イリバシの水神
水神と対峙するエルウィンは、魂同士の対話を試みる。
水煙のたちこめる湖の中心に、巨大な影がそびえ立つ。シュウシュウと風鳴りのような音がした。
「何だあ~?」
巨大な影は鎌首をもたげ、ぬう、とアリアテたちに急接近した。
「お前ら、巫女はどうしたぁ」
水の色、というに相応しい美しい鱗を持った大蛇は、頭の飾りびれを王冠のように拡げ、金の目でじろりとアリアテたちを睨んだ。シュルシュルと、蛇の舌の周りで風が鳴く。
「う、水神さま……巫女はここにおりますっ」
少女は泣き面をあげ、精一杯腕をのばした。メリウェザーの腕を抜けだそうともがきながら、少女は嗚咽をもらす。
「お約束どおり巫女はここにおりますっ どうか、どうかイリバシをお救いください……怒りをお鎮めください、どうか」
「貴様らァ、巫女をさらおうってのか? ん? このガキは霊力を蓄えた極上のメシよ! 見逃してやるからさっさと巫女を置いて失せろ!」
大蛇がすごむと、水の衝撃波がアリアテたちを襲った。とっさにエルウィンが水の膜を張り、いなす。
「仕方がありマセンねえ。ムジナ、皆と一緒に、私の後ろにさがってくだサイ。目には目を、水には水をデス」
フリント兄弟はそれぞれにアリアテと巫女を抱え、エルウィンより後ろに走った。
「どこへ行くてめえらっ!!」
怒った大蛇が津波を起こす。エルウィンは巨大な水の結界を張って集落を守りながら、自らはその外で詠唱に入った。
「ナガナバタレソ、アレニソシメセ」
唱えてから、エルウィンは大蛇の目を捕えた。いっさい瞬きをせず、瞬膜の向こうにある金の目を見据える。大蛇の動きが止まった。津波は勢いを失って湖に落ちた。
「どうしたんだろう」
「降伏させようと言うのだろう。あの男、水の近くでは魔力が底なしだな」
戻ってきたカレンが言った。彼は一足先に引き返し、巫女の世話人たちをひとつの家に集め、そこから出ないよう言いおいてきたという。
「彼の邪魔をしてはならない。大蛇は神と崇められるに相応しい力を持つ。し損じればたちまち食われる」
アリアテは不安いっぱいにエルウィンを見つめた。
両者の膠着は数時間にも及んだ。その間、アリアテたちは巫女から水神について聞いた。
「水神さまは、お小さい頃から代々イリバシの神主がお仕えしていました……十年前の内乱の折、この国にも他国の軍が押しよせました。当代の神主は、亡命してきた別の国の兵士たちを匿い……見せしめとして、一族全員がサルベジアの軍兵に処刑されました。水神さまは、戦に携わった兵ごときを助け、勤めをないがしろにして我を裏切ったとお怒りになり……以来、ひとつの年ごとにイリバシの娘を生け贄として捧げるようお求めになるのです」
巫女は震えながら訴えた。
「外の方には、水神さまは魔物にも見えましょう。ですがこれまで長きにわたり、イリバシを守ってくださったのも事実。お怒りもごもっとも。どうか、傷つけたりしないで」
桟橋にすがっていたあの姿は、明らかに死を恐れる者のそれだった。しかしこの少女は本気で水神に身を捧げようとしている。
アリアテは複雑な思いで巫女の手をとった。
「よそ者が関わってしまってすまなかった。でも、とても放っておけない」
沈黙が降りる。そこへ、老婆がやってきて、アリアテたちを招いた。濡れた体を囲炉裏の端で乾かしながら、アリアテは考えていた。
(皆を救える方法……何かないだろうか。エルは大丈夫だろうか)
エルウィンと大蛇との睨み合いは、日が落ちた後も続いた。両者は言葉を発することもなく、視線だけで繋がっている。
やがて、水神の巨駆が揺らいだ。
「小生意気な人間もいたものだ……」
さざ波を立てながら、大蛇は湖に沈んでいった。湖面を霧が覆い、波が凪ぐと、エルウィンは音を立てて崩れた。
「エル!」
駆け寄ったアリアテに支えられ、エルウィンは汗だくで微笑んだ。
「何とかなりマシタ……いささか、残酷な結果になりマスが」
要領を得ないが、ひとまずアリアテは頷いた。
「体が冷たい、火にあたったほうがいいよ。ロード、エルを頼む」
エルウィンを家に運ぶと、巫女や世話人たちの姿はなかった。
「よく耐えてくれた。長く止まっていた時間が動いたようですネ……」
「どういうことだ?」
炭に火が入った暖かい囲炉裏の端で、エルウィンは静かに語った。
「降伏とは対話デス。知られたくないことも、知りたくないことも何もかも分かち合って、存在の全てをかけて語り合うもの……ここで見たことは全て、彼の水神の夢だったのデス」
――十年前、サルベジアの軍隊がイリバシに侵攻した。彼らは「敵兵を匿った」として神主らを拘束したが、別の何かを探している様子だったという。そして、結果が得られないとわかると、見せしめと口封じのために神主らの一族を皆殺しにした。
湖に巣食う大蛇は荒れ狂い、サルベジアの軍を退けたが、時すでに遅く。
彼は「主」を失った。
「主、って」
アリアテが訪ねると、エルウィンは薄く目を開けた。双眸は赤々と染まっている。
「魔物の強大な力を制御するためには、主従の契約が必要なのデス。過ぎた力で人々を滅ぼさないため、彼の大蛇も神主らも同意の上デシタ」
主を失った魔物の末路は残酷だ。契約に縛られ、その地を離れることもできず、本来の力を発揮することもできない。
「だから、彼は人間の武力に抗いきれなかっタ。このままでは再びイリバシを守ることは難しい、と彼も民らも考えた。そして十年前から、霊力の高い巫女を選別しては、新たな主に付ける試みを行なっタ……」
「でも、皆失敗してしまった」
メリウェザーはスカートをぎゅっと握りしめた。
「あの子は? なぜ、時をくり返していたのかしら」
「……二度目の侵攻がありマシタ。主選別の儀式の最中」
――少女は類い希な霊力の持ち主で、大蛇とも心を通わせていた。もう一歩、というところで、わずか五人ほどの侵略者が現れた。
侵略者たちは少女の力に目をつけ、攫おうとした。
大蛇はとっさに少女を口の中に匿ったが、敵は恐ろしいほどの手練れ揃い。なす術もなく蹂躙された。強力な毒を打ち込まれ、身じろぎすらできなくなり、牙を砕かれて少女を奪われた。
少女は攫われまいと、大蛇の折れた歯を自らの胸に突き立て、命を絶った。
「……それから、ずっとくり返していたのか」
変えることのできない過去の夢を。
「大蛇の記憶を見ましたが、侵略者の頭目はメンテス・ガヴォで間違いありマセン」
アリアテは胸の痛みに涙を流した。
「許せない。どうして人々を傷つけるんだ」
「泣かないで、アリアテ。少なくとも、大蛇の夢はエルが終わらせたわ」
エルウィンの回復を待ち、アリアテたちはかつてのイリバシがあった土地を訪れた。人々が暮らしていた形跡は残っていなかった。黒く焼けた土には草も生えず、獣も近寄らない。
メリウェザーが青ざめて震えはじめたので、アリアテは野の花を供え、早々にイリバシを後にした。
「恨みつらみは残っていないわ。ただ、悲しみだけがわき起こってくる。こんなにも心のきれいな人たちだったのに……」
湖を過ぎ、森に入り、一行は商人に教わった道を通って都に向かった。途中、力尽きたエルウィンをロードが背負った。
「無理しやがって……最初から負ぶってやったのに」
「次、私が交代するわ」
広い街道に出ると、アリアテは両脇に茂っている植物をつついた。
「これ、竹。少ない栄養でもよく茂って、水を溜めてくれるんだって」
「でも、根から葉の一枚まで、勝手に持ち出してはいけないのよ」
竹はアマルドの特産品で、カレスターテでもこの島国にしか存在しない。加工された輸入品を見ることはあっても、青々と茂っている様子を見るのは、その場の全員が始めてだった。
「砂漠化に困っている人たちの助けになりそうなのに」
「そうね。でも竹って、すごく生命力が強いらしいから。ほかの植物の生息地を奪ってしまうこともあるって、パンフレットにあったわ」
アリアテは名残惜しく竹の表面を撫でた。
都は石垣と竹を組み合わせた高い壁に囲まれ、通用門には番兵が立っていた。アリアテが帯剣――といっても、鞘に収まった魔法剣の見た目はナイフほどしかないが――していたため警戒されたが、メリウェザーとカレンのおかげで通してもらえた。
「身なりのいい女性が二人もいる。しかも負傷者まで」
番兵はエルウィンの顔を覗きこみ、早く通してやれ、と相方に促した。
「いや、遅いお着きなもので、お手間をとらせました。さあ、野盗が出ないうちにどうぞ」
どうやら、アマルドの国民は野盗を警戒しているらしい。ひとつひとつの町は壁に囲まれ、夜になると門を閉ざす。
「けっこう治安が悪いのかもな」
ロードは宿を探しながらこぼした。軒を連ねる宿の扉には、どこにも「獣お断り」という張り紙があった。アマルドの文字の下には複数の外国語で同じ文句が書かれており、以前はここまで観光客が来ていたのだろう。
幸いカレンは人に近い容貌だったため、フレ=デリクたちの工夫の甲斐もあり、疑われずに済んだ。
「ただ、湯船には浸かれないな」
「さっきのぞいたらおしぼりがあったわ。後で持ってきてあげる」
メリウェザーは男湯に入るのだろうか、と考えているアリアテの横で、カレンは笑った。
「獣は獣らしく、毛づくろいでもしておこうか」
「いや、笑い事じゃねーよ。ガヴォの敷いた獣上位の政策はやり過ぎだが、歴史は獣族のほうがずっと古いんだ。その長い歴史のなかで戦争をした回数は片手で数えるほど。シルウァト族に次ぐ大先輩だぜ? それを、野獣みてえに差別するってのはどうにもな……」
ばつが悪そうに頭を掻くロードに、カレンは首を振った。
「ヒトにも様々あるように、獣も一概ではない。この国のヒトと獣との間には溝があり、我々はそれを埋めることはできないし、働きかけるべきでもない」
無表情だが、カレンの双眸は穏やかな光をたたえていた。
「無論、幼い頃から獣とヒトと、手を取り合う場所で育ったお前は正しい。そして優しい」
ロードは照れて視線を逸らし、浴衣を持ってメリウェザーたちに続いた。
「カレン、どんどん表情が豊かになっていくわね」
竹張りの廊下を歩きながらメリウェザーが言うと、ロードは目を丸くした。
「そうかあ?」
アリアテも何か言おうとしたが、言葉より先に腹の虫が大声を出した。
「お風呂から出たら、食堂に行きましょうね」
泊まり客はアリアテたちともう一組だけらしく、浴室は貸し切りだった。男湯と女湯とは竹の壁で仕切られ、四方には太い柱があるだけの、眺望の良い露天だった。夜の闇のなかに、方々の町や集落の明かりが浮かぶ。丸い囲いの外はどこまでも森が広がっていた。
共同の三角屋根からは、優しい光をたたえたランタンがつり下がり、飾りが風に揺られてシャラシャラと美しい音をたてる。
「あー、生き返る!」
なめらかに磨かれた岩の囲いに背中をつけて、アリアテは思いきり手足をのばした。湖のほとりで冷え切った体が、じわじわと血流を再開していく。
風呂桶のなかで、クオーレはどんよりと曇った空を映していた。
「サルベジア大陸は雨だよ」
「空って不思議だね。繋がっているのに、少し離れたところでは天気も違う……国も、そうだ」
アリアテが風呂桶を抱えると、クオーレはアマルドの美しい星空を映した。
「相容れないこともある。間違っていることもある。だけど、何かを正すことがお互いのためになるとは限らない」
「難しいね。頭を使うとお腹が空くよ」
つぶやくと、男湯から声がかかった。
「そうそう、ムジナ。あんまりお腹が空いてる時の長湯は毒よ」
はあい、と返事をしてお湯から上がり、浴衣に手を通す。竹製の浴衣はしんなりと肌に沿い、火照った体に心地好い夜風を通した。
「何でも竹で作っちゃうんだ。アマルド人は器用だね」
のれんをくぐって廊下で待っていると、間もなくメリウェザーたちも上がってきた。
「それにしても、風呂に入ったくらいじゃ落ちないのな」
彼らは一様に黒髪黒目のままだ。
「あんなに消耗してるのに魔法は解かないんだから、エルには感謝しかないわね……さ、早く済ませて部屋に戻りましょう」
食堂にはもう一組の客の姿があった。変わった連れ合いで、一人はサルベジア風の官吏の服を着て、向かいの一人は麻袋のような服装だった。
「あれ、ゲッテルメーデルのお役人じゃない?」
「まずいな。ガヴォに関わる人間かも知れん……殺気はないが」
深刻な話し合いをしているフリント兄弟のもとへ、カレンが合流した。
「……彼はまだ起き上がれないようだ。食事も、今晩は水があればいいと」
雰囲気を察して、カレンはエルウィンの名前を伏せた。
「ぎゅうう~っ」
緊迫する空気を、アリアテの腹の虫がガタガタに崩す。
「あっあっ……」
真っ赤になってうつむくアリアテの頭を撫でて、メリウェザーは台所から運ばれてくる膳を指した。
「この国の主食は穀物、中でもお米ね。ほら、玄米ご飯はおかわりできるって書いてあるわよ」
目の前に置かれた大きな膳の上には、とりどりの幸が載っていた。川魚の姿焼きに、粒の立った玄米飯、ぬかという酵素に漬けこんだ野菜、卵の蒸し料理などなど。
アリアテは慣れない箸で食事を掻き込んだ。
「これおいしい これもおいしい」
「落ちついて食えよ、変なとこに入るぞ」
「骨、気をつけてね。尻尾は残していいのよ」
傍目から見ると、兄弟か親子にしか見えない。カレンは微笑み、灼熱の茶碗蒸しをかき混ぜた。
水差しをもらって部屋に戻る道中、カレンは「名演だった」と褒めたが、アリアテたちは褒められた気がしなかった。
賑やかな客の去った食堂では、官吏と麻袋が膳をつついていた。
「お前、もう少しまともな衣装はなかったのか」
麻袋は不満を露わにした。
「君が町娘の格好をするか?」
男が嫌味を言うと、麻袋は粗末なフードの中でぎらりと目を光らせた。男はとっさに両手を挙げる。
「無駄口はやめる」
「……式越しでは食事も味気ないな」
ため息をついて、アイーシャは魚を一口頬張り、さらにため息を重ねた。
「リメンタドルムで私をかばったのは……メンテス様だったろうか。あの方に巣食っている何者かであれば、私など捨て置いたはず」
「さてな。まだ我々を殺しはしない、という信用を得るためか。いつでもメンテス様を危険にさらすことができる、という脅しかも知れん」
言って、ドーイは無意味に箸の先をカチカチと鳴らした。
「犬、と呼ばれた」
その飄々として無表情な顔が、いびつな笑みを浮かべる。
「私をド=イナと呼ぶのはメンテス様だけだ」
アイーシャは湯飲みのほうじ茶をすすり、真っ直ぐにドーイを見つめた。
「死ぬなよ」
「善処する」
ぱさ、と食事を終えた麻袋が、縫い合わせた袋の塊に戻る。中の呪符を取り出して、ドーイはもう一度魔力を込めた。
「しっかり港の宿場町を見張っておけ」
麻袋は元気よく了解のポーズを取ると、スキップしながら食堂を出て行った。術者の気が落ちこんでいるほど、なぜか式はテンションが上がるようだ。
ドーイは空になった二つの膳を眺め、苦笑した。
「いつか、生身でご相伴に預かりたいものだな」
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山中深くに分け入ると、捨て置かれた廃村がある。一匹のキトカ族は廃屋に滑り込み、懐から美しい石を取り出して眺めた。
(これを盗み出せば、あたしを船に乗せてくれるって言った)
キトカの少女は宝石を抱きしめ、廃村の井戸に向かった。宝石を巾着にしまうと、きつく口を縛って、真新しい桶ごと井戸に放った。ロープをたぐりながら慎重に、涸れ井戸の底に宝石を隠す。
(こんなところから、あたしを連れ出してくれるって……)
湖の向こうの国では、獣がヒトと変わらない暮らしをしていると聞いた。言葉を交わし、品物を売り買いして、家はヒト族の家と同じところに建っていると。宿にも泊まることができるし、役所にも軍隊にも勤められる。
――ただ獣であるのならば、ヒト族の築いた冷たい壁の向こうで暮らしていればよかった。
涸れ井戸の隣に、雨水の溜まった古い桶があった。少女は水面に映る自分の顔を見つめてこぼした。
「あたしみたいな黒猫でも、きっと、湖の向こうでは……」
夜の光を受けて金色に輝く目から、ぽたぽたと悔し涙が落ちた。