アマルドの黒猫
海の雫を奪った盗賊の正体を知ったアリアテたち。捕われた盗賊を追う一行を、亜竜が強襲する。
翌朝、復活したエルウィンも交えて朝食をとり、アリアテたちは情報収集に出向いた。エルウィンは先日の湖に用事があると言って、都を一時離れた。
「買い食いするなよ、金も減ってきてるからな」
「わかったよ」
渋々言って、アリアテは井戸端会議をしている男たちの輪に加わった。
「お、何だ坊主」
メリウェザーが進み出て、それらしい訳を説明した。
「坊ちゃんのお屋敷はコウロウにあるのですが、この度遊学から帰りますと、家宝である宝石が盗まれておりまして……」
アリアテは懐からクオーレを取り出し、男たちに見せた。
「犯人を追いかけてここまで来た。これと似た、青い宝石を知りませんか」
男たちはアリアテと宝石、メリウェザー、そして後ろに控えるロードとカレンとを見比べて、ほう、と唸った。
「こりゃあたいした宝石だな……こんなもん、盗んだって売れやしないぜ」
「ああ、目立ちすぎる。盗品を扱うような輩でも、その後さばくのに苦労するような代物は買いやしないさ」
男たちは次いで、メリウェザーに視線を向けた。
「お役所には届けたんだろう? 勇ましい坊ちゃんだが、賊退治は危ないぜ。あとはお役人に任せな」
「せめて、賊がどんな奴か知りたい。誰も教えてくれないんだ。盗みに入られたのは雨の夜で、屋敷じゅうの人間が深く眠っていて……」
そこまで言うと、男たちは顔を見合って頷いた。
「そりゃあ、朔夜の黒猫だろう」
うんうん、と相づちをうってもう一人が続ける。
「掴まりっこねえ。残念だが、諦めるんだな」
「悪いことは言わねえ。黒猫なんて不吉なもんが触った宝石だ、お家のためにもすっぱりと諦めたほうがいいぞ」
とぼとぼと井戸から離れて路地を曲がり、アリアテは足を止めた。
「犯人はわかったね」
「漠然としてるけどな」
「黒猫……ということは、キトカ族とヒト族のハーフね。ヴォルフェとヒトのハーフの、カレンみたいな感じよ」
「この島国で、獣と解り合おうとするヒトもいるということだな」
喜ばしいことのように思えるが、カレンの表情は晴れなかった。その心を察して、メリウェザーも表情を曇らせた。
「そうしたヒトもまた、迫害を受けるでしょうね」
落ちこんだ空気をロードの柏手が一喝する。
「よしっ 人里離れた場所、おそらく獣族の集落とも別のどこかにアジトがある。で、黒猫の獣族を探せばいい。的は絞れたな」
「この、山だらけ森だらけの国で?」
アリアテは苦笑して、クオーレを懐にしまった。クオーレはアマルドの清々しい空を映している。
「ところで、エルはどうしたのかな」
「あの蛇と話があるんだとよ」
路地から出ようとしたアリアテたちの前にカレンが立ち塞がった。高い壁の向こうに視線をやって、装具を外す。彫り模様の美しいなめし革のヘッドバンドの下から、獣の耳がぴんと立ち上がった。
「おい、何して」
「ここから五百キーマも離れていない山中に、騎馬が走っている」
カレンは耳を振り、街の雑踏を越えた山中の音に集中した。
「約十騎、展開している。何かを追っているようだ」
「行ってみよう」
言うが早いか、アリアテは門に向かって走り出した。メリウェザーがカレンのヘッドバンドをつけ直し、急いで後を追う。
「メリー、エルに伝えてくれないか」
「わかったわ」
途中でメリウェザーと別れ、アリアテたちはカレンを先頭に騎馬を追った。街道を走るにつれ、馬の重い蹄の音がアリアテの耳にも届くようになった。
その先に、木の枝を踏む小さな音がたつ。
「追われているのは獣族だ」
カレンが布から鼻を出して言った。
「木の密度が高すぎる。飛びこめば騎馬にぶち当たるぞ」
「どうする?」
「獣族の気を引く何か……向こうに気づかせて、こっちへ誘導するしかねえ」
しかし、相談するアリアテたちの前方から大きな物音がした。ど、と重みのあるものが木にぶつかる音だ。次いで、騎馬の足が止まる。
しばらくの静寂があった後、騎馬はぞろぞろと街道に出てきた。彼らは息を切らしているアリアテたちに気づき、不審げに一瞥をくれたが、港のある北方へ走り去った。一騎の鞍には、ぐったりとして動かない少女の姿があった。
「あの子、黒猫だ」
駆け出そうとしたアリアテをロードが制した。
「森の中を展開して走る騎馬じゃない、街道を走る馬には追いつけねえよ……ガイとエルが戻るのを待とう」
アリアテたちは一旦都へ引き返し、食糧や備品をそろえてメリウェザーたちを待った。門で合流して事情を話すと、エルウィンは人差し指を立てた。
「急ぐのであれば、荷車を新調する必要がありますネ」
エルウィンは壊れた荷車を格安で買い取り、魔法で仮修復すると、水で動物を形作った。
「hg'frin」
青い光を放つ水でできた虎は、荷車と水のロープで繋がれた。
「乗ってくだサイ」
「何だか、エルの調子がいいみたい」
アリアテたちが乗りこむと、水の虎は街道を蹴った。あまりの俊足で荷車は浮き上がり、アリアテたちは飛ばされないようボロ板にしがみついた。
会話もままならないなか、ようやく水の虎は失速して、荷車はふわりと地面に降りた。
「ひいひい……」
走ってもいないのに息が切れる。アリアテたちは荷車から這いだし、木陰に身を潜めた。アマルドの民に紛れ込む算段だったが、人通りがなく、しばらくして恐るおそる門に近づいた。番兵は、国内から宿場町に入っていく者には無関心だった。
「そういえば、フレ=デリクたちはどうしたかしら」
「ちょっと都でゆっくりし過ぎたよな」
宿場町の門に急ぎながら町中を見回したが、彼らの姿は無いようだった。
港に出ると、魔獣用の檻と、それを囲む兵士たちの姿があった。檻に捕われている黒猫は、起き上がってはいるが、うな垂れて動かない。
「あれが朔夜の黒猫……?」
「ち、盗難の件で先に捕まっちまったか」
「海の雫が無かったか、船長に尋ねてこよう」
カレンを見送って、アリアテたちは腕を組んだ。
「あの子、どうなるんだろう」
呟くアリアテに答えるように、兵士の長が書面を読み上げた。
「キトカ族の盗賊一名! ゲッテルメーデルに送検した後、懲役を命ずる。釈放後はアマルドに強制送還するものとする」
「待ってよ」
少女は勢いよく顔を上げた。
「約束が違う! 船に乗せてくれるって、サルベジアに連れていってくれるって言ったじゃないか」
「それは、誰がお前に言ったのだ?」
兵士は書面をたたみ、部下に持たせた。
「仲間にそそのかされたのだろう。お前も、狭い島国のなかだけで生きていれば良かったものを……この船に手を出して服役で済むのだ、温情と思え」
「そ、そんな……」
少女は檻のなかでうずくまった。
ロードはアリアテの頭の上から、檻を眺める。
「何か、妙な話になってきたな」
戻ったカレンは、海の雫は見つからなかったと言った。
「それじゃ、あの子に聞くしかないわね」
「猫娘をそそのかしたっていう悪いヤツが誰かは、皆目見当もつかねえしな。盗んだ張本人に聞くのが一番だ」
「どうやって彼女を連れ出す?」
「とりあえず檻さえ開けりゃ、獣族の身体能力で逃げられる。馬は皆船に乗ったとこだ、追いかけるにしろ猶予があるだろうな」
黒猫を逃がす計画を立てるアリアテたちは、何かの気配を感じて港を睨んだ。肌を這う、とても嫌な予感がした。
「撤退だ! 総員、急ぎ撤退!」
突然、船上から兵士が叫んだ。兵士長と部下とは顔を見合わせ、檻を車輪のついた台に乗せたが、再び兵士が叫んだ。
「兵士長殿! 黒猫はこの場に捨て置くようにと。急ぎ乗船してください!」
「何事だ、クスハ!」
「決行されるのですよ!」
兵士長は目を丸くして立ちすくんだ。
「まさか……本当にやるのか」
呟き、部下を先に行かせると、檻の中の少女に鍵を握らせた。
「ここに居れば死ぬ。逃げろ。きれい事だが、罪を悔いてやり直せ」
それだけ言って、兵士長は船に駆け上がった。汽笛をとどろかせ、巨大な船体が港を離れていく。
「何だ何だ、お祭りみてえな騒ぎだな」
ロードは檻に駆け寄った。
「おい、ここは何かやべえみたいだぞ。お前、それ鍵か?」
茫然としている少女から鍵を奪い、ロードは檻を開けた。
「何してんだ、早く逃げろ」
「逃げたって」
少女はぽつりと呟いた。
「今までもずっと逃げてきたよ。でも、逃げても逃げても同じなんだ。変わらないんだよ、あたしの一生は……」
「兄さん!」
メリウェザーが叫ぶ。サンタナミルフ号が去った港に、巨大な影が落ちた。不気味な羽音に頭上を仰げば、絶望の姿がゆっくりと降下してくる。
「竜だ!」
港の誰もが口を揃えて絶叫した。意味のない言葉を口走り、悲鳴をあげ、人々は群衆となって逃げ惑う。港に逃げ場はない。ならば、より内側へ。ヒトの群れは安全と思われる宿場町の門へ殺到した。
「ムジナ!」
「メリー……っ」
アリアテはヒトの群れに飲まれ、宿場町へ、その奥の通用口へと押し流された。何とか流れを抜けだすと、エルウィンとメリウェザーが追いついた。
「ここはまずいわ、私たちも逃げないと……」
「フレ=デリクたちはどうしたのデショウ……この騒ぎでは、合流は難しくなりマス」
アリアテは宿場町の門を振り返った。
「ロードたちは」
「あの子を連れてくる、って言ってたわ」
メリウェザーが答えた直後、港に火柱が上がった。人々の悲鳴がとどろき、竹の壁がバチバチと派手な音を立てて燃えていく。
「港に竜が出た! もうダメだ! この国はおしまいだあ! わはは、わはははっ」
「あんたあ、しっかりしておくれよ!」
逃げ惑う夫婦の後ろから、陽気に弾みながら麻袋が走ってきた。珍妙な麻袋姿のそれは、実に楽しそうに跳ね上がり、そのまま空を滑って南方へ消えた。
しばし、麻袋にあっけにとられていた男は正気を取り戻し、妻の手を引いて通用口へ消えた。
アリアテたちも我に返り、門までの真っ直ぐな道を祈るように見つめた。こちらへ押し寄せてくる人の波のなかに、ロードたちの姿があった。
「こっちだ!」
手を振ると、黒猫を背負ったロードは追い払うように手を振り返した。
「走れ! いいから、早く行け!」
炎とは、勢いを増すと音を立てるものだ。
ゴン、という重低音とともに、火炎が人の波を包んだ。阿鼻叫喚の渦中、人々は火傷を負いながら逃げすがる。その背後に、黒々と亜竜の影が浮かび上がった。分厚い鱗に覆われた頑丈な顔は金色に照り、逃げる人々をあざ笑うかのように、大きな口が開く。
「ロード! カレン!」
叫ぶアリアテの前にエルウィンが立った。
「ひと様の庭で好き勝手してくれて、トカゲ野郎がぁ!」
エルウィンの襟から、するりと蛇が滑り出た。蛇は袖をつたって地面におり、むくむくと体を膨張させていく。
「それ! 連れて来たのか?」
「ええ……主になってしまったものデ」
エルウィンは微笑み、赤い双眸を開いた。
「それ、じゃねえ! 無礼なガキだなちんちくりんが!」
「ちんちくりん……」
大蛇は鋭い威嚇音を鳴らし、竜に水の弾丸を食らわせた。竜の巨体が揺れ、火勢がわずかに衰えた。
「わあ、イリバシの水神だ!」
「水神さまだ!」
アマルドの民は大蛇に臆することなく、むしろ安堵の笑みを浮かべて走り寄る。宿場町はすでに囲炉裏の炭と化していたが、人々は絶望を乗り越え、次々に通用口から逃げて行った。
「若造! まだか!」
「vo:mikc,mekera;w,leo'riohuw;za.qeos'nuzoarw,cikl:rio.rvius'zods,al;katra.」
ヒトの言葉ではない、歌のような詠唱は続いていた。大蛇は舌打ちし、進んでくる竜めがけて水弾を見舞う。応戦で吐かれた炎から、大蛇は身を挺してエルウィンを守った。
「俺様の分の水気まで奪っちまって、トカゲ野郎をぶちのめせなけりゃ食っちまうぞ!」
周辺の水分はすべてエルウィンに集まり、家々はより勢いよく燃えていく。喉を焼く暑さのなか、ロードは熱気に耐えられなかったカレンを抱え、黒猫の少女を背負ってアリアテたちのもとへたどり着いた。
「ロード」
カレンと少女を受け取ったあと、ロードは膝から崩れた。
「喉が焼けたんだわ……少しでもエルウィンの近くに!」
ロードの周辺を走っていた人々は、道の途中で消し炭のようになっている。辺りは火の海と形容するに相応しい惨状だった。
竜はなおも火を噴き、じりじりとアリアテたちに迫っていた。
「rov;gio.」
ゆったりとした歌が終わった。エルウィンの前には巨大な水の盾が現れ、周囲の熱が瞬時に下がった。エルウィンが掲げた手を薙ぐと、盾の表面から幾本もの槍が突き出し、竜めがけて放たれた。
「グオオーッ」
竜が叫んだ。水の槍は炎の壁を抜け、分厚い鱗を貫通し、深々と竜の体に突き刺さった。しかしヒトの魔法の限界か、槍の一本一本は竜にしてみれば針のごとく細い。
「目に、当たれば」
エルウィンはうめいた。大盾を維持しつつ攻撃するには、膨大な魔力が必要だ。
「へたるな、若造!」
大蛇は小さな蛇の姿になり、エルウィンの肩に這い上る。水神の力を借りながら、エルウィンは二度目の槍を放った。
そして、左手で別の魔法を操る。
「食らえ、剛水の龍。其の牙を給い其の爪を用い、踊る者はなし。束ね縛りて滝は落つ、klc;ls!」
竜の背後で水柱が上がった。潮水の柱は瀧となり、生き物のようにうねりながら竜を直撃した。そこから大波を起こしてあたりの炎を消し去った。海と繋がるレピオレン湖の水はほぼ無限に供給される。
「ようし、溺れさせちまえばこっちの……」
蛇が揚々と声をあげた次の瞬間、エルウィンはぐったりと膝を折った。
「ち、リミッターか」
息を荒げるエルウィンは、水の盾を維持するので精一杯だった。
「限界……そうか、エルはただでさえ、力の半分しか出せないって」
以前、ロワンジェルスを防衛した時に彼は言った。
「まあ、このほうが若造のためだ。過ぎた力を扱うには、ヒトの小せえ器じゃ足りねえからなぁ」
「……リオウ、すみまセンが、後を頼みマス」
水神リオウは舌打ちし、エルウィンの肩を降りた。巨躯をうねらせてアリアテたちの前に立ちはだかる。
「待って、盾になるつもりじゃ」
「黙ってろ小僧、ヒト族のひ弱な武器で竜とやり合おうってのか、へそで茶が沸くぜ」
鋭く竜を威嚇したリオウは、水の盾の向こうで炎を受けた。それでも怯まずに竜に向かっていき、巨体に絡みついて動きを封じる。そこに、エルウィンが全身全霊をこめた一本の槍を放った。集結した巨大な槍は、深々と竜の足に突き刺さった。
「ガアアアッ」
竜は怒り、リオウを引き剥がして火炎を浴びせた。リオウはのたうち回って、やがて動かなくなった。
「やめろ!」
アリアテが先のことも考えず、水の盾の向こうに飛びだして行こうとした時、ふわりと風が吹いた。焼け落ちた町の煙のなかを、優しく撫でていく。
直後、エルウィンが倒れ、水の盾が霧散した。
「エル!」
抱き留めたエルウィンの体は火のように熱い。アリアテがきっとにらみ据えた金の亜竜は、ずしり、と負傷した足を引きずって吠えた。
「忌々しい、焼き払うてくれるわ!」
亜竜が野太い声で怒鳴り、渾身の火炎を放った瞬間。文字通りすべてを巻き返す風が吹いた。
「ぐ、なっ ななっ」
亜竜はまともに息をつくことすらできず、その巨体を圧し出されていく。炎は掻き消え、亜竜の出す瘴気すら遠く退けて、風は一点に集中して吹きつけた。その風の流れは、形を与えるならば、騎馬兵の扱うランスに似ていた。
「何かしら、これ」
呆気にとられるメリウェザーに、目を覚ましたカレンが答えた。
「ヒトの技とは思えない魔力……精霊だろうか」
「グオーッ なぜだ、同志よーッ!」
亜竜は断末魔を残し、錐もみのように回転しながら、遥か湖の彼方へと吹き飛ばされていった。
亜竜の危機を乗り切ったアリアテたちだが、満身創痍のエルウィンとロードを抱え、遠く門のそばには動かないリオウがいた。
「医者は」
アリアテはすがる思いで辺りを見回すが、そこにあるのは消し炭ばかり。メリウェザーは兵役で覚えた応急処置の回復をかけるが、ロードの容態は悪化していった。
「フレ=デリクなら何とかしてくれるかも知れない……探してくる!」
走り出そうとしたアリアテを、少女が呼び止めた。
「待って」
日の光を受けて、少女の目は緑に光っていた。
「あたしが治す」
少女は両手に緑の光をともし、そっとロードの喉を包んだ。そこからロードの全身に光が行き届くと、弱っていた呼吸が戻るのがわかった。
「回復術……詠唱もなしに」
メリウェザーは驚愕していたが、すぐに首を振った。
「ありがとう、ありがとう……!」
張りつめていたものが切れたのだろう、夕陽色の目には涙が溜まっている。
少女はロードの回復を終え、エルウィンに取りかかった。
「こっちは魔力切れだね。たくさん眠れば大丈夫」
そう言って、手のひらに溜めた光をエルウィンの上にかけた。
「回復魔法の応用で、深い眠りに落とすことができるんだ。しばらく起きないだろうけど、心配しなくていいから」
「これか、私たちが眠っていた理由」
「さて、あとは……」
少女は駆け出し、黒く焦げたリオウの前に立つと、大きく息を吸いこんだ。
「ラ・ティルト。願わくば白き翼へと祈りを届けたまえ。天の羽ばたきより、恩恵を彼の者へ与えたまえ。ヒオルテ・オ・ラル」
詠唱とともに、少女はリオウの体に触れる。ふわりと緑の光が広がっていき、リオウの巨体を包みこんだ。鱗を焦がした痕も、焼けただれた傷も癒えていく。
アリアテが追いつくと、少女は脂汗をかいていた。
「はあ、はあ、はあ……」
大きく口を開け、短い牙をのぞかせて、少女は懸命に回復魔法をかけ続けた。
「……半日は、かかるから。あなたたち、どこかで、休んだほうがいい」
「どうしてそこまでしてくれるんだ?」
戸惑うアリアテに、少女は破顔した。
「それは、あたしの、セリフだから」
夜には、騒動がおさまったと見込んだ人々が戻ってきた。絶望して泣くことしかできない者、家族と抱き合って土地を離れて行く者。
そして――
「おい、黒猫だ! 黒猫がいる!」
誰が叫んだか、あっという間に人だかりが少女を取り囲んだ。
「てめえ、町を守ってくだすった水神さまに何しやがる!」
「亜竜が出たのだってこいつの仕業に違いない、疫病神!」
「うっ」
少女がうめいた。人々は町の瓦礫を取り、黒猫めがけて投げつける。
「どっか行けえ! 目障りだ!」
怒りと悲しみのはけ口にされながら、少女は手を緩めなかった。
「水神さまから離れろ!」
「ぐっ」
誰かの放った壁の破片――竹槍が、少女の腿を切り裂いた。血を流しながら、少女はリオウの回復に努める。
(だめ……集中しないと……内臓が完璧に治ってない)
目を閉じ、あらゆる痛みを覚悟した少女の背後に誰かが立った。人々はおののき、後ずさっていく。
「皆、災難でしたね。直に港へサンタナミルフ号が寄港し、支援物資を届けてくれます。行く宛てのない方は船室で寝泊まりすると良いでしょう。食事の心配もいりません」
「騎士様」
「ゲッテルメーデルの騎士様、もったいねえ」
少女の背に立ったのは、白銀の鎧にゲッテルメーデルの紋章を負った一人の青年だった。輝く金の髪は夜でも美しく、剣の柄には竜伐隊の紋章が光る。
「我は竜伐隊隊長オルフェス・ラ・ウィンド。亜竜討伐に遅れを取り、アマルド島国の民に深い傷を負わせたことを深く謝罪する」
騎士は地面に膝をつき、深々と頭を垂れた。人々はどよめき、口々に「顔を上げてくれ」と言った。
「此度の支援は、大臣メンテス・ガヴォ閣下による」
「おお、ゲッテルメーデルの大臣さんが」
その場は騎士の存在とガヴォの名によって収まり、人々は何事もなかったかのように港へと去った。
「……あの、助けてもらって」
少女はリオウの回復を終え、遠慮がちに騎士を振り返った。騎士は少女に向き直り、また深々と頭を垂れた。
「遅くなって済まなかった」
戸惑う少女と騎士の元へ、遠くから元気の良い声がかかる。
「おーい、食事を持ってきたよー」
アリアテは少女の前にかしづく騎士を見て足を止めた。追いついたロードが臨戦態勢に入ると、騎士はアリアテたちの方を向き、笑みを浮かべて両腕を拡げた。
「遅くなりました、一角獣のオルフェスです」
アリアテたちは、焼け残った外壁近くに野営を構えていた。カレンお手製の竹と木の葉のテントに、豪勢な食事が運び込まれる。
「お疲れでしょう。サンタナミルフ号への乗船はおすすめできませんので、せめてお食事だけでも」
「あの、フレ=デリクたちは」
「わー、全部美味そう!」
アリアテは手近な鶏肉を拾い、かぶりついた。
「それはコンフィです。肉を油で茹でたものです」
「うまい!」
「あたしもー。うー、うまい!」
「あの、フレ=デリクたちは!」
メリウェザーが勢い込んで訪ねると、オルフェスは微笑んだ。
「私の小隊をアマルドへ呼び寄せることが目的でしたから、今はサルベジアのどこかに……彼らもまた追われる身ですからね」
そして、脇に控えている若い騎士を紹介した。
「こちらはクレオ」
「同じく一角獣のクレオ・シアン、リヴェラ族です」
名乗ると、黒猫の少女がえー、と大きな声を出した。
「全然わからなかった! いいなあ、あたしもそのくらい、ヒトに寄せるのが上手だったら……」
言いよどんで苦笑する少女に、クレオはハーブを煮出したミルクをすすめた。
「うちの回復師が好んで飲んでいる薬湯です。魔力の回復に良いと」
「あ、ありがとうゴザイマス」
それで、とロードが言った。
「俺たちはこの後どうすりゃいい?」
オルフェスらによれば、東にも小さな漁港があり、そこからサルベジアに渡る船が出るという。
「我々はそこまでの護衛を務めますが、大陸に渡った後は、監視の目がありますので」
淋しく笑うオルフェスに、アリアテは礼を言った。
「危険をおかして私たちを助けてくれるんだ、とてもありがたいよ」
宴もたけなわ、アリアテが揚げた芋をパクパクつまんでいると、隣の少女が立ち上がった。
「それじゃ、食い逃げみたいで悪いけど……」
「え、一緒に行くんじゃないのか」
驚くアリアテに、少女はもっと驚いた顔で反論した。
「まさか! 一緒になんて行けないよ……」
テントを出た少女を、アリアテを制し、カレンが追った。
「お前はこの国から出たいと願っていただろう」
「まあね。でも、あたしは犯罪者だし……そういう生き方しか解らないから。すでに迷惑かけてると思うよ?」
――黒猫は存在するだけで不吉。
アマルドの習わしは、少女にも深く根づいている。
「何で黒猫になんて生まれちゃったんだろうね……あたし、生まれた瞬間から両親も、あたし自身も不幸にしちゃったんだ」
見上げた空には月が無い。
「獣族なのにちっとも被毛がなくて、真っ黒で、爪も牙もないんだよ。同じ合いの子のアンタならわかるでしょ? ……こんなの獣じゃない」
ヒトと獣の間に生まれた、ヒトでも獣でもない者。血が混ざった者はその証に、すべて黒い毛並みを持って生まれてくる。
この醜い姿が嫌で、月のない晩にだけ盗みを働いた。幸い、キトカ族は夜目がきく。
ヒトの社会でも獣の社会でも爪弾きにされた者は、己の力で――持っている者から奪うことでしか、生きる術がない。爪の代わりに鉤爪やナイフを使って、道具に頼って盗みを働く。そのくり返しだった。
「惨めな生き物だよ、あたしって」
「私はお前を美しいと思う」
カレンの唐突な返しに、少女は言葉を失った。
「生きようとする尊い意思と、生かそうとする優しい心の持ち主だ。何を恥じる? 何を拒む? お前は、ただ生きれば良い」
茫然と立ち尽くす少女に、カレンは続けた。
「銀狼族は、純粋な獣ほどの力は無い。だが手先は器用で、魔道への適性も高い。被毛の少ない肌は、汗腺が多く機能して発汗作用が高く、代謝を高める。
ヒトと獣の間だからこそ、私たちには私たちの良さがある。その何をお前は恥じ、嘆くのだろうな……黒は墨、夜、影の色。喪に服すヒトや獣もまとう慈悲の色。とても美しい毛並みだ」
――こんなことを言ってくれる存在は、いなかった。
少女は考えようとしたが、まとまらず、ただ涙が流れた。
カレンの後ろから、アリアテが顔を出した。
「私の髪も、アマルドの人たちの髪も黒い。変な色なんかじゃないよ」
言われて、少女は自分の髪に触れた。
(そうか。母さんが言ってた。アマルド人の父さんも……こんな黒髪をしていたんだ)
くしゃくしゃに崩れた顔に涙が流れる。声をあげて泣く少女に、アリアテはハーブミルクを差し出した。
「おいでよ。傷を治してくれたお礼に、今度は私たちが助ける番だ。ええと」
「シェラ、だよお」
泣きながら名乗って、シェラはハーブミルクを飲みほした。
(ああ、誰かに名前を名乗ったのは……あたしの名前を知ってもらったのは、初めてだ)
溢れてくる涙は止まることなく、寝つく頃には、シェラの目は真っ赤に腫れていた。
翌朝、シェラは一足先にテントを出て、海の雫を回収して戻ってきた。
「どうして真っ先にコレのことを聞かなかったの? 大事なものだし、忘れてたわけじゃないでしょ」
言われて、その場の誰も反論することができなかった。呆れたシェラは、海の雫を眠っているエルウィンの首にかけながら言った。
「実は、船で手引きしたヤツらのこと信用しきれなくてさ。打ち合わせと全然違う場所に隠しておいたんだ」
「危なかったわ。第三者に持って行かれるところだったのね」
「盗んだあたしが言うのもなんだけど、油断しすぎじゃない?」
「言えてるな。こいつらは抜けすぎだ」
悪態をつくリオウを、アリアテはひょいとつまみ上げた。
「こらっ 何する」
「オルフェスに教えてもらったんだ。元のサイズになるのも、エルウィンが許可しないといけないんだろ?」
「余計な事をっ」
噛みつこうと躍起になるリオウを見つめ、メリウェザーは首を傾げた。
「竹やこの国の産物は持ち出し禁止よね。神様もまずいんじゃないかしら?」
「でもよ、エルウィンが契約を上書きしちまったんだろ?」
「ううん、それじゃあ、責任持って面倒みないと」
「俺様はペットじゃねえぞ!」
威嚇音を鳴らすリオウをエルウィンの襟に戻し、アリアテたちはオルフェスとともに東へ向かった。
「クレオは?」
「先に港に戻っています。私も、怪しまれないうちに退散します」
オルフェスはつかみ所のない笑みを浮かべた。
「にしても幸運だ。竜伐隊の隊長さんが、味方のほうで良かったぜ」
ロードと並ぶ長身のオルフェスは、時々身をかがめながら木々の間を歩いた。
「といっても、部下は一角獣ではありませんが……少なくとも、私には同調してくれる者たちですので、我々が皆さんに危害を加えることはないでしょう」
竜を下す超人の集まり、竜伐隊。敵に回せばいかに恐ろしいか想像することは、亜竜の強さを身を以て知ったアリアテたちには容易い。
シェラは最後尾でカレンと会話を弾ませ、時々、眠っているエルウィンの様子を確かめた。アリアテはエルウィンを背負ったメリウェザーと並び、エルウィンのフードが落ちるたびに被せ直した。
「メリー、大丈夫?」
「軽い軽い。エルって、あんまり筋肉もないのかしらねえ」
ひまわりの笑顔は変わらない。アリアテは誰一人欠けなかった幸運に感謝し、懐のクオーレに話しかけた。
「砂漠で野盗に襲われた時も、たしか風の精霊が助けてくれたよね。クオーレと一緒にいるおかげだよ」
「そうかな。私はただ見守っていることしかできなくて、歯がゆいけれど。本当に皆無事でよかった」
クオーレは、アマルドの穏やかな昼の空を映していた。