ラグナレクの暴動
クオーレが言ったようにぐっすりと眠った翌朝、ドアの隙間に「洗濯もの」と書かれた紙が挟まっていた。扉を開けると、野ぶどう編みのかごに、努力の認められる洗濯後の衣服が入っていた。
着替えを済ませ、アリアテは意気揚々と食堂に向かった。
食堂は宿泊客やそうではない客でごった返し、片隅では弾き語りがはじまっていた。旅の語り部はレシオン――ギターとハープが一体になった楽器――をつまびき、細々と歌う。
「十と四年の月日経て かつてたゆたいし海よいずこへ
乾きただれた大地の上に もはや新緑の影もなく
暗闇の雲が迫り来て 空は覆いつくされた
其の胸に問え 聞け 海よいずこへ……」
どの地方では何があり、という情報はなく、詩的な言葉をくり返すので、語り部ではなく吟遊詩人なのかもしれない。
アリアテはそのかき消えてしまいそうな歌声に耳を澄ませながら、テーブルに次々と大皿を重ねていった。
「すげえな、いつかの鉄球使いよりすげえぞ」
いつの間にか、見知らぬ人々に取り囲まれていたが、アリアテは心ここにあらずといった風で食べ続けた。
(何だか、懐かしい感じのする歌だ)
何気なく胸元に手をやって、アリアテははたと気づく。どうやら、クオーレを部屋に置いてきてしまったらしい。
そこへ、かわいらしいケーキを運ぶロードが現れた。
「よおムジナ、こいつは弟からの差し入れだ」
「弟ね。ありがとう」
「その様子だと、あいつと話したみたいだな……」
ロードは何か言いかけたが、常連客のヤジで流れてしまった。
「おい、坊ず! おめえ、メリウェザーちゃんに惚れてるな? ん?」
「目ざといねえ、この辺の宿の全体の看板娘なんだぜ! 気立てがよくっておしとやかで……」
男たちがうっとりとメリウェザーを賞賛するのを、アリアテはほとんど聞かずにケーキを平らげ、食堂を出た。
カウンターの前にメリウェザーが立っていた。偶然というより、アリアテを待っていたらしい。
「ムジナちゃん、お買い物つきあってくれる?」
ラグナレクの朝市は遅く、8時でも商品がずらりと並んでいた。
「水瓜と、セピヴィア芭蕉の実、それから……」
市場は活気にあふれ、見物人もいれば旅人もいる、しかし大半をしめるのは地元の人々だった。
アリアテはメリウェザーとはぐれないよう、ただくっついて歩くだけだったが、市場のようすは何度見ても興味深かった。威勢のいい声が方々から降りかかってくる。魚をさばく屋台があれば、野菜を競りにかけている競売場もある。
甘いにおいのする焼き菓子の前で足をとめると、メリウェザーはそれを買ってくれた。
「母さんと、よくこうして一緒に買い物をしたの」
噴水の台座に腰かけて焼き菓子を頬張りながら、メリウェザーはにこにこと語った。
「母さんは千里眼を持つといわれた、それはよく当たる占い師だったのよ。ひとの気を見抜く力がとても強かった」
「気?」
「気功術の一種ね。私も多少はその力を受け継いでいるみたい。でも母さんも私も、こうして宿を切り盛りして、市場で買い物をする暮らしのほうが好きなのよ」
ふたりでのんびりと大通りを眺めながら、アリアテは焼き菓子の最後の一口を食べた。
「母さんが何も隠さず、封じ込めようとせず、正しい使い方を導いてくれたから、こうして普通の暮らしができるんだって思ってる。それって政治も同じじゃない? なぜそうしなければならないのか、本当に必要なのか……権力は正しく使われなければ、人々に苦しみを与えてしまう。普通の尊い暮らしを奪ってしまう……私、この町が好きよ。だから守りたいという思いは、兄さんたちと同じ」
メリウェザーの瞳につよい光が浮かんだ。アリアテがその横顔をじっと見つめているとまた、ひまわりのような笑顔が向けられた。
「買い忘れがあったわ。キリカの葉を三束。買いながら戻りましょう」
部屋に戻ると、アリアテはさっそくクオーレを首にさげた。
「ああ、ムジナ。私を置いてどこに行ってしまうのかと……さっき、かすかにだが海の気配を感じたと思ったんだが」
「そうなのか? 気づかなかった、ごめん……ところでクオーレ、君は剣で切られたり、槍で突かれたり、魔法を食らったりしても壊れたりしない?」
「いよいよか……大丈夫だよ、絶対零度の魔法をかけられたうえに焼かれたりしない限りは、ひびひとつ入らないと思う」
「思うだけ? ちょっと不安だな」
かといって置いていくわけにもいかない。アリアテはクオーレを懐にしまい、昼食までの時間をゴロゴロして過ごした。
昼を知らせる鐘が鳴ると、アリアテはむくりと起き上がって食堂に向かう。そこには数人の【灰の団】のメンバーがいて、アリアテは手招きされるまま、彼らのテーブルについた。
「調子はどうだ? こっちはまずまずだぜ」
「僕はばっちりだよ」
「どうだ、このあと五時頃に一杯? この東に、いい店があるんだが」
「考えておく」
――準備はととのった。午後五時、庁舎東に集え。
食堂には役人の姿もある。慎重にやり取りをして、アリアテはそのまま【灰の団】のテーブルで食事をすませた。
約束の時間まで、アリアテはラグナレクを散策して過ごした。噴水広場から西の通りに抜けると、壊れた荷馬車と、それを囲む人々の姿があった。
「いやいや、そんな、悪いですよローケンさん!」
「ひまなジジイだ、使ってやってくれ」
人垣を割って、一人の老兵が木箱や篠かごを抱えて歩いて行く。その後に、二人がかりで篠かごを持った兵士が二組続いた。荷馬車の持ち主は、町民に手伝われてこぼれた果物を拾いながら、何度も兵士たちの背中に呼びかけた。
「申し訳ないですよ、お役人にこんなことをしていただいて! ご無理なさらずに! ローケンさん、その辺に置いておいてください!」
しかし、老兵ローケンは笑いじわでいっぱいの顔を商人に向けた。
「腕がなまって仕方ないんだ、ちょうどいい鍛錬になる。それにご主人、役人は民のためにあるものだと私は思うがね」
ローケンは愉快そうに笑って、追いついた商人とともに、荷を卸すはずだった店を一軒ずつまわりはじめた。
「いやあ、いい人だよなあ。あの人だけは昔と変わらないよ」
「役人の立場がうんと良くなったからって、一度も偉そうにしたことはないよね。この町もよそも変わっちまったけど、ああいう人もまだ居るんだから……」
人の山がばらばらに帰っていくと、荷馬車のがれきを片付ける男たちの横に、まだ木箱が残っていた。誰のものか尋ねると、男たちは商人の荷物の残りだろうと言った。
アリアテは小さな木箱に取りかかったが、ひどく重い。うなっていると、細くて白くて、しかしアリアテより大きな手が箱を抱き上げた。
「私も手伝うわ。ムジナちゃんはロバを連れてきてくれる? あのこ、ケガはしていないみたいだから」
「メリウェザー! ありがとう」
アリアテがぱっと明るい顔をすると、メリウェザーは嬉しそうに笑った。
「ひとのためにお礼が言える人を見るのは、久しぶり。お安いご用よ」
二人がロバを連れて商人たちに追いつくと、彼らはまだ荷卸しの途中だった。
「おじさん、ロバと、忘れ物がひとつあったよ」
アリアテが声をかけると、商人は一瞬青ざめ、急いで箱を受け取った。その重みを確かめ、ほっと胸をなで下ろす。
「助かった。これは金庫なんだ。お嬢さんに坊ちゃん、ちょっと待ってておくれ」
商人はローケンの抱えている篠かご――だいぶ、中身の商品は減っている――から、果物を五つも取り出し、香草や調味料の粉なども惜しみなくつけて、陳列用のかごに盛りつけて寄こした。
「少ない礼だが、持っていってくれ」
「こんなによろしいの? どうもありがとう」
メリウェザーは胸の前で手を組んで喜び、大盛りのかごをひょいと受け取った。
「助け合いは、ラグナレクではあいさつと同じくらい当たり前のことよ。あなたに良い風が吹きますように」
「おじさん、ありがとう。道中気をつけて」
「君たちにも幸運があるように!」
商人はロバの手綱を持ち、汗で照かった笑顔で二人を見送った。
「助け合いが当たり前か……いい町だね」
「そう、いい町だ」
帰り際、アリアテはメリウェザーに話しかけたが、答えたのは別の声だった。
「この町は、暮らしている人々は善良だ。今はすこし奇妙な方へ導かれているが、すべての町民や役人が引きずられているわけではない。ラグナレクはまだ歪んでいない。やがて、己の力で正しい姿に戻るだろう……そう、伝えてくれ」
ローケンは大きな手でアリアテの頭をぐしゃぐしゃに撫でつけ、また何事もなかったかのように荷物を運んでいった。
人波がまばらになる午後五時、クオーレは水色から淡い桃色の優しい階調をうかべている。日が落ちるまで、【灰の団】は近くの酒場や宿屋に潜み、役所の門のようすをうかがっていた。
アリアテは食事処のひとつで、剣士、役人二名の団員とともに時を待っていた。
「よく食べるねえ」
「昼も食べてたよね。あの量はどこへ行っちゃうわけ?」
役人でありながら【灰の団】に属する二人、メルリンとモネは、関心してアリアテの食べっぷりを見つめていた。
剣士ザルグはお茶をすすりながら、静かに役所の門に気を向けている。
アリアテは肉と卵の料理を平らげたところで、口を拭きながら言った。
「今日、ローケンという兵士に会ったよ」
ローケンの名前を出すと、メルリンとモネの表情は明るくなり、ザルグの顔には緊張がはしった。
「いい人だったでしょ!」
「何を隠そう、私たちが次の統括官に推してるのがその人よ」
「うん、彼は良いリーダーになれると思ったよ」
コン、とカップを置く音で会話は途切れた。ザルグは厳しい口調で尋ねた。
「それで、彼は何か言っていたか」
「……この町はまだ歪んでいない、やがて自分の力で正しい姿に戻る、って」
ザルグは深いため息をついた。同時に、メルリンとモネの表情は硬くなった。
「私たちが何をしようとしているか、ローケンさんは知ってる?」
「そして待て、と言っているな」
「どうする、ライヒに伝えたほうが」
ザルグは首を振った。
「一応は。だがライヒの性格だ、今さら決行を先延ばしにはしないだろう。ローケンさんが力で争いを止めようとしたら、誰一人としてかなわないがな」
アリアテはサボテンのジュースを飲み干し、門のほうを眺めた。
日が陰ると、見張りの一人が門の向こうに姿を消した。かがり火の種を取りに行ったのだろう。すると残った一人が大きく手を振り始めた。【灰の団】はあちこちの建物から集結して、一丸となって門の向こうへ突入した。
「灰後せよ」
団の合い言葉をささやき、見張りは何事もなかったかのように静止した。【灰の団】は足音だけ残して庁舎のなかに消えた。
堅牢な石材に漆喰を塗った庁舎はひやりと冷え、未だかがり火も点っていなかった。その薄暗がりを、ライヒをはじめ数名の獣族が先頭になって突進する。
「ロードがいない」
「ナドトゥラもだ」
数名、姿が見えない団員もいたが、奇襲をかけるには充分な頭数がそろっていた。
「足を乱すな、しっかり前について行け」
無用な戦闘を避けるためにも、速さは重要だ。
統括官には役所に居室が与えられる。ナシュクが居るのは二階の南端だ。団員たちはひとつの生き物のように固まって、中央の階段を目指した。
階段の手前の部屋からは明かりが漏れ、豪快な笑い声がしていた。
「おい、何か変なにおいがしねえか」
室内からの声に一斉に足をとめ、団員たちは息をころす。ライヒが覗き見て、嗅覚の優れた犬族や胡狼族が複数居ると身振りした。
アリアテの肩に柔らかい布が触れた。すぐ後ろのマウアが立ち上がり、「私が行く」と身振りした。アリアテが不安そうな面持ちで彼女を仰ぐと、マウアは優しく笑み、アリアテの頭を撫でた。
「ねえちょっと、お役人さん!」
マウアは堂々とした声で室内に入りこみ、バルト族の隣に腰かけた。
「散々表で呼んだのに、誰も出てきてくれないのね。あたし、今夜坊主なのよ。ばかにしてるわよねえ」
大きく切れ込みの入ったスカートで足を組むと、獣族の官吏たちは沸き立った。イヌに近しい種族は、ヒト族と美醜感覚が似通っているらしい。
「お酒をすこうしくれるだけでいいのよ。踊ってあげるわ」
マウアはそう言って立ち上がり、扉を閉め切った。すかさずライヒが一団を先導して、わずか八名の勇士たちは階段を駆け上がった。
二階はより冷えびえとして、玻璃も格子もない小さな窓の向こうに、暗くなり始めた空が見えた。
南端の突き当たり、繊細な彫刻が施された両開きの扉の前に彼らは立った。ライヒは慎重に空気のにおいを嗅いで、扉にぴたりと貼りついた。団員たちは両脇の壁に背をつけ、内側からの奇襲に備えながら、固い唾を飲みこんだ。
「常にヤツが連れている大蛇にも注意を払え。行くぞ」
ライヒの合図で扉が開かれ、やや間を置いてから、団員たちは室内に侵入して陣形を築いた。殿の二名が扉をおさえ、退路も確保されている。
真っ暗な室内の中央に天蓋付きのベッドがあり、枕元のガラス瓶のなかで、ほたる石の淡く優しい光がゆらゆらと揺れていた。
身軽な猫族が足音もなくベッドに忍び寄り、腰を落とした体勢のまま、素早く掛け蒲団を剥ぎ取った。
「ナシュク! 蛇も一緒だ」
キトカ族が宙返りして前線に戻ると、ライヒが進み出て吠えた。
「ラグナレク統括官ナシュク・ベラ! 我らは【灰の団】、投降し統括官の役を辞せ! 否と言わば少々手荒に」
「うるさいねえ」
団に緊張が走った。どこからともなく響く女の声は、空気が漏れるような独特の音を含む。皆の様子から、アリアテにも、これがナシュクではない想定外の者の声であることがわかった。
「話し合いじゃあ受け入れてもらえないから、暴力かい? あまり深い考えじゃあないねえ……」
「ライヒ!」
キトカ族が叫んだ時、ライヒの足下には二つの黄色い目があって、鋭く空気を切り裂く音を立て、それが喉元に向かって飛び出した。寸でのところでザルグが抜刀し、黄色の双眸はシュルシュルと音を立ててさがった。
「お前、蛇族か」
ライヒは短剣を構え、仲間たちに注意を促した。蛇はシュウシュウという不気味な息の音だけを残し、姿を消してしまった。
「イドラ」
暗闇のなか、ベッドからか細い男の声がした。ザルグは暗がりの一角に切っ先を向け、早口に言った。
「ライヒ、ナシュクだけでも捕えよう。蛇は俺に任せろ」
「そこまでにしてもらおう」
背後から落ちついた声がした。カーテンが開け放たれ、室内には明かりが灯された。四つある窓の前にはそれぞれ、役所の兵が武装して立っていた。大蛇はするりとベッドに這い上がり、震えている真っ白なセッタ族に絡まった。
背後の扉は相変わらず殿の二名がおさえていたが、彼らは黙ってローケンを通した。
「ライヒ、思い直せ。力では解決できないこともある」
「ローケン! だが我々の要望はことごとく退かれた! 重税も、過度な徴兵も、差別を助長するような我ら獣族への特別待遇も……何ひとつ正されない。疫で死を待つばかりの病人が外壁にへばりついて、今日も死の砂漠の熱風にさらされているんだ!」
「頭をすげ替えれば、すべては上手く回るか? お前たちが頭と思っているものは、ほんの手足の一本に過ぎないものだぞ」
「わかっている! だが、他にどうしろと」
ローケンとライヒの問答の最中、ザルグは剣をおさめ、メルリンとモネは槍をおろしていた。
「やっぱり、こんなやり方じゃだめだよね」
肩を落とすメルリンたちの姿を、アリアテは黙って見つめていた。
ついにライヒは武器をおさめ、ローケンがベッドに向かって膝を折った。待機していた兵たちもそれに倣う。
「ナシュク殿、イドラ殿。多大なご迷惑をおかけいたしました」
「未遂とはいえ、無かったことにはならないよ。おお、よしよし。あたしのかわいいナシュクは、今まで通り表に立つことさえ嫌がるかも知れないからねえ。上には何と言ったら良いかねえ……」
ナシュクはすっかり怯えて、長い耳をぺったりと垂らし、イドラに抱きついて震えていた。
「お前たちには言い訳にしか聞こえないだろうが、あたしはね、忠実に上に言われたような執政をしているだけさ。何故かわかるかい? あたしはこの町に何の恨みもないし、私腹を肥やすことに興味もわかないからさ」
イドラは体をすべらせ、鎌首をもたげてライヒに言った。
「よくお聞き。政府は、政府によって任命された者以外を統括官には据えない。あたしたちを排除してごらん、次に来るのはもっとろくでもない輩かも知れないよ……統括官に慈悲を求めるのもおよし。たかが町ひとつの長なぞ、誰かをかわいそうがって法律を優しくしてやる権利も持たない。言ってしまえばお前たちと変わらない、厳しい罰を免れるために、言われたことを忠実に守るだけ」
ライヒはうな垂れ、やがて、静かに膝を折った。ローケンは小さくなったライヒの肩を抱いて、申し出た。
「イドラ殿、此度の責は私が負いましょう。老いぼれといえ、ラグナレクの兵団を預かる身。一介の兵にすぎないライヒよりも首は重いかと」
「なるほどねえ」
イドラが思案する素振りを見せると、ライヒは頭を振ったが、それ以上のことはできなかった。ローケンに寄りかかり、彼女は力なく呟いた。
「ごめんなさい。私は金狼の恥だ……父さんに顔向けできない」
「お前の勇気と正義は見届けた。無事でいてくれて良かったと、ラシェールもそう思っているはずだ」
励まされるライヒの横に、ザルグたちも並んで膝を折った。
「俺たちのしたことの罰は等しく受ける。覚悟はできている」
「そうだよ。ローケンさんまで巻き込めないよ……あなたがラグナレクに居てくれなきゃ、何もかもだめになってしまう」
深く頭をたれた一同を眺めながら、イドラは目を細めた。
「いまの法にならえば、統括官を護衛したローケンに罪はない。暴徒は追放し町への出入りを禁ず、首謀者は投獄し懲役を科すのが妥当かねえ。不法侵入と恐喝だから、徒党を組んだ罪はあるにしろ……腕や足を切り落とすとか、そんな重罪にはならないだろう」
そこを何とか、とローケンが打診するのをさえぎって、アリアテが進み出た。
「皆、私に騙されただけだ」
唐突な話に、その場は水をうったように静まりかえった。
「もともとこの町の出身じゃないとか、ここで働いたりしていないのは?」
「……俺と、扉の前の二人。それとここには居ないが、ナドトゥラという召喚士も傭兵だ」
ザルグが答えると、アリアテは頷いた。
「私は盗賊で、町の外には仲間が待機している。統括官を襲って拉致して身代金を稼ぎながら、町のあちこちで盗みを働くのが目的だった。その作戦のために、ライヒたちを騙して暴動を起こさせ、腕のたつザルグたちを雇うようすすめたんだ。でも失敗したから、私は盗賊団にも帰れず、町からひとり逃げた」
それで、とイドラが促した。
「その罪状を通すなら、お前、手配書つきの悪党になるんだよ」
「構わない。ライヒたちも無罪放免にはならないだろうけど、正義はある。この町で官吏を続けて、ラグナレクを見守っていくべきだと思う」
「そんなことができるわけ無いだろう!」
ライヒはローケンの腕から抜け、アリアテの肩をつかんだ。
「大罪になる。逃げて、どうするんだ。町によって法律は変わる、捕まったら即刻死罪になることだってあるんだぞ! ……どうして、さほど深い繋がりもない私たちのために、そこまでする?」
「そうするべきだと信じているから。あなたたちが、ラグナレクには必要だ。それに恩もあるよ。たくさん美味しいものを食べさせてもらったから」
空気の擦れるような笑い声をもらして、イドラはアリアテの提案を呑んだ。
「あたしは何だっていいよお、上に報告できればねえ。まあ、兵士長もよそ者のあんたも身を切って詫びようっていうんだから、せめて、手配書は似せずに書かせてあげようじゃないか」
アリアテの赤い双眸を見つめていたライヒは、驚愕した表情を緩ませ、かたく手を握った。
「……すまない。もう道は間違えない。君のためにも、正しくあると誓う」
かくして、【灰の団】もその企ても表立つことはなく消え去り、アリアテは宿で荷物をまとめていた。
「クオーレ、私は奢っているかな」
「なぜ? 君は立派だよ。まあ、今回の提案は褒められたものじゃないけど」
「大丈夫、手配書は全然似てなかったから」
「黒髪で褐色の少女じゃ、君そのものじゃないか」
「ある程度は正確じゃないと、真実味がないし、架空の人物にそっくりな人が実際に捕まっても困るからね。それに私が女だと誰が思う?」
パンと干し肉がわずかに入った革袋を背負い、アリアテは宿の受付になけなしの金貨をすべて置いて、静かに旅立った。
北の出口に向かうと、マウアが待っていた。
「ムジナ」
マウアはアリアテを抱きしめ、すり寄って、なかなか離そうとしなかった。
「無茶なことして。自分は関係ないって逃げ出しても、誰も文句なんか言わなかったよ。自分の身を大事におしよ」
「ごめん。でも、いい方法が思いつかなかったんだ」
マウアはアリアテに銀貨を数枚握らせ、よしよしと頭を撫でた。
「無事でいて。またラグナレクにおいで……それから、言っておくことがある」
周囲に気を配ってから、マウアは声を低くして囁いた。
「ゆうべ、ロードを見かけたって者に話を聞いたんだ。何でも恐い顔して、青いマントの男を追いかけて、町の外へ出て行ったって。その青マント、どうやら【灰の団】が雇ったナドトゥラって召喚士に似てるんだよ。何があったのかはわからないけど、あんたも気をつけてね」
「覚えておく。マウア、とても親切にしてくれてありがとう。きっとまたお礼を言いにくるよ」
約束して、アリアテは町を出た。水のカーテンが自然に開き、また閉じる。少し歩いて振り返ると、マウアはまだアリアテを見送っていた。
………………………………………………………………。
ラグナレクの「暴動および強盗未遂」の一件は、すみやかに政府の中心【白き司】に届いた。
「子ども、それも女がそんなに大それたことを」
常に国のあちこちで起きているいざこざの中で、その事件は特に目を引いた。盗賊少女の話題は静かに広まっていき、大臣のもとにまで届いた。
「ガヴォ様、庁内で噂になっている少女の件です」
密偵は「玉座」の横にかしづき、手配書を差し出した。
「盗賊団の一員として、ラグナレクを混沌に陥れる手伝いをしたと。失敗の咎か、仲間が迎えに来る様子はなく、ただ一人町から逃走した模様です」
「黒髪、褐色の肌……ゲイル民族の特徴だな」
肘掛けに足を乗せ、行儀悪く腰掛けていたメンテスは、指で手配書を弾いた。
「アイーシャを呼べ」
密偵がさがって数分後、女王シーナの近衛兵となった騎士、アイーシャ・リオナが馳せ参じた。大臣執務室には側近のメヴィー・ソテロウも控えていた。
「ガヴォ様、アイーシャ参じました」
「これを貸そう」
メンテスが合図すると、メヴィーは美しい青をたたえた宝石をアイーシャに差し出した。
「【海の雫】……このような宝珠を私に?」
「ソレの使い道ができた。この娘を探し出し、【海の雫】に触れさせるか、血を手に入れてかけろ。王族が触れれば光り輝くそうだからな」
「……御意」
「近衛の役目は私が負おう。お前は、娘を探し出すことに専念しろ」
アイーシャは深く頭をたれ、【海の雫】を首にかけて執務室を出た。
晴れない心持ちのまま、彼女は癒しを求めて厩舎に向かった。そこには、忌々しい薄ら笑みを浮かべた男が待っていた。お得意の嫌味を言おうと、男が口を開いた瞬間、何かを察したアイーシャの愛馬がけたたましく嘶き、驚いた男は舌を噛んだ。
悶える男をしばらく眺めていたが、話が進まないので、アイーシャは仕方なく男の口に手をおしつけ、顔を掴んだ。
「むぐう!」
乱暴な所作に男は恐怖したが、アイーシャは無表情で傷を治した。淡い緑の光があふれ、舌の痺れと痛みがとれて、ようやく男の緊張が解けた。
「何の用だ、ドーイ」
ドーイは掴まれていた顎をさすり、馬から距離をとって尋ねた。
「……大臣殿は何と?」
「例の盗賊団の少女について、探し出して、王族か否か証明せよと」
アイーシャは首からさげた【海の雫】を指した。
「その間、御自ら近衛兵の役を代わってくださるそうだ」
ドーイは怪訝な顔をして黙りこんだ。この男が言葉をなくすとは、相当にまずい状況なのだとアイーシャは理解した。
しばらく両者無言のまま、口を開いたのはアイーシャのほうだった。
「生きていないのだろう?」
アイーシャは一歩踏み出し、さらに踏み込み、ドーイを柱まで追い詰めた。
「全員殺した。そうだな?」
「……そうだ」
絞り出すように答えて、ドーイは額をおさえた。
「手配書に限れば面影はない。黒髪で褐色で、ゲイル民族ではない人間もごまんといる……あるはずが無い。王族は死に絶え、残るのはティオ様のみだ」
アイーシャは頷き、踵を返した。
「できる限りのことはしよう。それがメンテス様の命だからな」
………………………………………………………………。
町を出て十数分ほど、アリアテは遠くにゆらめく砂丘を目指し、ゆっくりと歩みを進めていた。
「ムジナ、さっきの青い旗からずいぶん歩いたんじゃないか?」
「うん……」
返事には覇気がない。クオーレは歯がゆい思いでアリアテを励まし続けた。
「よく歩いたよ。少し休もう。砂丘の影の砂を掘ってみるんだ、きっと涼しいはずだから」
「うん……」
今にもぱたりと倒れてしまいそうなアリアテは、遠くに荷馬車の音を聞いた。街道――といっても、踏み固められた砂の道――から大きく外れてしまったここで、商人に出くわすはずはない。
ついに幻聴が聞こえ始めたのだろう。アリアテに向かって呼びかける、優しい声がする。
「良かった、追いついた」
声の主はひょいと軽々アリアテを抱き上げ、幌のなかに寝かせた。
「無茶ねえ。水も持たずに」
「メリウェザーが見える」
アリアテがぼんやり言うと、メリウェザーは苦笑して、革の水筒を差し出した。
彼女は急に出て行ったアリアテの身を案じ、また、行方の知れない兄を探すため砂漠に出たのだという。
「次の町まで、とりあえず一緒に行きましょう。兄さんを探すの、少し手伝ってくれると嬉しいわ」
「ありがとう。でも、私と一緒にいると迷惑をかけるかも」
「知らないところで干からびちゃうより、ずっといいわ」
荷馬車を牽くのは宿のラバで、雷光という素晴らしい名前を持っていた。歩みはロバよりやや速く、砂の上を器用に進み、荷馬車を沈ませない力を持っていた。
「オアシスの町、ヴィヴィオルフェンまでは馬車で半日もかかるのよ。はい、お腹すいたでしょう」
街道で揺られながら、メリウェザーは果物を切ってくれた。みずみずしい果肉を頬張り、アリアテは【灰の団】の顛末と、マウアから聞いたいきさつなどを話した。
「それは、大変なことになったわね……ゆうべ、洗い場で青いマントの人とコソコソ話してる姿は見かけたけど。そんなに剣呑な雰囲気じゃなかったし」
メリウェザーは難しい顔をしていたが、首を振って手綱をとりなおした。
「わからないことは考えない。とりあえず、兄さんの足跡を探すわ。ラグナレクの北門を出たことはわかっているから、次の町ヴィヴィオルフェンに立ち寄ると思う」
「私も、ロードが見つかるまで探すよ。ロードのこともメリウェザーのことも好きだから」
「あら、嬉しい」
「早く連れて帰らなくちゃね、きっと宿は人手不足で大変だろう」
愛嬌のある笑顔を浮かべたメリウェザーは、急に鋭い視線を進行方向に向けた。ラバの歩が緩まり、荷馬車がぎりぎりと軋んだ。
アリアテが幌から顔をのぞかせると、街道には乱れた大量の足跡が刻まれ、荷物や衣服が散乱していた。
「ムジナ、幌に入って」
メリウェザーの声音は緊張していた。アリアテはおとなしく幌に身を潜め、剣の柄に手をかけた。ラバの足を急がせながら、メリウェザーは暗い調子で言った。
「……カラデュラ地方は、すでに九割がた砂漠に呑まれてしまった。物資も不足していて、唯一、定期的な物資や人の往来が望めるのがラグナレク。あの町は命の行き交う場所……けれど、豊富な物資はときに争いを生む」
街道の脇に広がる死の砂漠から、下品な笑い声や雄叫びが押しよせてきた。血と獣のにおいをさせる集団は、あっという間に荷馬車を取り囲んだ。
「止まれ! 荷物はぜんぶ置いていきな」
「何も積んでいないわ、これからヴィヴィオルフェンに行くところなの」
メリウェザーは怖がっている女の声音を出して、後ろ手で相手の人数をアリアテに伝えた。
「本当か?」
男たちは笑いながら幌に槍や剣を突き立ててきた。アリアテは中央に這いつくばってしのぎ、幌がまくり上げられようとした瞬間、抜刀した。
「ラバと逃げろ!」
赤い双眸をかっと見開き、アリアテは足下に火を放った。魔剣の炎は意図するように動く。一直線に幌をめくった男にのびていき、男もろとも幌をまず燃え上がらせた。
「ぎゃああ!! ああ!!」
火だるまになって暴れ回る仲間に、盗賊団は気をとられた。その一瞬で、メリウェザーはアリアテの腹を抱え、ラバの綱を引きちぎって抜けだした。体躯の大きなバルドルは、メリウェザーとアリアテを背に乗せ、苦も無く走り出す。
普通、盗賊団はめぼしい獲物がなければ引き下がるが、彼らは一斉にアリアテたちを追ってきた。
「魔剣だ! 大いなる力だ!」「小僧をぶっ殺せ! 奪え!」
「ごめんメリウェザー、余計なことをしたかも」
「そんなことないわ、お陰で抜け出せたもの。でも逃げ切るのは無理ね」
メリウェザーは手綱をアリアテに握らせると、ひらりとバルドルの背から下りた。
「メリウェザー!」
「先に行ってて、あとで行くわ」
いつものひまわりのような笑顔を向けて、メリウェザーは上品に会釈した。アリアテは疾走するバルドルにしがみつくので精一杯で、それ以上、後ろを振り返ることもできないまま、その場から遠ざかっていった。
「けへへ嬢ちゃん、退きなあ! お前は後で可愛がってやるよ」
メリウェザーは髪を結い、巻きスカートを解いて手首を回した。
「それじゃ、優しくしてみろよ」
にやっと勝ち気な笑みを浮かべたメリウェザーを見た以降、盗賊たちの記憶は途絶えた。
「バルドル、止まれ!」
もう数十分も背中にしがみついている気がする。バルドルはメリウェザーに何か命令されたのか、それともパニックを起こしているのか、泡を噴きながら走り通していた。
手綱を引いても、腹を締めても通じない。
そのうち、ぼんやりと町の影が見え始めた。ゆらめく熱い空気の向こう、背の高い植物に覆われた塀が見える。バルドルはその影に向かって突進し、町の門をくぐって、どっと倒れた。
放り出されたアリアテは、弾力をもつ水の玉に受けとめられた。
「大丈夫デスか?」
変わった鉛のある青年が、メリウェザーと良く似た笑顔をアリアテに向けていた。
「あ、ありがとう」
「このラバはいけませんネ、骨折してマス。とりあえず厩舎に運びましょうカ」
青年は水球を動かし、ラバを持ち上げた。
「僕のラバじゃないんだ。知り合い……友だちが、盗賊に襲われていて」
「それは大変ですネ。とりあえずあなたも、水を飲んで。落ちつきましょう」
「そんな場合じゃ……すぐに戻らないと」
青年はラバを運びながら指を振った。
「ち、ち。人間の足で砂を走っても、体力を奪われるだけデス。砂漠には砂漠の生き物。馬やカンガルーはもはや、ラティオセルムでは乗り回せマセン」
後を追うと、青年の持ち物らしき厩舎には、巨大な鳥が数羽飼育されていた。
「ギドロイ砂漠に棲息するレフトバード。サルベジアではすでに導入されていますが、ラティオセルムにはあまり居ませんからネ」
ラバを敷き藁の上に寝かせて、新鮮な水を置き、青年は三羽のレフトバードを連れ出した。
「一緒に行きマショウ。私、エルウィンといいマス。強いですヨ」
つかみ所のないエルウィンは、アリアテとともにレフトバードで出発した。レフトバードたちは行儀良く、手綱もなしに、エルウィンの乗るレフトバードの後に続いた。
「賢いんですヨ、ヒトの言葉がわかりマス。一説には鳥獣ではなく、魔物の仲間だと言われてマス」
「魔物」
アリアテの顔が引きつると、後ろを走っていたレフトバードが追い上げてきて隣に並んだ。
「ケケッ ケッ!」
併走しながら突然大声で鳴き始めたが、アリアテが乗っているレフトバードが勢いよく振り向き、「ケェ!」と一括すると、しょんぼりして後ろに戻っていった。
「ヒトが自分たちに対してどんな感情を抱いているか、敏感に察知するんデス。今あなたが警戒したから、からかったんでショウ」
「そうなのか。ごめん、嫌いじゃないからな」
そう言ってから、ふとアリアテは疑問に思う。
(走っているレフトバードに乗りながら、後ろにいる私の顔も見ずに、声だけで「警戒した」と見抜いた? いや、前にも同じことがあったんだろう)
考えすぎだ。今は、メリウェザーのもとに急がないと。
レフトバードの足では、ラバの半分の時間で盗賊団の残骸に到達した。
「メリウェザー!」
アリアテはレフトバードから飛び降り、肩で息をしているメリウェザーに駆け寄った。細かな傷は負っているが、大怪我はしていない。
「心配させちゃったわね、ごめんね。徴兵以来の実戦だったから、息が上がっちゃった」
「これ、全部君がやったのか?」
近場の盗賊はかろうじて息をしているが、死屍累々の惨状にしか見えない。戦慄するアリアテの後ろから、脳天気な声がした。
「おやー、私の出番はナイですネ! 帰りましょう、皆さん!」
暴動は防がれたが、主人公は未来のお尋ね者に……