしょう。すぐには難しくても、また必ず皆さんに恩返しします」
ちょっと横柄というか、偉そうな喋り方をするところがあったアリアが、大人しい女性、少し別人のように見える。
と、考えていたらそんなことはなかった。
「この私と握手は恩返しの一つになりそうだけどどうかしら。天下の歌姫アリアに触れる機会なんて滅多にないわよ」
握手する人は手を挙げてと、アリアがにこやかに笑った。
「き」
俺の隣でユリアが小さな声を出した。
「きゃああああああ! あの歌姫アリアが目の前にいます!」
ユリアはすぐに信じたようだ。
「アリアさんはあの歌姫さんなのですか? ミズキさんに絵や髪型の本を見せてもらったことがあります!」
ユリアとアズサが立ち上がって、アリアの周りをぐるぐるまわり始めた。
ミズキはすっと着席して、母と俺の弟レクスに話しかけている。
「……ちょっと待った。歌姫アリアはアサヴさんと恋仲って報道があったから……ミズキ君はずっと知っていたのか⁈ そうなるとウィオラさんもか!」
「ということは、ネビーさんもよね?」
祖父母がウィオラに問いかけるように話しかけた。
ウィオラは歌姫アリアと交流のあったミズキから相談されて、事故現場と発見場所が離れている謎が解けないものの、本物なのは間違いないと考えて、夫と義兄を頼ったと説明。
つまり、叔父ネビーだけではなくて、父も知っていたということになる。
「あまりにも辛い事故でしたので、忘れたままなら新しい人生をと。けれども、彼女は少し思い出したそうです」
生存報道があるまで内密に。
レオ家とルーベル家、それから神職とその候補は信用するので教えることにしたと、アリアが歯を見せて笑った。
「……ミズキが見せてくれた絵と似ていないです!」
「レイスさん、似ていないって言いましたよ」
「……そういえば言うていました」
「ちなみに、アサヴさんとアリアは喧嘩友人で、交際報道は観光案内をしていたところを面白おかしく書かれただけです」
「そうそう、アサヴと私はなんでもないからよろしく」
アリアを囲んで歓談が始まる。
そんな中、ウィオラがそっと退室したので自分も廊下に出た。
今朝の緑色の露について相談したくて。
厠かわやへ行くのについていくみたいになるので、少し間をあけて、必ず通る廊下で庭を眺めながら待つことに。
今日は風が強いので、縁側の扉は閉めていたけど、そこまでガタガタしないので少し開いて。
叔母が厠かわやがある方から現れたので、会釈をして、あの、と話しかけた。
それで今朝の出来事を説明し、見て欲しいと依頼。
それで俺と弟の部屋へ行くことになり、箪笥たんすの上から箱を下ろして蓋を開き、叔母に紫蘇の葉を差し出した。
「どう思いますか?」
「オケアヌス神社にある蔵書で読んだ伝承しか知りませんので、使用してみないと分かりません」
「使ってみる……ですか」
「レイスさん。副神様達は人に良いものだけを与える存在ではありません。そういう逸話はご存知ですね」
「はい」
「私が昔、レイスさんに教えたリマクスの薬のことは、どのくらい覚えていますか?」
「紫陽花が好きだから、蝸牛かたつむりの中に紛れていたり、化けていることが多くて、良い人間がいると、どんな怪我も治す薬を贈ってくれるというお話しでしたよね?」
「ええ、そうですね」
「あとは……龍神王様の神通力で無理矢理治すから、傷は治るけど、とても痛みます」
主人公が親切心で大怪我をした友人に薬を贈った結果、傷口に塩を塗るのかと友人の家族が怒り、その怒鳴り声は隣家にも届き、彼は村人達に非難されて、村から追い出されてしまった。
「それで確か……友人は命の恩人である友人を探す旅に出ます。無事に見つかって……」
誤解が解けて嬉しいと、二人で村に帰る。
それで神様の薬はよく効くけれど、たいそう痛いという話しが転じて、良薬は口に苦しという言葉が出来た。確かそうだと口にしたら、
よく覚えていますねと褒められた。
俺は叔母がこうして物語を教えてくれる時に、歌うような口調になるのが昔から好きだ。
他の奉巫女様も、子供だった自分にこのように語ってくれたから、アズサもこうなるのだろうか。
「誤解を招かないように使いましょうね」
「はい」
「では、実験してみましょうか」
叔母がいつも使用している、家紋を模した簪かんざしを一本抜き、端を引っ張った。
すると、そこには鋭い太めの針が登場。
針? と驚いていたら叔母はなんの躊躇ためらいもないように、自分の人差し指に突き立て、おまけに切るように横に動かした。
「叔母、叔母上。それは痛いです」
「まだごくたまに針仕事で手元が狂った時と同じですよ」
「その簪かんざしはなんでしょうか……」
「護身用です。ご存知のように夫はとても心配症でして」
叔母の左手人差しの腹から血が滲み出る。
それを叔母は手拭いで押さえて、止血が終わると、小さな傷跡が出来ていますねと告げた。
「では、使ってみましょうか」
「リマクスの薬ではなく、得体の知れない何かだったら、何かあったらどうするのですか⁈」
「一応神職ですので、他の方よりは神々の気配を感じられます」
だから甥が聖域であるオケアヌス神社から生き物を連れ出した気がしていた。
それは禁忌であるが、特に嫌なお告げのような悪夢を見なかったし、先輩達も同じ様子なので、進んでついていったのかもしれないと考察。
少しして、甥が生き物を連れて行ったことを、俺の母親から聞いたので、予感は事実であったと確信。
その後、この家の庭へ来て、副神様の気配がしたのでさらに。
この家の者は信心深く、命も尊んでいるので、何が良いことがありますようにとそのままに。
「ですので、私としてはそちらはリマクスの薬です。さぁ、私を治して下さい」
「……はい」
実験で、小さな怪我なので、ほんの少しだけ塗るように。
叔母が止血に使用した小さな手拭いの端にほんの少しだけ緑色の露を取り、叔母の左手人差し指へ。
「っ痛。しみますね」
「す、すみません」
「いえ」
止血された傷や少しめくれた皮が消えている。
叔母の人差し指の腹は、艶々に戻っていた。
「な、な、治りました」
「治りましたので、こちらはリマクスの薬で確定です。小さな傷には小さな痛みなのかもしれませんね」
これは俺に与えられた贈り物なので、俺が考えて使いなさい。
もしもリマクスが戻ってきても悪用してはいけない。
幼い頃から教えてきたように、神々は確かにいて、悪事、特に恩に仇を返せば、やり過ぎというくらいの罰が与えられる。
神々はいつも区民を見守っている訳ではない。
彼らはあらゆる命を見ている故に多忙だし、実に気まぐれだからだ。
だから時にどんなに善人でも救われないことがある。
逆に、大したことをしていなくても、たまたま見られて、その時の行動でうんと気に入られることもある。
「レイスさんはリマクスに気に入られたようです。一回のみか、数回続くのか、恒久的なのかは分かりません。こちらは正しく使いましょう」
俺は熱心にオケアヌス神社の蔵書を読んでいるから、分かりますよねと真剣な眼差しで確認されたので大きく頷く。
「病院へ行って怪我人に使ってもらいます」
「それは良い提案です。ですが、どこの病院の、どなたを選ぶのですか?」
「……えっ? どこの……お世話になっている病院で……一番死にそうな方ですか?」
「お世話になっていない病院にもっと死にそうな方がいるかもしれません」
「……それなら病院をいくつか回ります」
「それで似たような重症者が幾人もいたらどうするのですか?」
「……」
叔母はこの問いかけに対する正解を有しているのだろうか。
俺にはまるで思いつかない。
「レイスさん、正しく使うのですよ」
では、自分は居間へ戻りますと叔母が立ち上がったので慌てて引き留めた。
「お待ち下さい。叔母上、どのようにすれば正しいですか? 命を選ぶなんて出来ません!」
「レイスさん、それでも薬はその量しかありません」
「叔母上なら……どうしますか?」
叔母は再び着席してはくれなかったが、何か助言はくれるようだ。柔らかく微笑んでいる。
「その量でどの程度の傷がどのくらい治癒するのか不明。代償は痛み。効果は魔法のよう。よく考えて使わなければ、自らに災いを招きます。そのことは賢いレイスさんならもう理解していますね」
「……あの、すぐに使いますなんて言うてしまいましたが、叔母上に譲りたいです」
「そちらはレイスさんの物ですので横取りは出来ません。リマクスに横取りしたと誤解されて、罰を受けたら困ります。人と神々は語り合えませんので、きっと誤解されます」
「……。えー……。叔母上は神職なのに?」
「それは人が定義した職で、実際に神々に好かれているのか分かりません。海関係ならともかく、リマクスと私に接点はありませんよ」
「それなら叔母上、どのように使えば良いのか答えを教えて下さい」
「リマクス伝承を皆さんに伝えて、もしもその薬が手に入ったらどうするか尋ねてまわりなさい。その中でレイスさんの心に一番響く意見がきっと、あなたにとっての正しい使い方です」
自分は甥の心が美しいことを知っているので、どんな道を選んでも問題無いと考えているし、指示をしたら俺の思考力が育たないし、価値観の押し付けになる。
そんな風に言われたら、これ以上教えを乞うことは出来ない。
けれども、無駄でも聞いてみようと問いかけることにした。
「それならまず叔母上に尋ねます。叔母上ならどうしますか?」
「最低でも家族親戚全員には尋ねて、どう思ったのか教えて下さい。私の意見はその際にお伝えします」
こうして、叔母はすっと退室。
信用出来る人間を頼る事を学んだと思っていたけど、そうでもなかった。自問自答ではなく、様々な意見を聞くべきだと提案すれば良かったと言い残して。




