十一
十一
俺が目を覚ましたのは、二条先生の研究室だった。
液体のなくなった水槽の中で身を起こす。体はもうほとんど乾いていた。酷く寒い。気付いた二条先生が俺にバスタオルを投げてくる。それを受け取りつつ、ぼんやりと考えた。
「先生……?」
その言葉に、二条先生は、にこりともせずに答えた。
「小僧、自分がなにをしたか、分かっているか?」
「いえ、記憶が……曖昧で……。試合は、負けたんですね?」
「そうだ」
俺は唇を噛みしめてから、二条先生の「さっさと服を着ろ」という言葉を受けて、体を拭いてから、用意されていた着替えを身につけた。
「ここに座りなさい」
二条先生がそう言ったので、俺はおとなしくそれに従った。二条先生は、神妙な顔で話し始めた。
「お前が何をやったか、説明してやろう。お前は真利阿のマナを大幅に増幅させて、圧倒的な力を振るった。虚界物質に耐性があるドームの天井や、ドームの基礎を破壊するほどに。覚えているか?」
俺は首を横に振った。はぁ、と二条先生がため息を吐いた。
「覚えていないよな。お前は、一瞬、この世界で今までマリオネットが実現したことが無いほど速く動いたし、そして史上最強とも言えるほどの攻撃を放った」
「それ、本当ですか?」
「本当だ。そしてその代償は、全部、真利阿が払った」
真利阿が……。俺は無意識に二条先生の言葉を反芻した。そして気付く。
「真利阿は、どうしたんですか?」
「あの子は、かなり危険な状態だった」
神妙な二条先生の言葉に、俺は背後のベッドがあるスペースを見た。今はカーテンで仕切られて、ベッドは見えなかった。俺はそこをじっと見つめている中、二条先生が話を続ける。
「お前にマナを吸い取られ、マナが枯渇したところに、今度はお前が増幅したマナが無遠慮に流れ込んだ。分かるか? 牛乳パックが掃除機で中身を吸いだされ、今度は雪崩を注ぎ込まれたようなものだ。どうなると思う?」
俺は無言で視線を二条先生に向けた。
「そう、牛乳パックはぐちゃぐちゃになるだろうな。お前はそれを真利阿にやったんだ。真利阿はとっくに意識を失っていたが、お前が維持した虚糸のおかげで、マナは流れ続けた。あいつの体はパンク寸前だった」
「真利阿は、その……」
「大丈夫だよ。命は落としていないし、体の方も、私が治した。とりあえず、人造のパーツを使う必要はなかったが、回復には少し時間がかかるだろう。そういうところは、有力なマスターを輩出したこともある、虚木家の血筋なのかもしれんな。あまりにも奇跡が重なっているが。とりあえず安心しろ、と言っても、まぁ、安心できないだろうな」
反射的に頷きつつ、ほっとした気持ちが声になった。
「良かった……」
「良いものか。バカめ。マスターを殺しそうになるマリオネットなど、聞いたことないぞ」
俺はシュンとして、二条先生が何か、紙を取り出したのを見た。二条先生はそれをこちらに見せる。
黒、赤、青の三色で形作られた、二次元コードのようなものだ。俺はそれをじっくりと見た。何かが、俺の中心で切り替わった。その紙には見覚えがあった。授業で習ったのだ。
「先生、それは……」
「これは、オンリーリンクの解除コードだよ。それぞれのマスターとマリオネットの間で違うのだが、これは、お前と真利阿のリンクを解除するものだ」
俺は慌てた。
「ちょっと待ってください。俺、真利阿とオンリーリンクを設定した記憶がありません。どういうことですか?」
そんな言葉に、二条先生も軽く目を見開く。それから目元を険しくさせた。
「なら、設定したのはお前でも真利阿でもなく、別の誰かなのだろう。とりあえず、これで、お前と真利阿の間に関係はなにもなくなった」
「マスターとマリオネットとしての契約は……」
「それも、破棄されている。お前はこれで、ただのマリオネットだよ。マスターのいない」
俺には状況がよく分からなかった。
不意に、答えが頭に浮かんだ。椅子を蹴倒しながら立ち上がると、カーテンに歩み寄り、それを勢いよく開く。
ベッドには誰もいなかった。
「真利阿は、学校を辞めるそうだ」
俺はそう言った二条先生を振り返った。彼女はそっぽを向きながら、悔しそうな声で言った。俺は二条先生に詰め寄った。
「それ、いつですか? 今は何日ですか?」
二条先生が言う。
「お前は一週間、寝込んでいた。真利阿が出て行ったのは、つい一時間ほど前だ。それまでここにいたから、今ごろは、部屋か、あるいは駅か」
俺は研究室を飛び出した。エレベータを待てずに、階段をほとんど飛び降りるようにして降りた。地上に着くと、どうするべきか迷い、本能に任せて、駅へと走った。体はそれほど機敏に反応してくれない。今、俺には誰がマナを供給しているのだろう。真利阿ではないのは確かだ。
駅まで走って二十分ほどだった。綺会学園駅の駅舎に飛び込むと、室内の暗さで一瞬、視界の映像が薄まる。そして視界が回復した時、改札の向こうに真利阿がいた。
真利阿はこちらに気付かず、小さなトランクを傍らに置いて、立っていた。
「真利阿!」
俺の声はほとんど、怒鳴り声だった。真利阿はびくりと肩を震わせると、こちらを振り返った。彼女は少しやつれていて、そして覇気が無かった。俺を見ても、ぼんやりと視線を向けるだけだった。
「真利阿、どこ行くんだよ」
「帰るのよ、実家に」
真利阿の声は、そっけなかった。俺は改札に詰め寄る。キップを買おうにも、財布を持っていなかった。真利阿はこちらを見ていたが、何も見ていないようにも見えた。
「真利阿、待てよ。まだこれからだろ?」
「もう終わりよ」真利阿が無機的な声で告げる。「私、泰平に負けたし、辞めると言った以上は、辞めなくちゃね」
「そんな口約束、関係ないだろ! まだ出来るはずだろ!」
俺の大声にかぶせるように、特急列車がやってくるアナウンスが、スピーカーから流れた。真利阿がトランクに手を伸ばし、こちらに背を向ける。
「真利阿!」
「もう良いよ、狗彦」
電車がホームに入ってきた音に、真利阿の声はほとんどかき消された。ゆっくりと車両が停止する。真利阿が車両に歩み寄った。
「真利阿! 泰平をぶっ潰してやろうぜ! 出来るだろ? なぁ……、おい……!」
真利阿はなにも言わずに、開いた電車の扉に歩み寄ると、トランクを持ち上げて、乗り込んだ。電車の中で振り返り、小さな声で、「じゃあね」と言ったのが分かった。
ドアが自動で閉まり、電車が走り出した。
俺は改札のこちら側で、走り去る電車を、ただ茫然と眺めていた。
こうして、真利阿は綺会学園を去った。
◆
「これもあなたの計算ですか?」
泰平は、その薄暗い研究室のドアのすぐそばに立って、部屋の主に言った。
初老の男は、手であごを撫でながら言った。
「計算と言うほどではないさ。ほとんどは偶然だな。まぁ、きみがあそこまで手こずるとは、思わなかったがね」
男の言葉に、泰平は肩をすくめた。
「あんなのは想定外どころか、規格外としか言えませんよ。この学園のドームは、プロのマリオネットが戦闘を行うドームと同じ基準で作られているんですよ。そのプロ仕様のドームで天井に穴が開くなんて、実例が数件しかないでしょう?」
「そうだ。アメリカで二件、イギリスで一件、オーストラリアで一件あった。もちろん、それをやったのはプロのマリオネットとプロのマスターで、しかも、非公式の試合でのことになる。公式のルールの下では、起こらないはずの出来事だ」
「そんなもの、対抗出来るわけじゃないですか。化け物ですよ、もう」
泰平の言葉に、初老の男はニヤニヤと笑った。
「きみの能力も、なかなか、化け物じみていると思うがね」
「そうですか? 僕はこれでも人間ですよ」
「化け物が自分を化け物だと認識していれば、それはただの化け物だ。しかし、化け物が自分を正しい生き物、間違っていない生き物だと思っていると、それは輪をかけて、化け物なのだと、私は思うよ」
見解の相違ですね、と泰平はこの話を打ち切った。そして聞いた。
「あの狗彦くんの異常な力の発現の理由は、なんですか?」
「さぁな」男が告げた。「柏原の悪ふざけだろう。マスターを殺しそうになるほどの出力など、正気ではない。あれは、ブーストアクセルの不具合か、あるいは暴走だろう。あんなこと、二度も三度もやれば、マスターもマリオネットも、致命的な損傷を受けるだろう」
「つまり、それもまた、偶然だと。ミスの連鎖、あるいは不幸が折り重なっただけ、という事ですか?」
そうだ、と男が頷いたので、泰平は方向性を変えた。
「狗彦くんをあなたの元へ連れてくれば、何か分かりますか?」
「当然だ」
「紺碧は治りそうですか?」
「それも、当然だ。あの程度の損傷、損傷に入らんよ」
泰平は安堵しつつ、それを悟らせないように、無表情と無関心を装い、「では、また来ます」と、ドアの方へ振り返った。その背中に、初老の男が声をかける。
「また何かの時は、頼むよ」
「ええ、それじゃあ、失礼します」
泰平は研究所を出た。
(続く)