序
序
何か、その日は落ち着かなかった。
そわそわとした心で起き出し、食事をし、街へ出てきた。俺、柏原晴彦は、隣を歩く連れ添いに言った。
「アンジェ、疲れてないか?」
隣を歩くのはそのカタカナの名前と反して、見るからに日本人といった風貌の、一人の女性である。あまりに顔が整い過ぎているので、年齢が分かり辛い。もう成人しているように見えるが、十代でも通じそうだ。そんな彼女と僕はもう十年以上一緒にいる。
彼女、アンジェが、名前通りの天使の微笑みを浮かべた。
「私には疲れという概念はありませんよ、晴彦さん」
む、と俺は眉間にしわを寄せる。
「それでも、聞くのがマナーだと思うけどな、こういう時は」
俺のそんな声に、アンジェは何も答えず、ただ笑みを浮かべていた。
彼女は人間ではない。生命エネルギー『マナ』によって活動する、人造生命体だ。だから彼女には疲れという概念は存在しない。あるのはエネルギー不足だけだ。
「マナ・バッテリーを交換するか?」
アンジェが小さく首を振った。
「今のところ、活動に支障はありません。映画を見ただけですから」
そう。俺とアンジェは、街へ映画を見に来たのだ。一つ、面白そうな作品もあり、タイミングも良かったので、アンジェと来てみたのだった。
アンジェは微笑みながら言う。
「私のようなオートマタと映画を見ようなどと、晴彦さんも、変わりませんね」
「それが普通なんだよ」
俺はそっぽを向きながら、小さな声でそう言い返した。
オートマタとは、自己完結型の人造生命体のことだ。彼らはマナの電池によって駆動する。そしてあらかじめ組み込まれたプログラムに従い、忠実にそれを守る。
オートマタと対になる存在は、マリオネットと呼ばれていた。マリオネットは、その支配者であるマスターからのマナの供給で稼働する。彼らはプログラムを持たないが、しかし、マスターの意思を守る必要があった。
俺が街並みを眺めると、人間とともに、何人ものマリオネットやオートマタがいた。しかし、アンジェよりも外見が優れた存在はなかなかいない。
俺はアンジェに言った。
「映画、面白かったか?」
アンジェが微笑みを崩さず答える。「オートマタに、それは意味のない質問ですよ。それでも答えるのなら、楽しかったです。そこそこに」
思わず俺は肩をすくめた。
アンジェは、俺を傷つけるようなことを言わないようになっている。だから、映画がどんなにつまらなくても、「最低につまらなかった」とは言わないし、逆に、あけすけに「最高に面白かった」とも言わない。
だから自然と、答えは曖昧なものになる。しかし、俺はその答えに満足していた。アンジェには十年以上の経験の蓄積があり、まるで長い間一緒にいた人間同士のように、俺の気持ちにしっくりくる言葉を返してきたのだ。
俺はアンジェと歩調を合わせながら、ちょうど通りかかった交差点を見た。
「……そういえば、ここだったな」
街には久しぶりに来たので、もう忘れつつあるが、その交差点は忘れられないところだった。俺の言葉に、アンジェが不思議そうな顔をする。
「ここ、とは?」
「そうか、アンジェはまだ生まれてなかったからな」
「何かあったのですか?」
アンジェの疑問に、俺は交差点の角で立ち止まり、答えた。
「だいぶ街並みも変わった。もう十年以上前だけど、ここで、オートマタの暴走に出くわしてね」
「十年前? では、かなり古い型のマリオネットですね」
ちなみにアンジェは一年に一度、改修されていて、ずっと最新の技術で駆動している。そんなアンジェに苦笑いして答える。
「そうなるな。それも、作ったのは、どこかの金持ちの子どもだったんだ」
「子ども? いくつくらいですか?」
「当時の俺と同じくらいだから、小学生だろ」
それはすごい、とアンジェが目を丸くした。俺は可笑しくて、笑いが止められない。
「まぁ、誰かが手伝ったか、あるいは父親あたりの力作だったのかもしれないけどな。それで、その暴走したオートマタを、俺が止めようとして、まぁ、当然、失敗したところを、親父が助けてくれた。もっとも、オートマタは完全に破壊されていて、それをやったのが俺だと思ったその子ども、女だったけど、そいつがもう、ワンワン泣いて。あれには参ったよ」
「誤解は解けたのですか?」
「親父が仲立ちして、まぁ、相手も泣きやんで、俺も反省させられた。親父め、自分のストレス解消にぶっ潰したんだよ。まったく、酷い男だ」
俺の言葉に、アンジェがクスッと笑った。
「確かに、雨彦さんはそういう人ですね」
柏原雨彦――俺の親父にして、マイトと呼ばれる人造生命体の製造者にして、一部では高名な研究家は、アンジェの創造主だ。
俺はニヤニヤと言った。
「だろ? まぁ、そんなことがあったんだけど、その女の子のオートマタの名前が、なんと――」
俺が間を置いた瞬間、キャー! という悲鳴が響き渡った。交差点で信号待ちをしていた人が、全員、そちらを向いた。俺の前では、アンジェが鋭い視線をそちらに向けながら、俺の盾になろうとした。
「なんだ?」
俺がアンジェの肩越しに視線を向けると、一人の男が、人間とは思えない体の動かし方で、信号待ちの人の群れに突っ込んでくるところだった。パニックが起こり、俺もアンジェも、人波に押される。
「晴彦さん!」
「アンジェ、俺が止める!」
俺は体にマナを行き渡らせると、強く跳んだ。それだけで、二メートルは跳び上がり、人波の上に出る。マナは使いようによっては、自身の身体を強化できるのだ。
着地点は暴れている男のすぐ近くのちょうど、人がいないところだった。
暴れている男は、オートマタだと分かった。関節の折れる方向が滅茶苦茶になっているし、眼球も激しく動いてどこを見ているか分からない。その眼球が、左右で別々の動きをしてから、俺をじっと見た。
「キ――――――!」
オートマタが奇声を発して、こちらへ飛びかかってくる。かなり速い。
一瞬で間合いが無くなり、俺は突進の勢いのままに組みつかれ、地面に転がる。回転が終わると、俺は下敷きになっていた。オートマタがこちらに振り上げた拳を打ちおろした。
普通の人間なら、体を破壊されるような一撃を、俺は片手で受け止めた。俺の腕が折れない代わりに、オートマタの腕が関節じゃないところで折れ、体液と骨が飛び出した。
「まぁ、これで、正当防衛かな」
俺はそう言いながら、全身のマナを活性化させる。
俺はかなりマナの内蔵量が多い人間だ。学校でもそれは言われている。マナが多ければ、身体能力を強化する事も出来る。もちろん、中途半端な内蔵量では、何にもならないが、俺は十分に余裕がある。
オートマタの拳を握りしめ、俺は常軌を逸した握力でその拳を握りつぶす。オートマタがまた奇声を上げると、その時には、俺はその首を両手で掴んでいる。ぎりぎりと締めあげると、オートマタが暴れ出した。それを力でねじ伏せ、体の上下を入れ替える。
俺の体の下で、オートマタが動きを止める。そして俺の手が、その首をボッキリとへし折った。オートマタの眼球がぐるりと回ってから、動きを止めた。
と思ったが、腕がこちらに振られる。俺はそれを受け止めた。オートマタはがくがくした動きで、まだ暴れている。俺は拳にマナを集中させると、その胸に向けて叩きつけた。
拳がその胸を抉り、確かに、何かを砕いた気配があった。オートマタから力が抜け、ぐったりと倒れた。
「ふぅ」
体のマナを元に戻し、立ち上がる。服の埃をはらい、オートマタを観察した。
良く見ると、服を着ているものの、両脚は生身ではなく、機械化されている。滅多に見ないが、何かの実験体なのだろうか。俺は周囲の人だかりを眺め、そこからアンジェが出てくるのを、見た。
「大丈夫ですか、晴彦さん?」
「なんのことはないさ」
俺の言葉にアンジェが安堵の表情を見せる。その顔を見て、俺もやっと、気持ちが切り替わった。
ふいに思い出したことがあって、足元に転がるオートマタを眺めた。アンジェが俺の方を見ながら言ったが、俺はオートマタを凝視していた。
「警察には連絡済みです。数分で来るでしょう」
「あぁ、分かった。しかし、なんだろう、この感覚……」
俺はまた、心が浮足立つのを感じた。
目の前に転がるオートマタに、見覚えがある。どこで見たのだろう? テレビか雑誌だろうか? それとも、どこかのカタログ? 思い出せない。そんなことを黙って考えていると、アンジェが尋ねてきた。
「先ほどの続きですが、女の子は、オートマタになんて名前をつけていたのですか?」
俺は顔を上げて、アンジェを見た。思わず笑いながら、答える。
「それは、な――」
「団十郎!」
「そうそう。団十郎って呼んで……え?」
アンジェが驚いた表情をして、俺の背後を見ている。俺も割り込んできた声の方を見た。
息を切らせて汗だくの少女が、俺のすぐ背後に立っていた。年齢は俺と同じくらい、十五、六歳だろう。
その少女が俺の足元のオートマタにすがりついた。
「団十郎? 団十郎!」
嫌な予感を感じつつ、俺は一歩、オートマタから離れた。
少女が団十郎と呼ばれているオートマタを揺さぶって、反応がないのを確認すると、こちらを涙で潤んだ瞳で睨みつけてきた。
「ちょっと! あんたがやったの!」
「……ん、あ、あぁ」
「馬鹿! 人でなし! お前が死ね!」
おいおい、と俺は思ったが、何か言い訳するより先に、少女がオートマタにすがりついて泣き始めたので、言う気が失せた。それよりも、警察が来た時に、厄介なことになりそうだった。俺は悪いことはしていない、むしろ正義の味方だったはずだが、状況は明らかに俺が悪者だ。それに、周囲の野次馬も俺に批難の視線を向けつつある。
「ア、アンジェ! 逃げるぞ!」
「は、はい!」
俺とアンジェは、その場から戦略的に撤退した。
電車に飛び乗り、誰かが追いかけてくるんじゃないかと、びくつきながら家に帰った。
「何か、夕食をお作りしましょう」
アンジェがそう言いながら、キッチンに立った。それをリビングから眺めつつ、俺は記憶を必死に検索していた。
「晴彦さん、さっきの女の子、十年前に会った女の子と同じなのではないですか?」
アンジェが小刻みに包丁で何かを切りながら、そう言った。俺は「うぅむ」と唸るしかなかった。
「なんですか? 同じ名前のオートマタなんて、そういませんよ」アンジェが笑いを含んだ声で、そう言う。
「そうなんだけど、なんて言うんだろう、この感じ……」
俺は思わず、考えながら、最後を言った。
「なんか、あの子、前の方が、可愛かったなぁ」
フフフとアンジェが笑う。俺はむっとする。
「なんだよ、アンジェ。言いたいことは言えよ」
「晴彦さん、女の子は変わるものですよ。それに、あの女の子はとても可愛かったですよ」
「そうかぁ?」
俺は思わずに天を仰いでから、肩から力を抜いた。
「しかし、団十郎とはまた、渋い名前をつけるなぁ」
「そうですか? 私はアンジェなんですよ。実はちょっと、街中で呼ばれるのが恥ずかしいのです」
「俺は好きだけどね、アンジェって名前」
俺のそんな言葉を、アンジェは笑って聞き流した。
オートマタと喋っていると、時々、不信感が襲ってくる。どこか調子が良い嘘のような、そしてどこか都合が良すぎるような、そんな会話になる。しかし、それはどうしようもない。相手は人間の体をして、人間の表情をし、そして生きているのだが、しかしその実態は、ロボットなのだ。
しばらく黙って俺はぼんやりと食事が出来上がるのを待っていた。
「……俺も、マリオネットと契約するかなぁ」
思わず出た言葉に、アンジェがちらりとこちらを見た。黙っているのは、続きを言えという事なのだろう。俺は少し考えて言った。
「俺も、マナは十分にあるわけだし、マリオネットと契約して、世のため、人のために働いた方が良いかな、と思ったわけ。まぁ、マリオネット無しでも、それなりに良い働き手にはなるだろうけど」
「無理ですよ」
アンジェがそう言ったので、僕は驚いて彼女を見た。彼女は手元に視線を置いたまま、言った。
「晴彦さんは、そういう人じゃありません」
「じゃあ、どういう人なの?」
「あなたは、世のため、人のためなんて、そういう事は考えないでしょう? あなたは一人のために全力をあげる、そういうタイプです」
俺にはその言葉の意図が分からなかった。だから、何も言わずに、今度はこちらが先を促した。アンジェが手を止めて、こちらに視線を向ける。
「あなたは、私と同じなのですよ」
「意味が分からないな。アンジェ、何を言っているんだ?」
「それはいずれ、分かります」
もう一度、聞き直そうとすると、視界がぐらりと揺れた。
「え?」
眩暈かと思ったが、しかし、それは収まらない。なんだ? と思っていると、体がガクリと力を失い、俺は床にばたりと倒れた。
僕は視線をアンジェに向けようとした。しかし、アンジェは明後日の方向を見ていた。そして、こう呟いた。
「雨彦さん……」
その声を聞いた次の瞬間、俺は意識が消滅した。
(続く)