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リメンタドルムの頂上決戦

 軽い昼食を済ませ、一行はリメンタドルムに戻った。参加者用観覧席は、円形舞台の上を水平に眺められる特等席だった。

「前方と上方に魔法障壁がありますのでご安心ください」

 係員から物騒な案内があった長椅子に、アリアテたちは並んでかけた。

「ワクワクするね」

 浮き足立つアリアテに、メリウェザーは母親のような心地で軽食と飲み物を渡した。

 エルウィンは余裕があるようで、頭上に日よけの水を張り、双眼鏡をそれぞれに手渡した。すっかりくつろぎながら、アリアテたちは試合の開始を待った。

 空に乾いた銃声が響き、ファンファーレの代わりに、やや控えめな銅鑼が打ち鳴らされた。

「これより! 格闘技試合第一回戦を開始します! 格闘技は、体術のほか、気功術については、自らの一手を強化する目的でのみ使用可能です! 飛び道具や武具の代わりとしての気功は反則、ただし、場外への落下を防ぐ目的や、足場としての使用は許可されます!」

 ルールを述べ、司会は半鐘を打ち鳴らして舞台から下りた。両端の階段から参加者が登壇する。試合の直前に配られた手書きのトーナメント表によると、一回戦の第一試合は、ロードとサハブという男の対決だった。サハブはロードを軽く越える巨躯の持ち主で、体のあちこちにテーピングがほどこされていた。

「がんばれー!」

 アリアテの無垢な応援に、ロードはあの独特なサインで答えた。

「はじめっ!」

 司会の声で、両者は向き合い、じりじりと相手の間合いを測る。測りながら、ロードはすり足で距離を詰めていった。

 予想より甲高いかけ声とともにサハブが掴みかかると、勝負は早かった。ロードはサハブの丸太のような腕をいなし、岩壁のような体を布きれのように流して、うつぶせに倒した。サハブはとっさに起き上がり、間合いを取り直したが、足の間を抜けていく涼しい風に視線を落とした。

 会場から、女性客の悲鳴があがる。

「きゃあ、いやーっ!」

 ロードの手には見覚えのある帯が握られていた。サハブはずり落ちる道着のズボンを引きずって、すごすごと退場していった。

「勝者、ロード!」

「これ、返しといてくれないか」

 ロードは審判にサハブの帯をたくした。

 大仰な紙吹雪が舞い、会場はさらに緊張感のない笑いに包まれた。首を軽く左右に傾けながら、ロードは舞台を下りて控えの椅子に座る。勝利を喜んでいるアリアテが目に入ると、彼はまた、独特なポーズをとった手を120度くらいの傾きでピタリと止めて答えた。

 第二試合は両者の実力が拮抗し、勝ち進んだ方も満身創痍。第三試合は変わった雄叫びをあげる相手に、対戦相手が嫌悪と恐怖をおぼえてリタイアした。その後、第六試合まではそれらしい格闘戦が続き、気功術を扱う者も見られた。

 一回戦の勝者が出そろうと、間髪いれずに二回戦が始まった。満身創痍の参加者を除いては、全員が余裕のあるようすだった。

 第一試合、雄叫びを上げる男と対戦した満身創痍の男は、組み合って善戦したものの、力の差がはっきりと見える試合となって敗北した。

 第二試合、ロードは気功術を駆使する若い格闘家と対戦したが、相手の力みを利用し、うまくいなして攻撃を流す。そのうち、相手が疲れてきたところを、足払いであっさりと場外に落としてしまった。

「おーい、大丈夫か?」

 ロードは舞台の縁に立って下を覗きこむ。相手を気遣う余裕を残して、安定した勝利をおさめた。

 続く第三試合では決着がつかず、準決勝となる三回戦に勝負が引き継がれた。第一試合は、拮抗する両者の白熱した体術のぶつかりあいとなり、会場は大いに沸き立った。ようやく決着がつくと、のろのろとロードが舞台に上がった。

 準決勝第二試合、ロードは奇声を発する男、デョマと相対した。その瞬間、それまでののんびりしたロードの雰囲気は消え、会場ごと、空気が張りつめた。

「キェーッ キェーッ」

 覆面の隙間から鳴き声のような雄叫びを発し、デョマは地面を四つ足で這うように突進してきた。ロードはかわそうとする。それまでのように、攻撃を受けて流そうとはしない。だが、浮いた足に相手の腕が絡む。

 ロードは地面に引き倒された。すぐさま片腕で弾みをつけて持ち直したが、頸部にデョマの回し蹴りをくらった。

「ロード!」

 思わず身を乗り出したアリアテは、横のメリウェザーがかすかに微笑んでいることに気づいた。

「大丈夫よ、ムジナ。兄さん楽しそうだわ」

 舞台上のロードは、くらった足を掴み、振り回してデョマの体勢を崩そうとする。だが、デョマはぐにゃぐにゃと軌道の読めない動きをして、ロードから離れない。そのくせ、がっちりと掴んでも、関節を外して巧みに逃げてしまう。

「おもしれーじゃねえか」

 ロードは引きつった笑みを浮かべ、左腕を折りにかかったデョマの頸部に、鳥の足のように曲げた親指、人差し指、中指の三点を突き立てた。

点弛孔(てんしこう)!」

 ぐにゃり、とデョマの関節が弛んだが、それは本人の意志とは反していた。

「ギュ、エーッ」

「おらもう一発!」

 ロードはさらに、デョマの脇腹に点弛孔を突き立てる。

「気功を叩きこむわけじゃねえ、ツボを突いて相手の気を乱す技だ。ルール違反じゃねえだろ?」

「ニョホー…ッ」

 デョマは酔っ払いのようにぐったりと床に落ちたが、突然、妙な軌道から鋭い手刀を放った。避けきれず、ロードの道着が破れ、肩に血がにじむ。

 ロードは飛び退いて間合いを取り直したが、デョマはそれ以上、仕掛けてこなかった。

「ダメダメ、絞め技以外使う、血、流させる、勝つ、とちがう」

 デョマは階段のほうへ這っていき、ロードを振り返った。覆面をずらし、下弦の月のような口から、細い舌をちらちらとのぞかせる。

「お前、つよい、が、甘い」

 ニタニタ笑ってデョマが退場したため、ロードが勝ち残ったと判断された。

「さあ、いよいよ決勝戦です! 勝利をつかむのはどちらか、目の離せない展開が続いています!」

 司会の口上のあと、舞台にはロードと、実直な格闘技で勝ち上がってきたモガレが立っていた。モガレの一撃は、ロードがうまくいなすことができないほど重かった。

「気功か」

 ロードも気功を乗せた手で守りつつ、円を描くように相手の道着を掴んで、軸を回転させようとする。だが、モガレもまたロードに組みつき、重心を崩そうと力をかけ続けていた。

 ロードはとっさに組み合いを解き、重い正拳突きを放った。モガレはこれを受けず、避けてかわす。それを見たロードが繰り出したのは、左腕の強烈なアッパーカットだった。モガレは首を傾けようとしたが、顎に強烈な一撃をもらってふらつく。だが、倒れない。

 すかさず次のボディブローをしっかり入れると、ようやく、モガレはその場にダウンした。

「ふー、柔でだめなら剛で制せってな」

「ちょっと違うわね」

 勝利のポーズを決めるロードに、メリウェザーが苦笑を返した。

 ロードは観客の声援を受けながら舞台を下り、格闘技優勝者の証として、リストバンドに金糸の刺繍がほどこされた。観覧席に戻ってきたロードは、手首のバンドをアリアテに見せびらかす。

「すごい、ロード! 何て書いてあるんだ?」

「トロフィー、ね」

 横からメリウェザーも覗きこんだ。

 次の試合はひときわ歓声が高かった。

「これより、槍術試合第一回戦を始めます! 優勝者には、アイーシャ・リオナ様と手合わせする権利が与えられます!」

 口笛が飛び交うなか、槍術の試合が始まる。老若男女さまざまな種族が入り乱れる槍術使いのうち、半数はアイーシャに憧れて槍術を始めた者たちらしい。

 勝利を収めるたびに、勝者はバルコニーのアイーシャに向かって一礼した。

「ずいぶん礼儀正しい武技だな」

「カレン、あまり大きな声で言うと皮肉に聞こえマス」

 アリアテが買い占めてきたモミディムまんじゅうを頬張りながら、カレンとエルウィンは老夫婦のようにのほほんと試合を眺めていた。

 決勝に残ったのは同じ流派の師弟で、まるで演舞のような素晴らしい試合が行われ、勝利をおさめたのは弟子だった。師匠は感涙をしのばせながら舞台をおり、晴ればれとした表情の弟子の前には、アイーシャが立った。

「よろしくお手合わせ願います!」

 アリアテとそう変わらない年に見える弟子は、礼儀正しく一礼し、木の棒を突き出した。アイーシャは切っ先を合わせ、かるくいなして、手元に重い一撃をたたき込む。遠目にも棒の激しい振動がわかった。

 弟子は震える腕を制し、棒を取り落とすことなく構えを正した。さらに攻めに転じるが、やはりいなされ、棒を吹き飛ばされそうになる。

「すごい使い手だ」

 アリアテはアイーシャの所作に釘付けになっていた。アイーシャは、一歩もその場を動いていないのだ。

 やがて、アイーシャは満足そうな笑みを浮かべ、向かってきた若者の棒をたたき折ってしまった。武器を折られた若者は敗北を認め、すがすがしい表情で一礼した。

「素晴らしい試合だ!」

「素敵、アイーシャ様!」

 アイーシャへの称賛に混じって、若者の健闘をたたえる声も上がる。会場は熱気に包まれたまま、一日目のトーナメントが終了した。

「明日は花形のひとつ、魔道対決です! 皆さま、再び会場に足をお運びください! では、よい夜を!」

 空は夕暮れ、鳥の群れがどこかへと渡っていく。

 アリアテはまた、メリウェザーに手を引かれながら、ヒツジの群れのように出口へおしよせる人混みから抜けた。

「涼しい。もうすぐ夏なのに、肌寒いわね。港だからかしら」

 吹いてくる風に身をすくめ、メリウェザーは遠く、家々の向こうに広がる湖面を眺めた。

 ここ、サンタナシティから、巨大湖レピオレンを越えて、島国アマルドを経由し、サルベジア大陸へと渡る貿易船が出港する。絶え間ない両大陸の貿易のやり取りが、いまだ絶えぬ人々の絆の証。

 だが、その港に吹く風は冷たい。



 翌日も早くから出かけて、開場前、アリアテはリメンタドルムの周りを探索していた。珍しい食べ物を求めてさまよっていると、まさに、珍しい食べ物を噛んでいる男たちを見つけた。

「それ、美味しいの?」

 物欲しそうに近寄ってきた少年に、男たちは面食らう。

「美味いかって、クォーツハッカの根っこだよ。知らないのか?」

「知らない」

 三人組の一人が、芋のような見た目をした草の根をアリアテによこした。

「やるよ。食事した後に噛むんだよ。歯を磨くときに粉を使うだろ、あれは、この根を乾燥させて粉にしたものだ」

「これがそうなのか! へえ、ありがとう」

 屈託のない笑みを浮かべ、アリアテは、さらに質問を重ねた。

「それで、朝ご飯は何を食べたの?」


 嬉々としてメリウェザーのもとに帰ってきたアリアテは、抱えたカゴいっぱいに奇っ怪な見た目の「朝食」を携えていた。

「これ、サンタナシティの名物なんだって」

「おお、デロリイカに強飯を詰めて酒蒸しにしたアレか。うまいぞ」

「トクサとルベンとダーロックが教えてくれたんだ。食べよう!」

 木陰のベンチに座り、五人はもそもそとイカめしを食べた。イカの甘辛だれと、清酒の香りがする貝入りの強飯が何とも言えない調和を生んでいた。

「ムジナって、いつの間にか全然知らない人と仲良くなるのね。その三人もトーナメントに出ているの?」

「ダーロックは三日目の大食い大会に出るって言ってた。私たちがここに着いた時、大食いはもうエントリーが終わってたみたいだ」

 残念がるアリアテの頬から、米のひとつぶを取って、メリウェザーは微笑んだ。

(どこにでもいる、普通の女の子ね。食べることが好きで、誰とでも打ち解けられて、どこまでも自分にまっすぐ……)

 ――こんな少女の細く小さな肩に、いったい何が圧しかかっているのだろう。


 五人でクォーツハッカの根を分け合い、噛みながら、一行は会場に入った。アリアテは三人組を探したが、観覧席にはいないようだった。

 エルウィンは舞台脇に控え、他の参加者たちとルールの説明を受けていた。

 魔道試合の一回戦は静かに始まった。というのも、魔道士たちに出された課題が、それぞれの担当する檻に狼を戻すことだったからだ。狼たちは積極的に襲いかかってこないが、檻に戻そうと選手が動くと、警戒して低く唸った。

「さあ、いかに狼たちを傷つけず、素早く檻に戻すかが課題になります……」

 舞台上を見回していた司会は、一部の観客とともに口をあんぐりと開け、言葉を思い出すようにアナウンスを続けた。

「が、ここで、エルウィンが早い! すでに狼を檻に戻しています!」

 エルウィンは開かれた檻の扉をそっと閉じた。

 この狼は初めから檻を出ていなかった。尻尾を丸め、怯えきっているように見える。だが、多くの観客や審判はその事実に気づいていないようだった。

 アリアテが、なぜ狼は出てこなかったのかと呟くと、カレンが目を細めて答えた。

「獣は呪いに敏感だ。それと関わってはならないと、本能が告げるのだ」

 エルウィンは申し訳なさそうに檻を撫でて、舞台からおりた。次いで、狼とのにらみ合いに勝利した老人が、檻を閉めて舞台を下りた。

「お若いの、厄介なものを背負っておるようじゃ」

 老人は人のよい笑みを浮かべて、カンロのにおいがする水筒を傾けた。

「わしゃ、ひとと関わるのが好きで、毎年大会に出とるんじゃよ。いろんな者がおる。お前さんのようなのも、実はさほど珍しくはないのう」

 エルウィンは破顔して、呪いのいきさつをかいつまんで話した。核心に迫らない話でも、老人には、エルウィンのもどかしい苦しみがよく理解できた。

「何もかも望みどおりの生涯などありはせん。お茶は渋いくらいが美味いもんじゃ……お前さんは、誰も恨んでおらんのだろう。それなら大丈夫じゃよ」

 肩の荷がおりた。エルウィンは心からそう思った。エルウィンのこれからの人生と、この老人の人生とはこの先二度と交わらないだろう。ただ偶然出会い、偶然言葉を交わしただけ。老人は、当たり障りのない励ましをくれただけだ。だが、確実にエルウィンの心は軽くなっていた。

 続いて、桃色の髪をきつく結った若い女がさっそうと舞台から下りてきた。

 八人の参加者が四人に絞られると、準決勝となる二回戦は、魔道らしい対決方法がとられた。

「それぞれ、物質を魔道で使役して戦わせる、使い魔の対決です!」

 使い魔は、召喚師以外の魔道士でも扱うことのできる、自分の得意とする元素で構成した魔法の獣たちだ。たとえば、火でできたトカゲや、草木でできた人形など。自らの意志をある程度持っているタイプもあれば、術者が常に遠隔操作しなければならないタイプもあった。その戦闘能力や性質などは、大きく、術者との相性と実力に左右される。

 使い魔を含む攻撃手段としての魔道は、絶大な力ゆえ、簡単に学べるものではない。大会に出場できる実力を持つ魔道士たちは、なべて、特殊な訓練や修行を経てこの場に立っている腕自慢たちだ。おそらく、ほとんどが国軍にゆかりのある者だろう。

 エルウィンもまた、国軍に深い関わりのある男だった。

「二回戦、第一試合開始!」

 老人はキセルの煙を操って無数の狼を作り出したが、対する若い女の魔道士は、舞台の周りの土を削り、巨大なゴーレムを作り出した。

「今日は軍部の長であるシオ様も見えているのだ。悪いが、本気でいかせてもらう!」

 女はゴーレムに命じ、老人の狼たちを蹴散らした。狼たちもゴーレムの体を削いで善戦したが、本来は伝達や偵察用か、対人戦でも守りに特化して編み出された使い魔なのだろう、分が悪かった。ゴーレムは多少、体が欠落しても痛手にはならない。

 勝負にならないと判断したのか、老人はあっさりと負けを認めた。

「ほほ、お前さんの魔道となら、相性はそこそこだったと思うんだがのう」

 老人は愉快そうに笑って、エルウィンの健闘をいのり、去って行った。

 第二試合、エルウィンと相対したのは、ライターを構えた若者だった。自然界の四大元素を召喚して操る魔道は、強大なだけ手間と技術と魔力が必要になる。そのため第一試合でも見たように、術者はあらかじめ、自分と相性のよい「素材」を持ちこむのがセオリーだった。

 相手がライターの力を借りて炎の鷹を生み出すと、エルウィンも水筒の中の水を操って鷹を作り出した。二羽の鷹は上空で激しく打ち合い、炎の鷹が墜落する。

 相手はさらにライターの炎を足して、鷹を虎に作り替えた。一方のエルウィンには、もう足してやる水が残っていない。だが、水の鷹は鋭い軌跡を描いて滑空し、炎の虎を貫いて天高く飛翔した。

 鷹は空中で旋回し、何度も燃えさかる炎を貫いて、やがて虎を消し去った。

「勝負あり! 勝者、エルウィン!」

 美しいサーカスのような光景を目の当たりにした観客たちは、熱のこもった、しかし柔らかな拍手をエルウィンに送った。

「見事な魔道でした。失礼ですが、軍部ではお見かけしたことがありませんね」

「ええ、私は軍人ではありませんカラ」

 ひまわりのような笑顔にほだされ、若者は自分まで笑顔になって舞台をおりていった。

 続いて舞台にひらりと駆け上ってきたのは、決勝の相手となるゴーレム使いの女だった。

「あたしはリクリル、魔道部隊のゴーレム使いだ」

「私はエルウィン、ヴィヴィオルフェンの宿屋デス」

 リクリルはエルウィンの、干し藁のような髪の色を見て首を傾げた。

(相当な水魔道のセンスがあるが、髪の色が少しも青くない……)

 水魔道師の力量は、その髪の色に現れる。政府軍第二隊、通称魔道部隊を率いる隊長は水魔道師で、髪は濃い水色をたたえている。髪が青ければ青いほど、その力は強大だと言われている。

「……あたしは今日、勝つよ」

 リクリルは先ほどよりも巨大なゴーレムを作り出し、全身全霊をもってエルウィンに挑む。エルウィンもこれに応えて、何もない空間に諸手を広げた。

「食らえ、剛水の龍。其の牙を給い其の爪を用い、踊る者はなし。束ね縛りて滝は落つ、klc;ls」

 詠唱を終えた頃には、観客のどよめきも、港街の喧騒も遠く、無音にして不穏な空気が漂っていた。水魔道は周囲の音を奪う。やがて、エルウィンの体をなぞるように水があふれ出し、身を躍らせる瀧が現れた。

「構わん、打ち砕け!」

 リクリルの命令で突進してきたゴーレムを、瀧はその水量で留め、土くれと石の体にぐるりと巻きついて完全に動きを止めてしまった。

「水はゴーレムを固めるだけだ、勝負はついた!」

 意気込むリクリルだったが、瞬間、ゴーレムの体に亀裂が走った。縦横無尽に走っていく亀裂、崩れていく体。ゴーレムは泥となり、舞台に無残な姿をさらした。

「ばかなっ」

 リクリルが首を振ったのは、自分の実力不足に対してだった。エルウィンは水で泥を押し流し、舞台をきれいに掃除してから、瀧を空気中に返した。

 舞台を下りたあと、刺繍を待つエルウィンの隣にリクリルが立った。

「あなたほどの魔道師が、なぜ軍に属していないのですか」

「この力を惜しいという声もありマス……ですが、私には、せめて仲間の助けになるだけの力があればいい。そんなものですヨ」

 ひまわりのような笑みを浮かべるエルウィンを、リクリルは目を見開き、はっとしたように見つめた。しかし、小さく首を振って踵を返した。

(一瞬、似ているように思ったが……あの方はご子息を亡くされたはずだ。同じ水魔道師、元をたどれば血縁ではあるのだろうが)

 リクリルは頭を振り、鍛錬のためにリメンタドルムの外周を走り始めた。


 次のトーナメントは、昼食を挟んだ後のヒト族重量挙げだった。

「次は我が妹の出番だ。応援してくれよな」

 ロードは人数分の野ウサギカレーを買ってきたが、肝心なメリウェザーにはすこぶる不評だった。

「徴兵の時のことを思い出すじゃない。何日もお風呂に入れなくて、汗と泥まみれで……気分が塞ぐわ」

 そう言ってため息をつきながらも、メリウェザーはカレーを平らげた。一方で、カレンはカレーに手をつけられずにいた。

「香辛料が効いているものは、苦手なんデショウ」

「そうか。気がつかなかった、すまない」

 カレンは首を振ったが、ロードは自分の皿を置いて走っていった。少しして、野ウサギシチューを一皿買って戻ってきた。

「つくづく思うが、ヒトの料理はおもしろいな。食べることを楽しもうという考えは、とてもおもしろい」

 カレンはシチューを一口ずつていねいにすくって食べながら、満足そうに微笑んだ。カレンの食べられなかったカレーは、すでにアリアテの胃袋に消えていた。


 午後、筋骨隆々を絵に描いたような猛者たちに混じって、メリウェザーはちょこんと控えのベンチに座っていた。女性の参加者は何人か居たが、鍛え上げた筋肉を見せつけない、普段着のままのメリウェザーは浮いている。

 重量挙げ試合は、参加者全員が一斉に競い合う。舞台には人数分、見た目の二、三倍は重いと言われる【重鉄】が小さいものから順に並べてあった。鉄球の両側に飛び出した取っ手を掴み、頭上に掲げることができれば成功となる。

「それでは重量挙げ試合、始めっ」

 司会の声とともに、美しい腹筋を見せつける衣装の女たちや、小山のような男たちが、うんうんと唸りながら重鉄を持ち上げていく。地味な競技ではあるが、参加者たちの芸術品のような肉体美は見応えがあり、それぞれが鉄球を掲げるたびに笑顔で決める、独特なポーズも華があった。

 舞台の外側へと向かっていく参加者は数を減らしていき、古傷だらけの男と、小山のような男、三つ編みの中年の女性、そしてメリウェザーが残った。

 鉄球が抱えきれないほどの大きさになってくると、小山のような男が脱落した。三つ編みの女性はそれを掲げることができたが、次の鉄球を持ち上げる余力を失ってしまった。古傷だらけの男は鉄球を掲げ、おろし、にやりと笑って次の鉄球に取りかかった。

 メリウェザーもまた、次の鉄球の取っ手を掴む。

 先に鉄球を抱え上げたのは古傷の男だった。

「ぐおお、うおおお!」

 雄叫びを上げながら、鉄球をみぞおちへ、そして頭上へと持ち上げ、規定された二秒間掲げた。会場からは、人間の限界に挑む者への称賛の拍手が起こる。

 男は勝ち誇ったようにメリウェザーを振り返った。

「お嬢ちゃん、善戦したが、あんたみたいな細腕じゃあ……」

「うーんしょ」

 メリウェザーはひょい、と鉄球を持ち上げ、そのまま頭上に掲げて、くるりと回ってみせた。古傷の男は唖然としている。おそらく、会場の誰もが彼と同じ表情でメリウェザーを見つめているだろう。

 次の鉄球は舞台の端に置かれた、最も重い球だった。大人二人が手を回して抱えられるかどうか、という大きさだ。古傷の男は果敢に挑戦したが、拳が入る程度に地面から浮かせるのがやっとだった。

「さあ、注目のメリウェザー選手。ここで勝負は決まります! 果たして、カロテ選手より高く持ち上げることができるか……」

 観客が注目するなか、メリウェザーは大きくのびをしてから、鉄球の頼りないような取っ手を掴んだ。足を開き、腰を落とし、すっと息を吸う。

「えいやっ」

 可愛らしいかけ声とともに、鉄球はブウンと空気を揺らして持ち上がり、会場にどよめきが広がっていった。背筋をのばしたメリウェザーの頭上から、鉄球は大きな影を落としている。

「あ、挙がった!! ヒト族重量挙げ試合、優勝はメリウェザー!」

 メリウェザーは鉄球をそっとおろし、観客、対戦相手、審判にとそれぞれ一礼してから舞台を下りた。可憐な女性の豪腕ぶりに、しばらく会場は沸いていた。

 観覧席から大きく身を乗り出して、アリアテは腕ごと手を振る。その腰帯を、ロードが何気なくつまんで支えていた。

「本当は男だとしたってすごい! あんなに力があるんだね」

「ああ、単純な力なら俺より強いぜ、あいつ。鍛えてるだけじゃねえ、体の使い方のセンスがずば抜けてるからな」

 腰を抜かした対戦相手が、鉄球にまじって舞台から運ばれていく。その様子を眺めていたアリアテは、悪戯っぽい目をしてロードを振り返った。

「ロードも勝てない?」

「俺は技巧もあるから、総合点なら負けないぜ。何だよ、見栄じゃないぞ」

 その後、鉄球はより巨大なものに置換えられ、獣族の重量挙げ試合が始まった。ヒト族を超越するレベルの獣たちの競技は、もはやパフォーマンスの領域だった。

 狼のヴォルフェ族や、美しい縞模様のラフト族など、大型肉食獣の種族や、ラティオセルムでは見かけない大型草食獣の種族が勝ち残り、冗談のように巨大な鉄球を持ち上げていく。

「ヴォータン族のジレ選手が先行しています!」

 立派な角とひだのある耳を持つ、黒牛の獣族は、他の種族に先んじて最後の鉄球を持ち上げた。後ろ足のひづめを円形舞台に食い込ませながら、血管の浮き立った太い腕で鉄球を掲げ、十秒以上もその姿勢を保ってみせた。

 アリアテは再び身を乗り出し、純粋な尊敬の目でヴォータン族の勇姿を見つめる。

「すごいな。あんな種族がいるなんて」

「……こんな風に、ヒトと獣じゃ初めから勝負にならねえ。だからこそヒト族は技術や法律をもって獣族を牽制してきた。ヒト族の権力が強いサルベジアじゃ獣族の迫害にまで及んじまった例もあるが、ラティオセルムはお互いの関係がうまくいっていた」

 アリアテは笑顔を曇らせた。ロードの目は、円形舞台よりずっと先のラグナレクを見つめている。

「そのバランスを崩そうとしている。あの男が」

 言って、アリアテはバルコニーを見据えた。重い外套を部下に持たせ、大臣メンテス・ガヴォは足を組んで競技を眺めていた。

「獣族をヒト族と平等に、という名目で、元々力のある獣族の立場をヒト族より優位に引き上げようとしているのさ。そうなりゃどうなっていくか、ラグナレクがいい例だ……争いの火種は、そういう単純な歯車の狂いで充分なんだ」

「幸い、誇り高い獣族たちは盗賊に身を落としたりはしマセン。ですが、もし彼らが暴徒と化せば……我々には止める手段が限られている」

 エルウィンは水で人形をつくり、軍勢をつくり、二つの勢力をぶつけ合ってしぶきに変えた。

「戦乱が起こる」

 アリアテは小さく震えた。漁村にいた頃、野盗と戦う大人たちの姿を見たことはあっても、それより大きな戦は知らない。知らないはずだ。それなのに、身が凍るほど戦争が恐ろしいものだということがわかる。

 ロードはバルコニーのメンテスを睨んだ。

「獣族もヒト族も相当死ぬぜ。ただ、そんなでかい戦争を目論む理由が見えてこねえ。ヤツにとって不都合な勢力を皆殺しにしたいだけなら、やり過ぎだ」

「……彼にとって、ではなく、別の者の企みだとすれば」

 カレンは囁くように言った。

「彼を使って、この国に復讐を果たそうとする者の意図であれば、より多くの犠牲があってこそ」

 目を見張ってカレンを振り向いたロードに、しかし、カレンは苦笑して首を振った。

「私にはヒトの世のことはわからない。単なる憶測だ」

「だが、あり得ねえことじゃねえ」

 ロードの震える声を、エルウィンが継いだ。

「最も可能性があるとすれば、それは現女王シーナということになりマス」

 頷いて、ロードはこちらへ戻ってくるメリウェザーに手を振った。

「この国はたった十年で変わりすぎた。砂漠化も疫も、人為的な災害だとしたら……もっと調べる必要があるな」



 その夜、こっそり宿を抜けだそうとしているロードを、エルウィンとアリアテが掴まえた。

「先日もどこかに出かけましたネ? 休まないと、体力を消耗しますヨ」

「どこに行くんだ? 私も行っていいか?」

 ロードは後ろ頭を掻き、仕方なく二人を連れ出した。彼が向かったのは、日中にアルバイトをしていた食事処だった。店の軒にはずらりと赤いランプが提げられ、呼び子が客を引っかけていた。

「昼の顔と夜の顔、ってな。いい稼ぎになるんだぜ」

 裏戸を押し開けて、ロードは手早くウェイターの服に着替える。

「お前たちは俺の客ってことにしよう。ここには街中の噂や、サルベジアの噂が届く。情報収集にはもってこいだ」

 念のため、アリアテはエルウィンに髪や肌、目の色を変える魔法をかけてもらい、ロードの後に続いた。

 従業員通路から店に出ると、こじゃれた音楽がかかった薄暗い室内で、きらびやかなドレスの女性たちが客をもてなしていた。そのうちの一人がロードに気づき、しなをつくって呼びかけた。

「ハイ、ロード! 格闘技試合のトロフィー、見せて」

 ロードはアリアテたちを連れてテーブルに行き、リストバンドの刺繍を赤いドレスの女に見せた。女は、自分の客にもそれをよく見せる。

「おお、本当だ。素晴らしい!」

「どうも」

 客は何か注文し、頷いたロードはカウンターの向こうから高そうな酒瓶を持ってきた。栓を抜き、客の乾杯を受ける。

「今日は、魔道試合の優勝者も連れてきたぜ」

 言って、ロードはエルウィンを突き出した。きょとんとしているエルウィンを、水色のドレスの女が隣に座らせた。

「すごおい! トロフィー、私にも見せてください!」

「わあ、お兄さん、きれいな髪ねえ。どんな風にお手入れしてるの?」

 さらに黄色のドレスの女がエルウィンの隣に座ってもてはやす。ロードはそっとその場を離れ、アリアテを別のテーブルに座らせた。

「やだロード、このコどうしたの?」

「俺の弟。ちょっと預かってくれないか? 専属のウェイターとして使ってくれていいぜ」

 アリアテは言葉を呑みこみ、ぎこちなく頷いた。紫のドレスの女は破顔して、アリアテの頭をよしよしと撫でた。

「全然似てない。かわいいコね」

「最終日の剣技の試合に出るんだ。応援よろしくな」

「あら、がんばってね! ほら、フルーツ食べない? お金はこのおじさんのおごりだから気にしないでいいのよ」

「おいおい、俺はおじさんってトシじゃないぜ、ピアッチェちゃん」

 客と談笑しながら、紫ドレスのピアッチェは、冷やしたボトルから薄桃色の酒を注いだ。

 置き去りにされたアリアテは、心許なくロードの背中を視線で追いかける。その瞬間、アリアテは身を固くした。たくましい背中が通り過ぎていくテーブルに、否応なしに目立つ男がどっかりと腰をおろしていた。

(メンテス・ガヴォ)

 アリアテは逆立つ神経をおさえるように腕をさすり、ピアッチェがすすめてくれた果物を頬張った。時々、猫のように頭を撫でられながら、アリアテは耳をそばだてる。何か会話があると、そちらを見ずにはおれなかった。

「お宿で、戦女神さまがお待ちでしょう?」

 この店の中でも最も上品で、最も美しい女がメンテスの接客をしていた。彼の両脇には新人らしき、若い女が並んでいる。コの字の長椅子の端には、それぞれ厳めしい顔つきの痩躯の男と、あまり品のなさそうな金髪の中年男が控えていた。

 メンテスは油断しきった様子で、酒瓶から直接、濃い色をした葡萄酒を飲みほす。

「あれは私の女ではない。こうして肩を抱こうものなら、のど笛に穂先を食らうやも知れん」

 笑って、メンテスはそばに侍る女の肩を抱いた。どんな客でも応対慣れしているといった風の女は、小娘のように赤面する。相手が身分の高い人物だから緊張している、というわけではなさそうだった。

「顔が赤いぞ。酔いが回ったか」

「……ガヴォ様、お控えください」

 メンテスが女に迫ると、痩躯の男がくたびれたように忠告した。しかしメンテスは片手を振って、女を伴って席を立った。二人は上階へとのぼっていった。

「ねえ、ピアッチェ」

 アリアテはピアッチェの肩を叩いた。

「二階には何があるの?」

 昼間、食事をしに訪れた時は気づかなかった、上階への階段。しかしアリアテが尋ねた途端、ピアッチェは仰天したような顔をして、次には客と一緒に笑いだした。

「フルーツが全然減ってないわよ、遠慮しないでお食べなさい!」

 勢い込んで果物を食べさせられ、アリアテは軽くむせる。そのすぐ横をメンテスの侍従たちが通った。金髪の男は酒で上機嫌になっていた。一方で、痩躯の男は憔悴しきった様子で、メンテスの派手な外套を抱えてため息をついていた。彼はウェイターをつかまえ、「明け方に迎えに来る」と言い置いた。

「あの人、見たことがある」

 実際、アリアテは痩躯の男をリメンタドルムで見ている。バルコニーの観覧席で、メンテスの隣に控えていた。

 水を向けてみたピアッチェは、次の果物をフォークにさしながら答えた。

「そりゃあそうでしょう。お大臣さまの側近で、軍部の統括をなさってるシオ様よ。アイーシャ様と同じく、護衛としていらしたんでしょう」

「そうか。シオ様だったね」

 アリアテは知った風で頷き、いやに水気の多い果物を咀嚼する。シオと金髪の男が出て行った出入り口を眺めていると、客の男が講釈をたれ始めた。

「君はまだ赤ん坊か、生まれていなかったかも知れんが、シオ様はもともと、ラティオセルムで王族の警護をなさっていたんだよ。ひどい内乱があった時はサルベジアの政府機関へ出向なさっていてご不在だったが、あの方がご無事だったからこそ、国の立て直しは早期に進んだのさ」

「私たちにとっては雲の上の方だけど、偉ぶったりせずに、常に私たち民のことを考えてくださる方なのよ。軍部の長がシオ様なら安泰だわ」

 ピアッチェが付け足した。どうやら、シオという男は人望が厚いらしい。立場上、メンテス・ガヴォに従うしかない。だが与してはいない、ということだろうか。

 東の空が白んでくる頃、ロードは酔い潰れたエルウィンを背負い、「二階には何があるんだ?」と聞いてくるアリアテをごまかしながら宿に戻った。



 武芸大会の三日目、アリアテはリメンタドルムに居なかった。

「良かったの? 大食い試合と障害物試合、どっちもおもしろそうだけど。兄さんとカレンは試合を見に行っちゃったわ」

「少し、考えを整理したくて」

 アリアテは鬱々とベッドの上で寝返りをうち、二日酔いで起き上がれないエルウィンを眺めた。

「昨日、酒場でメンテス・ガヴォと部下たちを見たんだ」

「まあ。夜中になって出かけていったと思ったら、そんなところにいたの」

 咎める口調のメリウェザーは、アリアテが酒を嗜まなかったことで少しだけ溜飲を下げてくれた。

「そこで見かけた、シオという男が気になった」

「軍部の統括官、ヴェイサレド・シオ様ね。大会の観覧席にも護衛としていらしてたわ」

「彼は、良い人物?」

 メリウェザーは少し考えてから口を開いた。

「まっとうな方よ。正義のためになら命さえなげうてる、守るべきものを守ることを誇りとする尊い方だわ……シオ様がメンテス・ガヴォに従っている事実は、私にとって受け入れがたいことよ」

 アリアテの隣に腰かけて、メリウェザーは頬杖をついた。

「立場のうえで仕方のないことだと、わかってる。シオ様が諫めたところで、ガヴォが止められないということも」

「昨日、メリウェザーが戻ってくる前に、カレンが気になることを言っていたんだ。ガヴォの背後に、今の国の混乱を招いている黒幕がいるんじゃないかって」

 ぴくり、とメリウェザーの指先が跳ねる。

「エルウィンは、黒幕として有力なのは女王シーナじゃないか、って」

「たかだか大臣の権限だけで、たしかに今日までの混乱は招けない。法の制定には女王の許可が必要だし……私は、女王陛下がガヴォの言いなりになるしかない状況に追い込まれているんじゃないか、と想像していたわ」

「それもあり得る。いずれにせよ、私たちはまだ何も知らない。もっと情報が必要なんだ」

「長い旅になりそうね。さ、起きて。朝ご飯が遅くなっちゃうわ」


 その日、アリアテはメリウェザーとともにサンタナシティを見物して歩いた。

 図書館に立ち寄り、十年前の内乱についての資料を探そうとしたが、表面上の知識しか得られなかった。シーナの即位については、一冊の本にまとめられていた。アリアテはその一冊を借りて、潮風の撫でる港を散策した。

「十年前、何が起きたのかしら」

「メリウェザーも知らない?」

「私は八つだったわ。兄さんは十四。わかっているのは、王族の本家と分家の内乱だったこと。分家が本家に反旗をひるがえし、国王が誅殺されたこと。分家は城下町の民にも牙を剥いたわ。そこで、メンテス・ガヴォ率いる【精兵連(せいへいれん)】が民を、ひいては国を救った」

「救国の英雄、って書いてあったね」

「当時は、誰もガヴォを疑わなかった。本当に英雄だと信じていたのよ、私も」

 でも、とメリウェザーは埠頭の係船柱(ボラード)に腰かけ、レピオレン湖の水平線を眺める。

「それからたった十年で、この国は変わってしまった。まるで悪夢のように……海が消えて、死の砂漠が広がって、疫が流行って……ヒト族と獣族の築き上げてきた関係も崩れ始めている。きっと、それだけじゃ済まないわ」

 アリアテは並んで水平線を眺め、赤い眼を細めた。

「もし、私たちのやろうとしていることの結果が国賊になることだとしても、ついてきてくれる?」

 メリウェザーはおもむろに立ち上がり、アリアテにひまわりのような笑顔を向けた。

「それなら尚更よ。あなた一人にやらせはしないわ」

 港からの帰り道、アリアテとメリウェザーは賑わっている市場を通った。露天の品物はどれも珍しく、セピヴィアで採れた鉱石のかけらや、モルドロ製の革の武具などが安価で売られていた。

「良さそうなものだけど、使い道がわからない」

「ある人には宝の山ね」

 ぶらぶらと市場を歩いていくと、噴水のある円形広場に出た。異国情緒あふれる音楽が流れ、人だかりができている。近寄ってみると、大道芸を披露しているらしかった。

 メリウェザーはひょいとアリアテを肩車する。

 人山の向こう、噴水の縁に立ち、派手なオレンジ色の衣装を着た道化が演技していた。白塗りの仮面に、いかにも描いた口が奇妙な笑顔を浮かべている。

 道化の手には、存在しない鳥かごがはっきりと見えるようだった。道化は嬉しそうに鳥かごをあっちへ置いてみたり、こっちへ移してみたりして、首を傾げてつまみあげる。中の鳥を移そうとして、逃がしてしまった。慌てて鳥を追いかけて、噴水に落ちそうになる。縁のぎりぎりにつま先立ちしてみせ、わざとらしく腕を大きく振ったりして、踏みとどまってふう、とため息をついた。それも声には出していないのだが、息を吐いたように見えた。

「すごい、器用だなあ……本当にそこにあるみたいだ」

 娯楽とは縁遠い暮らしをしてきたアリアテは、強く感銘をうけた。リメンタドルムで見た踊りにしてもそうだ。こんな風に、見る者を感動させ、楽しませることができる、素晴らしい人々がいるのだ。

 やがて、道化は向かってきた鳥につつかれて、大騒ぎしながら後ろにひっくり返った。

「あっ おっこちる」

 子どもが叫んだ。しかし、道化の体はひらりと宙返りして、見事、噴水の装飾柱に着地する。それも見事なのは、道化が自らの技術で宙返りしたようには見えなかったことだ。道化自身も、いまいったい何が起こったのか? ときょろきょろ辺りを見回し、肩をすくめてみせた。

「わあ、こんどは、おりられなくなってらあ!」

 子どもが嬉しそうに道化を指さして笑った。小さな指が示す先で、道化は困ったように首をかしげ、足をのばしては落ちそうになっている。

 やがて下りることを諦め、道化は手拍子を促し始めた。アリアテもつられて、大勢の人々といっしょに手拍子を打ち鳴らした。音楽が大きくなり、道化は柱に設けられた器状の中段の縁で、器用に踊りを披露した。滑稽でありながら、しなる体は美しい曲線を描く。

「いいぞーっ」

 いつの間にか、大人たちも夢中になって手を打っている。踊りが終わると、道化は深々と一礼し、ひらりと噴水から着地して、また深く腰を折った。拍手喝采とともに、アコーディオン奏者の足下に置かれた楽器の容れ物へ硬貨が投げ入れられる。中には金貨もあった。

 人垣が割れ、人々が笑顔で去って行く。道化はいつまでも子どもたちに手を振っていたが、人の顔の向こうにアリアテを見つけて、一瞬動きを止めた。

 アリアテは地面におろしてもらい、道化を振り返ってはじめて、あちらがこちらをじっと見つめていることに気づいた。仮面で正確な視線ははかれないが、確かに、目が合ったと感じた。

 アコーディオン奏者が投げ銭を集め、楽器をしまって道化を促すと、道化はごく自然な動作で胸に手をあてた。はっきりと、アリアテに向かって敬礼し、何事もなかったかのように去って行く。

 アリアテには何が起きたのかわからなかったが、後ろのメリウェザーは怪訝な顔をして首をかしげていた。

「おもしろかったね」

 無邪気に笑うアリアテに微笑み返して、メリウェザーは褐色の細い手をひく。昼時が間近になって人が増えてきた、はぐれないように手を繋ぐ。その手が、つん、と引かれた。アリアテは噴水の脇に整然と咲き誇る花を見ている。

「きれいな花だ」

 オレンジの大輪を咲かせる花は、どこかあの道化を思わせた。

「オルガグル=エティ。十年前、国王城にだけ植えられていた百合の一種よ。内乱で亡くなった人々の慰霊のために、いまはラティオセルムじゅうで植栽されているわ」

「夕暮れのオルガ……」

 姉と同じ名前の花を、アリアテはまぶたに焼きつけた。自分の知っている晩年の姉の姿は、道端で踏みにじられてしまったような、小さな花のそれだった。これほど美しく、強く、優雅に咲き誇っていた頃が、姉にもあったのだろうか。

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