ロワンジェルスの銀狼族
カレンは謎多き獣族だった。
どこから来て、なぜロワンジェルスで隠れ住んでいたのかは語られない。
「食べないならくれ」
立派な牙を持っているが、肉を好まず、野菜や果物ばかり食べている。
「それもくれ」
「こら、アリアテの分はこっちにあるでしょう。カレンも何でもあげないの」
「野菜スープのお代わりはたくさんありマスからネー」
東の地平から日が昇る前、空とクオーレが深い青を抱いている頃に、アリアテたちはすでに朝食をとっていた。というのも、すでに港町サンタナシティに到着し、開門まで時間を潰さなければならなかったためだ。
門の外で野営している者は何人も居たが、アリアテたちのように荷馬車に集い、脇の地面で食事をしているような者は居なかった。
「高そうな馬車ばかりだなあ」
「大会が近いからでショウ。この先のレピオレン湖を航行する大きな貨物船、サンタナミルフ号は人も運びマスが、観覧客全員を一度には乗せてこれマセンからネ。何日も前からこうして、ラティオセルムに渡って待機していたんでしょうネ」
「砂にのまれる以前は、ラグナレクやヴィヴィオルフェン、ロワンジェルスの他にも小さな宿場町がたくさんあったの。それでも宿がいっぱいで、ラグナレクのほうまでお客さんが流れてくるのよ」
アリアテは集結した馬車を見回した。
「全然知らなかった」
それだけ大きな大会で、皆の関心があることも。通ってきた道に、かつて人々が暮らした小さな町がいくつも沈んでいたことも。
砂地を東風が吹き抜けていくと、馬車のいくつかは迷惑そうに窓を閉めた。風は東から朝日を連れてきて、新しい光を地上に運んでいく。
アリアテは砂つぶを浴びながら、食事をかばうエルウィンに木皿を差し出した。
「お代わり。すごく美味しい」
「武芸大会! トーナメントに参加される団体はこちら!」
検閲を通過し、巨大な門をくぐってすぐ、大通りで声を張り上げている男たちがいた。
「武芸大会の参加者はこちら!」
アリアテたちはその前を過ぎ、宿を探した。
「さすが貿易都市ね……」
メリウェザーは料金表を見て顔をしかめる。エルウィンは行商人をつかまえ、穴場の宿がないか聞いていた。
アリアテはさっそく、「昼に食べる美味しいもの」を探して、食事処の集まる通りをさまよっていた。懐のクオーレが呆れたように言う。
「ムジナ、すごい食欲だな」
「やる気を出したら、もうお腹がすいてきたよ」
トマトと魚介類の香ばしく甘いにおいに誘われ、アリアテはふらふらと港にほど近い食堂に向かった。店は仕込み中で開いていないが、きっとここにしようと、さっそく予約の看板につたない字で「ムジナ」と書きつけた。
「ちょっと心配になってきたぞ。頭が胃袋になったんじゃないだろうな」
「魔剣のせい、魔剣のせいだよ」
アリアテは笑って、次は武具屋の多い通りを歩いた。クロノクロム製の盾や剣が多く、そこには大都市を警護する兵士たちの姿があった。
「よお坊主、お使いか。果物ナイフから大剣まで、ここは切れ味抜群だぜ」
時々、気のいい兵士に品物をすすめられたりしながら、アリアテはあちこちきょろきょろと見て回った。
と、突然、何者かに腕を掴まれた。フードを深くかぶり、マントで体型を隠して、いかつい革手袋をしていたが、アリアテは直感でそれが女だとわかった。
「何を」
大声は出さず、問いかける。女は何も答えず、懐から首飾りを取り出した。深い青をたたえた雫のような宝石は、突然まばゆい光を放つ。光はひとつではなく、アリアテの懐からも強く差した。女はとっさにアリアテから距離をとった。
アリアテはそっとクオーレをおさえ、女に尋ねた。
「その石は……」
女は何も答えず、現れたのと同じように、人混みにまぎれて消えてしまった。
「ムジナ、今強く海の気配を感じた。実体のない気配だけを……」
「クオーレのような宝石を持っていた」
「【海の雫】か……近くで感じたのは初めてだ。彼女は何か知っているはずだ」
だが、人波に女の姿は見つけられない。無地のマントに特徴のない革手袋、目にした姿も手かがりにはならない。
アリアテは宿屋の通りに戻り、目印の大きな荷馬車を探した。なだらかに下っていく石畳の先で、聞き覚えのある鳴き声を聞いた。立派な厩舎を持ち、よく手入れされた植栽に囲まれた小ぎれいな宿だった。サンタナシティの宿は店先に料金表を置いているが、この宿は平均よりもやや高級な部類に入る。
(私の食費でカツカツなのに、こんなに立派な宿……)
厩舎を覗くと、見間違えようのない荷馬車と、三羽のレフトバードが見えた。鳥たちには専門の世話係がついており、羽を梳かれて心地よさそうにしている。
恐るおそる宿に入り、ムジナと名乗ると、店主は一階の角部屋を案内してくれた。色調のととのったエントランスホールから、窓の向こうを水が流れ落ちる廊下を通り、ガラス張りの中庭を眺めながら突き当たりを曲がる。扉はがっしりした木製で、金属の光沢をおさえたゴールドグラナイトのプレートがかかっていた。
店主が去ってから、アリアテは扉をそっと開けた。
「あら、いま迎えに行こうと思ってたのよ」
メリウェザーがにこにこしながら荷物をほどいていた。
「こんなにすごい宿、初めてだよ」
「今は観光シーズンですカラ、空き部屋じたい少なかったんデス。ここの店主さんはヴィヴィオルフェンにゆかりの方で、レフトバードも気に入ってくださって。格安でご厄介になれたんですヨ」
「ただし、今の時期は特別営業なのよ。お食事がつかないの。外で食べましょうね」
アリアテがさっそく食堂に名前を書いてきたことを報告すると、二人はひまわりのような笑顔を浮かべた。
「そういえば、カレンは?」
「武具を見たいと出かけましたヨ。会いませんでしたカ?」
カレンは獣族にしては力が弱く、足も速くない。特殊な力も持たない。獣らしく荒々しい、激しい動きは苦手で、狩りにも鋭い爪や頑丈な牙は使わない。
エルウィンに持たされた資金で、カレンは白木の短弓と、訓練用の、やじりのない木の矢束を買った。安っぽい矢筒を背負って、カレンは大きな掲示板の前で足をとめた。武具屋の通りや街門には、さまざまな依頼が貼り出されている。落とし物から人捜し、最も報奨金が高いのは、害獣・魔獣の討伐依頼で、報奨金は街の役場から支払われるとあった。
カレンは手配書の一枚を剥がし、巨大な門からいちどサンタナシティを出た。しばらくして、彼は冗談のように大きな鳥の足を束で持ち帰った。行商人や船乗りの人垣に賞賛されながら、役人が苦労して革袋を運んでくるのを待つ。
「あのばかでかいラケチキを、こんな木の枝で仕留めたのかい」
「助かった、これで護衛の数を減らせるよ」
特に何を答えるでもなく、カレンは役人の運んできた革袋を指した。
「私にはヒトの通貨は数えられない。確かに、この額で間違いないか?」
「ええ、大丈夫ですよ。この街は獣族であるクレオ様の管轄です。ごまかしたりなど致しません」
「そうか、では、もらっていく」
敬礼した役人を真似て、カレンは胸に手を当て、重い革袋を受け取った。おそらく、買いそろえた武具の値を差し引いても、収入になるはずだ。
(これで、少しは路銀の足しになるだろうか)
革袋を抱えて宿に向かうカレンは、雑踏を避け、真昼でも影のさす小道を歩いていた。そこに、ゆったりした布を体に巻きつけた、背の高い二人組が現れ、カレンの行く手を塞いだ。
「やあ、重そうな荷物だね。手伝おうか?」
男たちの貼りつけたような笑みに、カレンは後ずさる。しかし、背後にも男の仲間が壁を作っていた。
「こんなところで銀狼のハーフにお目にかかれるなんて」
「混じり物は苦労が多いだろう? 我々と来れば、毎日王族みたいな暮らしができるぞ」
どうやら、男たちの目的は革袋の中身ではないらしい。カレンは足に力をこめたが、一気に屋根まで跳躍する筋力も、走ってその場を切り抜けるだけの速さも、今のカレンにはなかった。
とうとう壁際に追い詰められ、男のひとりに顎をすくわれた。
「なかなかの器量だ。ハーフは獣の世界じゃ中途半端で醜いなんて忌み嫌われるらしいが、人間様には混じり物のほうがとっつきやすい。あんたなら、相当の買い手がつく」
「自分で狩りをしなくても毎日ご馳走が食べられる。いいものを着せてもらえるし、欲しいものはきっと何だって手に入るだろう」
悔しいことに、抵抗したところでカレンに勝ち目はない。非力な銀狼の腕では、男たちにひねり上げられたらおしまいだ。これだけ近づかれたら弓も使えない。カレンにできることといえば、哀れみをこめた目で男たちを眺めることくらいだった。
「悪い話じゃないさ。ギドロイ行きなら死ぬまでの重労働が待っているが、お前さんの行き先は、銀狼や黒猫を蝶よ花よともてはやすセピヴィアの貴族のところだ」
四方を男たちに取り囲まれたカレンは、細い道を連れ出され、港へと誘導されていった。男たちはわざわざ人通りの多い道を選んだ。昼時、食事を楽しみにした顔が、あちこちの店のなかに入っていく。
港近くの食事処の脇を通りすがった時、カレンを取り巻く男たちのひとりが、愛想よく微笑む男に肩を叩かれた。
「うちの旅仲間に何かご用でしょうカ?」
エルウィンがゆっくりとまぶたを開けると、男たちはぎょっとして後退った。追い打ちをかけるように、筋骨隆々のウェイターが迫る。
「よう、うちのお客さんに何か用か?」
否応なしにやじ馬が集まってきたところへ、さらに少年が駆け寄ってきた。
「カレン! 心配してたんだ」
少年が腰に提げている柄の魔鉱石を見て、人さらいの一団は縮み上がって逃げ出した。魔鉱石の産地であるセピヴィアにゆかりのある者は、そのただならぬ恐ろしさをよくわかっている。
助け出されたカレンは、申し訳なさそうな、困った顔をしていた。
レピオレン湖の水平線をのぞむ二階の上席で、アリアテたちは新鮮な魚介料理に舌鼓を打った。
「店員さん、おかわり」
「宿の白飯じゃねえんだぞ。金は足りるのか?」
「心配しないで、兄さん。カレンのおかげで、だいぶ余裕があるから」
アリアテの予約した食堂で働いていたのが、ロードその人だった。
「まったく、野生の勘かね。恐れ入ったよ、お前の食欲には」
なぜ、何も告げずにラグナレクを発ったのか。ナドトゥラは何者だったのか。ロードは巧みに言葉を濁して、語ろうとしない。わかっているのは、ナドトゥラとはここサンタナシティで別れ、再びアリアテたちと合流するための路銀を稼いでいた、ということだけだ。
「ねえ兄さん、ムジナは武芸大会に興味があるんですって」
「ああ、今年の賞金は大盤振る舞いらしいぞ」
言いながら、ロードはアリアテたちの頭数をかぞえる。
「それで、俺にも出ろっていうのか」
「話が早くて助かるわ」
ロードはやぶさかではなさそうだが、「腕が鈍ってるだろうなあ」という恥じ入ったつぶやきが聞こえた。
「さて、詳しいことは宿でゆっくり相談しまショウ。せっかくの料理が冷めてしまいマス」
朗らかなエルウィンの言葉に、ロードは思い出したように調理場に引っ込み、巨大なエビが真っ赤に茹であがった皿を運んできた。アリアテの目の前で殻を割り、香ばしいにおいを閉じ込めるようにクリームをかける。
「当店人気メニュー、レピオレン湖産バスタレロエビのアリアテ風だ。こいつは俺のおごりだぜ」
「すごい、おいしそう」
にこにこして手を打ち合わせるメリウェザーと対照的に、アリアテは小さくなり、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
(どうして、この料理に私の名前が)
もじもじしているアリアテの前に、ロードが料理を取り分けた小皿を置いた。
「エビ、嫌いか?」
「ううん、エビ好き」
短く言って、アリアテは弾力のあるまったりした身をしつこいくらい咀嚼し、飲みこんで、ほっと息を吐いた。
「美味しい」
温かくて美味しく調理されたエビを食みながら、故郷の痩せ細ったエビの味を思い出す。天日干しにして殻ごと食べたり、煮汁の出汁に使ったりした。あの粗末なエビとは比べものにならないほど豊かな魚介。食事、宿。
(私にとっては豊かで、満ち足りた村だった。でも、彼らはとても貧しかったのだろうか。つらい暮らしだったのだろうか)
目で見るだけでなく、実際に体験してみると貧富の差を感じてしまう。アリアテは豊富な食材を知り、柔らかい蒲団を知り、清潔で便利な暮らしを知った。富むことと欠けていること、どちらが豊かな暮らしなのだろう。
考え事をしていると、目の前の皿からエビがひときれ、宙に舞い上がった。
「食わないならもらうぜ」
「あーっ!」
ロードにからかわれ、アリアテは答えのない問いを一時忘れた。
空腹を満たして、一行は宿に戻る。道行きにはロードの姿もあった。
「ラグナレクとはずいぶん違うわね。ここやロワンジェルスは自治区だから、かしら」
メリウェザーは閉塞感のない街のようすをしげしげと眺めながらこぼした。ロードは同じ方を眺めて答える。
「ロワンジェルスの統括官は、名目上は伝説の白魔道師だからな。国の上層部でも圧政を強いることはできないだろう。
サンタナシティにも国の統括官は派遣されているが、実質の仕事は犯罪の取り締まりだけだ。ここは作物の育ちにくいサルベジアにとって唯一、ラティオセルムの豊富な物資を輸入できる貿易先だ。今でも変わらず、サルベジアからは交易のために鉱石や家畜が輸出されてくる。このサイクルをいたずらに崩すような法律はしけない」
エルウィンもまた、道行く人々を眺めながらこぼした。
「交易の要地は栄え、守られる。そうではない町や村は、争いを助長するような法を強いられ、重税にあえぎ……やがて、砂に埋もれて消えてゆく」
「この街は、武芸大会とやらを執り行う余裕があるのだな」
カレンは、浮き足だつ人波を眺めた。そこかしこで、人々は武芸大会について語り合っている。カレンは、資金や物資のことだけではなく、大会を心待ちにしている人々の心の余裕を言っているのだろう。
消えていった町や村のことなど、迫り来る死の砂漠のことなど、まるで知らないかのように。
「まあ、こんなご時世だからこそ娯楽がなくちゃな。祭は民心をつかむキモだ」
ロードは大きくのびをして、大会の張り紙を一枚はぎとった。
宿の部屋に戻ると、一行は分厚い絨毯の上に円座をくんだ。
「改めまして、ヴィヴィオルフェンのエルウィン・ダフォーラと申しマス」
「エルは宿を持っていて、私たち、そこで休ませてもらったの」
ロードが礼を言うと、エルウィンはひまわりのような笑顔で応えた。
「私はロワンジェルスのカレン。先ほどは迷惑をかけて済まなかった」
カレンが軽く頭を下げると、アリアテが語気を強めて言った。
「迷惑じゃない、助け合うのは当たり前だ。それにカレンは、わ……僕たちのために稼いでくれたんじゃないか」
「ムジナの食欲は天災並みだからな」
ロードが茶化すと、アリアテはむくれた面で黙りこんだ。その顔を覗きこんで笑いながら、ロードはカレンに向き直る。
「ロワンジェルスにねえ。あの辺は開発が進んで、ヴォルフェ族は南端や西端の森に追いやられたと聞いたんだが」
「いや、肉体の生まれた場所はル=カァの森だが……私の知る私はロワンジェルスにいた私だけだ。他に仲間がいるのかもわからない」
ロードは頷く一瞬で思考した。
――ル=カァの森はラグナレクより西に位置する。ロワンジェルスとはずいぶん離れている。それに、カレンはよくあるヴォルフェ族の特徴に当てはまらない。鼻面は低く、顔立ちや体格はまるでヒト族のそれだ。銀狼族だと紹介されたが、噂に聞く銀狼族はセッタ族のように長い耳を持ち、瞳が大きく、赤い。森に紛れるための青翠の夏毛と、とってつけたような三角形の耳や尾が、彼が獣族の類であることは証明している。
何者かは判らない。だが、悪い性質のものではなさそうだ。
頷いた顔を上げた瞬間には、哲学だなあ、と返して思考を終え、ロードは大会の張り紙を床に広げた。
「試合は勝ち抜き戦、武技のジャンルはここにある通りだ。この中から五つ競技を選んで、チームから一人ずつ参加する。最終的に、チーム内の持ち点を合計して優勝が争われる」
アリアテたちは、頭をぶつけないように張り紙を覗きこんだ。
「競技はかぶらないように選ぶ必要がある。さっそくだが、この中で自信のあるジャンルは?」
アリアテは剣技、カレンは弓技を迷わず選んだ。
「格闘技は兄さんにゆずるわ。そうしたら、私は重量挙げね……お花の世話とか、お料理とかの対決ってないのかしら」
メリウェザーは複雑そうな顔をしてため息をついた。そして、最も悩んでいたのがエルウィンだった。
「魔道、これしかナイのですが……水魔道は悪目立ちしマセンか?」
「確かに、大注目を浴びちゃうかもしれないわ。私も目の前で見たとき、興奮したもの。伝説の三大魔道よ?」
「やれやれ、私も宿屋の経営対決か、レフトバードの訓練対決のほうが良かったのデスが……これだけの大会ですから、案外その他大勢に埋もれるかも知れないデスし。腹を決めマシタ」
「今年の大会には、花を添える意味で軍部の著名人も参加するらしいからな。実際、そこまで目立つ心配はないかも知れねえ。一番の問題はムジナだ」
え、とアリアテは目を丸くした。
「お前は一応、おたずね者だ。手配書を見た時は肝が冷えたぜ。顔は似てねえが、黒髪に褐色の肌の少女……お前は割に女顔だし、疑われるかも知れねえ。手配書がいつ書き換えられて、実は短髪の少年だと言われるかもわからん」
アリアテは言葉に詰まった。この場で、アリアテが女だということを知らないのは、もはやロードだけになっていた。
「その点については、ごまかせるかも知れマセン」
エルウィンはアリアテの頬を包み、歌うように呪文を唱えた。その場に軽いどよめきが広がる。メリウェザーに鏡を見せてもらうと、そこにはアリアテの顔をした、金髪碧眼で白い肌の少年がいた。
「剣技の試合と魔道の試合は別日デスから、ムジナには私の魔道で変装をさせることができマス」
「でも、エルは疲れないのか?」
アリアテが戸惑った顔をあげると、エルウィンはひまわりのように微笑んだ。
「あなたが大男で、髪も長かったら少し苦労したかも知れませんネ」
「ありがとう、絶対に勝ち残るよ!」
その夜、アリアテは人波がひくのを待って大浴場に向かった。鏡に映る姿は、いつものように黒髪で褐色の肌の、ほんのりと胸がふくらんだ少女だった。
「だいぶ、賑やかになってきたじゃないか」
風呂桶のなかでクオーレが嬉しそうに言った。
「最初は、それはハラハラしたものだ。君は案外向こう見ずだからね。これだけ仲間がいれば私も安心だよ」
「……クオーレ、私は前に進んでいるのかな」
頭からぬるま湯をかぶり、アリアテはぶるっと首を振った。
「海の手がかりも、砂漠化の正体もまだつかめない。この港町には、ロードを探すためにやって来た……私自身の目的のために、私はどこに向かえばいいのか、それが少しも見えてこないんだ」
「君は大きなものを背負っている。君の肩には大きすぎるものだ、ムジナ」
満点の星空と少しの雲を映して、クオーレはほんのりと輝いた。
「みんな、君の手助けをしたいと思っているんだよ。君は人と真っ向から向き合うし、心は芯がとおって真っすぐだ。単純な善悪でものごとを判断しない。そんな君の助けになりたいと、彼らは思っている」
「巻きこむのが恐い気もするんだ。目指す先に、とんでもないことが待っているような気がして」
海綿のやわらかなかたまりで体を洗いながら、アリアテはため息をついた。
「でも、一人じゃ何もできないことも、よくわかった」
「もっと打ち解けて、頼ってみても良いと思うよ、私は。彼らには見所がある」
「うん。私も、ロードたちのことが好きだ」
二十人はいちどに浸かれよう巨大な湯船の中央には、貿易船を模した石造りの湯口が構え、石のオールが湯の出入りで上下して、浴槽におだやかな波をおこしていた。昼間見た、白波の立つレピオレン湖のようすが思い起こされる。
「湖の中にいるみたいだ」
アリアテはしばらく波を楽しんで、火照った頬を仰ぎながら部屋に戻った。床に、薄い寝間着姿のロードたちがくつろいで、酒瓶を傾けていた。
「あれ、メリウェザーも一緒に入ったんだ」
「カレンにお湯の入り方を教えてあげたの」
「男性とわかっていても、意識はしてしまいマス……」
何とも言えない顔をしているエルウィンに笑いかけてから、アリアテはぎこちなくロードを見た。なぜ男湯に来なかったのか、彼は尋ねない。
「ロードにもばれてたのか。昼間は、気づいてないのかと思ったのに」
「いつまでも隠せることじゃねえからな。だけど、お前が男のなりをしてる以上、事情があるんだから合わせようと思ったんだ」
「ありがとう。でももう、みんなの前で嘘をつくのはやめるよ」
アリアテはくずれた円座に加わり、懐からクオーレを取り出した。
「私の本当の名前は、アリアテ。北端の漁村で育った。私の目的は、砂漠化を止めること。すなわち、どこかに消えてしまった海を探し出して、世界を元通りにすることだ」
クオーレはほんのりと明滅した。
「この石はクオーレ。彼も、海を探している」
黙ってアリアテの顔を見つめる面々に、アリアテは頭をさげた。
「旅してみて、自分ひとりじゃ何もできないことがわかったんだ。危険なめに遭うかも知れない、嫌な思いもするかも知れない。でも、どうか、私に力を貸してほしい」
その頭に、大きな手が乗せられた。
「砂漠化も、疫も、他人事じゃねえ。いつか自分たちの身にも降りかかってくることだ。その脅威に率先して向き合おうとしてるお前は勇敢だよ。そんなお前を、誰かが守ってやらなくちゃな」
「ロード」
ロードの腕をくぐって、メリウェザーの手がアリアテの頬に触れた。
「なんだか、お姫さまを守る騎士の心地ね。あなた、ちょっと危なっかしいから目が離せないわ」
「メリウェザー」
肩には、エルウィンの手が重なる。
「私にも、できることがあるなら手伝いマス。あなたと居ると退屈せずに済みそうデスから」
「エル」
そして背中に、カレンの手が触れた。
「私にとって、お前は運命だ。どこへなりと行こう」
「カレン」
胸元のクオーレが、良かったね、と明滅する。
「……うん」
アリアテはこみ上げてくる涙を拭いながら、それぞれの手を撫でて笑った。
「ありがとう、みんな」
厩舎に佇む影は、宿の一室を覗き見ながらほっと胸をなで下ろす。
「クルクルクル」
心を許して懐くレフトバードの喉をかいてやりながら、人影は淋しそうにひとりごちた。
「少しばかり目を離しても、もう大丈夫なようですね」
………………………………………………………………。
翌日、大会開催のセレモニーが執り行われるということで、朝早くから道は混雑していた。変装したアリアテは小さい子どものように、はぐれないようメリウェザーに手をひかれて歩いた。
「兄さん、どこかに行っちゃったわ……会場につけば会えるわよね」
その混みようは、大柄なロードを見失うほどだった。
アリアテたちはまだエントリーしていないが、参加申し込みはセレモニーの後も行っているという。
「申し込みまでに、チーム名を考えておかないとね」
見上げるような闘技場の中は、すりばちのように観覧席が並び、上のほうでは望遠鏡や双眼鏡を持った人々がうごめいていた。
「いたいた」
メリウェザーは、エルウィンの上げた噴水を目印に階段をおりていく。建物の二階ほどの高さで、斜め向かいには特別観覧席のバルコニーが見えた。
「すごくいい席だね」
「カレンのご友人がとっておいてくれたんデス」
昨日の獣さらいの一件を受けて、カレンはバンダナで耳を、長袖にズボンとブーツで獣の特徴を隠していた。その周りに船乗りたちが集まっていた。
「よう、旦那も出るっていうじゃねえか、応援するぜ!」
「やるじゃねえか、初めての町でもう友だちができるなんて」
ロードの言葉に曖昧な顔をして、カレンは席に座った。
五人がそれぞれ席につくと、しばらくして色のついた煙玉が打ち上げられた。赤、黄色、紫の三色が空に混じり合うと、ファンファーレが鳴り響く。
「これより! 第七十五回、リメンタドルム武芸大会を開会いたします! 際して、開会を祝し、セレモニーを執り行います!」
残響する司会の声が遠ざかると、音楽にあわせ、きらびやかな衣装をまとった踊り子たちがステージに駆け上がった。異国情緒あふれる演奏にのって、美しい金の衣装が生き物のようになびく。
「きれいだね」
身を乗り出したアリアテに、メリウェザーがささやいた。
「アラ・ザ・ロ・カハ=ヤー。ギドロイの宮廷で、宴の前に行う儀式の踊りよ。酒宴の神をもてなして、宴を祝福するためのものなの。マウアの受け売りだけどね」
マウアの懐かしい名前に、アリアテの表情はほころんだ。
(全部終わったら、マウアとの約束を果たそう)
――約束。
アリアテはその言葉をくり返す。約束という言葉にはいつも、どこか懐かしい響きを感じた。
踊り子たちの洗練された肉体が繰り出す、烈しくもしなやかで美しい踊りは、まだ見ていたい余韻を残して終わった。音楽が止むと、会場からは割れんばかりの拍手がおこる。
アリアテも夢中になって賞賛の拍手を送っていたが、大きな波が起こるように、会場の一角からさらに割れんばかりの拍手喝采が高く、一挙に広がっていった。それは踊り子のみならず、特別観覧席のバルコニーに現れた人物に対する称賛の嵐だった。
(誰だろう)
当然の疑問を口にできなかったのは、誰もが憧れるように輝いた目で彼を見上げていたことと、ロードやメリウェザーの表情が今までになく険しくなったことが原因だった。
壇上の彼が片手を上げると、ファンファーレとともにゲッテルメーデルの旗章が掲げられた。そして彼を筆頭に、女王シーナをたたえる歌が会場に広がっていく。アリアテは歌を知らなかったが、ロードやメリウェザーまでもが黙って、じっとバルコニーの人影を見据えていた。
歌が終わると、壇上の彼は拡声器を手に、集った観覧者たちに声をかけた。
「武の道にのっとり、心の猛き、清き者の祭典たらんことを」
短い口上だったが、自然と心の奥底まで落ちてくるような声がいつまでも耳に残った。会場は再び拍手の渦に飲まれ、司会が進行に苦労するほどだった。
「アイーシャ様もいらっしゃるぞ」
誰かが興奮して言った。
「カラデュラの変事に、民を救った戦女神さまだ」
「お美しい」
男も女も惚れぼれして、望遠鏡や双眼鏡を覗きこんでいる。
アリアテが要領をえないふうでメリウェザーを振り返ると、彼女はバルコニーの一角を見据え、声を低くして言った。
「アイーシャ・リオナ。騎馬近衛兵団の長であり、大臣の私軍よろしく動く凄腕の槍使いよ。今は、女王の近衛兵のはずだけど」
「好きな男を守るほうがいいんだろ」
「兄さん、誰が聞いてるのかわからないのよ」
咎めるメリウェザーは、拳をきつく握っている。
「あの、派手なコートの男は」
「よく覚えておけ、ムジナ。あれがこの国の大臣閣下だ」
メンテス・ガヴォ。まるですべてを嘲笑するかのように、はるか頭上で微笑んでいるあの男が。
と、不意に、メンテスの前にアイーシャが飛び出した。隻眼は、キッとリメンタドルムの最上段をにらんでいる。だが、メンテスは彼女を引き戻し、何かを腕で受けて止めた。バルコニーが騒然となる。
「何をなさいますか!」
アイーシャの取り乱した叫びはアリアテにも聞こえた。会場がざわめくなか、複数の兵士が、退散する狼藉者を追って走っていった。
「はい、どうゾ」
五人は、エルウィンの作った水の望遠鏡をそれぞれ覗きこむ。アイーシャは青ざめてメンテスの腕にすがっているが、当のメンテスは何事もなかったかのように針を抜き取って、眉ひとつ動かさない。彼の口が「触れるな」と動き、針を慎重に、捧げ持たせた兵士の兜の中におさめるのが見えた。
明らかな襲撃だったが、メンテスは微笑すらたたえて、再び拡声器をとった。
「つまらない横槍が入ったが、気にとめることはない。これに控える我が精兵アイーシャ・リオナの槍使いのほうがいかに素晴らしいかを、諸兄にとくと披露しよう」
アイーシャの取り乱しよう、そして最初から最高官吏である大臣を狙った所業、その針がただの針であったはずはない。現に、メンテスは部下に「針に触れるな」と忠告している。生半可な代物ではなかったはずだ。
だが、当のメンテスは平然とそこに立っていた。
「私は、大会を汚すような不届き者には屈さぬ」
静かに言い放つと、遠慮がちに拍手がおこり、まばらな歓声は大きな称賛の声の渦へと変わっていった。
司会がおずおずと、大会のルールを説明しはじめる。
「例年通り、ひとつの競技のトーナメントが終了してから次の競技のトーナメントが行われ、全七日の行程を終えて優勝チームを決定します。なお、審判の指示は絶対です。違反行為をした場合はすみやかに退場していただき、場合によっては拘留もあり得ますのでご注意ください。
重篤なケガを防ぐために、武器はすべて大会委員会が用意したものに限ります。また、魔道を直接術者にかけることも禁止されます。ほか、詳しいルールは、入り口で頒布していますパンフレットをご覧ください」
司会は息をいれなおし、気合いをこめて発表した。
「優勝賞金は、チーム1名につき五百金貨! さらに豪華優勝賞品は、戦女神アイーシャ・リオナ様から直接、優勝チームに下賜されます!」
おお、という大きなどよめきが起こった。アイーシャはまだ落ちつきなさそうな表情をしていたが、片手を挙げてこれに答えた。
セレモニーの最後に、柔軟性を持ちながら堅牢な【灰鋼ライム石】の円形舞台が運び込まれ、その上で試合はじめの儀式が行われた。二人の兵士が向かい合い、木刀を上中下段で打ち合わせる。
「それでは! 午後より最初のトーナメント、格闘技の試合を開催します! まだエントリーがお済みでない団体は、昼までの受付となっておりますので、お早めに! 観覧一日券をお持ちの方は、翌日の観覧券のお求めはお早めに!」
会場を出たアリアテは、受付の列に並びながら、錚々たる顔ぶれを眺めた。
「すごい熱気だったね。ここに居る人たちもみんな強そうだ」
「そうね。ムジナは、その剣じゃなくても大丈夫?」
「うん。むしろ気兼ねなく振れるよ」
アリアテたちの番になり、メリウェザーが受付に人数と、参加する試合を告げた。受付の女性は頷き、用紙に必要事項を書いて確認し、オレンジ色のリストバンドを五つ差し出した。
「拳の刺繍が格闘技、岩の刺繍が重量挙げ、杖が魔道、弓が弓技、剣が剣技の参加証となっております。参加者用観覧席へご案内する目安にもなりますので、全員で腕におつけください。こちらは再発行できませんので、なくされないようお気をつけください」
リアルで生々しい刺繍がほどこされたリストバンドは、やけに重みを持っていた。列を離れながら、メリウェザーは「可愛くないわ」と不満をもらした。