初夜放置のバツイチ令嬢ですが、微笑みだけで夫が泡を噴いて倒れました。~『沢蟹公爵』と呼ばれた男。モラハラ夫が愛に貴賤を付けた結果と赦しの顛末~
オルガニウスという公爵が居た。
彼は人を愛せぬ男だった。
偏屈な性格で、人に対して心が狭い。
彼は愛に『尊い愛』と『卑しき愛』があると考えていた。
政略結婚で妻となった女に初夜を前にしてあることを告げる。
「俺がお前を愛することはない。それを最初に弁えておけ」
妻はキョトンとした表情をする。
よくわからないというように首をかしげた。
「はい? 良く聞こえませんでしたわ旦那様」
オルガニウスは眉根をしかめた。
少し頭が残念な女なのか。
聞けば一度離縁されているという話だ。
夫の有責らしいが、妻にも何かしらの問題があったのかもしれない。
「俺はお前のような頭の軽い女が嫌いだ。常に薄っぺらい微笑ばかりを浮かべていて、自分は愛されて当然であると考えるような者は好かない。なるほど容姿や肉体については誰もが誉めそやすほどに美しい、それは認めよう。しかし、そうした女であればあるほどに見ていると苛立ちを覚える」
彼は幼い頃から己の身分や容姿にすり寄って来る女性たちばかり見てきた。
実の母は政略結婚で夫と結ばれた。そのためか、子に対して厚い愛情を注ぐような女性ではなかった。やがて不倫し、離縁されてしまう。
それゆえオルガニウスは女性不信だった。
にもかかわらず、美しい女性ばかりが彼の周りを取り巻いた。
彼自身も容姿端麗で身分も高く財力もある。
多少のわがままや理不尽もいくらでも押し通せた。
そうした状況があまりに傲慢で偏屈な男を作り出したのだ。
彼は愛を信じぬ割に「尊い愛」という過度な理想を拗らせていた。
例えばあらゆるものを捨てて、己の命を投げ出すような愛を彼は尊ぶべきだと考えている。いかなる労苦を惜しまず、どのような犠牲を払ってでも成し遂げる愛こそが真の愛などと唱える。それゆえ、恋人に対して彼は理不尽な要求を強いる。
苦労してそれらの行いを達成しても「俺の財産を得るためにそこまでするのか」とケチをつける。結局理由を付けて文句を言いたい男なのだ。それゆえ誰も彼も『卑しい愛を囁く馬鹿な女』と見下し、にもかかわらず献身的な奉仕を求める。
確かに彼の財産を狙った女性も少なくはなかった。しかし、彼に対して真摯な態度で接した者も皆無ではないだろう。
そうした女性たちを限界まで我慢させ、別れを告げられることの繰り返しだ。オルガニウスが反省なぞするはずもない。その都度「あぁ、結局あの女も卑しき愛の持ち主だった」と毒づくだけだ。
悪いのは相手であるという態度を変えない。
困った状況があれば金を積ませて解決する。
さて今回の女は結婚までしてやったが、果たしてどこまで保つか。
オルガニウスは試し行為をする気満々であった。
屋敷に着いて早々の冷たい言葉を、妻となった女はさらりと流す。
「それより旦那様のお好きなお花はなんですか? お屋敷に飾りたいと思いまして」
妻が自分の話を無視したことに彼は少々腹を立てた。明日の食事の支度を申し付けるなり、初夜の義務も果たさず自室に籠ってしまう。
彼女はアイシア。子爵家の令嬢であった。
流れるような美しい金髪に宝石のような蒼い瞳。
小柄であるが凛とした佇まいと豊かな稜線を描く胸元。
男女問わず見惚れるような美しさを備えた整った容姿を備えていた。
それでいて下品ではなく清楚可憐。
彼は妻の見た目をそれなりに気に入っていた。
かと言って甘い顔をしたりはしない。
公爵家にも当然専属の料理人はいるが、彼は妻の手料理を求めた。
しかも毎食である。
アイシアはそれを「喜んで! 料理には自信があります」と元気良く答えた。
早朝から起きて料理の準備をするように命じる。
注意としては、メイドや料理人の手を借りてはいけない。己の手だけで調理から給仕までするようにと付け加える。
貴族の女性にそれを求めるのだ。
もはや何の苦行であろうか。
妻と向かい合い、朝食を貪る。
季節の野菜や焼き立てのパン。
深い味わいの広がる香草焼き。
舌の肥えたオルガニウスにして文句を言わせない内容である。
しばし無言になり、ひたすら皿を空にしていく。
アイシアは食べるのに夢中な彼の邪魔をすることもなく、静かに食事をする。
一切無駄や雑音のない穏やかな朝食。
まさに自身の理想を絵に描いたような時間。
彼は少し居心地を悪くする。
言いがかりをつける気満々であったため、さすがに気後れをした。
黙って食事を続けると、異変が起こる。
「んっ!?」
じゃりっとした気味の悪い砂のような尖った感触。
口の中に痺れるような痛みが走る。広がる鉄臭い味。
思わず手のひらに吐き出すと、硝子の破片らしきものが出てきた。
「な、なんだ」
あまりの衝撃に震えるオルガニウス。
食事に異物が混入するなど、初めての経験だった。
そのため、何が起こったか一瞬わからず、混乱して硝子片を床に落としてしまった。
「おい、今料理の中に……」
「はい? どうかされましたか?」
ふんわりと嫋やかに微笑む彼女。
彼は思わず意識を取られる。
口に改めて触れてみるが、特に痛みはなかった。
ふと床を見ると、硝子の破片はどこにも見当たらない。
疲れているのだろうか。自分の勘違いかもしれないと流した。
彼にしては大人しいが、要はアイシアの作りだす穏やかな空気に呑まれたのだ。
その夜、オルガニウスは妻に添い寝を命じた。
気が弱くなると彼は誰かの温もりと優しい声であやされることを求めた。
「そして王子様は幸せに過ごしました」
アイシアが話すのは彼女の好きなおとぎ話だった。
寝物語を聞かせるようにと、彼が命じたのだ。
更には自分が眠るまで子守唄を歌い続けるように告げる。ここまで来ると大半の女性は呆れかえる。
だが新妻は嫌な顔一つせずに鷹揚にうなずいた。
「私は寝かしつけも得意なんですよ」
あまりに毒気なく言うもので、彼も「そうか」とつい素直にうなずいてしまう。
そして、男女の営みすらもしないまま彼はアイシアに寝物語を促す。
新婚初夜について彼はすっかり失念していた。
彼女の声音はとても心地が良く、読み上げる物語も一切不幸な要素がない平和な話だった。オルガニウスは非常に気分よく瞼が重くなっていくのを感じていた。
しかし、その穏やかな眠気は突然断ち切られる。
「地獄の業火に焼かれるがいい」
突然そんな不穏な囁きが耳を刺す。
あまりに唐突で、オルガニウスは目をしばたたかせる。
ここにいるのは自分と妻のみ。
彼女がそれを口にした可能性が高い。
物語の一節だろうか。
彼は動揺を悟られないように唾を飲み込む。
「妻に寝物語だ? 子守唄を歌え? 幼児か、貴様は。公爵ともあろう男が情けない。あぁ見苦しい、おぞましい。気色が悪い。死ね」
その声は普段の妻とは思えぬほどにあまりに冷たい。まるで地獄の底から響いてくるような恐ろしげな声音だ。彼は腹を立てるのも忘れてただ慄然とした。
「どうかしましたか? 旦那様」
アイシアは何事もないように微笑みを浮かべる。
「あ、あ……いや」
普段の彼ならば普通にその呟きを咎めただろう。
たとえ何かの聞き違いであっても延々と責め立てたはずだ。
しかし、彼女の美しい微笑みと柔らかい声音にどこか気圧される。
何かの間違いかもしれない。
自分の耳を疑うことになった。
「この物語は著者の幼い頃の体験を反映していると思いました。特に主人公が無意識的に避けている行為について感じるところがあります。忌避すべき経験と自然に対する畏れ。複雑な表現色彩と繊細な言葉選びが見事だと思います」
アイシアはオルガニウスが選んだ小説の感想や講釈を述べている。
彼が三日かけて読んだ本を一日で読むよう指示した。
話に耳を傾けている限り、彼女の地頭は悪くないと感じる。
普段の態度はわざと惚けているのだろうかと疑う気持ちが湧く。
彼は頭の良い女に見下されることはあまり好まない。
一方で頭の悪い女は嫌う。
要は自分が馬鹿にされない程度の知性という塩梅を求める。
あらゆる点で粘着気味に性格の悪い男である。
模範的回答をする妻に面白くなさを感じた。「その解釈はおかしい」と言いがかりをつける。
「著者の言葉選びは品位に欠ける。育ちの悪さや陰湿さに根差したものだろう。お前の解釈ではあまりに著者に対して好意的に擦り寄り過ぎており、本質を見失っている。批判精神を失っては客観的な視点から物事を見ることはできん。これだから女は」
瞬間、指の先端にチクリと針を刺したような痛みが走った。
ふと、自身の手を見る。
彼にとって極めておぞましいものが指に絡まっていた。
「ひぃっ!」
沢蟹 だった。
彼の幼い日の心の傷である。
母親と沢へ遊びに来ている際、彼は沢蟹を見つけて悪戯をした。
その結果ハサミで指を痛めてしまい、涙を流す。
母に助けを求めたが、息子に興味のない彼女は聞こうともしない。
一人声を殺して泣きじゃくり、しまいには足を滑らせて転んだ。
大人から見れば何のことはない光景だ。
ただ子どもが愚図って転んだというだけのこと。
しかし、運悪く使用人すらもその際の彼から目を離していた。おかげで自力で沢から這い上がらねばならなかった。彼は世界中の誰からも見放されたような、とてつもない孤独感にさいなまれたのだった。
おかげで沢にも蟹にも碌な印象がない。
見るだけで寒気がしてくるほどだ。
そんな沢蟹が何故か屋内で這い回っている。
必死に振り払うが、一匹二匹とどこからが現れてはまとわりついてくる。
痛みは大したことはないがあまりに不快感が強い。
「おいっ! こっちを見ろ、俺を助けろ!!」
アイシアに向かって叫び声を上げる。
だがこんな時に限って、彼女は手にした本に視線を落としている。
まるで何も聞こえていないかのように涼しい顔だ。
オルガニウスはただ見苦しく喚く。
彼女がこちらを見たかと思うと、またあの不気味な声音が響く。
「情けない。そのようなもので大の男が狼狽え騒ぎ喚き散らす。目に入れるのもおぞましい」
冷徹とも言える言葉がオルガニウスの胸を刺す。
「お、お前は私の妻だろう! 何様のつもりだ! 黙って夫の言うことに従え!」
絶望的な気分になりながら抗議する。
しかし、彼女の口から放たれたのは予想だにしない言葉だった。
「妻? 私はお前が投げ潰した沢蟹だよ。突然水の中の居心地の良い場所から引き揚げられ、あまつさえ岩に叩きつけられた。この苦痛、理不尽さをどう晴らしてくれようぞ」
妻の愛らしい唇から不穏な文言が漏れ出る。
まるで小説の一節を諳んじているようにも聞こえた。
そうこうしているうちに、全身に沢蟹がまとわりつく。
「ぎゃあぁぁぁ!! 助けて母上!!」
喉の奥から絞り出すような絶叫が破裂した。
気が付くと、天井が目に入った。
使用人が傍に控えている。
「旦那様は突然気を失われたそうです。口から泡を噴かれて」
アイシアは先ほどまで彼を介抱していたが、薬湯を煎じている最中だと話す。
「沢蟹は?」
身体のどこを見ても刺されたり挟まれたりした痕跡は見当たらない。
使用人は押し黙り、何かを口にしようとして言い淀む。
長く彼に仕えている者ほど、ほんの些細な不興を買うだけで面倒な思いをすることを学んでいる。
オルガニウスは首を振り、「いや、夢の話だ」と呟いた。
しばらくするとアイシアが心配そうな面持ちで現れた。
先ほどの彼女とはまるで違う。
その落差が、うすら寒い恐怖を与えた。
明らかにおかしい。
ここ数日の異変。
間違いなく、あのアイシアの周辺で不可解な出来事が起こっている。
妖しい術の使い手か、食事に幻を見せる毒でも盛ったか。
いずれにせよ、これ以上は許容することができない。
あの女、まともな人間ではない。
このままにしては、災いが起こる。
本能的な不安と恐怖が彼の心を支配していた。
アイシアを尋問しなくては。
縄で縛り上げ、鞭で打ち、指の間に木の棒を捻じ込む。
許してくださいと、己の罪を吐かせるのだ。
下劣な女め、悪辣な女め、卑しき愛を嘯く分際で。
だんだんと頭に血が上り始める。
過去の心の傷を抉られたことで、冷静さは完全に失われていた。
狂気に身を委ねなければ耐えられそうにもない。
「おはようございます。旦那様、お加減はいかがでしょう」
出会いがしらに彼女の頬を引っぱたく。
怯んだ彼女を何度も叩き、床に跪かせる。
さぁ、調教の時間だ。
暴力を振るうことには慣れていない。
手が震え、荒い呼吸で目の焦点が合わなくなる。
「この下郎が。嬲り殺しにされねばわからんか」
地の底から響くがごとき重厚な声音。
アイシアの内側に潜む何かが口を開く。
「私が何をした? 女たちが何をした? 貴様に歩み寄り、愛を囁いただけではないのか。敵意もなければ害意もない、無抵抗の相手に何をする。何をしようとしている? 狂っているのか? この醜い腐敗した豆のごとき男め」
「黙れ黙れ黙れ黙れ!! 俺を真に愛さぬ女など要らぬ!!」
彼女は面倒くさそうに息を吐き出した。
「浅ましい、あぁ浅ましい。ふふっ、ふはははは」
狂ったように笑い始める。
アイシアは己の顔を掻きむしり始めた。
徐々に顔面が剥がれ落ち、やがて剥き出しの骸骨が現れる。
「うっ、うげぇぇぇ!!」
「おぞましい、貴様のような男が何故斯様にも安楽な暮らしをしているのか。あぁ気分が悪い。呪わしい、呪わしい、呪わしい、呪ってやる。地獄へと堕とし五体を引き裂き、六大の悪魔に食わせてやろうか」
彼女の背後に無数の骸骨が蠢き、大量の沢蟹がさざめき合う。
それらはオルガニウスにまとわりつく。
彼を痛めつけ苛みはじめる。
絶叫し、振り払おうとしても、それらの勢いは止まらない。
もはや彼は狂気に沈むよりほかはない。
その吐き出した粗野な言動、暴力的な衝動が枯れ果てるまで。
「旦那様? こんなところでお眠りになってはいけませんよ」
アイシアは昏倒している男に声をかける。
使用人の手を借りて彼を寝室のベット上に寝かせた。
オルガニウスは苦悶の表情を浮かべ、玉のような汗を掻く。
彼は今だかつてないほどの悪夢に苛まれていた。
医者を呼び、アイシアは誠心誠意彼を看病した。
夜を徹して彼に付き添う彼女に使用人が眠るように促す。
「私は看病も得意なんですよ。大丈夫です」
貞淑で献身的で人の良い妻。
誰もが彼女を優れた人格者であると称えるだろう。
では、オルガニウスを苛む悪夢は何なのか。
これはアイシアによる夫への制裁なのか。
不埒な真似をしようとする彼に対する呪いであろうか。
果たして、アイシアとは何者なのだろうか。
沢蟹の化身か、悪霊に憑かれているのか、それとも魔物の類かと言えば――――違う。
アイシアは神の娘だった。
愛の神と夢の神の間に生まれた安らぎの神である。
人間に傾倒した彼女は神の座を捨て、人として輪廻の輪へと降りた。
彼女自身は神の力は捨てていたが、心配した両親が強力な加護を与えていた。
それは彼女が誰かと結婚した際、より強く効果を成す。その加護は二つ。一つはアイシアの伴侶となる者が彼女に害意を向けた際、恐るべき悪夢を見せるというもの。二つ目は自身に対して向けられた愛なき言葉や憎しみが耳に届かないというもの。
アイシアの前の夫は彼女の容姿と肉体にしか興味のない男だった。
結婚して早々に彼女に暴力を振るおうとした際に悪夢に囚われた。
男自身は神に対する信仰心はなかった。
だが、男の両親は敬虔な信徒であった。
彼らは病んだ息子が快癒へと至るよう神に祈りを捧げた。
男自身も両親に促され縋れるものには縋った。
その結果、夢の中で神託を受ける。
妻を真に愛するか、妻を傷つけぬ形で縁を切れば悪夢からは逃れられる。
男が選んだのは穏当な離婚であった。
他に愛する者がいるためどうしても君を愛せない。
誠心誠意彼女を傷つけぬよう言葉を尽くして伝えた。
その結果、愛を尊ぶアイシアはあっさりと離婚に応じた。夫への未練はなくもなかったが、彼の幸せを一番に考えたのだ。
その後の男は悪夢から逃れたことに歓喜し、同時にその再来を恐れた。
現在は還俗し、ひたすら神に祈りを捧げる暮らしを続けている。
オルガニウスは、その点においては不運である。
彼自身は敬虔深さも信仰心もない。
近しい身内は全て他界している。
偏屈な性格のため、親戚との縁も皆無だ。
使用人は面倒を避けて、彼に余計な助言などはしない。
そのため自力で正解を掴むしかなく、悪夢は延々と彼を苛み続ける。
夢の神も親切心などは起こさない。
美しく微笑む新妻を蔑み続ける限り、彼の苦痛は終わらない。
苦しみもがく夫に対し、よりアイシアは献身的な愛情を注ぎ続ける。
彼の地獄はその後も続くことになる。
***
「あぁ、俺のアイシア。今朝の君も愛の女神のように美しいよ」
オルガニウスは詩を諳んじるように囁く。
「愛している、愛している、愛している、愛している」
「もう旦那様ったら、本日のお仕事に遅れましてよ」
アイシアは普段通りの愛想の良い笑みを浮かべている。
あれからおよそ二年が経過した。
妻を愛そうとしなかった夫は周囲からも噂になるほどの溺愛っぷりを披露している。
悪夢から目覚めては優しい女神の笑みに癒される日々。
その強烈な体験から、オルガニウスの精神は大きく変容してしまう。
妻に優しくすれば悪夢は薄れる。
逆に彼女を悲しませるようなことをすれば悪夢は恐ろしさを増す。
この二年間でさすがの彼も学んだ。
愛を囁くことには慣れない。
最初は上辺だけの言葉だった。
だが、アイシアは素直に喜んだ。
花が綻ぶように笑い、より一層夫に愛を注ぐようになった。
悪夢からの解放と妻の優しさ。
地獄から救い出してくれる女神。
オルガニウスは、そんな意識を抱くようになった。
やがて、彼女に本当の意味での深い愛情を注ぐようになる。
二年前の冷めた自分に対しては「全く当時の俺は愚かだった」と考えており、悪夢を見ていたことも既に忘却している。
あまりに強烈な苦痛だったため、妻への理不尽な仕打ちも含めて記憶の奥底へと沈めてしまったのである。それでも本能的に妻を悲しませてはいけないと感じており、時折まるで呪文のように愛を囁き続けた。
「愛している、あぁ、愛しい人」
ところ変わって、天に座す夢の神に話は移る。
アイシアの前世の父親だ。
腕を組み、地上を見下ろしながらため息をつく。
果たして、これで良いのだろうか。
あんな男は娘にふさわしくない。
保身に走り、己の罪から逃げた。
尊き愛と卑しき愛。
愛に貴賤を付けるような言動も不快感を覚えた。
オルガニウスの理屈に則るのなら、今の彼は誰よりも卑しき愛を囁いている。
歪んだ男の愛こそ、果たして尊ぶべきものだろうか。
恐れから逃れるために愛に縋っているだけ。
自身の過保護を棚に上げても、複雑な顔を浮かべずにはいられない。
あのような愛の形は果たして善いものなのだろうか。
そう疑問を口にする。
隣に座る愛の神は、朗らかな笑みで己の伴侶にこう囁いた。
あら貴方、愛に貴賤はありませんわよ?
ただ、彼らの今を素直な目で見れば良いのです。
過程よりも結果を重んじる妻らしい言葉だ。
都合の悪いことは知らなければいい、聞かなければいい。
ないものとすればいい。
彼女の与えた加護もまた、その思想を強く反映したものだ。
しかし夢の神は納得しない。
オルガ二ウスの心境の変化について、もう少し細かく追ってみよう。
ある日、彼は妻からハンカチーフを手渡される。
沢蟹の美しい刺繍がされていた。
苦笑いしながらも受け取る。
二人で沢に遊びに行った際の出来事だ。
オルガ二ウスにとってあまり好ましい場所ではない。
精神的に病んでいた頃の夫を見かねてアイシアが連れ出したのだ。
呻きながら、時折『沢蟹』と漏らしていたことから好きな場所だと誤解されていた。
彼は沢に力なく素足を浸し、ぼんやりとしていた。
そのうち沢蟹がまとわりつきはじめ、絶叫した。
アイシアは「あらあら」と全く慌てる様子もなく、夫の身体から沢蟹を離す。
当然乱暴に叩きつけたりはしない。
沢の中へとゆったりと戻してやった。
彼女は優しく夫の身体を検分する。
「どこも傷はありませんね。大丈夫ですよ」
その一言に、オルガニウスはハッとする。
夫の醜態を前にしても、彼女は引く様子も嫌そうな顔もしない。
ただまっすぐに自分を見つめてくれていた。
かつて母親から顧みられなかった幼い日の心の傷跡。
それを優しく手のひらで撫でられたような気分だった。
その時期から彼は妻への態度を軟化させていく。
理不尽な要求も取り下げた。
自分の行いがあまりに幼く、恥ずかしくなったのだ。
オルガニウスは狂気の中で正気を見つけた。
価値観が大きく変わったわけではないが、度を超すような試し行為はしなくなった。
その後は「あれが食べたい、これは美味しくない」「あの本はつまらなかったが、君はどう思った?」など、そこそこ素直に会話をするようになった。
年月を重ねるにつれて、妻に対する感謝の手紙を記したり、画家に彼女の絵を描かせたり、アイシアを称える記念碑を立てたりと熱の入れようも強くなる。
妻の微笑みへの慄きは時折思い出すものの、その意味はもはやよくわからない。
ただ、拭いきれぬ不安として、呪文のような「愛している」は生涯言い続けた。
二人の間に子どもは故あって生まれなかった。
やがて夫婦は遠縁の、親を失った子どもを養子として迎え入れる。
後に公爵の跡継ぎとなる彼いわく、両親は常に仲睦まじい夫婦だったと言う。
深く知らねば、誰しもがそのように捉えるだろう。
だが、オルガニウスの愛は独特だった。
彼の中でのアイシアの存在は女神や聖母であった。
世間一般的な妻よりも、遥か高みに置いた存在になっている。
彼は初夜の役割を果たすことを永遠に忘れた。
そういった対象ではなくなっていたからだ。
アイシアはそれを指摘することも何かをせがむこともなかった。
では、彼女の方はどうであろう。
あるとき近しい友人に、夫の印象について問われた。
アイシアは悪戯っぽく答える。
「本当は少しだけ驚きましたの。彼とどう接していいか迷いました。だけど、小さい子に接するようにすれば良いのかもと思い、そうしていました。私は子どもをあやすのも得意なんですよ」
アイシアの愛もまた、少し変わっていた。
夫は彼女のそうした言動を知らない。
ここからは余談である。
オルガニウスはいつからか、自分の知らぬところで思わぬ異名を得ていた。
沢蟹公爵。
アイシアは刺繍を趣味としていた。
友人や知人を通じて、それは広まる。
その見事な腕は領内でも次第に有名になりはじめた。
まるで織物の女神のごとく巧みな技術と繊細な表現力。
特に沢蟹をモチーフとした刺繍が多いことで知られていた。
公爵様の奥方は沢蟹を好まれている。
いや、公爵様の方が沢蟹をお好きなのだろう。
そうした噂が囁かれはじめ、徐々に独り歩きしていく。
やがてオルガニウスは沢蟹公爵と呼ばれることになる。
彼の耳にそれが入ると、徐々に彼の様子が変わっていった。
当初は妻への惚気もあって素直に受け入れていた。
しかし、かつての悪行が尾を引いた。
彼と関係を持っていた女性たちが良からぬ噂を流した。
理不尽な仕打ちや態度など、それなりに広まっていた。
異性に対して愛の貴賤を問うような発言で追い詰めた、寝物語の読み聞かせを強いる、沢蟹への異様な執着がある、蟹のように横向きに歩く等、虚実ない交ぜとなって奇怪な人物像が語られるようになる。
後年、それらの話が耳に入った際、オルガニウスは激高した。
愛妻家となっても、聖人君主となったわけではない。
妻に甘やかされ、年齢を重ねてより頑なになった部分もある。
やがて病を患い、誰もが自分を蔑むという妄想に駆られた。
狂いはじめ、沢に火をつけ蟹を根こそぎ殺せなどという指示を出しかける。
これには普段は穏やかな妻が強く戒め、オルガニウスも小さく萎れたという。
彼は体調を崩し、うなされることが多くなっていた。
記憶の奥底に封じていた恐ろしい記憶。
かつてアイシアや女たちに行った理不尽な振る舞い。
妻を迎えてからの不気味な現象。
それらが一気によみがえり、彼を夢の中で苛んだ。
初夜の役割も果たさず、愛することはないと言い放った。
その後も呆れ果てるような振る舞いを繰り返した。
夢か現かわからぬ世界で妻を詰り、殴った。
それらの全てを悪夢の中で思い出す。
許してくれ、俺が悪かった。
ただ寂しかっただけなのだ。
苦しみもがき、正気に返るとアイシアに泣きつく。
彼女に許しを請い続ける。
死に際に口にしたのは、愛の囁きではなかった。
「あぁ、アイシア。俺を呪わないでくれ」
あまりにみじめな最期であった。
くどいほどの愛の囁きは何だったのか。
夢の神は最後まで見届けて、どうにも虚しくなる。
自分たちが与えた加護も無関係ではない。それゆえに関係の歪みを解消しきれなかったとも言える。しかし、最初からまっとうな相手であればここまで捻じれは起こらなかっただろう。
アイシアは愛の神の加護で良からぬ言葉は耳に届かない。
けれど彼女は夫が最後に何かを伝えようとしたことはわかった。
恐らくそうであろうという言葉は一つ。
それに対して、彼女は静かに厳かに応える。
彼の魂に届くように祈りを込めて。
「はい。私も愛しています、オルガニウス。私に愛することを教えてくれて、ありがとう」
アイシアはこの上なく優しい表情を浮かべていた。
この世に生まれて良かった、そう言わんばかりの輝くような笑顔だった。
夢の神は、そのときようやく胸のわだかまりが消えるのがわかった。
父として、アイシアが本当に幸福なのかどうかを気に病んでいたのだ。もっと良い伴侶が選べたかもしれない、自身の子をその腕に抱き、血のつながった孫たちに囲まれていたかもしれない。
それをできなかったのは夫であるオルガニウスの歪みのせいだ。いつまで経っても大人になれぬ、半端な男。
けれど、アイシアの混じりけのない微笑みを見て、父はようやく理解する。どのような愛を抱こうとも、確かに彼女は幸せだったのだ。
尊き愛に卑しき愛。
他者に価値づけられる愛などありはしなかった。
夢の神はオルガニウスを赦し、彼を悪夢から永遠に開放した。
彼の死後。
アイシアは義理の息子やその妻、孫に囲まれ幸せな生涯を全うする。
沢蟹の刺繍は亡くなる寸前まで編み続けた。
今では地元の民芸品として広まり、長く親しまれている。
それに付随し、『沢蟹公爵』の名はどこまでも独り歩きした。
悪人と言うよりは変人奇人という認識が主流だ。
無関係の出来事に紐付けられることもあれば、実在を疑われることもある。
妻への愛を綴った手紙や石碑などが彼の生きた証として挙げられた。
いずれにせよ恐らく愛妻家であったと伝えられている。
モラハラ夫を妻が何もせずに懲らしめるようなお話を考えたのですが、色々考えた末にこういう形になりました。最初は「偏屈公爵」でしたが、最終的には沢蟹に乗っ取られました。
作品のささやかな裏話などは活動報告に書かせていただきたいと思います。
もしよろしければ、下部の☆☆☆☆☆への色付けをして頂けると、活動の励みになります。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました!