18 ルナの激情
これが書きたかった。
◇
「ティアナは……王都に残るなら、冒険者を続けるのか?」
「そのことなんだけど……私は、村に帰ろうかと思ってるわ」
その言葉は、ヒドゥンにとっては予想外だった。
「アシュラムは、それでいいのか?」
「……彼女にも事情があってね。僕には止められないさ」
それは、アシュラムとの関係が終わったということだろうか。
早い破局だとは思うが、よくよく考えればあれだけの事件のあとだ。
男の近くにいたくないと思うのは、当然だろう。
故郷に戻るというのも、そうした背景があってのことか。
(男にはわからないつらさもあるだろう……立ち直れるといいが)
アシュラムが止めないなら、自分が口だすことでもない。
ヒドゥンは帰郷の無事を祈り、グラスを掲げる。
「寂しくなるな……おじさんたちにも、よろしく伝えておいてくれ」
「あの……それで、なんだけど――」
なにやら逡巡していた様子だが、やがてティアナは、決意を秘めた目でヒドゥンを見つめた。
「もしよかったら……ヒドゥンも、一緒に帰らない?」
「――あぁ?」
地の底よりも深くから響くような声に、ヒドゥンは思わず戦慄する。
その声の主、隣のルナを見やると、その表情は完全に凍りついていた。
「てめぇ、この期におよんでなにぬかしてやがるっ……」
「あ、あなたには関係――」
「オレの婚約者だって言ってんだろうがっっ!」
大勢の喧噪の中で目立つことはなかったが、少なくともこのテーブルにおいては、鋭く、大きく響く叫びだった。
「レイプされて勇者に振られて、仕方ないから元カレとヨリ戻そうってか? どんだけ尻軽ビッチなんだ、てめーはよぉ……恥を知りやがれ、なぁ?」
「おい、ルナ――」
ルナの怒りはわかる――だが、当人にとっては大きな傷だ。
案の定、ティアナは顔を蒼白にし、全身を小さく震わせている。
「ヒ……ヒドゥンも、知っていたの……?」
「……彼女のもとには、あらゆる情報が集まるからな」
言外に肯定すると、彼女は小さく、そう――とつぶやいた。
そんなティアナを庇うように、横からアシュラムが口を挟む。
「以前も言ったけど、それは誤解だ。今回の件も、彼女が自分を見つめ直すために、帰りたいと言ったわけで……振った振られた以前に、そんな関係じゃない」
その言葉に、少し意気を取り戻したティアナも追従する。
「そ、そうよ……ヒドゥンがパーティから離れて、そのことで支えてもらいはしたけど……彼とは、なにもなかったわ……なにも……」
なにも――というのは、肉体関係のことだけなのか。
喉まで出かかった言葉をヒドゥンは呑み込むが、ルナは容赦がない。
「ハッ、面の皮の厚さだけはさすがだぜ。オレのとこには、あらゆる情報が集まってんだって、言わなかったか?」
言いながら彼女は自らの口元を指し、唇を歪める。
アシュラムとの口づけを揶揄する仕草に、ティアナはサッと頬を赤くし、ルナを睨みつけた。
「それはっ……そっちこそ! こんな短期間で、婚約までしているなんてっ……もっと前から、そういう関係だったんじゃ――きゃっ!?」
羞恥と怒りに我を忘れ、思わず語気を荒らげた彼女のローブに、真っ赤なアルコールの染みが広がる。
「てめぇ――てめぇみてーなクソビッチに、オレのなにがわかるっっ!」
とっさにヒドゥンが止めていなければ、間違いなくグラス自体がぶつけられていただろう。
テーブルを越えて飛びかかろうとするルナを懸命に押さえつけるが、いまの彼女は、こらえきれない激情に支配されていた。
「てめーさえいなきゃ、とっくにオレのものだったんだっっ! どんだけ口説いても、誘っても、迫ってもっ……てめーがっ……ティアナがいるからって、オレが何回断られたと思うっっ! その気持ちが、てめーにわかんのかよっっ!」
「ルナッ……」
さすがに周囲のテーブルには騒ぎが伝わっているようだが、ヒドゥンにもルナにも、それをどうにかする余裕はなかった。
もちろんティアナも、初めて受ける同性からの激しい憤怒、嫉妬を前に、呆然とした様子で震えている。
「二度とふざけたことぬかすんじゃねぇっ! てめーがそうやって、オレのヒドゥンを軽んじるたびにっ……勢い余って、殺したくなるっっ……」
慟哭するような叫びを終え、荒い息を吐く彼女を、ヒドゥンはただひたすら、優しく抱きしめるしかなかった。
「ルナ、すまない……すまなかった……」
「っ……なんでっ……ヒドゥンが、謝んだよぉっ……こんな、クソ女のためにっ……」
「違う――俺はルナが大事なだけだ、ティアナは関係ない」
いまさらながらにヒドゥンは、自分の愚かさに気づいていた。
あれだけルナを愛おしく思いながら、なぜ彼女の不安に気づけなかったのか。
なぜ自分は、なにも伝えてやれなかったのか――。
(馬鹿だ、俺は……お前がいないと、生きていけないくらいなのに……)
すがりつき、むせび泣く彼女を懸命になだめながら、視線だけを四人に向ける。
「……席をはずしてもらえるか。いまは、ルナのことだけ考えたい」
その瞬間、わずかにルナの身体から力が抜けた、そんな気がした。
いたたまれなさもあったのだろうが、四人は黙って立ち上がり、テーブルを離れようとする――が。
「もし――」
ティアナがすがるような目で、かすれた声を震わせる。
「もし……私が、あんな目に遭ってなかったら……私と――」
「それはない」
彼女の言いたいことを察し、先んじて返す。
「お前に見放されたとき、俺の心はそこから消えた。その時点でとっくに、お前とは終わっていた……なにがあろうとなかろうと、関係なくな」
言いながらルナを抱きしめ、頭をかき抱く。
「残ったものはすべて、ルナに捧げた。なにもなくなり、ボロボロになり、それでも虚勢だけで戻ってきた俺を、救ってくれた――ルナは、俺のすべてだ」
「っ……ぅっ……あぁっ、うぅぅっ……ヒドゥンッ……」
ルナが自分の名前を呼んでくれる、それだけで胸が熱くなった。
「ルナ……本当にすまなかった。言いたいことは、山ほどあるんだ……ゆっくりでいいから、聞いてほしい」
「んぅっ、ぐっ、うぅぅ……う、んっ……うぅっ……」
まずは泣きやんでもらおうと、震える身体を抱きしめ、何度も頭を撫で、彼女の嗚咽を胸で受け止める。
見えない位置では、仲間たちの気配がゆっくりと遠のいていった。
その去り際――最後のひとりが、震える声で言い残す。
「……お幸せに」
それは――本来ならば得られたはずの、失われた幸せの大きさに気づいた女に残された、最後の矜持だったのかもしれない。