零
さぁ、行きましょう
と、天女に手を引かれて舞台袖から舞台の中心へ。彼女はぼくの手を途中で離した。
割れんばかりの大拍手に鳥肌が立って、全身が小刻みに震え、人生で初めての感覚に包まれて何かが、汗のように体のあちこちから出そうになる。
ぞわぞわ、ぞわぞわが止まらない。
舞台中央で木のように固まって、ぴくりとも動かなかった天女が、ぼくの演奏に合わせて踊り始めると、それはさらに強くなった。
天井から桜色の花びらがひらひら、ひらひら、ひらひら舞い落ちる。
花びらに溶けてしまいそうな彼女がくるりと回るとぼくと目が合った。
天女の唇が「上手よ」と褒めるように動く。
ぼくは知っている。
物語には終わりがあるので、このままでは天女は空へ昇って帰ってしまう。
行かないで、ずっとそばにいて。
行かないで、ずっと踊っていて。
行かないで——……。
さっきまでは楽しく琴を弾いていたのに、この演奏も舞も終わってしまうと考えたら悲しくて、悲しくて、気がついたら泣いていた。
『龍神王様……どうかお願いです……。私は貴方様のうろこに戻るよりも、このままこの地で朽ちたいです。人のように……。このままでは儚く消えてしまうとしても、あの人のお側にいたいのです……』
練習では天女にこのような台詞は無かった。
切なすぎて涙が出てきて、こぼれて落下して止まらない。
彼女は舞台の花道を進み、舞台から降りた。暗くて見えなかったけれどそれはすぐに終わり。
照明係が天女を照らした。
天女は男性に甘えるように寄り添っていて、夜が明ければ私は空に溶けてしまいますと告げた。
「どうか眠りからさめないで下さいませ……。あなた様には笑顔が似合うのですから……」
楽譜には終わりがあるので演奏も終わってしまう。
俺が最後の一音を出すと、天女はゆらりと揺れてその場に倒れた。練習とちがう。
しばらく会場は静まり返り、それから大拍手が巻き起こり、それは全く止まらずに続いた。
しかし、待てども待てども天女役のぼくの親戚は起き上がらない。
会場内がどんどん静かになっていく。
「大丈夫ですか⁈ どうしたんですか⁈」
天女に寄り添われた男性が、彼女を横抱きにして勢い良く立ち上がった。
びっくりなことに、天女は急に元気そうに動き、彼の首に腕を巻き付けて、扇で隠したけれど多分口づけした。
お芝居中だからキスした振りだろうけど、男性の言葉が急に止まったので、本当にした気がしてしまう。
「……」
その時、天女と目が合って、さあ弾きなさいと言われた気がした。
しかし、どの曲を選べば良いのか分からない。
「永遠を生きるよりもあなた様を選び、許されました。それどころかまだ終わらぬ人の体まで。ばんこふえき、共にありたいです」
「……。……あいしてる」
男性の小さな声がひびき、彼が走り出す。
あいという単語は初めて聞くので、あいをしているとはどういう意味なのか。ばんこふえきも不明。
笑顔で手を振る天女に惜しみない拍手が贈られる。
また天女と目が合って、弾きなさいと言われた気がした。
二人はとても幸せそうだったので、ぼくがここで弾くべきなのはこの曲だなと演奏開始。
桜の天女であるヨウ姫は、セイが好きだったのに、他の人と駆け落ちとはどういうことだ。
ぼく達はお芝居をしていたので、役者は違ったけど、あの人もセイということなのかもしれない。
でも彼は役者じゃなくて彼女の夫だけどな。
彼は練習に参加したことがないのに参加するなんて、お芝居ってむずかしい。
こうして幕は下りずにお芝居は終了。
予定には無かった宴会のような演舞や演奏が始まり、ぼくは父に舞台袖へと連れて行かれた。
それで、父に説教された。
劇のしゅし? を変えるなと大説教。
未熟者と怒られたけど、師匠が「そりゃあまだ五つの子どもだから未熟で当たり前だ」と間に入ってくれた。
「しかしミズキ。君は本物として舞台に上がったから、父親の言うことはもっともだ。今夜は遊霞に救われたな」
「姉上も勝手をしました」
遊霞は俺の実の姉ではないが、血の近い親戚のお姉さんは皆姉上である。
ぼくは一番演奏が上手で、一番教え方が上手くて、歌って踊れて天女に化けられる優しいウィオラ姉上が大好き。
琴を沢山練習していると、ウィオラ姉上は帰省のたびにうんと教えてくれるし遊んでくれるから、ぼくは毎日、毎日、朝から晩まで琴の練習をしている。
ぼくの師匠はウィオラ姉上の祖父で、姉上を立派に育て上げた師匠が毎日稽古をしてくれて、ほめてほめてほめてくれるので、ぼくはきっと天下の琴名手になれるだろう。
「ミズキ、あれは勝手ではなくて、ミズキが演奏の雰囲気を変えたから〆も変えたんだ」
「お師匠、どういう意味ですか?」
「まぁ、あの子も勝手をしたが。照明係や他の役者、演奏家たちもすぐに動いた。カラザさんが指示を出した」
分からないと首を捻ったら、師匠にそのうち分かると言われた。
「はい。もっと勉強します。お師匠、あいをしてるとはどういう意味ですか? ばんこふえきも教えていただきたいです。父上が言った、ぼくが変えたというしゅしも分かりません」
そこへウィオラ姉上が来て、ぼくをうんと褒めて、ご褒美にお菓子をどうぞと、ぼくが大好きなもちちが入った小さな缶を差し出してくれた。
「ウィオラ。そう甘やかすな」
「このくらいの年は褒めるに限ります。素晴らしい演奏でしたのに小言なんて嫌です」
ここにウィオラ姉上の知り合いらしき女性客が来て、彼女を労い、俺の演奏は素晴らしいと褒めてくれた。
見たことのない髪色に、とても白い肌。黒でも濃い茶色でもない瞳の人がいるんだと驚いて、こそっとお師匠に尋ねたら異国人だと言われた。
その異国人の後ろに、同じような見た目の俺くらいの女の子がいてもじもじしている。
うねうねした茶色い髪なんて変。美しいのは真っ直ぐで、黒くて、つやつやした髪なのに。
顔立ちはきれいなのに髪で台無しだから、大人の異国人みたいに束ねると良いと思う。
「旅先で保護して預け先も決めたんですけど、ヴィトニルが別れる前にこの一座を観劇させたいって言うので連れてきました。それで彼女は一言あるみたいで」
「……」
その彼女はセレネという大人異国人の後ろに隠れた。非常に照れ屋なようだ。
「ほら、アリア。彼とお喋りしたいって言ったのはあなたでしょう?」
「……うん」
「ほらほら」
アリアと呼ばれた女の子はもじもじしながら姿を現して、なぜかぼくに右手を伸ばした。
「……握手。してくれる? 星空がキラキラ光っているようなすてきな音でした。魔法みたい。あなたの手は魔法の音を作れるのね」
「……」
「魔法でてんしが幸せになってすごかったわ!」
てんしって何。
大きくてきらめく緑色の瞳に気後れして後退り。首を振って、握手なんて嫌だと逃亡。
なぜか分からないけど胸がドキドキして止まらなくて、息が苦しくて廊下で転んだ。
魔法とは奇跡を起こす力のこと。俺にそんな魔法みたいな力があるなんて嬉しい。
俺の手は魔法の音を作れる。
魔法の音だって!
この後、俺はまた父親に叱られた。
あの子は親を病気で亡くして、てんがい孤独。
孤独は独りでさびしいことだけど、てんがいとは何かと尋ねたら、天涯孤独とは身寄りがひとりもいないことで、つまり家族親戚全ていないということ。
戦で家族親戚を全員亡くしてしまった、とても悲しい女の子。
ずっと塞ぎ込んで喋らないし全く笑わなくなってしまったから、元気を出して欲しいと考えた旅医者達が、元気の出る劇はどうかと考えて連れてきたという。
他の一座でも良かったが、ここにきたのは用事ついでらしい。
「彼女はこれからやせん病院で介護師見習いになって人様の役に立つお嬢さんになるそうだ」
「やせん病院とはなんですか?」
「戦争地にある病院だ」
ごめんという手紙を書きなさいと言われて渋々書いたけど、書いているうちに段々と親がいないとか、戦争しているような怖いところで暮らすなんてと悲しくなってきて、色々書いた。
知らなかったんだから、あやまる必要なんてないと思うけど、握手くらいすれば良かったからごめんもきちんと書いた。
今はもう、記憶は曖昧だけど、上手く話せなくてごめんなさい、元気でということを書いた気がする。
元気が出るかもしれないので、母に頼んで、万年桜の精を描いた浮絵を用意してもらい、それを同封した。その手紙を父に渡したのでそれきり。
旅人と一緒だったからか、手紙に返事は無し。
それから、月日は過ぎていった。
客が楽屋を訪ねてくるとか、感想を言ってくれるとか、手紙をもらうことは日常となった。
その場では喜ぶけれど、すぐに忘れる。手紙は読んだら破って売ってしまう。
俺は俺に不満なのに大絶賛とは見る目も聞く耳も無いからだ。
しかし、あの少女がくれた「魔法」という言葉は忘れていない。
本日も満員御礼、大拍手。お芝居の終わりに客に挨拶をして手を振る。
(魔法の音を作る手……。なんで急に思い出したんだろう。なんだっけな、あの子の名前は……)
初めて俺を褒めてくれたお客が彼女。
彼女の名前を忘れかけて、顔を忘れ、声も記憶から消えても、俺はまだあの日の喜びと魔法の音を作る手だと褒められたことは忘れていない——……。